その日の夕方、周は思っていたより早く戻ってきた。
夕餉にはまだ時間があり、沙羅は庭の奥にある古い藤棚の下に座っていた。花の盛りはすでに過ぎ、残っているのは青々とした葉ばかりだったが、ここは日差しが柔らかく、暑くなり始めた頃には本を読む場所としてよく使っている。
「ここにいたのか」
背後から声をかけられ、沙羅は振り返った。
周は朝廷へ出た時の衣服のままで、胸元には沙羅が選んだ白い花がまだ残っていた。朝より少し形は崩れているものの、捨てずにつけたまま帰ってきたらしい。
沙羅が花へ目を向けたことに気づき、周も胸元を見る。
「評判がよかったよ」
『何がですか』
「これ。陛下にも、今日は随分と可愛らしい花をつけているなと言われた」
沙羅は筆を動かす。
『私が選んだとはお話しになったのですか』
「もちろん」
当然のように言われ、沙羅は顔を上げた。
「妻が選んでくれた花だと言ったら、陛下が妙な顔をなさっていた」
『妙な顔?』
「僕にもよく分からない。笑うのを我慢していたような気もする」
何を言われたのか、何となく想像できる気がした。
沙羅は紙を畳み、藤棚の下へ視線を戻す。
古い幹が太く絡み合っている。藤の木は父が好きだった。
幼い頃、春になると父は仕事の合間にここへ来て、沙羅を肩へ乗せたまま花を見せてくれた。その頃の沙羅には、父の肩が世界で一番高い場所のように思え、垂れ下がる藤へ手を伸ばしては、届かないと文句を言ったことを覚えている。
「この藤も古いね」
周が隣に立った。
沙羅が頷くと、周は藤の幹に目を向けた。
「幹を見る限り、相当な年月が経っている。植えられた時期は分かる?」
『父が生まれるより前からあったそうです』
「なら、君が子どもの頃から変わらない景色なんだね」
沙羅は筆を動かす手を止めた。何気なく言われただけなのに、藤棚の向こうへ幼い頃の景色が重なる。
最初に浮かんだのは、父の肩だった。その傍らには、見上げて笑っていた母がいる。
まだ、花へ触れることを怖いと思わなかった頃。
『父が好きな木でした』
周はその文字へ目を落とした。
「そうか」
『ここでよく遊びました』
そこまで書いたあと、沙羅は続きを迷った。
先ほど白い花を見て母のことを書いたからだろうか。
今日は普段なら人に伝えないことが、妙に筆に乗る。
『父は私を肩へ乗せて、藤の花に触らせてくれました』
周の口元が緩んだ。
「いいお父上だったんだね」
父のことを誰かにそう言われたのは久しぶりだった。
十年前、両親が亡くなったあと、周囲の人々は二人を気の毒な人として語るようになった。志紋夫妻は幼い娘を残して事故で亡くなった、あの家は不幸に見舞われたのだと、誰もが同じような顔で話した。
けれど沙羅にとって父は、死んだ人である前に、よく笑う人だった。
厳しく叱られたこともある。母に隠れて菓子を食べさせてもらったこともある。仕事が忙しくて約束を忘れ、沙羅が三日も口を利かなかったこともあった。
最後の日だけが父のすべてではなかったはずなのに、十年という時間の中で、それ以前の思い出は少しずつ遠ざかり、代わりにあの日の声ばかりが鮮明に残っている。
「沙羅?」
呼ばれて顔を上げると、周がこちらを見ていた。
「疲れた?」
沙羅が首を振ったその時、風が藤の葉を揺らした。
すでに花の大半は散っているが、棚の奥に遅れて咲いた房がひとつだけ残っている。淡い紫の花が葉の間から覗き、風に押されるたび、ゆったりと揺れていた。
沙羅はそれを見つめる。
その花を見て、沙羅は懐かしさを覚えた。
けれど懐かしさとは別に、手だけは動かなかった。周も沙羅の視線を追い、残った藤へ目を向ける。
「綺麗だね」
沙羅が頷くと、それだけで終わると思ったが、周は少ししてから尋ねた。
「花が怖いというのは、触れるのが怖いということ?」
沙羅の指が止まった。
顔合わせの日から、周が花について理由を聞いたことは一度もない。
周は沙羅の顔をじっと見ている。
「答えたくなければ書かなくていい。ただ、僕が君の近くで花を扱うことがあるから、してはいけないことだけは知っておきたい」
理由を聞きたいのではなく、自分が何を避ければよいのかを知りたいらしい。
沙羅は手元の紙へ目を落とした。
これまで他人に説明する時には「花が怖い」とだけ告げて済ませてきた。詳しく話したところで信じてもらえるかどうか分からず、志紋家の力については口外しないよう幼い頃から教えられているが、周はもうこの家へ入った人間であり、いずれ知るべき時が来るのだと叔父も言っていた。
何より、夫となった相手が自分に触れさせないために花を遠ざけ続けるのなら、その理由を何も知らないままでいさせることの方が、沙羅には不誠実に思えた。
沙羅は筆を取り、『見るだけなら怖くありません』と書く。
『花に触れると、見えることがあるのです』
そう書き終えたところで筆が止まった。
周は続きを急かさない。
沙羅は墨を足し、もう一度筆先を紙へ落とした。
夕餉にはまだ時間があり、沙羅は庭の奥にある古い藤棚の下に座っていた。花の盛りはすでに過ぎ、残っているのは青々とした葉ばかりだったが、ここは日差しが柔らかく、暑くなり始めた頃には本を読む場所としてよく使っている。
「ここにいたのか」
背後から声をかけられ、沙羅は振り返った。
周は朝廷へ出た時の衣服のままで、胸元には沙羅が選んだ白い花がまだ残っていた。朝より少し形は崩れているものの、捨てずにつけたまま帰ってきたらしい。
沙羅が花へ目を向けたことに気づき、周も胸元を見る。
「評判がよかったよ」
『何がですか』
「これ。陛下にも、今日は随分と可愛らしい花をつけているなと言われた」
沙羅は筆を動かす。
『私が選んだとはお話しになったのですか』
「もちろん」
当然のように言われ、沙羅は顔を上げた。
「妻が選んでくれた花だと言ったら、陛下が妙な顔をなさっていた」
『妙な顔?』
「僕にもよく分からない。笑うのを我慢していたような気もする」
何を言われたのか、何となく想像できる気がした。
沙羅は紙を畳み、藤棚の下へ視線を戻す。
古い幹が太く絡み合っている。藤の木は父が好きだった。
幼い頃、春になると父は仕事の合間にここへ来て、沙羅を肩へ乗せたまま花を見せてくれた。その頃の沙羅には、父の肩が世界で一番高い場所のように思え、垂れ下がる藤へ手を伸ばしては、届かないと文句を言ったことを覚えている。
「この藤も古いね」
周が隣に立った。
沙羅が頷くと、周は藤の幹に目を向けた。
「幹を見る限り、相当な年月が経っている。植えられた時期は分かる?」
『父が生まれるより前からあったそうです』
「なら、君が子どもの頃から変わらない景色なんだね」
沙羅は筆を動かす手を止めた。何気なく言われただけなのに、藤棚の向こうへ幼い頃の景色が重なる。
最初に浮かんだのは、父の肩だった。その傍らには、見上げて笑っていた母がいる。
まだ、花へ触れることを怖いと思わなかった頃。
『父が好きな木でした』
周はその文字へ目を落とした。
「そうか」
『ここでよく遊びました』
そこまで書いたあと、沙羅は続きを迷った。
先ほど白い花を見て母のことを書いたからだろうか。
今日は普段なら人に伝えないことが、妙に筆に乗る。
『父は私を肩へ乗せて、藤の花に触らせてくれました』
周の口元が緩んだ。
「いいお父上だったんだね」
父のことを誰かにそう言われたのは久しぶりだった。
十年前、両親が亡くなったあと、周囲の人々は二人を気の毒な人として語るようになった。志紋夫妻は幼い娘を残して事故で亡くなった、あの家は不幸に見舞われたのだと、誰もが同じような顔で話した。
けれど沙羅にとって父は、死んだ人である前に、よく笑う人だった。
厳しく叱られたこともある。母に隠れて菓子を食べさせてもらったこともある。仕事が忙しくて約束を忘れ、沙羅が三日も口を利かなかったこともあった。
最後の日だけが父のすべてではなかったはずなのに、十年という時間の中で、それ以前の思い出は少しずつ遠ざかり、代わりにあの日の声ばかりが鮮明に残っている。
「沙羅?」
呼ばれて顔を上げると、周がこちらを見ていた。
「疲れた?」
沙羅が首を振ったその時、風が藤の葉を揺らした。
すでに花の大半は散っているが、棚の奥に遅れて咲いた房がひとつだけ残っている。淡い紫の花が葉の間から覗き、風に押されるたび、ゆったりと揺れていた。
沙羅はそれを見つめる。
その花を見て、沙羅は懐かしさを覚えた。
けれど懐かしさとは別に、手だけは動かなかった。周も沙羅の視線を追い、残った藤へ目を向ける。
「綺麗だね」
沙羅が頷くと、それだけで終わると思ったが、周は少ししてから尋ねた。
「花が怖いというのは、触れるのが怖いということ?」
沙羅の指が止まった。
顔合わせの日から、周が花について理由を聞いたことは一度もない。
周は沙羅の顔をじっと見ている。
「答えたくなければ書かなくていい。ただ、僕が君の近くで花を扱うことがあるから、してはいけないことだけは知っておきたい」
理由を聞きたいのではなく、自分が何を避ければよいのかを知りたいらしい。
沙羅は手元の紙へ目を落とした。
これまで他人に説明する時には「花が怖い」とだけ告げて済ませてきた。詳しく話したところで信じてもらえるかどうか分からず、志紋家の力については口外しないよう幼い頃から教えられているが、周はもうこの家へ入った人間であり、いずれ知るべき時が来るのだと叔父も言っていた。
何より、夫となった相手が自分に触れさせないために花を遠ざけ続けるのなら、その理由を何も知らないままでいさせることの方が、沙羅には不誠実に思えた。
沙羅は筆を取り、『見るだけなら怖くありません』と書く。
『花に触れると、見えることがあるのです』
そう書き終えたところで筆が止まった。
周は続きを急かさない。
沙羅は墨を足し、もう一度筆先を紙へ落とした。



