雨のにおいがした。遠くで馬の声も聞こえた。父の腕は震え、母の顔は見たこともないくらい白い。何かを叩く音が聞こえ、むせ返るような鉄の匂いが鼻につく。
ひらひらと、揺れているのは、青紫の──。
――いいかい。私がいいと言うまで、何も喋ってはいけないよ。
筆が震える。紙に一画を書きかけても、線が歪む。
周は向かいに座ったまま、何も言わなかった。
馬車が志紋邸に着いても、沙羅はすぐに降りることができず、周も急かさず待ってくれた。
ようやく自室に戻ってから、沙羅は机へ向かう。
今度こそ書こうとした。けれど一文字目さえ形にならなかった。
はたはたと涙が落ちた。
悔しい。伝えたいのに、伝えられない。
声が出ないだけなら、筆を持てばいいと思っていた。けれど今は、その筆さえ使えない。
周との約束を思い出す。
──黙って諦めないでほしい。紙でも、目でも、手でも構わない。君が僕に何かを伝えたいと思った時――。
沙羅は筆を置いた。振り返ると、周は少し離れたところに立っている。
近づきすぎないようにしているのだろう。その顔を見た途端、どうしても伝えなければならないと思った。
父と母は事故で亡くなったのではない。
まだ証拠はない。けれど、沙羅は知っている。
あの日、何かが起きた。誰かがいたのだ。
父はそれを知っていた。
沙羅は口を開いたものの、喉が震えるばかりで声にはならなかった。それでも唇を動かそうとすると、あの日の父の命令が蘇り、身体が固まる。
何も喋ってはいけない。
──ちがう、ちがうわ。
沙羅は首を振り、震える唇を嚙み締めた。
今はあの日ではない。ここには周がいる。けれど、その理屈を理解している頭とは別に、七歳の自分が喉を閉ざしている。
もう一度、口を開いた途端、涙がぽろぽろと頬を伝った。
周が近づいてくるのが見えて、沙羅は反射的に俯きかけた。
「沙羅」
あたたかいぬくもりが、そうっと頬に触れた。その温度に導かれるように顔を上げると、周の視線と重なる。
周は沙羅の口元をじっと見ていた。
「今は、筆を取らなくていい」
「──、──」
「僕は御伽噺に出てくる素敵な男のように、奇跡を起こして、君の声を取り戻してあげることはできない。だけど、君が伝えようとしてくれるなら、瞬き一つせずに、聞いているから」
周の目が、沙羅の唇へ向く。
「君の想いを唇に乗せてくれ。一音たりとも、見逃しはしないから」
沙羅はひゅうっと息を吸った。
声を出す必要はない。唇を動かすだけでいい。それならできるかもしれない。
――お。
口の形を作ると、周が目を細めた。
「お?」
沙羅は頷き、必死に唇を動かした。
「お父上?」
「──、──」
「お父様」
「──」
「と」
「────」
「お母様」
周は一つずつ拾っている。
急ぎも、先回りもしない。
沙羅が唇を動かすたび、同じ形を確かめるように見つめている。
「──」
「は」
その先を奏でることが中々できず、沙羅は涙をあふれさせた。
周は花の刺繡が入った手巾で沙羅の目元を拭いながら、ずっと待ってくれた。
沙羅は唇を噛み、今度こそ、ともう一度開く。
「────」
「事故で」
「──、──」
「亡くなった」
周の左手はまだ頬にある。
逃げなくてもいいように、けれど閉じ込めないように、その指はほとんど力を持たずに触れているだけだった。
「────」
「のでは」
沙羅は大きく息を吸ってから、最後の言葉を唇に乗せた。
「──────」
「…………っ!」
周の目が変わった。けれど、すぐに何かを言うことはなかった。
沙羅はもう一度、最初から動かした。今度は少し早く。
――お父様とお母様は、事故で亡くなったのではありません。
周は最後まで見つめていた。そして、同じように口を動かし始めた。
「お父様とお母様は、事故で亡くなったのではありません」
沙羅が頷くと、その瞬間、身体から力が抜けた。
十年間、自分の中に形を持たなかったものが、初めて誰かに届いた瞬間だった。
「そう思う理由を、今話せるかい?」
沙羅は迷った末に頷いた。
今度は筆を取らなかった。
――だれかが。
「誰かが」
――いました。
「いた? 馬車の外に?」
――あとを、ついて。
「後をついてきた?」
沙羅が頷くと、周の表情が引き締まった。
――おとうさまは。
「お父様は」
――しっていた。
「知っていた」
――なにかを。
「何かを」
次の言葉を作ろうとした時、あの日の記憶が急に近づいた。
雨の音が大きくなり、馬車の扉が開いた。
父が沙羅を座席の下へ押し込み、母が身体を覆う。
外から男の声が聞こえて、青紫の花が泥の上に落ちた。
父が沙羅の頬に手を添え、くしゃりと顔を歪めて──。
ひらひらと、揺れているのは、青紫の──。
――いいかい。私がいいと言うまで、何も喋ってはいけないよ。
筆が震える。紙に一画を書きかけても、線が歪む。
周は向かいに座ったまま、何も言わなかった。
馬車が志紋邸に着いても、沙羅はすぐに降りることができず、周も急かさず待ってくれた。
ようやく自室に戻ってから、沙羅は机へ向かう。
今度こそ書こうとした。けれど一文字目さえ形にならなかった。
はたはたと涙が落ちた。
悔しい。伝えたいのに、伝えられない。
声が出ないだけなら、筆を持てばいいと思っていた。けれど今は、その筆さえ使えない。
周との約束を思い出す。
──黙って諦めないでほしい。紙でも、目でも、手でも構わない。君が僕に何かを伝えたいと思った時――。
沙羅は筆を置いた。振り返ると、周は少し離れたところに立っている。
近づきすぎないようにしているのだろう。その顔を見た途端、どうしても伝えなければならないと思った。
父と母は事故で亡くなったのではない。
まだ証拠はない。けれど、沙羅は知っている。
あの日、何かが起きた。誰かがいたのだ。
父はそれを知っていた。
沙羅は口を開いたものの、喉が震えるばかりで声にはならなかった。それでも唇を動かそうとすると、あの日の父の命令が蘇り、身体が固まる。
何も喋ってはいけない。
──ちがう、ちがうわ。
沙羅は首を振り、震える唇を嚙み締めた。
今はあの日ではない。ここには周がいる。けれど、その理屈を理解している頭とは別に、七歳の自分が喉を閉ざしている。
もう一度、口を開いた途端、涙がぽろぽろと頬を伝った。
周が近づいてくるのが見えて、沙羅は反射的に俯きかけた。
「沙羅」
あたたかいぬくもりが、そうっと頬に触れた。その温度に導かれるように顔を上げると、周の視線と重なる。
周は沙羅の口元をじっと見ていた。
「今は、筆を取らなくていい」
「──、──」
「僕は御伽噺に出てくる素敵な男のように、奇跡を起こして、君の声を取り戻してあげることはできない。だけど、君が伝えようとしてくれるなら、瞬き一つせずに、聞いているから」
周の目が、沙羅の唇へ向く。
「君の想いを唇に乗せてくれ。一音たりとも、見逃しはしないから」
沙羅はひゅうっと息を吸った。
声を出す必要はない。唇を動かすだけでいい。それならできるかもしれない。
――お。
口の形を作ると、周が目を細めた。
「お?」
沙羅は頷き、必死に唇を動かした。
「お父上?」
「──、──」
「お父様」
「──」
「と」
「────」
「お母様」
周は一つずつ拾っている。
急ぎも、先回りもしない。
沙羅が唇を動かすたび、同じ形を確かめるように見つめている。
「──」
「は」
その先を奏でることが中々できず、沙羅は涙をあふれさせた。
周は花の刺繡が入った手巾で沙羅の目元を拭いながら、ずっと待ってくれた。
沙羅は唇を噛み、今度こそ、ともう一度開く。
「────」
「事故で」
「──、──」
「亡くなった」
周の左手はまだ頬にある。
逃げなくてもいいように、けれど閉じ込めないように、その指はほとんど力を持たずに触れているだけだった。
「────」
「のでは」
沙羅は大きく息を吸ってから、最後の言葉を唇に乗せた。
「──────」
「…………っ!」
周の目が変わった。けれど、すぐに何かを言うことはなかった。
沙羅はもう一度、最初から動かした。今度は少し早く。
――お父様とお母様は、事故で亡くなったのではありません。
周は最後まで見つめていた。そして、同じように口を動かし始めた。
「お父様とお母様は、事故で亡くなったのではありません」
沙羅が頷くと、その瞬間、身体から力が抜けた。
十年間、自分の中に形を持たなかったものが、初めて誰かに届いた瞬間だった。
「そう思う理由を、今話せるかい?」
沙羅は迷った末に頷いた。
今度は筆を取らなかった。
――だれかが。
「誰かが」
――いました。
「いた? 馬車の外に?」
――あとを、ついて。
「後をついてきた?」
沙羅が頷くと、周の表情が引き締まった。
――おとうさまは。
「お父様は」
――しっていた。
「知っていた」
――なにかを。
「何かを」
次の言葉を作ろうとした時、あの日の記憶が急に近づいた。
雨の音が大きくなり、馬車の扉が開いた。
父が沙羅を座席の下へ押し込み、母が身体を覆う。
外から男の声が聞こえて、青紫の花が泥の上に落ちた。
父が沙羅の頬に手を添え、くしゃりと顔を歪めて──。



