“Because I love you, my love.”
やがて言葉が途切れても、二人は離れなかった。
街灯の光が少しずつ床の上を移ろい、夜が静かに深まっていく。
梨歩は亞紗斗の胸に頬を寄せたまま、目を閉じる。
耳元に残った声も、背中を撫でる手の温度も、重なった鼓動も、すべてが消えずにそこにあった。
意味を知らない言葉さえ、もう怖くない。
あの声で呼ばれるたび、あの腕に抱かれるたび。
梨歩は少しずつ、亞紗斗の中へ深く沈んでいった。
そして亞紗斗もまた、梨歩を抱く腕を緩めることなく。
誰にも聞こえないほど静かな声で、最後にもう一度だけ囁いた。
“My love.”
まどろみかけた梨歩の唇が、かすかに動く。
「……行かないよ」
返事の代わりに、抱きしめる腕が強くなる。
少し迷ってから、梨歩はもう一度口を開いた。
“Because I love you too, my love.”
(あたしだって、愛してる。誰よりも、あなたのこと――って、そこまで言えたら格好いいんだけど)
残念ながら、今の梨歩の英語力ではここが限界だった。
それでも。
亞紗斗には、充分すぎるほど伝わった。
「梨歩……」
「伝わった?」
“You’ve still got a long way to go.”
「え?」
「冗談だ」
「今、からかったでしょ」
「気のせいだ」
「嘘だ」
亞紗斗は小さく笑って、梨歩の頬を撫でた。
“Your English doesn’t have to be perfect. I know exactly what you’re trying to tell me.”
「早すぎてわかんない」
梨歩がむっとすると、亞紗斗は耳元へ唇を寄せた。
今度は、ひどくゆっくりと。
“I understand.”
「何が?」
亞紗斗の口元が、わずかに上がった。
“What you’re trying to say. Even with your clumsy English.”
「今、下手くそって言った?」
「そこまでは言っていない」
「ほぼ言ってるようなもんじゃん!」
亞紗斗が声を殺して笑う。
けれど、その腕は梨歩を離さない。
たどたどしくても。
言葉が足りなくても。
彼女が何を伝えたかったのか。
亞紗斗には、充分すぎるほど伝わっていた。
そして、梨歩をもう一度胸元へ引き寄せる。
“I’m never letting you go.”
その意味を、梨歩はまだ完全には理解できなかった。
けれど――抱きしめる腕の強さだけで、充分だった。
薄暗い部屋の中で、二人の鼓動だけが、いつまでも寄り添うように重なっていた。
二週間後――。
梨歩と亞紗斗は、婚姻届を提出した。
もう、恋人でも。
婚約者でもない。
夫と、妻。
あの夜、梨歩が告げた言葉の通り。
彼女はどこへも行かなかった。
これから先の人生を――亞紗斗の隣で生きていくことを選んだ。



