帝都に外国使節団が到着するという知らせが志紋邸に届いたのは、初夏の雨が二日ほど続いた後の朝だった。
夜明け前まで屋根を叩いていた雨は、沙羅が起きる頃には糸のように細くなっていたものの、庭の石畳にはまだ水の膜が残り、梔子の葉も重たげに濡れている。枝先についた蕾は日に日に膨らみ、早いものでは萼の間から白い色を覗かせ始めていたから、この雨が上がって陽が戻れば、そう遠くないうちに庭一面に甘い香りが満ちるのだろう。
そんな庭を縁側から眺めた後、朝餉の席へ向かった沙羅は、すでに支度を整えていた周の姿を見て、今日はいつもの登朝とは少し事情が違うらしいと察した。
濃紺の宮中服は襟元から袖口まで隙なく整えられ、長い髪も後ろで端正にまとめられている。婚礼を終えてから、宮宰として朝廷へ出仕する夫を何度も見送ってきたが、今日は胸元に見慣れない銀の章をつけ、その傍らには朝廷の紋章が入った革張りの書類箱まで置かれていた。
『随分お早いのですね』
卓上の紙へそう記して差し出すと、周は茶器を置きながら沙羅の文字へ目を通した。
「今日は城門が開く頃には宮中へ入っていたいんだ。午前のうちに、ルゼリア王国の使節団が帝都へ到着する予定になっている」
聞き覚えのある国名に、沙羅は筆を置かず、そのまま次の問いを記した。
『正式な使節団が来るのですか』
「ああ。十年ぶりになるね」
西方に位置するルゼリア王国は、帝国が今ほどの国力を持たなかった頃から交易を続けてきた国であり、港を通じて入ってくる織物や硝子器、薬品の類には、幼い頃から沙羅も馴染みがあった。帝都にもルゼリアの商人や技術者が暮らしているため、国そのものを遠い異国と感じたことはなかったが、正式な使節団が朝廷を訪れるという話は沙羅の記憶にはない。
『何のためにいらっしゃるのですか』
その問いを読んだ周は、いつもの朝より少しだけ姿勢を正し、何をどこまで説明するべきか頭の中で整えているようだった。
「帝国とルゼリアの間に残っている古い通商条約を改めるためだよ。あれが結ばれたのは、こちらが外交の作法も国際法も十分に知らなかった時代でね。外国人が帝国内で罪を犯しても、こちらの裁きだけでは処分できない場合があるし、輸入品にどの程度の税を課すかについても、帝国側だけでは自由に決められない部分が残っている」
詳しい外交事情までは知らない沙羅にも、それが対等な国同士の約束と言い難いことくらいは分かった。
『陛下は、それを改めたいとお考えなのですね』
「そうだね。帝国も、当時とは違う」
『旦那様も交渉に加わられるのですか』
「最終的に条文を詰めるのは外務を担当する官僚たちだけれど、先方の使節を誰が迎え、どの席に案内し、いつ陛下に拝謁させ、どの段階で正式な交渉に入るかという部分は僕の仕事になる。儀礼や接遇というのは飾りではなく、それ自体が相手への意思表示になるから、雑に扱うわけにはいかないんだ」
周の口から聞けば、一つの席順や日程さえ、国家同士の駆け引きになるらしい。
沙羅の知る宮宰とは、帝の傍らで宮中の諸事を取り仕切る華やかな職という印象しかなかったが、実際に周と暮らすようになってからは、その仕事が見た目ほど優雅なものではないことを知り始めていた。
夜遅く帰宅した後も書類を読み、朝廷に上がるより先に使者と話し、時には夕餉の途中で呼び戻されることさえある。それでも本人が疲れを口にすることはほとんどなく、庭へ出ればいつも通り土を触り、沙羅が本を読んでいれば隣に座って、仕事とはまるで関係のない花の話を始める。
だからこそ、次に周が口にしたことが、沙羅には思いがけず重く響いた。
「実を言えば、この条約の改定は十年前にも一度、かなり具体的なところまで進みかけていたんだ」
筆先が紙の上で止まる。
「ところが交渉の途中で、ルゼリア側の使節が帝都で襲撃された。命は助かったものの、相手国としては自国の代表を守れない国で話し合いを続けるわけにはいかず、そのまま使節団は帰国してしまった。それ以来、両国の間では正式な改定交渉が凍結されたままになっていたんだよ」
十年前という年数だけが、ほかの話から離れて沙羅の中へ残った。
父と母が亡くなったのも、ちょうど十年前だった。同じ年に起きたというだけなら、それ以上の意味はないはずである。帝都では一年の間にも大小さまざまな事件が起きているのだから、外国使節の襲撃と一組の夫婦が巻き込まれた馬車の事故を結びつける理由など、今のところ何ひとつない。
それでも沙羅は、紙の端を押さえていた指に、知らぬ間に力を込めていた。
「沙羅?」
沙羅は顔を上げ、何でもないという意味を込めて首を振った。
周はそこで理由を尋ねなかった。
「今日は帰りが遅くなると思うから、夕餉は待たなくていいよ」
『分かりました』
「それから、昨日話していた鉢だけれど、昼を過ぎたら軒下に移してもらえるかな。二日続けて雨を吸っているから、これ以上は根が心配だ」
十年前の外交事件から、何の前触れもなく庭の鉢へ話が移ったので、沙羅は思わず周を見る。
『庭師にお願いしてください』
「昨日頼んだら、旦那様がお育てになっている花でしょう、と言われたんだ」
『でしたら、ご自分でなさってください』
「僕はこれから国の一大事へ向かわなければならないのに?」
『お帰りになってからお願いいたします』
「沙羅は時々、驚くほど冷たいことを書くね」
そう言いながらも周の顔には楽しそうな色があり、沙羅はそれ以上取り合わず、昨夜から用意していた小さな包みへ手を伸ばした。
会議の日には昼餉を忘れることがあると使用人から聞いていたため、台所に頼んで菓子を包んでもらったものである。
『お昼に召し上がってください』
差し出すと、周は包みと沙羅を交互に見たあと、少し意外そうに眉を上げた。
「僕に?」
沙羅が頷くと、周はすぐに受け取り、書類箱とは反対の手で持ち替えた。
「これは困ったな」
『いらないのでしたら戻してください』
「そういう意味ではないよ。これで今日は何があっても昼を忘れられなくなった」
たかが菓子一つに大げさだと思ったものの、沙羅は取り返さなかった。
やがて外套を羽織った周が玄関へ向かい、その途中で一度振り返る。
「行ってくる」
婚礼からまだひと月も経っていないのに、その言葉を聞くことには少しずつ慣れてきていた。
沙羅は紙へ書く代わりに片手を上げ、周も同じように手を上げてから屋敷を出ていった。
夜明け前まで屋根を叩いていた雨は、沙羅が起きる頃には糸のように細くなっていたものの、庭の石畳にはまだ水の膜が残り、梔子の葉も重たげに濡れている。枝先についた蕾は日に日に膨らみ、早いものでは萼の間から白い色を覗かせ始めていたから、この雨が上がって陽が戻れば、そう遠くないうちに庭一面に甘い香りが満ちるのだろう。
そんな庭を縁側から眺めた後、朝餉の席へ向かった沙羅は、すでに支度を整えていた周の姿を見て、今日はいつもの登朝とは少し事情が違うらしいと察した。
濃紺の宮中服は襟元から袖口まで隙なく整えられ、長い髪も後ろで端正にまとめられている。婚礼を終えてから、宮宰として朝廷へ出仕する夫を何度も見送ってきたが、今日は胸元に見慣れない銀の章をつけ、その傍らには朝廷の紋章が入った革張りの書類箱まで置かれていた。
『随分お早いのですね』
卓上の紙へそう記して差し出すと、周は茶器を置きながら沙羅の文字へ目を通した。
「今日は城門が開く頃には宮中へ入っていたいんだ。午前のうちに、ルゼリア王国の使節団が帝都へ到着する予定になっている」
聞き覚えのある国名に、沙羅は筆を置かず、そのまま次の問いを記した。
『正式な使節団が来るのですか』
「ああ。十年ぶりになるね」
西方に位置するルゼリア王国は、帝国が今ほどの国力を持たなかった頃から交易を続けてきた国であり、港を通じて入ってくる織物や硝子器、薬品の類には、幼い頃から沙羅も馴染みがあった。帝都にもルゼリアの商人や技術者が暮らしているため、国そのものを遠い異国と感じたことはなかったが、正式な使節団が朝廷を訪れるという話は沙羅の記憶にはない。
『何のためにいらっしゃるのですか』
その問いを読んだ周は、いつもの朝より少しだけ姿勢を正し、何をどこまで説明するべきか頭の中で整えているようだった。
「帝国とルゼリアの間に残っている古い通商条約を改めるためだよ。あれが結ばれたのは、こちらが外交の作法も国際法も十分に知らなかった時代でね。外国人が帝国内で罪を犯しても、こちらの裁きだけでは処分できない場合があるし、輸入品にどの程度の税を課すかについても、帝国側だけでは自由に決められない部分が残っている」
詳しい外交事情までは知らない沙羅にも、それが対等な国同士の約束と言い難いことくらいは分かった。
『陛下は、それを改めたいとお考えなのですね』
「そうだね。帝国も、当時とは違う」
『旦那様も交渉に加わられるのですか』
「最終的に条文を詰めるのは外務を担当する官僚たちだけれど、先方の使節を誰が迎え、どの席に案内し、いつ陛下に拝謁させ、どの段階で正式な交渉に入るかという部分は僕の仕事になる。儀礼や接遇というのは飾りではなく、それ自体が相手への意思表示になるから、雑に扱うわけにはいかないんだ」
周の口から聞けば、一つの席順や日程さえ、国家同士の駆け引きになるらしい。
沙羅の知る宮宰とは、帝の傍らで宮中の諸事を取り仕切る華やかな職という印象しかなかったが、実際に周と暮らすようになってからは、その仕事が見た目ほど優雅なものではないことを知り始めていた。
夜遅く帰宅した後も書類を読み、朝廷に上がるより先に使者と話し、時には夕餉の途中で呼び戻されることさえある。それでも本人が疲れを口にすることはほとんどなく、庭へ出ればいつも通り土を触り、沙羅が本を読んでいれば隣に座って、仕事とはまるで関係のない花の話を始める。
だからこそ、次に周が口にしたことが、沙羅には思いがけず重く響いた。
「実を言えば、この条約の改定は十年前にも一度、かなり具体的なところまで進みかけていたんだ」
筆先が紙の上で止まる。
「ところが交渉の途中で、ルゼリア側の使節が帝都で襲撃された。命は助かったものの、相手国としては自国の代表を守れない国で話し合いを続けるわけにはいかず、そのまま使節団は帰国してしまった。それ以来、両国の間では正式な改定交渉が凍結されたままになっていたんだよ」
十年前という年数だけが、ほかの話から離れて沙羅の中へ残った。
父と母が亡くなったのも、ちょうど十年前だった。同じ年に起きたというだけなら、それ以上の意味はないはずである。帝都では一年の間にも大小さまざまな事件が起きているのだから、外国使節の襲撃と一組の夫婦が巻き込まれた馬車の事故を結びつける理由など、今のところ何ひとつない。
それでも沙羅は、紙の端を押さえていた指に、知らぬ間に力を込めていた。
「沙羅?」
沙羅は顔を上げ、何でもないという意味を込めて首を振った。
周はそこで理由を尋ねなかった。
「今日は帰りが遅くなると思うから、夕餉は待たなくていいよ」
『分かりました』
「それから、昨日話していた鉢だけれど、昼を過ぎたら軒下に移してもらえるかな。二日続けて雨を吸っているから、これ以上は根が心配だ」
十年前の外交事件から、何の前触れもなく庭の鉢へ話が移ったので、沙羅は思わず周を見る。
『庭師にお願いしてください』
「昨日頼んだら、旦那様がお育てになっている花でしょう、と言われたんだ」
『でしたら、ご自分でなさってください』
「僕はこれから国の一大事へ向かわなければならないのに?」
『お帰りになってからお願いいたします』
「沙羅は時々、驚くほど冷たいことを書くね」
そう言いながらも周の顔には楽しそうな色があり、沙羅はそれ以上取り合わず、昨夜から用意していた小さな包みへ手を伸ばした。
会議の日には昼餉を忘れることがあると使用人から聞いていたため、台所に頼んで菓子を包んでもらったものである。
『お昼に召し上がってください』
差し出すと、周は包みと沙羅を交互に見たあと、少し意外そうに眉を上げた。
「僕に?」
沙羅が頷くと、周はすぐに受け取り、書類箱とは反対の手で持ち替えた。
「これは困ったな」
『いらないのでしたら戻してください』
「そういう意味ではないよ。これで今日は何があっても昼を忘れられなくなった」
たかが菓子一つに大げさだと思ったものの、沙羅は取り返さなかった。
やがて外套を羽織った周が玄関へ向かい、その途中で一度振り返る。
「行ってくる」
婚礼からまだひと月も経っていないのに、その言葉を聞くことには少しずつ慣れてきていた。
沙羅は紙へ書く代わりに片手を上げ、周も同じように手を上げてから屋敷を出ていった。



