ルゼリア使節団を迎えた茶会から三日が過ぎても、沙羅の記憶からレフィアの花が消えることはなかった。
何かを思い出そうとして目を閉じれば、青紫の花弁より先に雨の匂いが蘇り、そのあとには馬のいななきと、硬いものが砕ける音が続く。そこから先に進もうとすると、十年前と少しも変わらない父の声が記憶の中に割り込んできて、沙羅はいつもそこで目を開けることになった。
――いいかい。私がいいと言うまで、何も喋ってはいけないよ。
父は怯えていたのだろうか。それとも、娘を怯えさせまいとしていたのだろうか。
七歳だった沙羅には、あの日の父がどんな顔でそう言ったのかさえ、今ではうまく思い出せなかった。
覚えているのは、身体を包み込むように抱かれたことと、声を出してはいけないのだと理解したこと、それから、どれほど怖くても泣き声だけは漏らすまいと唇を噛んでいたことくらいである。
もういいよ、と父が言いつけを解く言葉を口にすることはなかった。そのまま父も母も亡くなり、沙羅の声もまた、あの日の馬車の中に置き去りにされた。
けれど、これまで沙羅は、そのことと両親の死そのものを別々に考えていた。
馬車が事故を起こし、父と母は自分を守って亡くなった。その直前、何らかの危険を察した父が、幼い沙羅に黙るよう命じたのだと、それだけで納得していたのである。
ところが、あの花を見てからは違った。
父は、何から沙羅を隠そうとしていたのだろう。
事故であれば、声を出すなと命じる必要などあったのだろうか。
答えの出ない問題を抱えたまま迎えたその日の午後、周はいつもより早い時刻に屋敷に戻ってきた。
玄関で家令から声をかけられた沙羅が居間へ向かうと、周はすでに上着を脱ぎ、卓の上に厚い書類束を載せているところだった。朝に見送った時と同じ格好だが、長くまとめていた髪を少し緩め、襟元も普段より楽にしている。
ただ、その顔には、庭に出た時や沙羅を見つけた時にいつも浮かべる明るさがなかった。
『お帰りなさいませ』
沙羅が紙を見せると、周は一度そちらを読んでから、「ただいま」といつも通りに言い、向かいの椅子を勧めた。
「今日は少し話があるんだ。疲れているようなら、夕餉のあとでも構わないけれど」
沙羅は首を振って席につき、卓上に積まれた書類を見る。古い紙が多いらしく、端の色が変わったものや、幾度も綴じ直された跡のある帳面が混じっていた。
『十年前のことですか』
「ああ。景に頼んでいた軍府の記録と、朝廷側に残っていた文書をひと通り見てきたんだ。外務書記局の古い簿冊は、榊原次官補が閲覧の手続きを整えてくれた。十年前の記録は倉に移されていて、僕の権限だけで今朝すぐ出せるものではなかったから助かったよ」
茶会で周に書類を渡していた男の顔を、沙羅はぼんやりと思い出した。目立った印象はなかったが、それもまた、外交の実務を担う官吏としては不自然なことではなかった。
周は最初の冊子を開き、沙羅からも読めるよう向きを変えた。
「先に結論を言うと、君のご両親が亡くなった事故について、僕はもう一度調べた方がいいと思っている」
身構えていたつもりだったのに、その一言が目に見えない重みを持って落ちてくる。
沙羅は膝の上で指を組んだ。
『事故ではないということですか』
「そこまでは、まだ言えない。ただ、事故だったと判断するには不自然なところが多い」
周は一枚目の記録を指した。
「これは当時、現場に最初に到着した軍府の騎兵隊が残した報告書だよ。志紋家の馬車が郊外の街道で横転し、斜面に落ちたこと、御者がその場で死亡し、ご両親も救助された時には息がなかったこと、君だけが馬車の内部で生きていたことが書かれている」
沙羅は文字を追う。事故の概要そのものは、幼い頃から聞かされてきた内容と変わらない。
「問題はここからだ」
周の指が頁の下部へ移る。
「馬車が道を外れた原因について、最初の報告では『馬が何らかの理由で制御を失った可能性』とされている。ところが翌日の追記には、前輪の車軸が破損していたと書かれ、三日後に作られた正式な報告書では、事故原因が車軸の損傷に変わっている」
『あとから壊れていたことが分かったのではありませんか』
「僕も最初はそう考えた。ただ、その車軸について詳しく調べた記録がないんだ。破損部分を誰が確認したのかも、どの程度傷んでいたのかも残されていないし、部品そのものは事故の数日後に処分されている」
沙羅が顔を上げると、周は資料の端へ指を置いた。
「十年前の事故だから、記録が粗いこと自体は珍しくない。けれど志紋家の当主夫妻が亡くなった事故で、しかも君は帝家の血を引く直系の子どもだった。普通なら、もう少し慎重に調べられていていいはずなんだ」
『誰かが調べさせなかったのでしょうか』
「その可能性も考えている。ただ、今はまだ誰かを疑う段階ではないよ」
周はそう言って次の書類を開いた。
「もう一つ、現場の記録に気になるものがある」
古びた図面だった。街道と斜面、その周囲の林や小道まで簡単な線で描かれており、事故車両が見つかった場所には墨で印がつけられている。
「君たちの馬車は、この街道を北から南に向かっていた。ところが、馬車が落ちたのは道の東側ではなく西側で、車輪の跡を見る限り、落ちる直前にかなり急な方向転換をしている」
『御者が何かを避けたのでは』
「その方が自然だろうね。けれど避けたものについては、一行も記録がない」
沙羅は図面に目を落としたまま、十年前の感覚を探る。
馬車が大きく揺れた。あれは車輪が壊れた時だったのか、それとも御者が手綱を強く引いた時だったのか。
記憶の中では音と匂いが混ざり合っており、どちらとも判断できなかった。
何かを思い出そうとして目を閉じれば、青紫の花弁より先に雨の匂いが蘇り、そのあとには馬のいななきと、硬いものが砕ける音が続く。そこから先に進もうとすると、十年前と少しも変わらない父の声が記憶の中に割り込んできて、沙羅はいつもそこで目を開けることになった。
――いいかい。私がいいと言うまで、何も喋ってはいけないよ。
父は怯えていたのだろうか。それとも、娘を怯えさせまいとしていたのだろうか。
七歳だった沙羅には、あの日の父がどんな顔でそう言ったのかさえ、今ではうまく思い出せなかった。
覚えているのは、身体を包み込むように抱かれたことと、声を出してはいけないのだと理解したこと、それから、どれほど怖くても泣き声だけは漏らすまいと唇を噛んでいたことくらいである。
もういいよ、と父が言いつけを解く言葉を口にすることはなかった。そのまま父も母も亡くなり、沙羅の声もまた、あの日の馬車の中に置き去りにされた。
けれど、これまで沙羅は、そのことと両親の死そのものを別々に考えていた。
馬車が事故を起こし、父と母は自分を守って亡くなった。その直前、何らかの危険を察した父が、幼い沙羅に黙るよう命じたのだと、それだけで納得していたのである。
ところが、あの花を見てからは違った。
父は、何から沙羅を隠そうとしていたのだろう。
事故であれば、声を出すなと命じる必要などあったのだろうか。
答えの出ない問題を抱えたまま迎えたその日の午後、周はいつもより早い時刻に屋敷に戻ってきた。
玄関で家令から声をかけられた沙羅が居間へ向かうと、周はすでに上着を脱ぎ、卓の上に厚い書類束を載せているところだった。朝に見送った時と同じ格好だが、長くまとめていた髪を少し緩め、襟元も普段より楽にしている。
ただ、その顔には、庭に出た時や沙羅を見つけた時にいつも浮かべる明るさがなかった。
『お帰りなさいませ』
沙羅が紙を見せると、周は一度そちらを読んでから、「ただいま」といつも通りに言い、向かいの椅子を勧めた。
「今日は少し話があるんだ。疲れているようなら、夕餉のあとでも構わないけれど」
沙羅は首を振って席につき、卓上に積まれた書類を見る。古い紙が多いらしく、端の色が変わったものや、幾度も綴じ直された跡のある帳面が混じっていた。
『十年前のことですか』
「ああ。景に頼んでいた軍府の記録と、朝廷側に残っていた文書をひと通り見てきたんだ。外務書記局の古い簿冊は、榊原次官補が閲覧の手続きを整えてくれた。十年前の記録は倉に移されていて、僕の権限だけで今朝すぐ出せるものではなかったから助かったよ」
茶会で周に書類を渡していた男の顔を、沙羅はぼんやりと思い出した。目立った印象はなかったが、それもまた、外交の実務を担う官吏としては不自然なことではなかった。
周は最初の冊子を開き、沙羅からも読めるよう向きを変えた。
「先に結論を言うと、君のご両親が亡くなった事故について、僕はもう一度調べた方がいいと思っている」
身構えていたつもりだったのに、その一言が目に見えない重みを持って落ちてくる。
沙羅は膝の上で指を組んだ。
『事故ではないということですか』
「そこまでは、まだ言えない。ただ、事故だったと判断するには不自然なところが多い」
周は一枚目の記録を指した。
「これは当時、現場に最初に到着した軍府の騎兵隊が残した報告書だよ。志紋家の馬車が郊外の街道で横転し、斜面に落ちたこと、御者がその場で死亡し、ご両親も救助された時には息がなかったこと、君だけが馬車の内部で生きていたことが書かれている」
沙羅は文字を追う。事故の概要そのものは、幼い頃から聞かされてきた内容と変わらない。
「問題はここからだ」
周の指が頁の下部へ移る。
「馬車が道を外れた原因について、最初の報告では『馬が何らかの理由で制御を失った可能性』とされている。ところが翌日の追記には、前輪の車軸が破損していたと書かれ、三日後に作られた正式な報告書では、事故原因が車軸の損傷に変わっている」
『あとから壊れていたことが分かったのではありませんか』
「僕も最初はそう考えた。ただ、その車軸について詳しく調べた記録がないんだ。破損部分を誰が確認したのかも、どの程度傷んでいたのかも残されていないし、部品そのものは事故の数日後に処分されている」
沙羅が顔を上げると、周は資料の端へ指を置いた。
「十年前の事故だから、記録が粗いこと自体は珍しくない。けれど志紋家の当主夫妻が亡くなった事故で、しかも君は帝家の血を引く直系の子どもだった。普通なら、もう少し慎重に調べられていていいはずなんだ」
『誰かが調べさせなかったのでしょうか』
「その可能性も考えている。ただ、今はまだ誰かを疑う段階ではないよ」
周はそう言って次の書類を開いた。
「もう一つ、現場の記録に気になるものがある」
古びた図面だった。街道と斜面、その周囲の林や小道まで簡単な線で描かれており、事故車両が見つかった場所には墨で印がつけられている。
「君たちの馬車は、この街道を北から南に向かっていた。ところが、馬車が落ちたのは道の東側ではなく西側で、車輪の跡を見る限り、落ちる直前にかなり急な方向転換をしている」
『御者が何かを避けたのでは』
「その方が自然だろうね。けれど避けたものについては、一行も記録がない」
沙羅は図面に目を落としたまま、十年前の感覚を探る。
馬車が大きく揺れた。あれは車輪が壊れた時だったのか、それとも御者が手綱を強く引いた時だったのか。
記憶の中では音と匂いが混ざり合っており、どちらとも判断できなかった。



