梔子の花嫁ー帝都婚姻録ー

 顔合わせの翌朝、志紋家に朝廷から使者が訪れた。
 夜のうちに降った雨は明け方には上がっていたものの、庭にはまだ濡れた土の匂いが残り、幾代にもわたってこの家の人々を見守ってきた梔子の古木が、雫を宿した葉を朝の光の中で重たげに揺らしている。花の季節には少し早く、白い蕾さえ見当たらない庭を縁側の向こうに眺めながら、沙羅は叔父から差し出された書状へ目を落とした。

 厚い和紙には朝廷の印が押されている。昨日の顔合わせを受け、織部家との婚姻を正式に進めることを認める旨が記されたもので、封を切った叔父はすでに何度か目を通したらしく、読み終えたあとも紙を畳まずに指先で端を押さえていた。

「織部家からも、昨夜のうちに承諾の知らせが届いたそうだ。周殿ご本人が、この縁談を進めたいと仰ったらしい」

 沙羅は書状から叔父へ視線を移した。
 昨日の顔合わせを終えた時点で、自分は縁談を断らなかった。織部家からも異存がなければ、そのまま婚儀へ向けて話が進むことは分かっていたはずなのに、本人が望んだのだと改めて聞かされると、昨夜まではまだ遠いところにあった婚姻が、急に手の届く場所まで近づいてきたように思える。

 卓の端には、沙羅のための紙と硯が置かれている。
 声を失って間もない頃、叔父は帝都中の医師を訪ね歩き、遠国に腕のよい医師がいると聞けば人を遣わし、術者に診せれば何か分かるのではないかと考えたこともあったという。それでも喉にも舌にも異常は見つからず、十年という歳月の中で、叔父はいつしか声を取り戻させることより、声のない沙羅が不自由なく暮らせるようにすることに心を砕くようになり、今では何かを尋ねる時にも、返事を求めるより先に紙と筆を用意してくれるようになっていた。

 沙羅は筆へ墨を含ませる。

『帝がお決めになった縁談なのですか』

 叔父は文字を読み、しばらく考えてから首を横へ振った。

「陛下が織部家を候補として挙げられたのは確かだが、勅命ではない。先方にも断る余地はあったし、何より周殿ご本人にその意思がなければ、いくら家同士の条件が合おうと話を進めるおつもりはなかったと、織部家のご当主から伺っている」

 志紋家の婚姻に帝家が関わること自体は、珍しいことではない。
 この家には帝の血が流れている。遥かな昔、帝家から降嫁した皇女を祖に持ち、それからも幾度か婚姻によって互いの血を交えながら、志紋家は朝廷の傍らで続いてきた。皇位を望んだことも、皇家に連なることを笠に着て権勢を誇ったこともないが、帝家が人目に晒すことのできないものを預かり、時には表立って残すことのできない事実を胸の内に納めたまま生涯を終えることも、この家に生まれた者の務めなのだと幼い頃から教えられている。

 その家を沙羅の代で絶やすことはできず、家督を継げるのが男子のみである以上、父にほかの子がない今となっては、彼女が夫を迎えて次代へ繋ぐほかに道はない。叔父には家庭も子もあるものの直系ではなく、帝家との間に連綿と受け継がれてきた血筋まで考えれば、沙羅の子を次代の当主とすることが最も穏当なのだろう。

 もっとも、婿となる男なら誰でもよいという話ではなかった。
 志紋家に入れば、いずれ帝家にまつわる秘密に触れることになる。古い血筋を己の出世に利用せず、朝廷の内情を知っても他家に売らず、それでいて志紋という家名の重さに押し潰されない人物となれば、家格だけを頼りに選べるものではない。

 そこに、沙羅自身の事情が加わる。
 十年前から声を出せず、華族の娘でありながら社交の場に姿を見せることもほとんどなく、花へ手を伸ばすことさえできないのだから、今回の縁談も長くは続かないだろうと沙羅は思っていた。

 ところが昨日、志紋家を訪れた織部周は、自分で育てたという花束を携えて現れたかと思えば、初対面の沙羅に臆面もなく美しい人だと言い、受け取れない理由を問うこともせず、眺めるだけなら好きだと知った途端、嬉しそうに花束を置いて帰った。

 風変わりな男であることは否定できないが、不快な人ではなく、少なくとも沙羅が言葉を書き終えるより先に、彼女の考えを勝手に決めてしまうような人でもなかった。

「沙羅」

 叔父に呼ばれ、顔を上げる。

「私は、お前がこの縁談を断っても構わないと思っている」

 予想していなかった言葉に、持っていた筆が止まった。

「家のことを考えれば、いずれ誰かを迎えてもらわなければならない。それは否定できないが、だからといって相手が誰でもよいわけではないし、陛下が候補に挙げられた方だからと、お前が嫌がる婚姻を受け入れさせるつもりもない」

 叔父は沙羅を見つめたまま、言い聞かせるように続ける。

「昨日、周殿と会ってどう思った」

 筆を持ったまま、沙羅は少し考えた。
 華やかな顔立ちも、自分を美しい人と呼んだことも覚えているが、最初に浮かんだのは、やはり別のことだった。

『よく喋る方でした』

 文字を読んだ叔父が、深く頷く。

「それについては、私も否定できない」

 迷う様子さえ見せない叔父がおかしくて、沙羅の口元が緩みかけた。
 それを見られる前に筆を置き、もう一度庭へ目を向けたものの、昨日まで自分とは何の関係もなかった男のことをこうして考えているのが、ひどく不思議だった。