梔子の花嫁ー帝都婚姻録ー

 その日の夜、周が執務室から出てきたのは、夕餉を終えてしばらくしてからだった。
 朝廷から来た使者が何を告げたのか、すぐには話さなかったが、寝室に戻る前に居間へ沙羅を呼び、卓の上に一枚の紙を置いた。

「十年前、ルゼリアから朝廷に贈られたレフィアのうち、一株の行方が分からなくなっている」

 沙羅が紙を見ると、そこには当時の植物管理記録を写したものがあり、ルゼリア使節団から贈られた二株のレフィアについて、一株は宮中の温室へ、もう一株は外交使節の滞在する別邸に移されたと記されていた。

「使節襲撃のあと、別邸に置かれていた株を確認した記録がない。事件後の混乱で枯れた可能性もあるし、単に記載されなかっただけかもしれないけれど、少なくともその一株がどこに行ったのかは分からない」
『父が見たのでしょうか』
「あり得る」
『私も?』
「君が十年前に見た花がその株ならね」

 沙羅は資料へ目を落とした。

「それからもう一つ」

 周の声が少し低くなる。

「君のお父上が亡くなる三日前、使節襲撃を担当していた軍府の役人と会っていたことが分かった」
『誰ですか』
「当時の警備局にいた書記官だよ。もう亡くなっているけれど、その男の日誌に志紋家当主と面会した記録が残っていた」
『何を話したのですか』
「そこまでは書かれていない。ただ、日誌には面会のあと、『花の件、再確認必要』という一文がある」

 沙羅は弾かれたように紙から顔を上げた。

「何の花かは書いていない」

 けれど、この時期に花という言葉が出てくる以上、偶然だと切り捨てることもできない。

『レフィアかもしれません』
「僕もそう考えている」

 周は椅子に座り直した。

「明日、その書記官の遺族に会いに行く。遺品が残っているかもしれない」
『私も参ります』
「駄目とは言わないけれど、相手は帝都の外れに住んでいるし、何が出てくるか分からないよ」
『だから参ります』

 沙羅は迷わず書いた。
 周は紙を読み、止めても変わらないと判断したらしく頷いた。

「分かった。では一緒に行こう」

     
 翌日、二人が訪れたのは帝都東部の古い住宅街にある、小さな屋敷だった。
 元軍府書記官の娘だという年嵩の女性が迎え入れてくれた。父親の遺品はほとんど処分したそうだが、仕事に関する帳面だけは捨てられず納戸に残していると話した。

 周は宮宰としてではなく、十年前の事件を調べている者として丁寧に事情を説明し、相手が不安を覚えないよう、家名や朝廷の威を使うこともなかった。
 沙羅はその傍らで、女性が運んできた古い箱を見ていた。中には帳面や書簡、筆記具に混じり、薄紙に挟まれた押し花がいくつか残っている。

「父は変わった人でしてね。仕事先で花をいただくと、こうして残すことがあったんです」

 女性が懐かしそうに笑う。

「母には、男が花を取っておいてどうするのと、よく笑われていましたけれど」

 沙羅の視線が、押し花の一つへ吸い寄せられた。
 色は褪せている。青紫だったのだろう花弁は灰色に近くなり、中央の紅も黒ずんでいたが、その輪郭だけは見間違えようがない。
 レフィアだ。沙羅が動きを止めたことに周が気づき、同じものを見る。

「こちらの花について、何かご存じですか」
「さあ……父が外国の方からもらったものかもしれません。珍しい花だと言っていた気もしますが、昔のことですので」

 周は押し花へ手を伸ばさず、沙羅を見ている。
 押し花に残る記憶は、生花よりずっと薄い。それでも何かがある可能性はある。

 沙羅は紙に『触れてもよろしいでしょうか』と書き、両手で女性に差し出した。

「ええ、もちろん。ただ、崩れやすいのでお気をつけて」

 周が何も言わないことを確かめてから、沙羅は薄紙の上に置かれた花へ指を伸ばした。

 乾いた花弁が、かすかに指先に触れる。その瞬間に来たものは、藤の時のような鮮やかな景色ではなかった。
 途切れ途切れの音。揺れる灯り。男の手。
 誰かが低い声で話している。

『……志紋殿も、同じものを……』

 雑音に埋もれ、続きが聞き取れない。
 景色が切り替わり、書記官らしい男が、何かを机に置いている。
 その向こうにもう一人いる。

『これを、どこで』
『……使節の……ではない』

 声が水に沈むように遠くなり、花に触れている指も冷えていく。
 だが、次に聞こえたのは、父の声だった。

『では、やはり――』

 そこで記憶が途切れ、沙羅は花から手を離した。

「沙羅?」

 周の声を聞いても、すぐには顔を上げられなかった。
 そこには父がいて、この花を前に書記官と話していた。事故の三日前のことだった。
 父はレフィアについて何かを知っていた。

「何か見えた?」

 沙羅は頷き、紙を取ろうとした。
 ところが指が思うように動かない。筆を握っても、先ほど聞いた父の声が頭の中で何度も繰り返され、文字に変えることができなかった。

 周は事情を察したらしく、女性に礼を告げると、押し花を調査のため借りられないか尋ねた。了承を得たあと、必要な手続きを整え、沙羅を連れて屋敷を出る。

 馬車に乗ってからも、沙羅は黙っていた。
 紙は膝の上にある。筆も持っている。
 書けばいい。記憶の中には父がいて、「使節の花ではない」と言っていた。それを唇に乗せるだけなら難しいことではないはずなのに。
 けれど記憶の断片を言葉にしようとすると、その先に続くものまで押し寄せてくる。