梔子の花嫁ー帝都婚姻録ー

 翌日の午後、沙羅は周とともに藤棚の前に立っていた。
 昨夜そのことを書いて伝えると、周は意外そうな顔をしたあと、「本当にいいの?」と何度も確かめてきた。
 沙羅が三度目に頷いたところで、ようやくそれ以上何も言わなくなった。

 初夏を迎えた藤はすでに花の盛りを終え、青々とした葉を棚いっぱいに広げている。それでも奥の方には遅れて咲いた房がいくつか残っており、風が通るたび淡い紫が葉の影で揺れていた。

「僕はここにいるけれど、触らないで帰っても構わないからね」

 隣に立つ周が言う。
 沙羅は紙に『分かっています』と書いて見せた。

「ならいい」

 そのくせ、周の方が落ち着かないように見える。
 普段なら花を前にすればすぐ枝振りや土の状態を語り始める男が、今日は口数を減らして沙羅の様子ばかり見ていた。

 沙羅は藤に向き直る。
 触れなければ何も起こらない。あと一歩近づけば、指が届く。幼い自分なら何のためらいもなく手を伸ばしていた距離が、今はとても遠く感じられた。
 手を上げた時、指先が震えた。花そのものではなく、房の根元近くにある細い枝に触れればいいのではないかと考えたが、力が宿るのは花だと知っている以上、それでは意味がない。

 沙羅は一度手を下ろして呼吸を整えた。周は励ますことも急かすこともせず、ただ隣にいる。その気配を確かめてから、沙羅はもう一度手を伸ばした。

 今度は指先が花弁へ届いた。柔らかな感触を知覚した次の瞬間、藤棚の下に立っていた自分の身体が遠のいていく。

 陽射しが明るかった。今とは季節が違う。藤は満開で、紫の房が視界いっぱいに垂れ下がっている。
 高い。身体が浮いているような感覚のあと、耳元で男の笑い声がした。

『届くかい?』

 父だ。幼い沙羅を肩に乗せ、藤棚の下を歩いている。
 視界に映っているのは父の頭と、すぐ近くまで下がってきた花だけで、幼い手が何度も花へ向かって伸びていた。

『もう少し、もう少し』

 自分の声がする。小さく、よく笑っている声だった。

『あなた、落とさないでくださいね』

 母の声も聞こえる。

『大丈夫だよ。沙羅は軽いから』
『去年も同じことを仰っていました』
『去年より私は大きくなったもの』
『ほら、本人もこう言っている』
『何故そちらの味方をなさるのです』

 三人の笑い声が重なった。その瞬間、沙羅は藤から手を離した。
 
 自分の足で立っている感覚を取り戻した時には、頬を何かが伝っていた。
 怖くなかった。悲しくもなかったはずなのに、涙だけが止まらない。

「沙羅」

 周がすぐそばにいる。
 沙羅は顔を上げようとしたものの、見られるのが恥ずかしくて俯いた。

「嫌なものを見た?」

 沙羅が首を振ると、周はなおも顔色を確かめながら尋ねた。

「痛いところは?」

 もう一度、首を振った。
 周はそれ以上尋ねず、沙羅が紙を取るまで待った。

『父でした』

 文字が滲んだ。涙が落ちたのだと気づき、袖で拭ってから書き直す。

『父が私を肩に乗せていました』

 周の表情が柔らかくなる。

『母もいました。三人で藤を見ていました』
「そうか」
『父は笑っていました』

 書いたあと、また涙が落ちた。
 十年間、父の声といえば最後の命令ばかりを思い出していた。
 何も喋ってはいけない。その声があまりに強く残っていたため、それ以前にも父が何千回と自分の名を呼び、笑い、叱り、褒めてくれたことを、頭では知っていても身体の方が忘れかけていた。

「ちゃんと、残っていたんだね」

 周が藤を見上げた。沙羅も同じように見る。
 父の死ではなく、生きていた時間が残っていた。そのことがたまらなく嬉しかった。

『もう一度触ってもいいでしょうか』
「僕に許可を取らなくていいよ。でも、少し休んでからにしよう。顔色がよくない」
 
 沙羅は頷き、藤棚の下に置かれた腰掛けに浅く座る。周も隣に座ったが、今日は珍しく黙っていた。
 沈黙を埋めようとしない。それが不思議だった。よく喋る人なのに、沙羅が言葉にしたくないことについては、いつも何も尋ねない。

 しばらくして涙が収まり、沙羅がもう一度藤へ目を向けた時、少し離れた場所に白い花が咲いているのが見えた。
 藤棚の柱の陰、低い草木の間にひっそりと咲く小さな花だった。見覚えがないものだ。

『あれは何ですか』

 紙を見せると、周もそちらを見る。

「ああ、あれか。庭師が先月植えたと言っていたよ。白花の夏菊だね」

 新しい花なら、古い記憶が残っている可能性は低い。
 沙羅はそう思っただけで、触れようとはしなかった。
 けれど、その白を見ているうちに別の記憶が蘇った。
 母も白い花が好きだった。周に初めてそう書いた時より、今日はもう少し先まで思い出せる。
 母は花を飾る時、香りの強いものを寝室には置かなかった。父は何でも大きな花瓶へ入れようとするので、母が呆れていた。

 その話を周に書こうとしたところで、藤棚の向こうから庭師が歩いてくるのが見えた。

「旦那様、こちらにいらしたのですか。先ほど朝廷から使いの方が」
「僕に?」
「はい。執務室にお通ししております」

 周は眉を寄せ、立ち上がった。

「すぐ行くよ。沙羅はどうする?」
『私はもう少しここにおります』
「一人で花に触れないと約束したのを忘れていないかい?」

 沙羅は少しむっとして、『忘れておりません』と書いた。

「ならよかった」

 周は庭師に何かを頼み、屋敷へ戻っていった。
 沙羅はその背を見送り、もう一度藤を眺める。
 父の記憶を見たことで、不思議と気持ちは落ち着いていた。
 あの日のことを知りたい。その思いは変わらない。
 過去には恐怖だけが残っているわけではないと、知れたから。