梔子の花嫁ー帝都婚姻録ー

 織部周(おりべあまね)という男は、沙羅が思い描いていた宮宰(きゅうさい)とは、ずいぶん違っていた。

「これは驚いた。本当に美しい人だ」

 志紋(しもん)家を訪れた周は、叔父と挨拶を交わして座敷に腰を落ち着けるなり、沙羅を見てそんなことを言った。

 帝の側近くに仕え、帝室に連なる儀礼を預かるばかりか、外国使節の接遇や華族諸家との折衝にも携わる宮宰である。名門織部家の次男として生まれ、今年で二十七になるとも聞いていたから、十も年上の堅苦しく近寄りがたい男を想像していたのだが、少なくとも初めて顔を合わせた娘を前に、挨拶もそこそこに目を輝かせるような人物だとは思っていなかった。

 冗談なのかと疑ったものの、声音にも表情にも人をからかう気配はなく、素晴らしい花でも見つけたかのように嬉しそうな顔をしている。隣に座る叔父が困ったように咳払いをしたところを見ると、見合いの席に相応しい振る舞いではないらしい。

 沙羅は膝の傍らに用意していた筆を取り、硯に穂先を落とした。

『ありがとうございます』

「字も美しい」

 紙から離れかけていた筆先が思わず止まり、何と返せばよいのか分からないまま叔父へ目を向けると、助けを求められたことを察したらしく、再び咳払いが聞こえた。

「織部様。姪はこうした席に慣れておりませんので、どうかお手柔らかに」
「これは失礼を。ですが、美しいものを美しいと言っただけなのです」
「周」

 付き添っていた織部家の当主が、低い声で息子を窘める。

「分かっていますよ、父上。僕も志紋嬢を困らせたいわけではありません」

 どうやら父親から見ても、この男は少々扱いに困る人間らしい。
 そう理解すると、見合いが始まってから肩に入っていた力が抜けた。帝の信頼も厚い宮宰と聞かされ、何か粗相をすれば家の名に傷をつけるのではないかと身構えていたのだが、目の前にいる男は、沙羅が想像していた近寄りがたい人物とはずいぶん違う。

 何より、よく喋る。
 沙羅が一言を書く間に、周は三つほど言葉を口にした。帝都の春は今年も早く訪れそうだとか、志紋邸の庭は外から眺めただけでも手入れが行き届いているとか、先ほど門の傍らに見えた木はずいぶん古い梔子ではないかとか、話題は次々と移り変わっていく。

 ところが不思議なことに、沙羅が筆を取れば口を閉ざした。
 紙に文字が並ぶのを待ち、差し出されたものを最後まで読んでから、また話し始める。返事を急かされたことは一度もなく、ひどく喋る男ではあっても、人の話を聞かない男ではないらしい。

 そのことに気づいた頃には、座敷に漂っていた堅苦しさも幾分薄れていた。

「そうだ。肝心なものを忘れるところだった」

 周が傍らに手を伸ばしたところで、沙羅は初めて、そこに置かれていたものへ目を向けた。

 そこに置かれていたのは、花だった。
 白を中心に、淡い紫と薄紅を重ねた花束は、春の庭を切り取ってきたかのように瑞々しい。傷んだ花弁はひとつも見当たらず、咲ききったものと蕾とがほどよく交じり合っているところを見るに、花に詳しくない沙羅にも、丁寧に選ばれたものだということだけは分かった。

「僕の庭で育てたものです。今朝、状態のよいものを選んできました。貴女に似合うものを一つに決められなかったので、少々欲張ってしまったけれど」

 差し出された花束が近づくにつれ、甘い香りが濃くなる。
 花弁にはまだ触れていないというのに、受け取ろうと手を伸ばすことができなかった。膝の上に置いていた指は逃げ場を探すように着物の生地を掴み、花に触れてはならないという思いが先に立つと、甘い香りを吸い込むたびに喉まで強張っていく。

 目の前の花は何もしていない。白い花も薄紅の花も、周の手の中で美しく咲いているだけで、そこに何が残されているのかなど、触れなければ知るはずもない。それでも花弁へ指先を触れさせるところを想像しただけで、身体に染みついた恐怖が沙羅の手を縫い止めていた。

「沙羅?」

 叔父に名を呼ばれ、沙羅は俯いたまま筆を取った。
 いつもなら迷うことのない穂先が紙の上を彷徨い、最初の一文字を書き出すまでに時間を要する。

『申し訳ございません。花が怖いのです』

 書き上げた紙を周へ向けた。
 自ら育てた花を、朝から選んで持ってきてくれたのだ。それを受け取りもしないのだから、気分を害されても仕方がない。少なくとも、理由くらいは尋ねられるだろうと覚悟していた。

「そうでしたか」

 返ってきた声は、それだけだった。
 顔を上げた沙羅の前で、周は差し出していた花束を引き、自分たちから離れた卓へ置く。

「このくらいなら大丈夫ですか?」

 花との距離を確かめてから頷けば、周も「よかった」と返し、束ねられた花の向きを整えた。

 なぜ怖いのかとも、いつから怖くなったのかとも尋ねない。美しいものを恐れる必要などないと言い聞かせることもなければ、せっかく持ってきたのだから受け取ってほしいと困らせることもなかった。

 事情を知らない者に花への恐怖を打ち明ければ、たいていは理由を求められる。そこに悪意がないことは知っていたし、心配して尋ねてくれている場合が多いことも分かっている。それでも説明しようとすれば、十年前の記憶に触れなければならない。その先へ筆を進められず、結局は曖昧に笑って終わらせることになる。

 周も同じように理由を求めるのだろうと思っていたのに、彼は何事もなかったかのように座り直して花束についてそれ以上口にしようとはせず、その沈黙に促されるように、沙羅は離れた卓へ置かれた花へ目を向けた。

 触れることは怖くても、春の陽を受けた花弁は美しかった。二つの感情は沙羅の中で争うこともなく、昔からそこにあったもののように並んでいる。それを説明したところで理解してもらえるとは思っていなかったのに、周が何も聞かないものだから、かえって伝えておきたい気持ちが生まれてきた。

 新しい紙を手元へ寄せる。

『嫌いではありません』
「花が?」

 沙羅は頷き、もう一行を書き添えた。

『眺めるだけなら、好きなのです』

 周は紙に目を落としたあと、卓上の花を眺める。

「なるほど。それなら、眺めてもらおう」

 沙羅は思わず顔を上げた。

「花を愛でるのに、必ず触れなければならないという決まりはありませんからね。庭に咲かせたまま眺めるのも、離れたところから香りを楽しむのも、その人なりの愛し方でしょう」

 返事を書くつもりで筆を持ったものの、沙羅は墨を含ませることなく元の場所へ戻した。何も書かずにいることさえ、周ならば言葉に窮したのだと勝手に決めつけないような気がした。

 卓上では、障子越しに差し込む春の陽を受け、白い花弁が淡く光っている。触れることさえ考えなければ、やはり花は美しい。幼い頃から知っていたはずのことを確かめるように、沙羅はしばらくその色を眺めていた。


 見合いの話が終わり、織部家の二人が辞去する頃になっても、花束は卓の上に残されていた。

 周が立ち上がり、父親とともに叔父に挨拶をする。沙羅も頭を下げ、これで今日という日は終わるのだと思っていたところへ、彼が卓に近づいていくのが見えた。

 花束を持ち帰るつもりなのだろう。怖いと言って受け取らなかったのは沙羅なのだから、当然のことである。それでも、周の手が花へ伸びるのを見ていると、先ほどまでそこにあった色がなくなることを、ひどく寂しく感じた。
 沙羅は考えるより先に筆を取っていた。

『そちらは、置いていってくださらないのですか』

 差し出された紙を読んだ周の眉が上がる。

「花を?」

 頷くと、彼は卓上の花へ目を移した。

「ですが、怖いのでしょう?」

 言われてみれば、ずいぶん勝手なことを頼んでいる。受け取ることはできないのに、持ち帰られるのは惜しいというのだから、呆れられても仕方がなかった。
 それでも、花のない卓を思い浮かべると寂しく感じられ、沙羅はもう一枚の紙へ筆を走らせた。

『眺めるのは好きだと申し上げました』

 周の目が文字を追い、紙の端まで辿り着いたところで止まる。
 次いで沙羅へ向けられた顔には、それまでとは少し違う笑みが浮かんでいた。人目を惹く華やかな顔立ちをした男だったが、今ばかりは取り繕うことを忘れたような、素直な喜びが表情に出ている。

「そうでしたね」

 周は花束から手を離し、元の場所へ戻した。

「では、貴女に預けていきます」

 沙羅が花へ目を向けたところで、周は何かを思いついたらしく、こちらへ向き直る。

「また持ってきても構いませんか?」

 すぐには答えられなかった。
 花が怖くなくなったわけではない。触れた先に何が待っているのか分からない以上、その恐怖を忘れることもできそうになかった。

 けれど、目の前の男は触れろとは言わなかったし、理由を話せとも言わなかった。
 沙羅は卓上に残された花へ視線を移す。
 朝から周が選んだという花々は、春の光の中で互いの色を引き立て合いながら咲いていた。

 顔を上げると、周はまだそこにいる。先ほどまであれほどよく喋っていたくせに、返事を求める今だけは口を閉ざし、急かすことなく沙羅を見ていた。

 だから沙羅は、一度だけ頷いた。周の顔に、隠しようもない笑みが広がる。
 ずいぶんと、よく喋る人だと思う。
 それなのに不思議なことに、沙羅が言葉を探している間だけは、黙って待っている人だった。