沙羅が驚いていると、叔父が感心したように話し出した。
「ルゼリア語も話せるそうだよ」
聞いていない。昨夜まで庭の土について長々と話していた男と同じ人物には見えず、沙羅は広間の向こうにいる夫を改めて眺めた。
ちょうどその時、周がこちらへ目を向ける。
大勢の客人を相手にしている最中だというのに、沙羅と目が合うと、ほんの一瞬だけ仕事用の表情が崩れ、口元だけで何かを尋ねるように笑った。
どうだい、とでも言いたいのだろう。
沙羅は少しだけ眉を上げてみせた。
まだ判断できません。そんなものが通じるはずもないと思ったが、周は見事に肩を落とす仕草をしたあと、すぐに使節団長へ向き直った。
隣では叔父が笑いを堪えている。
沙羅は見なかったことにして前を向いた。
それからほどなく、使節団に同行していた従者たちが、帝へ贈られた品々を披露するため、いくつもの箱を広間へ運び込んできた。
細工を施した硝子器や染織品、見慣れない木材で作られた工芸品が次々と並べられ、その最後に、細長い木箱がひとつ運ばれてくる。蓋を外した侍従が、傷めないよう両手で中身を持ち上げた。
それは鉢植えの花だった。細い茎の先に青紫の花弁が幾重にも重なり、縁には白い線が走っている。花の中心には濃い紅が沈み、遠くから眺めれば、夜空に浮かぶ星を幾枚も重ねたような形にも見えた。
その花が視界に入った途端、沙羅は足を止めたまま、周囲にいた人々の声をうまく聞き取れなくなった。
初めて見るはずの花だ。名前も知らず、帝国で見かけた覚えもない。
それなのに、青紫の花弁も、その縁をなぞる白い筋も、中心に沈む暗い紅も、以前どこかで見たことがあるような気がして。
どこで見たのだろう。いつだったのだろう。
記憶を辿ろうとした瞬間、磨き上げられた宮殿の床も、華やかな衣装を纏った人々も、異国の言葉が行き交う広間も、遠いものに変わっていった。
代わりに鼻の奥に蘇ったのは、濡れた土の匂いだった。
雨に打たれた草の匂いも混じっている。馬が甲高くいななき、車輪が何かに乗り上げたのか、身体が大きく揺れた感覚まで戻ってくる。
誰かの腕が自分を抱き寄せていた。狭く暗い場所で、沙羅は膝を抱えるように身体を縮めていた気がする。
視界の端には、あの青紫の花があった。
次いで思い出されたのは、声だった。
――いいかい。私がいいと言うまで、何も喋ってはいけないよ。
父の声。十年間、一度も忘れたことのない声だった。
喉が締まり、沙羅は唇を閉じた。
足が床に縫いつけられたように動かない。
触れていない。花には一歩も近づいていないのだから、これは花の記憶ではなく、沙羅の中に残っていたものなのだろう。
「沙羅」
自分の名前を呼ばれ、沙羅はゆっくりと顔を上げた。
いつ近づいてきたのか分からなかったが、目の前には周が立っていた。
先ほどまで使節団の中央にいたはずの男が、沙羅と花の間へ身体を入れ、広間からの視線を遮るように立っている。
「奥に行こう」
具合が悪いのかとも、何を見たのかとも尋ねず、周は沙羅が自分で歩けることを確かめてから、広間の端にある控えの間に連れていった。
襖が閉じられると、華やかなざわめきは壁一枚を隔てた向こうに遠のいた。
「座れそうかい?」
沙羅は頷いて椅子へ腰を下ろし、膝の上に両手を置いたところで、指先が冷えていることに気づいた。
周は侍従から水を受け取り、自分の手で沙羅へ差し出す。
「具合が悪いわけではないのかい?」
沙羅が首を振ると、周は声を少し落として尋ね直した。
「人が多すぎたかな」
それにも首を振った。
話したいのに、紙も筆もない。
沙羅が辺りを見回すと、周はすぐに察したらしく、控えていた侍従へ筆記具を持ってくるよう命じた。
ほどなく紙と筆が用意されたものの、いざ書こうとすると、何を書けばよいのか分からなかった。
あの花を知っている。十年前に見た。父の声を思い出した。
確かなのはそれだけで、その先にあるはずのものは霧に包まれたままだ。手を伸ばせば、また身体が拒む。
沙羅は言葉の代わりに、花の輪郭を紙に描いた。
細い茎と重なる花弁、縁を走る白い線、その中心にある紅を記憶のまま写していく。絵を得意としているわけではなかったが、形を示すには十分だったらしく、周は沙羅の筆が止まるまで何も言わずに待っていた。
描き終えたところで顔を上げると、周が紙に目を落とした。
「さっきの花だね」
沙羅が頷くのを確かめると、周は描かれた花をじっと見つめた。
「あれはルゼリアでレフィアと呼ばれている花だよ。向こうの南部に自生している種類で、帝国ではほとんど栽培されていない。今日持ち込まれた株も、ルゼリア王室の温室で育てられたものらしい」
沙羅は花の名前を知らない。それでも見たことはある。そう伝えるため、もう一度筆を取った。
『以前にも見たことがあります』
文字を読み終えた周の表情から、茶会で客人に向けていた笑みが消えた。
「いつ?」
沙羅は答えようとした。けれど、筆先が紙に触れるより早く、雨の匂いと馬の声が再び蘇り、指が思うように動かなくなる。
十年前。そう書けばいいだけなのに、その先に続く記憶まで引きずり出されるようで、筆を握る手が震えた。
墨が紙へ落ち、丸い染みを作る。
「沙羅、もう書かなくていい」
周は筆を取り上げようとはせず、代わりに紙を少し遠ざけた。
「思い出せないならそれで構わないし、今は思い出したくないということなら、なおさらここで無理をする必要はないよ」
沙羅は両手を膝に戻した。
何年前に見たのか、誰と一緒だったのか、花に触れたのか、何かの記憶を読んだのかと、確かめようと思えば聞くことはいくらでもあるはずだった。
それでも周は一つも尋ねず、沙羅の指から震えが引くまで隣にいた。
「僕は広間に戻らないといけないから、沙羅はここで休んでいてもいいし、このまま叔父上と帰っても構わないよ」
仕事を中断させてしまったと思い、沙羅が紙へ手を伸ばすと、周が先に首を振った。
「謝るつもりなら、書かなくていい」
沙羅は手を止める。
「僕が勝手にここに来たんだ。君が呼んだわけではないだろう」
それでも何か伝えたくて周を見ると、彼は少し考えたあと、「どうしても言いたいことがあるなら、帰ってから聞くよ」と告げた。
沙羅が頷くと、周はようやく表情を和らげた。
「約束だね」
それだけ言い残し、周は叔父に沙羅を頼んで広間へ戻っていった。
「ルゼリア語も話せるそうだよ」
聞いていない。昨夜まで庭の土について長々と話していた男と同じ人物には見えず、沙羅は広間の向こうにいる夫を改めて眺めた。
ちょうどその時、周がこちらへ目を向ける。
大勢の客人を相手にしている最中だというのに、沙羅と目が合うと、ほんの一瞬だけ仕事用の表情が崩れ、口元だけで何かを尋ねるように笑った。
どうだい、とでも言いたいのだろう。
沙羅は少しだけ眉を上げてみせた。
まだ判断できません。そんなものが通じるはずもないと思ったが、周は見事に肩を落とす仕草をしたあと、すぐに使節団長へ向き直った。
隣では叔父が笑いを堪えている。
沙羅は見なかったことにして前を向いた。
それからほどなく、使節団に同行していた従者たちが、帝へ贈られた品々を披露するため、いくつもの箱を広間へ運び込んできた。
細工を施した硝子器や染織品、見慣れない木材で作られた工芸品が次々と並べられ、その最後に、細長い木箱がひとつ運ばれてくる。蓋を外した侍従が、傷めないよう両手で中身を持ち上げた。
それは鉢植えの花だった。細い茎の先に青紫の花弁が幾重にも重なり、縁には白い線が走っている。花の中心には濃い紅が沈み、遠くから眺めれば、夜空に浮かぶ星を幾枚も重ねたような形にも見えた。
その花が視界に入った途端、沙羅は足を止めたまま、周囲にいた人々の声をうまく聞き取れなくなった。
初めて見るはずの花だ。名前も知らず、帝国で見かけた覚えもない。
それなのに、青紫の花弁も、その縁をなぞる白い筋も、中心に沈む暗い紅も、以前どこかで見たことがあるような気がして。
どこで見たのだろう。いつだったのだろう。
記憶を辿ろうとした瞬間、磨き上げられた宮殿の床も、華やかな衣装を纏った人々も、異国の言葉が行き交う広間も、遠いものに変わっていった。
代わりに鼻の奥に蘇ったのは、濡れた土の匂いだった。
雨に打たれた草の匂いも混じっている。馬が甲高くいななき、車輪が何かに乗り上げたのか、身体が大きく揺れた感覚まで戻ってくる。
誰かの腕が自分を抱き寄せていた。狭く暗い場所で、沙羅は膝を抱えるように身体を縮めていた気がする。
視界の端には、あの青紫の花があった。
次いで思い出されたのは、声だった。
――いいかい。私がいいと言うまで、何も喋ってはいけないよ。
父の声。十年間、一度も忘れたことのない声だった。
喉が締まり、沙羅は唇を閉じた。
足が床に縫いつけられたように動かない。
触れていない。花には一歩も近づいていないのだから、これは花の記憶ではなく、沙羅の中に残っていたものなのだろう。
「沙羅」
自分の名前を呼ばれ、沙羅はゆっくりと顔を上げた。
いつ近づいてきたのか分からなかったが、目の前には周が立っていた。
先ほどまで使節団の中央にいたはずの男が、沙羅と花の間へ身体を入れ、広間からの視線を遮るように立っている。
「奥に行こう」
具合が悪いのかとも、何を見たのかとも尋ねず、周は沙羅が自分で歩けることを確かめてから、広間の端にある控えの間に連れていった。
襖が閉じられると、華やかなざわめきは壁一枚を隔てた向こうに遠のいた。
「座れそうかい?」
沙羅は頷いて椅子へ腰を下ろし、膝の上に両手を置いたところで、指先が冷えていることに気づいた。
周は侍従から水を受け取り、自分の手で沙羅へ差し出す。
「具合が悪いわけではないのかい?」
沙羅が首を振ると、周は声を少し落として尋ね直した。
「人が多すぎたかな」
それにも首を振った。
話したいのに、紙も筆もない。
沙羅が辺りを見回すと、周はすぐに察したらしく、控えていた侍従へ筆記具を持ってくるよう命じた。
ほどなく紙と筆が用意されたものの、いざ書こうとすると、何を書けばよいのか分からなかった。
あの花を知っている。十年前に見た。父の声を思い出した。
確かなのはそれだけで、その先にあるはずのものは霧に包まれたままだ。手を伸ばせば、また身体が拒む。
沙羅は言葉の代わりに、花の輪郭を紙に描いた。
細い茎と重なる花弁、縁を走る白い線、その中心にある紅を記憶のまま写していく。絵を得意としているわけではなかったが、形を示すには十分だったらしく、周は沙羅の筆が止まるまで何も言わずに待っていた。
描き終えたところで顔を上げると、周が紙に目を落とした。
「さっきの花だね」
沙羅が頷くのを確かめると、周は描かれた花をじっと見つめた。
「あれはルゼリアでレフィアと呼ばれている花だよ。向こうの南部に自生している種類で、帝国ではほとんど栽培されていない。今日持ち込まれた株も、ルゼリア王室の温室で育てられたものらしい」
沙羅は花の名前を知らない。それでも見たことはある。そう伝えるため、もう一度筆を取った。
『以前にも見たことがあります』
文字を読み終えた周の表情から、茶会で客人に向けていた笑みが消えた。
「いつ?」
沙羅は答えようとした。けれど、筆先が紙に触れるより早く、雨の匂いと馬の声が再び蘇り、指が思うように動かなくなる。
十年前。そう書けばいいだけなのに、その先に続く記憶まで引きずり出されるようで、筆を握る手が震えた。
墨が紙へ落ち、丸い染みを作る。
「沙羅、もう書かなくていい」
周は筆を取り上げようとはせず、代わりに紙を少し遠ざけた。
「思い出せないならそれで構わないし、今は思い出したくないということなら、なおさらここで無理をする必要はないよ」
沙羅は両手を膝に戻した。
何年前に見たのか、誰と一緒だったのか、花に触れたのか、何かの記憶を読んだのかと、確かめようと思えば聞くことはいくらでもあるはずだった。
それでも周は一つも尋ねず、沙羅の指から震えが引くまで隣にいた。
「僕は広間に戻らないといけないから、沙羅はここで休んでいてもいいし、このまま叔父上と帰っても構わないよ」
仕事を中断させてしまったと思い、沙羅が紙へ手を伸ばすと、周が先に首を振った。
「謝るつもりなら、書かなくていい」
沙羅は手を止める。
「僕が勝手にここに来たんだ。君が呼んだわけではないだろう」
それでも何か伝えたくて周を見ると、彼は少し考えたあと、「どうしても言いたいことがあるなら、帰ってから聞くよ」と告げた。
沙羅が頷くと、周はようやく表情を和らげた。
「約束だね」
それだけ言い残し、周は叔父に沙羅を頼んで広間へ戻っていった。



