梔子の花嫁ー帝都婚姻録ー

 婚礼から十日ほどが過ぎる頃には、志紋邸に周がいることを不思議に思う瞬間も少なくなっていた。
 とはいえ、朝から晩まで顔を合わせているわけではない。
 宮宰という職は沙羅が想像していた以上に忙しいらしく、日が昇る前に朝廷から使者が訪れることもあれば、帰宅が夜半近くになる日もある。帝に近侍するだけではなく、宮中で行われる儀礼を取り仕切り、華族諸家の陳情を受け、外国使節が帝都に入れば接遇まで任されるというのだから、屋敷に戻ってからも書類を広げている姿を幾度となく見かけた。

 それでも周は、庭を見る時間だけはどうにか作っていた。
 朝餉の前に庭を一周し、帰宅が遅ければ灯りを片手に鉢を確かめ、休日ともなれば袖を捲って庭師に混じる。最初こそ遠慮していた使用人たちも、宮宰が土に膝をついている光景に慣れてきたらしく、近頃では誰も慌てて止めなくなった。

 ある休日の午後、沙羅が縁側で本を読んでいると、庭の向こうから周に呼ばれた。

「沙羅、少し来てくれないか」

 庭に下りること自体は嫌いではない。花に触れさえしなければ、何も起こらない。
 沙羅は本を閉じ、紙と筆を持って声のした方へ向かった。

 周がいたのは、庭の中でも陽当たりのよい一角だった。
 織部家から運ばせたという鉢が十ほど並べられ、そのどれにも色の違う花が咲いている。顔合わせの日に見たものと同じ種類もあれば、沙羅には名の分からないものもあり、周は鉢の間へしゃがんで、何やら真剣に見比べていた。

「ちょうどよかった。選んでほしいものがあるんだ」

 沙羅が近づくと、周は立ち上がって場所を空ける。

「この中で、君が一番美しいと思う花はどれ?」

 沙羅は並べられた鉢へ目を向けた。
 朱に近い赤、淡い紫、黄を帯びた白、青みのある小花と、それぞれ形も色も違っている。

『私が選ぶのですか』
「そう。僕が選ぶと、どうしても育てるのに苦労した株へ肩入れしてしまうから、公平な目が欲しい」
『何にお使いになるのですか』
「それは選んでからのお楽しみ」

 周は楽しそうだった。
 沙羅は花へ近づく。
 触れる必要はない。そう分かっているのに、距離を詰めると無意識に指が重なる。
 けれど周は、こちらへ来いとも、もっと近くで見ろとも言わなかった。
 少し離れたところで腕を組み、沙羅が決めるのを待っている。

 何度か見比べた末、沙羅は白い花の前で足を止めた。大輪ではなく、細かな花弁が幾重にも重なっている。純白というより、陽の光を受けた部分だけが淡く乳色に見え、周が好みそうな華やかさからは少し外れているように思えた。
 沙羅はその鉢を指した。

「これ?」

 沙羅が頷くのを確かめてから、周は口を開いた。

「理由を聞いても?」

 沙羅は紙を膝の上へ置いて書く。

『落ち着く色だからです』

 書き終えたあと、少し迷ってからもう一行を加える。

『母も、白い花が好きでした』

 周は紙を読んだ。それ以上のことを聞かれると思い、沙羅は無意識に指先へ力を入れたが、彼は母がどんな人だったのかとも、何の花が好きだったのかとも尋ねず、白い花へ顔を向けた。

「では、今日はこれにしよう」

 周は花鋏を手に取り、咲き方を見ながら一本だけ切った。
 沙羅は思わず彼の手元を見る。
 自分に渡されるのではないかと思った。ところが周は切った花を自分の胸元へ当て、角度を確かめながら留め始める。
 沙羅は目を瞬いた。

「どう?」

 花を飾った周が振り返る。
 濃い色の衣服に白い花がよく映えている。

『私にくださるのではないのですか』
「君は触りたくないのだろう?」

 沙羅が頷くと、周は花を自分の胸元に寄せながら柔らかに笑った。

「なら、僕が持てばいい。君が一番美しいと思った花を教えてもらいたかっただけだから」

 特別なことをしたつもりはないらしく、周は胸元の花を見下ろしている。

「うん。悪くない。今日はこれで出かけよう」
『出かけるのですか』
「陛下のところへ顔を出さなければならないんだ。休日くらい休ませてほしいものだけれど」

 そう言いながらも、嫌そうには見えなかった。
 沙羅は白い花をもう一度見る。
 母のことを書いたのは、声を失ってから初めてだったかもしれない。叔父と母について話すことはあっても、他人に自分から伝えようと思ったことはない。
 けれど今は、その一行を書いたことを後悔していなかった。

「沙羅」

 周が胸元を指す。

「これ、花の名は知っている?」

 沙羅が首を左右に振ると、周は得意げな顔で語りだした。

「僕も最初は分からなかったんだ。これは外国から入った品種でね――」

 そこから先は長かった。
 いつ頃帝国に入ってきたのか、寒さに弱いだの、土の水はけが悪ければ根が傷むだの、去年は虫がついて大変だっただのと、周は嬉々として話し続ける。
 沙羅はしばらく聞いていたものの、終わる気配がないため紙へ筆を走らせた。

『朝廷に行かれるのでは?』

 周が口を閉ざしたため、空を見る。

「……そろそろ出ないとまずいね」

 沙羅が頷くと、周はまだ名残惜しそうに花を見た。

「帰ってきたら続きを話そう」
『結構です』
「何で?」

 沙羅は返事の代わりに紙を閉じた。