『その花が覚えているものを、見ることがあります』
周が文字を追う。驚いた様子はあるものの、冗談だと思って笑うことも、すぐに質問を重ねることもなかった。
沙羅は続ける。
『花は、近くで起きた出来事をすべて覚えるわけではありません。強い感情が残った時だけ、触れた者に伝わってくることがあります』
「強い感情?」
沙羅は頷き、いくつか書き並べる。
『恐怖。悲しみ。怒り。喜び。誰かを強く想う気持ち』
過去に触れた花から受け取ったものを思い返し、指先が冷える。
『見えるものも完全ではありません。声の一部だけのこともあれば、景色だけのこともあります。匂いや痛みだけが残っていることもあります』
「君自身の記憶ではなく、その花の近くにいた誰かのものを?」
『はい』
「触った時だけ?」
『素手で触れた時だけです』
周はそこで自分の胸元へ目を落とした。
朝、沙羅が選んだ白い花が残っている。
「だから君には……渡せなかったんだね」
『いつ何が見えるか分かりません。何も見えない花の方が多いのですが』
「古い花でも?」
沙羅は少し考える。
『切られてから長く経った花は、ほとんど残りません。枯れてしまえば、私には何も感じられないことが多いです』
それから藤を見た。
『けれど、長く生きている木には、古いものが残ることがあります』
「木そのものに?」
『たぶん』
その仕組みを、沙羅自身も完全に理解しているわけではない。
志紋家に力が現れる者は毎代いるわけではなく、沙羅の前に同じ力を持った者も、彼女が生まれるよりずっと昔の人間だった。書物には残されているものの、細かな性質まですべて分かっているわけではない。
『とても強いものだけです。枝や花が変わっても、根に残っているのではないかと、父は言っていました』
周は藤の太い幹へ目を向けた。
「では、この藤にも何か残っているかもしれない?」
沙羅が頷くと、父の笑った記憶が残っているのなら、見たいと思う。
けれど、違うものだったら。
この木は沙羅が生まれるより長くここにあり、志紋家の人間だけでなく、数えきれない者の感情を見てきたはずだ。触れれば何が流れ込んでくるのか分からない。
沙羅は膝の上に手を置いた。
「触らなくていいよ」
周の声がした。
沙羅が顔を上げると、周は少しだけ眉を下げた。
「今、触った方がいいのかと思っていた顔をしたから」
図星を指され、沙羅は目を伏せた。
周は藤に近づくこともなく、沙羅の隣に座った。
「僕が知りたいと言ったからといって、見せてもらう必要はない。そもそも、君の力がどういうものなのかを聞きたかったわけでもないんだ。僕が花を持ち込むことで、君に嫌な思いをさせないために聞いただけだからね」
沙羅は紙を取る。
『驚かないのですか』
「驚いているよ」
周は少し考えてから、真面目な顔で続けた。
「花が人の記憶を残しているなんて、僕にとってはかなり魅力的な話だから」
沙羅が彼を見ると、周は藤に視線を戻して続けた。
「この花は何を見てきたのだろうと思うことは、昔からあった。でも、本当に見ているとは思わないじゃないか」
周の目が藤へ向く。
この男に話すべきではなかったかもしれないと、沙羅は初めて思った。
『興味本位で触れさせないでください』
「しないよ」
今度ばかりは即座に否定された。
沙羅が彼を見ると、周は藤ではなく沙羅へ顔を向けている。
「僕が知りたいから君に触らせるなんてことはしない。花の記憶がどれほど面白そうでも、見るのは僕ではなく君だろう」
その一言で、沙羅は筆を持ったまま動けなくなった。
これまで力について知った人間の中には、好奇心から花を触らせたがる者もいた。
亡くした家族が最後に何を考えていたか知りたい。恋しい相手が誰を想っているのか確かめたい。誰かが嘘をついていないか知りたい。
花に触れれば何か分かるかもしれないと知った途端、沙羅が何を受け取るのかより、自分が何を知れるのかに心を奪われる人間は珍しくなかった。
叔父が沙羅の力を外へ漏らさなくなったのも、そのためだった。
周は花を愛している。その周が、この力へ興味を持たないはずがない。
それでも最初に考えたのは、自分が見たいものではなく、沙羅が見るものだった。
「それに」
周は胸元の白い花へ指を添える。
「僕は花そのものを眺めているだけでも十分楽しいからね。何かを記憶していなければ価値がないわけではない」
朝からつけていた花は、少し萎れ始めている。
周は傷めないよう花弁から指を離した。
「明日も明後日も、この花を見た時には、僕は君が選んでくれた花だと思うだろう。僕にはそれで十分だ」
沙羅は彼の横顔を見つめた。
花に残された記憶を読むことはできない。その代わりに周は、花を見て自分の記憶を思い出すのだろう。
それは沙羅には考えたことのない花との付き合い方だった。
──見るだけなら、好きなのです。
顔合わせの日に自分が書いた言葉を思い出す。
周はその時、「それなら、眺めてもらおう」と言った。
触れないままでも、好きでいていい。それを、この人だけは最初から知っていたのかもしれない。
周が文字を追う。驚いた様子はあるものの、冗談だと思って笑うことも、すぐに質問を重ねることもなかった。
沙羅は続ける。
『花は、近くで起きた出来事をすべて覚えるわけではありません。強い感情が残った時だけ、触れた者に伝わってくることがあります』
「強い感情?」
沙羅は頷き、いくつか書き並べる。
『恐怖。悲しみ。怒り。喜び。誰かを強く想う気持ち』
過去に触れた花から受け取ったものを思い返し、指先が冷える。
『見えるものも完全ではありません。声の一部だけのこともあれば、景色だけのこともあります。匂いや痛みだけが残っていることもあります』
「君自身の記憶ではなく、その花の近くにいた誰かのものを?」
『はい』
「触った時だけ?」
『素手で触れた時だけです』
周はそこで自分の胸元へ目を落とした。
朝、沙羅が選んだ白い花が残っている。
「だから君には……渡せなかったんだね」
『いつ何が見えるか分かりません。何も見えない花の方が多いのですが』
「古い花でも?」
沙羅は少し考える。
『切られてから長く経った花は、ほとんど残りません。枯れてしまえば、私には何も感じられないことが多いです』
それから藤を見た。
『けれど、長く生きている木には、古いものが残ることがあります』
「木そのものに?」
『たぶん』
その仕組みを、沙羅自身も完全に理解しているわけではない。
志紋家に力が現れる者は毎代いるわけではなく、沙羅の前に同じ力を持った者も、彼女が生まれるよりずっと昔の人間だった。書物には残されているものの、細かな性質まですべて分かっているわけではない。
『とても強いものだけです。枝や花が変わっても、根に残っているのではないかと、父は言っていました』
周は藤の太い幹へ目を向けた。
「では、この藤にも何か残っているかもしれない?」
沙羅が頷くと、父の笑った記憶が残っているのなら、見たいと思う。
けれど、違うものだったら。
この木は沙羅が生まれるより長くここにあり、志紋家の人間だけでなく、数えきれない者の感情を見てきたはずだ。触れれば何が流れ込んでくるのか分からない。
沙羅は膝の上に手を置いた。
「触らなくていいよ」
周の声がした。
沙羅が顔を上げると、周は少しだけ眉を下げた。
「今、触った方がいいのかと思っていた顔をしたから」
図星を指され、沙羅は目を伏せた。
周は藤に近づくこともなく、沙羅の隣に座った。
「僕が知りたいと言ったからといって、見せてもらう必要はない。そもそも、君の力がどういうものなのかを聞きたかったわけでもないんだ。僕が花を持ち込むことで、君に嫌な思いをさせないために聞いただけだからね」
沙羅は紙を取る。
『驚かないのですか』
「驚いているよ」
周は少し考えてから、真面目な顔で続けた。
「花が人の記憶を残しているなんて、僕にとってはかなり魅力的な話だから」
沙羅が彼を見ると、周は藤に視線を戻して続けた。
「この花は何を見てきたのだろうと思うことは、昔からあった。でも、本当に見ているとは思わないじゃないか」
周の目が藤へ向く。
この男に話すべきではなかったかもしれないと、沙羅は初めて思った。
『興味本位で触れさせないでください』
「しないよ」
今度ばかりは即座に否定された。
沙羅が彼を見ると、周は藤ではなく沙羅へ顔を向けている。
「僕が知りたいから君に触らせるなんてことはしない。花の記憶がどれほど面白そうでも、見るのは僕ではなく君だろう」
その一言で、沙羅は筆を持ったまま動けなくなった。
これまで力について知った人間の中には、好奇心から花を触らせたがる者もいた。
亡くした家族が最後に何を考えていたか知りたい。恋しい相手が誰を想っているのか確かめたい。誰かが嘘をついていないか知りたい。
花に触れれば何か分かるかもしれないと知った途端、沙羅が何を受け取るのかより、自分が何を知れるのかに心を奪われる人間は珍しくなかった。
叔父が沙羅の力を外へ漏らさなくなったのも、そのためだった。
周は花を愛している。その周が、この力へ興味を持たないはずがない。
それでも最初に考えたのは、自分が見たいものではなく、沙羅が見るものだった。
「それに」
周は胸元の白い花へ指を添える。
「僕は花そのものを眺めているだけでも十分楽しいからね。何かを記憶していなければ価値がないわけではない」
朝からつけていた花は、少し萎れ始めている。
周は傷めないよう花弁から指を離した。
「明日も明後日も、この花を見た時には、僕は君が選んでくれた花だと思うだろう。僕にはそれで十分だ」
沙羅は彼の横顔を見つめた。
花に残された記憶を読むことはできない。その代わりに周は、花を見て自分の記憶を思い出すのだろう。
それは沙羅には考えたことのない花との付き合い方だった。
──見るだけなら、好きなのです。
顔合わせの日に自分が書いた言葉を思い出す。
周はその時、「それなら、眺めてもらおう」と言った。
触れないままでも、好きでいていい。それを、この人だけは最初から知っていたのかもしれない。



