梔子の花嫁ー帝都婚姻録ー

 ルゼリア王国の使節団が帝都に入った日の夜、周が帰宅したのは夕餉の時刻をとうに過ぎてからだった。
 沙羅は先に食事を済ませ、自室で本を読んでいた。だが玄関の方から人の声が聞こえたので、栞を挟んで廊下に出た。
 家令に外套を預けていた周は、朝と同じ宮中服を身につけていたが、襟元には一日の疲れが見え、整えていた髪も少し崩れている。
 それでも沙羅を見つけると、目元が柔らいだ。

「ただいま」
『お帰りなさいませ』

 あらかじめ書いておいた紙を見せると、周はそれを読んでから沙羅へ視線を戻した。

「起きていたんだね」
『まだ寝る時間ではございません』
「僕を待っていたとは言ってくれないのかい?」

 沙羅は紙を裏返して、『お疲れではありませんか』と書いた。

「話を逸らすのが上手になったね」

 周はそれ以上追及せず、沙羅とともに居間へ向かった。
 食事を改めて用意させるほど腹は減っていないらしく、茶と軽食を頼んで椅子に腰を下ろす。
 沙羅は向かいに座り、使節団について尋ねた。
 周は茶を一口飲んでから答えた。

「手強い人たちだよ。十年間止まっていた話をこちらが再び始めたがっていることは向こうも知っているから、当然、自分たちが有利だと考えている」
『険悪なのですか』
「いいや。表向きはとても友好的だね」

 周はふっと口元を緩めた。

「互いに笑顔で相手の国を褒めながら、どこまで譲るつもりか探っている。外交というものは、なかなか面白いよ」
『怖いお仕事ですね』
「花の世話よりはね」
『比べるものなのですか』
「僕にとっては、どちらも真面目にやるべきことだから」

 沙羅は呆れながらも、今日の出来事をもう少し知りたくなり、『何をなさったのですか』と続けた。

「今日は歓迎の儀礼と、正式な拝謁の日程を決めるところまでだね。先方は到着してすぐ陛下への拝謁を望んだのだけれど、こちらがそのまま応じれば、以後の交渉でも急かせば譲る国だと思われかねないから、三日後を提示した」
『断られなかったのですか』
「断る理由をなくしてから提示したからね」

 その言い方が気になり、沙羅は次を待った。

「使節団長が古い聖堂建築に興味を持っていることは事前に調べていたから、明日は帝都西部の聖堂と工芸院をご案内することにして、明後日は陛下主催の晩餐に招いた。そうすれば三日後の拝謁は先送りではなく、歓迎行事を締めくくる正式な場になる」

 相手の希望をただ断るのではなく、別のものを差し出したうえで、自分たちが望む日程へ導いたということなのだろう。
 沙羅はしばらく周を見てから、筆を動かした。

『旦那様は、きちんとお仕事ができるのですね』

 紙を読んだ周の顔が止まった。

「沙羅」
『はい』
「僕を何だと思っていたんだい?」

 少し考えてから、『花の好きな方』と書く。

「それは間違っていない」
『よくお話しになる方』
「それも否定しないよ」
『庭師に嫌がられている方』
「待ってほしい」

 さすがに心外だったらしく、周は茶器を置いた。

「その三つを並べられると、僕が宮宰である事実だけ綺麗に消えてしまうのだけれど」

 沙羅は笑いを堪えながら、『今日から覚えておきます』と書いた。

「今日から?」

 周はまだ何か言いたそうだったが、沙羅が口元を押さえているのを見て諦めたらしく、茶器に手を戻した。
 肩書きそのものは最初から知っている。けれど、宮宰として働く周がどのような男なのかは、まだ知らないことの方が多い。その一端を聞いただけでも、顔合わせの日に花束を抱えて現れた人とはまるで違う輪郭が見えるようだった。


 その周の仕事を実際に見る機会は、思いがけず早く訪れた。
 使節団が帝への拝謁を終えたあと、宮中では双方の親交を示すための茶会が開かれることになり、志紋家にも正式な招待が届いたのである。

 沙羅が人の多い場所を好まないことは朝廷にも知られており、これまでなら叔父だけが出席して済んでいたはずだったが、今回は事情が違っていた。帝家の血を引く志紋家の当主となる娘であり、さらに使節の接遇を任された宮宰の妻でもある以上、外国側に紹介しておく意味があるのだという。

 叔父は無理に出る必要はないと言い、周もまた、沙羅が嫌なら断って構わないと言った。それでも沙羅は、『参ります』と書いた。

「本当に?」
『旦那様のお仕事を見てみたいです』

 紙を読んだ周は、少しばかり妙な顔で沙羅を見た。

『何ですか』
「いや、妻に働いているところを見られるのは、思ったより緊張するものなんだね」
『いつも通りになさればよろしいのでは』
「できれば格好いいと思われたい」
『お仕事なのですから、真面目になさってください』
「真面目にやることと、沙羅に格好いいと思われることは両立するはずだけれど」

 翌日、宮中に向かう馬車の中でも周はいつも以上に装いを整えていたので、本当に意識しているのかもしれなかった。沙羅も正式な場に出るための衣装を身につけ、叔父とともに宮殿に入った。

 帝家の住まう宮殿を訪れるのは久しぶりだった。
 幼い頃には父や母に連れられて幾度か足を踏み入れた記憶があるが、両親を失ってからは必要な時を除いて宮中に出ることを避けてきた。

 高い天井と磨き込まれた床、柱の向こうを途切れることなく行き交う官吏や軍人たちを眺めていると、十年前から自分だけが同じ場所に留まり、世の中だけが先へ進んでいったような感覚に襲われる。

 ところが周は宮殿に入るなり、沙羅の隣から離れた。
 待ち受けていた官吏が数人、次々と彼のもとへ集まり、それぞれ異なる報告を耳元で告げていく。周は足を止めることなく聞き取り、必要なものだけに指示を出していた。

 その中には、外務次官補の榊原孝惟もいた。四十にはまだ届かないほどの年頃に見える、目立つところの少ない端正な男で、使節団の予定表を周に渡すと、ルゼリア側から届いた変更点を手短に告げて一礼した。叔父が小声で名を教えてくれなければ、沙羅は大勢の官吏の一人として見過ごしていただろう。
 その後ろ姿を沙羅が見送っていると、隣に立っていた叔父が沙羅の耳元で囁く。

「家ではああ見えても、仕事だけは昔からよくできる男らしい」

 家では、という部分が少し気になったが、沙羅は叔父に顔を向ける。

「織部家のご当主から聞いたんだよ。幼い頃から人の顔と名前を忘れず、一度聞いた話は細かなところまで覚えていたそうだ。誰と誰の仲が悪いかまで把握しているものだから、宴席では父親より周殿に席順を考えさせた方が揉め事が少なかったらしい」

 茶会が始まると、その話が大げさではないことはすぐに分かった。
 周は一人の相手に長くつききりになることがなく、使節団長と言葉を交わしたかと思えば、その直後には朝廷の重臣に声をかけ、その合間にも通訳や侍従に必要な指示を出している。外国人の一人が何かを探して辺りに視線を巡らせれば、本人が口にする前に侍従を向かわせ、年嵩の華族が会話に入り損ねていると気づけば、自然な話題を差し向けて輪の中へ入れた。

 誰か一人を特別に持ち上げているようには見えないのに、周と話した者は皆、自分を粗末に扱われたとは感じないのだろう。

 家で見せる賑やかな笑顔とも違う。柔らかく見えるのに隙がなく、何を考えているのかまでは沙羅にも読み取れなかった。

 さらに、ルゼリア側の官吏から外国語で話しかけられると、周は通訳を呼ぶこともなく、そのまま同じ言葉で答え始める。