梔子の花嫁ー帝都婚姻録ー

 その夜、周が志紋邸に帰ってきたのは、日付が変わる少し前だった。
 沙羅は寝室へ入らず、居間で待っていた。昼間描いたレフィアの絵は、何度見返しても、初めて見たという感覚にはならない。

 やがて襖が開き、周が姿を見せる。まだ起きていた沙羅を見ると、今度は冗談めかして待っていたのかと尋ねることもなく、向かいの椅子に腰を下ろした。

「昼間のことだね」

 沙羅は頷き、紙へ筆を走らせる。

『ごめんなさい』
「それは書かなくていいと言ったでしょう」
『お仕事の途中でしたのに』
「僕が自分で席を外したんだから、君が謝ることではないよ」
『使節の方々に失礼ではありませんでしたか』
「ほんの数分席を外したくらいで壊れるような場なら、僕の準備不足だね。そのあと使節団長とは十分に話したし、こちらの希望も一つ通してきたから、宮宰としても問題はない」

 それなら、と沙羅はようやく筆を止めた。
 周は卓上に置かれた絵へ視線を移す。

「この花について、何か思い出せた?」

 沙羅はしばらく考えてから、『いいえ。ただ、十年前だと思います』と記した。
 周の視線が文字の上で止まる。

『父と母が亡くなった頃です』

 書き終えた途端、喉にきゅうっと力が入った。
 声を出そうとしたわけではない。それでも、あの日のことを思い出そうとすると、身体が先に拒むのだ。

『雨の匂いを思い出しました』

 少し間を置いて、『馬の声も』と書く。

 そこまでで筆を置いた。これ以上先へ進めば、今夜は戻ってこられないような気がした。
 周は沙羅が筆を離したことを見て、無理に続きを求めず、卓の端に置かれていた茶に手を伸ばした。

「では、今日はそこまででいい」

 でも、と沙羅が顔を上げると、周はやんわりと首を横に振った。

「思い出すことと、自分を追い詰めることは同じじゃないよ。君が知りたいと思うなら僕も一緒に調べるけれど、一晩で全部を思い出さなければならない理由はない」

 沙羅は紙へ目を落とし、それでも一つだけ書いた。

『あの花について調べていただけますか』
「もちろん」
『十年前にも帝国にあったのでしょうか』
「数はかなり少ないだろうけれど、入っていた可能性はある。寒さにも土にも気を遣う花だから、誰でも持てるものではないはずだよ」
『誰が持っていたのか分かりますか』
「調べてみる」

 周はそこで言葉を切り、レフィアを描いた紙にもう一度目を向けた。

「ただ、花だけを追うつもりはない。十年前のルゼリア使節襲撃と、君のご両親が亡くなった事故についても当時の記録を確認する」

 沙羅は顔を上げる。まだ二つを結びつける根拠はない。同じ年に起きたというだけで、関係があると考えるのは早すぎるだろう。

「何もなければ、それでいいんだよ」

 周は沙羅が考えていることを見越したように続けた。

「確かめて関係がなければ、一つ疑う必要がなくなる。分からないまま残しておくより、その方がいい」

 沙羅は筆を持ち直した。

『危険ではありませんか』

 文字を読んだ周は、すぐには口を開かなかった。

「今の段階では、何かが危険だと決まったわけじゃない」
『もし、両親の死が事故ではなかったら』

 その一行を書くには時間がかかった。
 周は最後の文字まで書き終わるのを待ってから、沙羅に目を向けた。

「その時は、その時に考える。ただし、僕だけで勝手なことはしないよ」

 沙羅はさらに続けた。

『やめてくださいとは申しません』

 周の眉が少し上がる。

『けれど、私に何も言わず危ないことをなさらないでください』

 紙を読んだ周は、しばらく黙っていたあと、困ったように笑った。

「まだ信用がないね」
『まだひと月ですから』
「それを言われると弱い」

 沙羅は筆を置き、周は絵の描かれた紙へ手を伸ばし、端が折れないよう向きを整える。

「分かった。何か見つけたら必ず君に話すし、一人で危ないこともしない」

 沙羅が頷くと、周はそこで声音を改めた。

「だから、君も約束してほしいことがある」

 沙羅が彼を見ると、周はまっすぐに視線を返した。

「一人であの花に触れて、確かめようとはしないでほしい」

 図星だ。茶会の広間でレフィアを見た時、怖くて動けなかったのと同時に、触れれば何か分かるのではないかと思ったことも事実だった。
 もし十年前の記憶が残っているなら、自分が忘れているものを見ることができるかもしれない。
 その考えを、周は見抜いていたらしい。

「君の力を使うなと言うつもりはないよ。使うかどうかを決めるのは君だからね。ただ、何が流れ込んでくるか分からないのなら、せめて僕か叔父上がいる時にしてほしい」

 沙羅は少し考えてから、『分かりました』と書いた。

「約束?」

 もう一度頷くと、周はようやく身体の力を抜いた。
 静かな居間の中で、二人の視線が卓上の花へ集まる。

「レフィア、か」

 周は囁くように呟いた。
 異国の名を持つ青紫の花。
 十年前、自分はどこであれを見たのだろう。
 父と母が亡くなった日の記憶には、長い間触れないようにしてきた。思い出せないのではなく、思い出そうとすると身体が拒み、そのたびに父の最後の声だけが鮮明に蘇るからだ。

 それでも今日、長い間閉ざされていた場所に、細い亀裂が入った。
 濡れた土の匂いと馬の声、その中にあった青紫の花を、自分は確かに知っている。
 この先に何があるのかは怖い。けれど、以前とは違い、一人でそこへ向かわなくていいのだと思えた。

「沙羅」

 周に呼ばれ、顔を上げる。

「明日から少し忙しくなると思う。十年前の記録を調べるなら、外務の文書だけでは足りないだろうから、軍府側に残っている警備記録も確認したい。景にも話を通しておくよ」
『朝霧様に?』
「当時の警備資料が軍府に残っていれば、彼の方が早いからね。ただし、全部を景に任せるつもりはない。これは僕が確かめる」

 宮中で外国使節を迎え、相手の望みを読みながら国と国との間に立つ人と、家では土の具合を気にして庭師と言い合う人が、沙羅の中でようやく同じ一人の男として重なり始めていた。

 しばらく迷った末、沙羅は新しい紙を引き寄せる。

『旦那様』
「何だい?」
『今日は、格好よかったです』

 周が動きを止めた。
 書いてから急に恥ずかしくなり、沙羅が紙を伏せようとしたところで、向かいから伸びてきた手が端を押さえる。

「待って」
『離してください』
「もう一度読ませてくれ」
『一度で十分でしょう』
「何度読んでもいい文章だと思う」
『書かなければよかったです』
「それは困る」

 沙羅が紙を取り返そうとしても、周は珍しく譲らない。

「朝から格好いいと思われたいと言った甲斐があった」
『明日の朝には取り消します』
「それは困るな。せめて今日の分だけは取り消さないでくれ」

 夜も遅いというのに、周の声が居間に響いた。
 沙羅は慌てて口元に人差し指を当てる。周もさすがに使用人を起こすと気づいたらしく、声を落としながら、取り消すのは理不尽ではないかと訴え始めた。
 その姿がおかしくて、沙羅は肩を揺らして笑った。

 十年前の記憶に続く扉は、確かに開き始めている。その向こうに何が待っているのかを考えれば、怖さが消えることはなかった。
 それでも、恐怖だけに飲まれたまま一日を終えずに済んだのは、卓を挟んだ向こうで今も何かを訴えている男がいるからだ。

「沙羅よ、聞いているのかいっ?」
「──、────」

 沙羅は永遠に空気に馴染まない音を唇に乗せながら、頬をほころばせた。