梔子の花嫁ー帝都婚姻録ー

「そして、これが一番気になっている」

 周は別の紙を取り出した。

「事故が起きた時刻の少し前、同じ街道を通った商人の証言が残っていた。その男は、志紋家のものと思われる馬車の後ろをもう一台、小型の馬車が走っていたと話している」
『後ろの馬車?』
「誰のものかは分からない。証言した商人も、家紋までは見えなかったらしい。ただし、事故が起きたあと現場にはその馬車がなかった」
『通り過ぎたのではありませんか』
「それもあり得る。ただ、街道の先にある関所の記録には、該当する時間帯に通った馬車は志紋家の一台しか残っていない」

 どこかで道を外れたのなら、林の中に続く小道はいくつかある。
 それでも、偶然同じ方向に走っていた馬車が、事故の直前に姿を消したという事実を、偶然だけで片づけてよいのか分からなかった。
 周は書類を閉じると、すぐには次を開かず、沙羅を見る。

「ここまで聞いて、大丈夫かい?」

 沙羅はゆっくりと頷いた。
 怖くないと言ったら噓になる。けれど今は、聞かないまま終わらせる方が怖かった。

『続けてください』
「分かった」

 周は指先で書類の角を整えた。

「ルゼリア使節襲撃についても見てみた。事件が起きたのは、君のご両親の事故より十一日前だ」

 十一日。
 沙羅の中で、二つの出来事が初めて同じ暦の上に置かれた。

「襲われた使節は、正式な交渉団の副代表だった。帝都郊外の別邸から宿舎へ戻る途中、何者かに狙われている。本人は腕と脇腹を負傷したものの生き延びたけれど、護衛が一人亡くなっている」
『犯人は?』
「捕まっていない」
『何故ですか』
「実行犯と思われる男は、事件の翌日に死体で見つかった」

 沙羅が周に目を向けると、彼は資料をめくりながら続けた。

「城外の川で発見され、所持品もほとんどなかったらしい。ただ、衣服の内側からルゼリア製の貨幣が出たことと、本人が以前外国商人の護衛をしていたという証言があったため、当時はルゼリア側の内部対立ではないかという説まで出たそうだ」

 外国の使節を、同じ外国と繋がりのある男が襲った。そのように見えれば、帝国側も事情を掴みきれなかったのかもしれない。

『その事件と、父母の事故に何か繋がりがあったのですか』
「今のところ、直接結びつく記録は見つけていない」

 周はそこで一枚の薄い紙を取り出した。

「ただ、使節襲撃のあと、君のお父上が朝廷に面会を申し入れた記録が残っていた。志紋家当主としての通常の出仕とは別に、外務関係の重臣に二度、軍府に一度。それから、当時の宮宰にも面会を求めている」
『何のお話を?』
「内容までは残っていない。けれど、日付を見る限り全部が襲撃事件のあとで、君のご両親が亡くなるまでの十一日間に集中している」

 父が何かを知っていた。その可能性が、紙の上に初めて形を持って現れる。
 沙羅は俯き、記憶の中にある父を探した。

 事故の前、父は普段と違っていただろうか。母と何かを話していたかもしれない。
 使用人を遠ざけていた夜があっただろうか。けれど七歳の自分が見ていた父は、父でしかなかった。
 朝は頭を撫で、帰宅すれば土産を見せ、約束を忘れれば母に叱られていた。
 政治や外交の話を娘にする人ではなかったのだから、思い出せなくて当然なのかもしれない。

『父は、何かを調べていたのでしょうか』
「僕もそう考えている」
『だから殺されたのですか』

 そこまで書いてから、沙羅は自分の文字を見つめた。
 殺された。父と母について、その言葉を使ったことは一度もない。十年前からずっと、二人は事故で亡くなった人たちだった。
 紙の上に書いただけなのに、その二文字は現実のものとして沙羅へ迫ってくる。
 周はすぐに肯定しなかった。

「可能性はある。でも、今ここで決めつけるのはやめよう」

 その言い方がありがたかった。
 慰めるために否定されるより、確かなものだけを確かなものとして扱ってくれる方が、今の沙羅にはいい。

『レフィアはどうでしたか』
「十年前にも帝国に入っている」

 周は別の帳面を開いた。

「ただし、ごく少数だ。ルゼリア王室から朝廷に贈られた株が二つ、在帝ルゼリア公使館が所有していたものが数株、それから外国商人が一度だけ持ち込んだ記録がある。普通の花屋に並ぶようなものではなかった」

 沙羅が茶会で見た時、身体は間違いなくあの花を知っていた。
 もし十年前にも限られた場所にしか存在しなかったのなら、手掛かりにはなる。

『父が持っていたのですか』
「志紋家に持ち込まれた記録は見つかっていない」
『では、どこで』
「それを知るには、君の記憶が必要になるかもしれない」

 周はそう言ったあと、すぐに続けた。

「ただし、無理に思い出してほしいという意味じゃないよ。別の手掛かりも探すから、君は無理のない範囲で」

 周が何度も同じことを言うのは、沙羅が自分から記憶に飛び込もうとすることを心配しているからなのだろう。

 その夜は、それ以上調べたことを聞かなかった。
 夕餉を終えたあと周は書類を自分の執務室に運び、沙羅も自室へ戻った。

 だが、眠る前になって、古い藤棚のことを思い出した。
 父が好きだった藤。幼い頃、肩へ乗せてもらい、手を伸ばした花。
 もし強い記憶が植物そのものに残ることがあるなら、あの藤にも何かが残っているかもしれない。
 周と約束した通り、一人では触れない。けれど、触れてみたいと思った。