数日後、沙羅は周が朝廷から戻るのを待っていた。
待っていると自覚したのは、いつもより遅い時刻になってからである。
夕餉を先に済ませても構わないと使用人から言われたものの、沙羅は本を読んでいるからと断り、居間の卓に紙と筆を置いたまま頁をめくり続けていた。
ところが同じところを何度読んでも頭に入らない。
やっと玄関の方から人の気配がし、しばらくして周が襖を開けた。
「ただいま、沙羅」
婚礼以来、周は屋敷に戻るたび必ずそう言う。
沙羅には声で「お帰りなさい」と返せないので、初めの頃は頷くだけだったが、今では居間にいれば紙へ書き、玄関で出会えば笑って迎えるようになっていた。
『お帰りなさいませ』
用意していた紙を見せると、周が目を細める。
「待っていてくれた?」
沙羅は筆を持ったまま止まった。
『本を読んでおりました』
「そういうことにしておこう」
周は追及せず、上着を脱いで椅子へ掛けた。
今日は朝から宮中で会議が続いていたと聞いており、いつもの軽やかな様子にも疲れが滲んでいる。沙羅は使用人を呼んで茶を頼み、周が卓を挟んだ向こうへ腰を下ろすのを待ってから、新しい紙を引き寄せた。
『先日の藤のことなのですが』
「うん」
『父のことを、もう少し思い出しました』
あの日の夜、沙羅は夢を見たのだ。藤棚の下で父の肩に乗り、手を伸ばして花を掴もうとしている夢を。
目を覚ました時、怖くはなかった。だから、父のことを周に伝えてみたいと思っていた。
『父はよく笑う人でした』
周は黙って読んでいる。
『仕事は忙しかったのですが、約束したことを忘れると、私より母に怒られていました』
「それは怖そうだ」
沙羅は母を思い出し、頷く。
『母は怒ると怖かったです』
「君も?」
沙羅は少し考えてから書く。
『私は三日ほど父を無視しました』
「それはお父上の方がつらいね」
『四日目に菓子を買ってきました』
「なるほど。よく分かっておられる」
沙羅の口元が自然に緩む。その顔を見た周も笑った。
父と母の話をして笑ったのは、いつ以来だろう。
十年前の事故を口にする時、人は必ず声を落とした。
気の毒だった。かわいそうだった。幼い娘を残して。
そんな言葉ばかりが二人の死の周りに積み重なり、いつしか沙羅自身まで、父と母を思い出す時には悲しまなければならないような気がしていた。
けれど、生きていた二人との時間まで悲しいものだったわけではない。
『父は私を肩に乗せるのが好きでした』
「沙羅が頼んだのではなく?」
『父からです』
「意外だね」
『私が重くなっても、まだ乗せようとして、母に止められていました』
書いているうちに、記憶が次々と蘇る。
父の肩に乗るのは、沙羅が五つか六つの頃までだったと思う。七つになる頃にはさすがに母が止めた。それでも父は、まだ大丈夫だと言って笑っていた。
最後に藤へ触れたのはいつだったのだろう。
沙羅は庭の方を見た。夜なので藤棚の姿までは見えない。
「触ってみたい?」
周に尋ねられ、沙羅は振り返った。
迷った末に、頷く。そうした自分の変化を、沙羅自身がいちばん意外に思っていた。
これまでなら、考えただけで避けていたはずだ。
「なら、いつか君が触りたくなった時に触ればいい」
周はそれ以上勧めない。
『一緒にいてくださいますか』
筆を動かしたあと、沙羅は自分で書いた文字を見つめた。
消すことはできない。周もすでに読んでいる。
「もちろん」
沙羅が顔を上げると、周は迷いなく続けた。
「いつでも呼んでくれ。朝でも夜でも構わない。ただし、夜は灯りをつけてもいいかな?」
『庭なら構いません』
「よかった。君の顔が見える」
沙羅は筆を取り直す。
『それは必要なのですか』
「必要だとも」
また始まった。そう思いながらも、今度は腹が立たなかった。
周が何かを言い続けている間、沙羅は庭の暗がりへ目を向けた。
昔から変わらずそこにある藤が、夜の向こうに立っている。
花に触れれば、何を見るか分からない。父の笑顔かもしれず、それとはまるで違う誰かの悲しみかもしれない。何も見えない可能性もあるのだから、触れてみるまで答えは分からなかった。
それでも、いつか触れてみたいと思えた。
恐怖そのものが消えたわけではない。それまでの記憶が薄れたわけでもない。
ただ、怖いままでも、手を伸ばしてみたいと思うことはできるらしい。
そのことを書こうか迷い、沙羅は筆を置いた。
今夜はまだ、自分だけが知っていればよかった。
庭の藤は、初夏の夜の中で葉を揺らしている。その枝に残るものが父の記憶であっても、そうでなくても、花が咲く季節はまた巡ってくるのだと、沙羅は以前より少しだけ信じられるようになっていた。
待っていると自覚したのは、いつもより遅い時刻になってからである。
夕餉を先に済ませても構わないと使用人から言われたものの、沙羅は本を読んでいるからと断り、居間の卓に紙と筆を置いたまま頁をめくり続けていた。
ところが同じところを何度読んでも頭に入らない。
やっと玄関の方から人の気配がし、しばらくして周が襖を開けた。
「ただいま、沙羅」
婚礼以来、周は屋敷に戻るたび必ずそう言う。
沙羅には声で「お帰りなさい」と返せないので、初めの頃は頷くだけだったが、今では居間にいれば紙へ書き、玄関で出会えば笑って迎えるようになっていた。
『お帰りなさいませ』
用意していた紙を見せると、周が目を細める。
「待っていてくれた?」
沙羅は筆を持ったまま止まった。
『本を読んでおりました』
「そういうことにしておこう」
周は追及せず、上着を脱いで椅子へ掛けた。
今日は朝から宮中で会議が続いていたと聞いており、いつもの軽やかな様子にも疲れが滲んでいる。沙羅は使用人を呼んで茶を頼み、周が卓を挟んだ向こうへ腰を下ろすのを待ってから、新しい紙を引き寄せた。
『先日の藤のことなのですが』
「うん」
『父のことを、もう少し思い出しました』
あの日の夜、沙羅は夢を見たのだ。藤棚の下で父の肩に乗り、手を伸ばして花を掴もうとしている夢を。
目を覚ました時、怖くはなかった。だから、父のことを周に伝えてみたいと思っていた。
『父はよく笑う人でした』
周は黙って読んでいる。
『仕事は忙しかったのですが、約束したことを忘れると、私より母に怒られていました』
「それは怖そうだ」
沙羅は母を思い出し、頷く。
『母は怒ると怖かったです』
「君も?」
沙羅は少し考えてから書く。
『私は三日ほど父を無視しました』
「それはお父上の方がつらいね」
『四日目に菓子を買ってきました』
「なるほど。よく分かっておられる」
沙羅の口元が自然に緩む。その顔を見た周も笑った。
父と母の話をして笑ったのは、いつ以来だろう。
十年前の事故を口にする時、人は必ず声を落とした。
気の毒だった。かわいそうだった。幼い娘を残して。
そんな言葉ばかりが二人の死の周りに積み重なり、いつしか沙羅自身まで、父と母を思い出す時には悲しまなければならないような気がしていた。
けれど、生きていた二人との時間まで悲しいものだったわけではない。
『父は私を肩に乗せるのが好きでした』
「沙羅が頼んだのではなく?」
『父からです』
「意外だね」
『私が重くなっても、まだ乗せようとして、母に止められていました』
書いているうちに、記憶が次々と蘇る。
父の肩に乗るのは、沙羅が五つか六つの頃までだったと思う。七つになる頃にはさすがに母が止めた。それでも父は、まだ大丈夫だと言って笑っていた。
最後に藤へ触れたのはいつだったのだろう。
沙羅は庭の方を見た。夜なので藤棚の姿までは見えない。
「触ってみたい?」
周に尋ねられ、沙羅は振り返った。
迷った末に、頷く。そうした自分の変化を、沙羅自身がいちばん意外に思っていた。
これまでなら、考えただけで避けていたはずだ。
「なら、いつか君が触りたくなった時に触ればいい」
周はそれ以上勧めない。
『一緒にいてくださいますか』
筆を動かしたあと、沙羅は自分で書いた文字を見つめた。
消すことはできない。周もすでに読んでいる。
「もちろん」
沙羅が顔を上げると、周は迷いなく続けた。
「いつでも呼んでくれ。朝でも夜でも構わない。ただし、夜は灯りをつけてもいいかな?」
『庭なら構いません』
「よかった。君の顔が見える」
沙羅は筆を取り直す。
『それは必要なのですか』
「必要だとも」
また始まった。そう思いながらも、今度は腹が立たなかった。
周が何かを言い続けている間、沙羅は庭の暗がりへ目を向けた。
昔から変わらずそこにある藤が、夜の向こうに立っている。
花に触れれば、何を見るか分からない。父の笑顔かもしれず、それとはまるで違う誰かの悲しみかもしれない。何も見えない可能性もあるのだから、触れてみるまで答えは分からなかった。
それでも、いつか触れてみたいと思えた。
恐怖そのものが消えたわけではない。それまでの記憶が薄れたわけでもない。
ただ、怖いままでも、手を伸ばしてみたいと思うことはできるらしい。
そのことを書こうか迷い、沙羅は筆を置いた。
今夜はまだ、自分だけが知っていればよかった。
庭の藤は、初夏の夜の中で葉を揺らしている。その枝に残るものが父の記憶であっても、そうでなくても、花が咲く季節はまた巡ってくるのだと、沙羅は以前より少しだけ信じられるようになっていた。



