夢の置き場所は、どこにあるのだろう。
夢は、いつから「叶えるもの」になったのだろう。
小さい頃は、もっと簡単だった。
ケーキ屋さんになりたい。
宇宙飛行士になりたい。
アイドルになりたい。
警察官になりたい。
学校の先生になりたい。
目をキラキラと光らながら語る子どもたちの目を見ると
大人たちは笑って「いいね」とか「〇〇ならきっとなれ
るよ」などと言ってくれる。
しかし、それが叶うのか、叶わないのか。
叶えられるものなのか叶えられないものなのか。
そんなことは、今まで誰一人して聞かれなかった。
けれど高校二年生になった今は違う。
夢を口にすると、決まって次の言葉がついてくる。
――どうしてなりたいの?
――どこの学校に行くの?
――その仕事で食べていけるの?
――本当に向いてると思う?
――難しくない?叶えられるの?
夢はいつの間にか、作文ではなく計画書になっていた。
ただ「なりたい」じゃ叶えられない。
どうしてそれになりたいのか、どうやったらそれになれるのか。それになるために何をしないといけないのか。
あるいは大学に行くのなら家族への負担、自分への負担など、考えればキリがない。
「…小さい時はそんなの考えなくてよかったのにな」
私は、机の引き出しから一枚の紙を取り出した。
紙の一番上には、赤いペンで大きく書いてある。
「声優になる」
その文字を見つめていると、胸の奥がチクッと小さな針で刺されたように少しだけ痛んだ。
昔は、この文字を見るだけで嬉しかったのに。
今は違う。
変わってしまったんだ。
見るたびに、「本当に?」と自分に聞き返したくなる。
私は紙を裏返した。
そこには、大学の名前が三つ並んでいる。
声優養成所。
専門学校。
そして、普通の四年制大学。
最後の選択肢だけ、まだ何も書き込まれていない。
その空白が、今の私には一番大きく見えた。
〜
私が声優になりたいと思ったのは、中学一年生の冬だった。
たまたま見た戦闘系アニメの最終回で、主人公が泣きながら言った台詞が忘れられなかったのがきっかけだ。
画面の中のキャラクターが泣いている。
そのキャラクターは現実には存在しない二次元の世界のものなのに、私はその声を聞いて、自分まで泣きそうになったのだ。
そのとき初めて、こう思った。
声だけで、人の心を動かせるんだ。
私はその日すぐに、声優という仕事を調べ始めた。
何かに取り憑かれたように、声優という仕事のありとあらゆることを調べ尽くした。
オーディション。
発声練習。
演技。
滑舌。
専門学校。
養成所。
思っていたよりずっと厳しい世界。
声優は話す仕事なのに演技力も必要なんだ。
滑舌ってどうやってよくするんだろう。
あの日出会った、声優という仕事。
何も知らない。何もわからない。
無知な私だけど。
それでも、やってみたいと思った。
両親に打ち明けるのはそんなに難しくなかった。
なんの躊躇いもなく、ただ真っ直ぐに「声優になりたい」と両親に話したとき、父は少し黙ってから言った。
「いいんじゃないか。やりたいなら」
母は笑って、
「じゃあ、まず何をすればいいの?私たちが美月に何かできることはあるの?」
と聞いてくれた。
二人とも応援してくれた。
だから私は、頑張れた。
毎日発声練習をしたり、帰宅してからアニメに出てくる台本を読んだり、できることをやる日々。
高校に入学してからは演劇部にも入った。
声優なりたいと思うまでは、演劇部に入ろうなんて一度も考えたことがなかった。
休日にはオーディション情報をひたすらに探した。
初めて受けたオーディションは、一次審査で落ちた。
二回目も落ちた。
三回目も。
不合格の文字を見るたびに、悔しくなる。
それでも、そのたびに私は言った。
「次があるから」
四回目に落ちたときも。
「まだ始まったばかりだから」
五回目に落ちたときも。
「もっと練習すればいい」
六回目に落ちたときは、いつもみたいに「次がある」という言葉が詰まって出てこなかった。
そして七回目。
結果は、不合格だった。
また不合格。
スマホの画面に表示されたその文字を見ながら、私はなぜか笑ってしまった。
「……またか」
それから私は、初めて思った。
もしかして、向いていないのかな。
その考えは、一度浮かんでしまうと、忘れたくても忘れたくても、なかなか消えてくれなかった。
〜
演劇部では、私は決して一番上手い部員ではなかった。
入部したばかりの頃は、声が大きいことだけを褒められて、演技力なんてものは微塵もなかった。
「美月は声が通るね」
先輩にそう言われると嬉しかった。
家に帰ってから、鏡の前で何度も同じ台詞を練習した。
ただ台詞を言うだけ。
それは声優ではない。
嬉しい。
悲しい。
怒っている。
寂しい。
喜怒哀楽をいかに豊かに、言葉だけで表現できるか。
同じ言葉でも、声の出し方を変えると全然違って聞こえる。
それが面白かった。
だから続けられた。
高校一年生の文化祭では、私は脇役だった。
主役は、同じ学年の莉奈という子だった。
莉奈は演技が本当に上手かった。
顧問の先生も先輩たちも、みんなが口を揃えて同じことを言う。
莉奈が台詞を言うと、本当にその人物がそこにいるように見える、と。
同じ学年というのもあって、私は悔しかった。
けれど同時に、莉奈に憧れた。
舞台袖から莉奈の演技を見ていると、胸の奥が熱くなるのがわかる。
私も、あんなふうになりたい。
そう思った。
そして、その年の冬。
部長から言われた。
「来年の大会、ナレーション役やってみない?」
「私が?」
「うん。美月、声がいいから」
正直に言って、すごく嬉しかった。
声だけでも、誰かに必要としてもらえた気がしたから。
その日から大会まで、私は毎日練習した。
大会当日。
私は舞台袖で台本を握りしめていた。
緊張のせいで、台本がひどくクシャクシャになった。
照明が落ちて、客席が静かになる。
合図が出る。
大きく息を吸って、吐く。
私はマイクに向かって声を出した。
最初の一文。
二文目。
三文目。
そこで、頭の中が真っ白になった。
次の台詞が出てこない。
たった数秒だったと思う。
けれど私には、永遠のように長かった。
ようやく台詞を思い出したときには、声が震えていた。
舞台は終わった。
あの数秒のせいだろうか、無事終わった達成感よりも、後味の悪さと心の奥底にあるモヤモヤが気持ち悪かった。
私たちは入賞できなかった。
帰り道、部長は誰も責めなかった。
「みんな、お疲れ」
それだけだった。
私は一人でトイレに入り、鏡を見た。
自分の顔が情けなく見えた。
声優になりたい。
そう言いながら、舞台で一番大事なときに声が出なかった。
本当に情けない。情けなくて仕方がない。
どんよりした気分で帰宅すると、母が、
「どうだった?」
と聞いてくれたが、私は、そんな気分でもなく
「普通」
とそっけなく答えてしまった。
その夜、布団の中で泣いた。
声優になりたいという気持ちと、
自分には無理なのかもしれないという気持ち。
二つが混ざって私の中で渦を巻く。
初めて、二つの気持ちが同じくらいの大きさになった夜だった。
〜
「それ、まだ持ってたんだ」
昼休み、隣の席から声がして、私は慌てて紙を閉じた。
「…見た?」
「ちょっとだけ」
クスッと笑ったのは、幼なじみの真帆だった。
真帆は私が声優を目指していることを家族以外で唯一知っている。
というより、私が一番最初に夢を話した相手が真帆だったという方が良いかもしれない。
中学一年生の頃、私が興奮しながら声優について話したときも、
「じゃあ、私が一番最初のファンね」
と言ってくれた。
私は紙を机の中にしまった。
「もう、やめようかなって思ってる」
言ってから、自分でも驚いた。
今まで誰にも言えなかった言葉だった。
真帆はすぐには返事をしなかった。
「……そっか」
「うん」
少し残念そうな、悲しそうな顔をした。そして少し間をあけて、
「どうして?」
と聞かれた。
「…分かんない」
私はぼんやりと窓の外を見た。
校庭では、幾つもの木々が風に揺らされたり、時より止まったり。
「なんか……疲れた」
それが一番近い言葉だった。
「何回やっても落ちるし。私より上手い人なんていっぱいいるし。お金もかかるし。大学のことも考えないといけない。お母さんたちにも負担が…」
言葉が止まらなくなった。
「それにさ、最近思うんだよね。私、声優になりたいんじゃなくて、声優になりたいって言ってる自分が好きだっただけなのかもって」
嘲笑う私に対して、真帆は黙って聞いていた。
「それだったら、普通に大学行って、普通に就職したほうがいいのかなって」
「……それが幸せ?」
短い質問なのに、私はすぐには答えられなかった。
「…分かんない」
また同じ言葉が出た。
真帆は少しだけ笑った。
「そっか」
そしてそれ以上、私に何も言わなかった。
〜
その日の放課後。
私は一人で駅へ向かっていた。
改札の前にある大きなポスターが目に入った。
声優オーディション。
高校生対象。
締め切りは、今週の日曜日。
昼休み、あんなにやめようかなんて考えてたのに。
私はなぜか立ち止まってしまった。
写真の中の、笑っている一人の女の子。
その顔を見ていると、胸の奥がざわざわした。
応募用紙をもらおうか。
それともやめようか。
手を伸ばしかけて、引っ込めた。
「……もういいや」
そう呟いた。
その瞬間だった。
「本当に?」
後ろから声がした。
驚いて後ろを振り返ると、知らない女の子が一人で立っていた。
パッと見る限り私と同じぐらいの年齢だろうか。
制服は私と同じ高校のもの。
でも、見覚えはない。
「今、『もういいや』って言ったでしょ」
「……聞いてたの?」
「うん」
女の子は悪びれる様子もなく答えた。
「ごめん。でも、気になって」
「何が?」
「そのポスター」
彼女はスラッとした細長い指で、私の後ろにあるポスターを指差した。
「あなた、これ受けないの?」
「……受けない」
「どうして?」
「向いてないから」
すると女の子は、少し考えてから言った。
「へえ」
「……何?」
「いや、私と同じこと言うんだなって思って」
彼女は笑った。
「私も、昔は声優になりたかったから」
心臓が少しだけ跳ねた。
「……昔は?」
「うん。昔は」
「…じゃあ今は?」
「今は、なりたくないかな」
彼女はあっさり答えた。
はっきりと聞こえる声で、なりたくないと言った。
「じゃあ、なんでここにいるの?」
「たまたま」
彼女はポスターを見上げた。
「たまたま見つけただけ」
それから私を見る。
「でも、あなたは違うでしょ」
「え?」
「あなた、諦めた人の顔してない。私にはわかる。そうでしょ?」
私は何も言えなかった。
彼女は笑った。
「じゃあね」
「ちょっと待って」
気づけば私は呼び止めていた。
「名前……」
「ああ」
彼女は振り返った。
「莉子」
「私は……美月」
「知ってる」
「え?」
「同じ部活だから」
私は目を丸くした。
莉子は笑った。
「また明日ね、美月」
〜
次の日から、莉子と話すようになった。
莉子は二年三組。
私は二年一組。
莉子は私と同じ演劇部だけど、滅多に顔を出さないらしい。でも部員の顔と名前はちゃんと覚えてるだとか。
「だから私のこと知ってたんだ…」
ぽつりと吐いた独り言が消える。
次の日から、私は廊下ですれ違うと話したり、昼休みに莉子と一緒にお弁当を食べたりした。
すごく不思議だった。
昨日まで(私は)知らなかった人なのに、昔から知っていたような気がした。
莉子も以前までは声優を目指していて、中学三年生のとき、オーディションに何度も挑戦したらしい。
けれど高校受験をきっかけに、やめたとか。
「怖くなったんだよね」
ある日、莉子はそう言った。
「何が?」
「このまま声優のオーディションに応募し続けて、何年も何年も受からなかったらどうしようって」
「……うん」
「だから、やめた」
「…後悔してないの?」
莉子は少し黙ってから、絞り出したような声で言った。
「……そりゃ、後悔してるよ」
意外な答えだった。
「じゃあ、なんでやめたの?」
「後悔することと、やめちゃいけないことは、同じじゃないから」
莉子の言ったその言葉が、心のどこか奥で響いた気がした。
「私は声優のオーディションの応募をやめたことを後悔してる。でも、やめたことで救われた自分もいる」
「……なんか、難しいね」
「うん。だから私には何が正解かは分からない」
莉子は外を見て、自然な笑みを浮かべる。
「夢って、そういうものなんじゃない?」
私は返事をすることができなかった。
〜
ある日の放課後、空を眺めてぼーっとしている私に向かって、不意に莉子が口を開いた。
「私が応募するのをやめた理由、もう一つあるんだ」
私たちは駅前のベンチに座っていた。
急なことすぎて、戸惑ってしまう私に莉子は「お金」とだけ言った。
「…お金?」
「そう。お金」
莉子は膝の上に置いた鞄を見て、少し悲しそうな、残念そうな顔をする。
「養成所ってさ、結構お金かかるじゃん」
「うん」
「私は余裕がある家じゃなかったから」
なんとなく気まずさを感じたのだろうか。私は何もいうことができなかった。
「お母さんがさ、パートを増やしてくれたんだ」
「……そうなの?」
「うん。でも、ある日、お母さんが寝てるところを見たの。疲れ切ってて」
莉子は少し笑った。
気のせいかもしれないけど、莉子の目が少しうるっとしてるような気がした。
……泣いてる?
「そのときにね、私の夢のために誰かが無理してるのが嫌になったの」
「…だから、やめたの?」
「うん。そういうこと」
莉子の話を聞いて、私は自分の家のことを思い出した。
両親は私が声優を目指すのに反対したことはない。
教材を買ってくれた。
オーディションの交通費も出してくれた。
応援も沢山してくれた。
そのたびに私は「ありがとう」と言った。
でも。
それが当然だったわけではない。
「……私も」
「何?」
「私も、最近今莉子が言ったこと思ってた」
「お金のこと?」
「……うん。私が夢を追いかけることで、家族に負担をかけてるんじゃないかって」
莉子が私の目をじっと見つめる。
「でも、美月のお母さんもお父さんも、美月が声優目指してるの応援してくれてるんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、本人がいいって言ってるならいいんじゃない?」
「……そう簡単じゃないよ」
「そう?」
「応援してくれるからこそ、やめづらいんだよ」
息が荒くなっていることに気づき我に変える。
落ち着きを戻すために深呼吸をする。
莉子が黙って俯いた。
私も黙った。
駅に電車が入ってくる音がした。
遠くから強い風が吹いてくる。
「…応援されるって、難しいね」
莉子がポツリと呟いた。
「うん」
「反対されるより、ずっと難しいかも」
クスッと笑いながら言った莉子の言葉が妙に胸に残り、なかなか私から消えてくれなかった。
〜
それから一週間。
私はオーディションのポスターの前を通るたびに立ち止まってしまう。
応募用紙を取る。
家に持って帰る。
机の上に置く。
翌朝、捨てようとする。
でも捨てられない。
そんなことを毎日毎日繰り返した。
ある夜、コンコンコンと3回ノックの後に母が部屋に入ってきた。
「まだオーディションのこと悩んでる?」
「……うん」
「そっか」
母は私の机に置かれた応募用紙を見た。
「美月が受けたいなら、受ければいいんじゃない?」
「……簡単に言わないでよ」
簡単そうに言う母に少し腹が立ち、思わず強い口調になってしまった。
そんな私を見て母は少し驚いたのか、すぐに「ごめん」と言った。
「だって、落ちたらどうするの?」
「うん」
「もしまた落ちたら?」
「…うん」
「何回落ちれば諦められるの?」
そう言った自分の声は、自分でも驚くくらい、震えていた。
「大学だってある。お金だってかかる。いつまでも夢だけ見続けるにはいかないじゃん」
母は数秒黙った後、また「ごめん」と言った。
「謝らなくていいよ。お母さんが悪いわけじゃないし」
母は椅子に座った。
「お母さんはね、美月が夢を諦めても、応援するよ」
「……え?」
「もちろん、続けるならそれも応援する」
母は静かに言った。
「だから、お母さんが決めることじゃない」
その言葉を聞いて、私は余計に胸が苦しくなった。
17歳には難しい。17歳だから難しい。
目の奥が熱い。今にも涙が溢れそうなのがわかる。
「そんなの……ずるいよ」
「どうして?」
「どっちでもいいって言われたら、自分で決めなきゃいけないじゃん」
母がクスッと笑う。
「そうだね」
その一言だけ置いて、部屋を出ていった。
部屋の真ん中で1人。
私はしばらく動けなかった。
やがて机の上の応募用紙を見る。
オーディション用紙の端が少し折れていたのを指で伸ばす。
そのとき、母の声が廊下から聞こえた。
「美月」
「…なに?」
「お父さんも、同じこと言ってたよ」
「……何を?」
「美月が自分で決めたことなら、応援するって」
私は返事をしなかった。できなかった。
ドアの向こうで、母が言った。
「ただ、一つだけお願いがある」
「……何?」
「諦めるなら、自分のために諦めてね」
ハッとなって、私は顔を勢いよく上げた。
「誰かに言われたからとかじゃなくて」
母の足音が遠ざかっていく。
「続けるなら、それも自分のために…」
部屋に静けさが戻っていく。
私は応募用紙を見つめた。
そして初めて「自分のため」という言葉を、正面から考えた。
〜
翌日。
真帆にその話をした。
「お母さん、いい人だね」
「そうなんだけど……」
「うん」
「…でもやっぱり…どうしても、自分じゃ決められない」
真帆はしばらく考えてから言った。
「じゃあ、決めなくてもいいんじゃない?」
「え?」
「今すぐ一生分を決めなくてもいいじゃん」
「でも、進路は決めないと」
「進路と人生って、同じじゃないでしょ。そんな焦る必要はないんじゃないかな」
「そうだけど…」
「美月はさ、夢を続けるか諦めるかの二択にしてるけど」
「うん」
「本当ににその二択だけしかないの?美月が分かってないだけで、本当はもっといっぱいあるんじゃない?」
「…いっぱい?」
「私は沢山あると思うよ。例えば、大学に行きながら続けるとか、趣味にするとか。あるいは一年間だけ挑戦するとか、一度やめて、また戻るとか」
真帆は指を一本ずつ立てた。
「夢って、オンかオフじゃないと思う」
その言葉を聞いて、私は少し笑った。
それと同時に、少し心が軽くなった気がした。
「真帆って、たまにすごいこと言うよね」
「たまに?」
「たまに」
「ひどい」
二人で笑った。
それ以降。
帰る時も、お風呂に入ってる時も。ご飯を食べてる時も、勉強してる時も。
私は真帆の言葉を何度もなぞり、忘れられなかった。
〜
日曜日。
オーディションの締め切り日。
私はまだ、応募用紙を前にしていた。
時計を見る。
午後十一時。
締め切りまでは、あと一時間しかない。
ゆっくりとスマホを手にとって写真を選ぶ。
入力する。
志望理由を書く。
ちょっと止まって消しては書く。ちょっと止まって消しては書くの繰り返し。
そして最後の欄。ここまで辿り着くのに長い時間がかかってしまった。
“あなたの夢を教えてください”
私の手が再び止まる。
夢…。
その字だけ私には大きく見え、重く感じた。
その言葉を見つめていると、昔の自分を思い出してしまう。
中学一年生。
初めて声優になりたいと思った日。
初めて台本を読んだ日。
初めてオーディションに応募した日。
落ちた日。
また挑戦した日。
また落ちた日。
演劇部の舞台で声が出なかった日。
母に「続けてもやめても応援する」と言われた夜。
莉子に「後悔することと、やめちゃいけないことは同じじゃない」と言われたあの日。
真帆に「夢って、オンかオフじゃない」と言われた日。
いろんな言葉が、頭の中に浮かんでは消えていった。
沢山の日が頭の中でフラッシュバックする。
私は入力欄に文字を打った。
――声優になりたいです。
そこで止まった。
その後に続く言葉は思いつかなかった。
削除して、もう一度書く。
――誰かの心に残る声を届けたいです。
それも消した。
綺麗すぎる。
それは、今の自分の言葉じゃない気がした。
いや違う、今の自分の言葉じゃないんだ。
私はしばらく考えてから、ゆっくり文字を打った。
――私は、まだ自分が本当に声優になりたいのか分かりません。
画面をタップしていた指が止まる。
こんなことを書いていいのだろうか。
オーディションなのに。
夢を語る場所なのに。
それでも、続きを書いた。
――でも、諦めたあとに後悔するのか、それとも挑戦したことを後悔するのか、それすら今の私には分かりません。
――だから、もう一度だけ挑戦してみたいです。
送信ボタンを押した。
画面に、
「応募を受け付けました」
と表示された。
私は椅子の背もたれに体を預けた。
「……送っちゃった」
怖かった。
でもなぜか、不思議と少しだけ笑えた。
〜
翌朝、学校に行くと、莉子が待っていた。
「送った?」
「……なんで知ってるの?」
「昨日、メッセージしたじゃん」
スマホを見る。
確かに、莉子からメッセージが来ていた。
――どうした?
私は返信していなかった。
「ごめん。見てなかった」
「嘘」
「え?」
「見てた顔してる」
「そんなの分かるの?」
「分かるよ」
莉子は笑った。
「で?」
「送った」
「そっか」
「うん」
「怖い?」
「ちょっと」
「私も昔、送信ボタン押すの怖かった」
莉子は窓の外を見た。
「押した瞬間、戻れなくなった気がした」
「分かる」
「でもね」
「うん」
「実際には、何も変わらなかった」
私は莉子を見た。
「落ちたら、ただ落ちただけだった」
「……うん」
「受かったら、きっと人生変わったんだろうけど」
「うん」
「でも、落ちたからって、それまでの私が全部間違いになったわけじゃなかった」
莉子は笑った。
「だから美月も、結果がどうでも大丈夫だよ」
「……どうでもいいって言われると、それはそれで複雑」
「じゃあ、結果は大事」
「うん」
「でも、結果だけが全部じゃない」
莉子の言葉にまた心が軽くなった。
〜
結果が届くまで、一か月。
その間、私は以前ほど必死に練習しなかった。
毎日ではなく、できる日だけ自分のペース続けた。
学校の勉強はもちろんしたし、友達とも遊んだ。
映画も沢山見て、帰り道に寄り道もした。
以前の私は、「夢のために何かをしなきゃ」と思っていたけと。
でも今はもう違う。
夢があるからって、夢以外の全部を捨てなくてもいい。
そう思えるようになった。
演劇部の活動にも少しずつ戻った。
以前は「声優の練習」として台詞を読んでいた。
今は、単純に演じることが楽しいと思える瞬間が増えた。
ある日の部活で、後輩が台詞の読み方に悩んでいた。
「美月先輩、ここってどうしたらいいですか?」
台本を見せられて、私は少し考えてからこう言った。
「一回、感情を入れないで読んでみたら?」
「え?」
「そのあと、どこで気持ちが変わったのか考える」
後輩が私の言った通りに読む。
「どう?」
「…なんか、なんとなく分かったような気がします」
「それならよかった」
その瞬間、私は気づいた。
誰かに教えるのが、楽しいんだ。
以前なら、「私は演じる側にならなきゃ」と思っていたけど。
舞台にはいろんな関わり方がある。
そのことの意味を今理解した気がした。
〜
ある日、莉子にそのことを話した。
「それ、いいんじゃない?」
「そうかな」
「うん」
「莉子は、もう声優になりたいと思わない?」
莉子は少し考えた。
「分からない」
「え?」
「昔はなりたかった。でも今は、別の夢もあるから」
「別の夢?」
「舞台を見るのが好きなんだ」
莉子は笑った。
「だから、今は舞台を作る側に興味がある」
「裏方ってこと?」
「うん。照明とか、音響とか。声優とかじゃなくても、誰かの心を動かす場所は作れるから」
私はその言葉を聞いて、納得した反面、莉子に対するモヤモヤも残った。
「それって……声優を諦めたってこと?」
「たぶんね」
「寂しくない?」
「もちろん」
莉子は笑った。
「でも、寂しいからって戻らなきゃいけないわけじゃないでしょ?」
私は頷いた。
「……そうだね」
「美月は?」
「え?」
「もし受かったら、どうするの?」
「分からない」
「もし落ちたら?」
「それも分からない」
莉子は笑った。
「じゃあ、まだ分からない同士だね」
分からない同士で空を見上げた。
空も心も前よりかはすっきりとしているのは私だけじゃないはずだ。
〜
ところが、その数日後。
莉子が学校を休んだ。
最初は風邪かと思った。
でも三日経っても来なかった。
私はメッセージを送った。
――大丈夫?
しばらくして返信が来た。
――大丈夫。ちょっと家のことで。
それ以上は聞かなかった。
聞いちゃいけないと心のどこかでストップがかかった。
そして莉子が学校を休んで四日目。
放課後、私は気になって莉子の家の近くまで行った。
インターホンを押そうとしたけど、やめた。
何を言えばいいのか分からなかったからだ。
帰ろうとしたとき、後ろから声がした。
「美月?」
振り返ると、莉子が立っていた。
「……来てたの?」
「うん」
「なんで?」
「心配だったから」
莉子は少し笑った。
「そっか」
「何かあった?」
「お父さんが仕事を辞めた」
私は黙った。
「しばらく大変になるみたい」
「……そっか」
「だから、大学のことも考え直してる」
「舞台の大学?」
「うん」
莉子は空を見上げた。
「たぶん、家から通えるところにする」
「…じゃあ、夢、変わっちゃうの…?」
「…分からない」
またその言葉だった。
莉子に会ってから何回の“わからない”を聞いただろう。
思い返すと、自然と笑みが溢れた。
「なんで笑ってるの?」
「私たち、何でも『分からない』だなぁと思って」
「確かにねぇ」
そう言う私に釣られて莉子も笑った。
「でも、美月」
「うん」
「夢を諦めるって、夢を嫌いになることじゃないよ」
「…つまり?」
「好きだけど、別のものを選ぶこともある」
「……うん」
「だから、美月がもし声優をやめても、私はそれを負けだとは思わない」
私は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「ありがとう」
「逆に、続けても負けじゃないけどね」
「それもそうだね」
私たちは笑った。
夕方の道に、長い影が伸びていた。
〜
一か月後。
結果が届いた。
不合格だった。
メールを開いた瞬間、胸が締め付けられた。
でも、泣かなかった。
以前なら、何日も引きずっていたかもしれない。
今回は違った。
スマホを机に置いて、窓を開けると、風が入ってきた。
私はしばらく空を見上げて考える。
「……落ちたか」
出てきた言葉、思いついた言葉はただそれだけだった。
不思議なくらい、静かだった。
けれど、その日の夜。
私は一人で布団の中に入ってから、少しだけ泣いてしまった。
落ちたことが悲しくないわけではなかった。
でも、悔しくないわけでもなかった。
正直に言えば、やっぱり受かりたかった。
受かれるものならそりゃ受かりたかった。
「もう一度だけ」と思って手を伸ばしたけど。その一度も、私の手も届かなかった。
スマホを手に取って、もう一度“不合格”の文字を見つめる。
合格への通知。
不合格の通知。
どちらも、たった数行。
何年も夢を見てきたのに。
何度も練習したのに。
何度も落ちたのに。
結果は、画面中のたった数行で終わってしまう。
私はそのことが、少しだけ可笑しかった。
夢って、案外あっけない。
そう思った。
でも同時に。
だからこそ、夢をどうするかは、結果だけで決めなくてもいいのかもしれないとも思った。
翌日、学校で莉子に伝えた。
「そっか」
「うん」
「どうする?」
「分からない」
「またそれ?」
「だって分からないんだもん」
二人で笑った。
すると莉子が言った。
「でも、美月」
「何?」
「一回挑戦してみて、それで分からなかったんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、前より分かるようになったじゃん」
私はその言葉を聞いて、少し考えた。
確かにそうだった。
受ける前の私は、「諦めたら後悔するかもしれない」と思っていた。
でも、受けて落ちた今は、
「挑戦しても、夢が消えるわけじゃない」
ということを知っている。
そしてもう一つ。
「夢を追っている自分」だけが、自分の全部ではない。
それも莉子のおかげで分かった。
〜
その日の帰り道。
駅のポスターの前で立ち止まった。
新しいオーディションの告知が貼られていた。
私はしばらく眺めた。
前なら、すぐに応募用紙を探していただろうけど、私はスマホを取り出して、ポスターの写真だけを撮って、その場を離れた。
応募するかどうかは、まだ決めてない。
〜
高校二年生の冬。
進路希望調査が配られた。
私は第一希望の欄に、大学の名前を書いた。
第二希望の欄には、専門学校の名前を書いた。
そして最後の「その他」の欄に、
「声優養成所」
と書いた。
先生に提出すると、
「進路、決まったんだね」
と言われた。
「……まだです」
「え?」
「まだ決めてません」
先生は進路希望調査の用紙を見て少し驚いた顔をする。
「でも、第一希望は大学なんだろ?」
「はい」
「じゃあ大学に行くんじゃないのか?」
「たぶん」
「たぶん?」
私は笑った。
「その紙にそう書いたからって言って絶対そこにいくとは限りませんし。人生って、そんなに簡単に決められないじゃないですか」
「それはそうだな」
先生は納得したような顔をして顎に手を当てる。
私は調査票を見た。
昔だったら、ここで声優という文字が書かれていたけど今はない。
でも、だからといって夢がなくなったわけではない。
夢の形を少し変えただけだ。
毎日追いかけるものではなくなった。
でも、私の中で完全になくなってはいない。
〜
ある夜。
私は父の部屋の前を通りかかった。
中から声が聞こえる。
「……うん。そうだな」
電話をしているようだった。
私はそのまま通り過ぎようとした。
でも、
「美月がどうするかは、あいつが決めることだから」
という言葉が聞こえて、足が止まった。
「俺たちは応援するしかないだろ」
少し間があった。
「……そうだな」
私はその場を離れた。
部屋に戻って、机の引き出しを開ける。
赤いペンで書いた、
「声優になる」
という文字。
私はその紙を手に取った。
そして、初めて裏返さなかった。
表にしたまま、机の上に置く。
昔の自分が書いた文字を見つめる。
その文字を消すのは簡単だった。
でも消す理由も、今の私にはない。
だから、代わりにその下へ小さく書き足した。
「いつか、また考える」
それが逃げなのか。
諦めなのか。
それとも、新しい夢の始まりなのか。
私には分からない。
〜
私はまた莉子と話していた。
「ねえ、美月」
「何?」
「結局、声優どうするの?」
「分からない」
「まだ言ってる」
「だって、本当に分からないんだもん」
「それもまた言ってる」
莉子は笑った。
「私は、たぶん舞台関係の大学を受ける」
「そっか」
「うん」
「頑張って。莉子ならできるよ」
「美月も」
「何を?」
「大学」
「声優は?」
「それも」
私たちは顔を見合わせた。
そして笑った。
少しだけ寂しかった。
これまで毎日のように会っていた人と、これからは違う場所へ行く。
でも、寂しいからといって、同じ場所に戻らなければならないわけではない。
そのことを、私は少しだけ分かっていた。
帰り道、駅で莉子と別れた。
「じゃあね」
「うん」
「また会おうね」
「もちろん」
手を振る。
莉子の姿が人混みに消えていく。
私は一人でホームに立った。
電車を待ちながら、スマホを取り出す。
撮ったままになっていた、あのオーディションのポスターの写真を開いた。
応募期限は、明日。
私は画面を見つめた。
応募することもできる。
しないこともできる。
どちらを選んでも、きっと何かを失う。
どちらを選んでも、きっと何かを得る。
私はまだ、その答えを知らない。
電車がホームに入ってきた。
風が吹く。
私はスマホの画面を閉じた。
そして、ポケットにしまった。
そのまま電車に乗る。
窓の外を眺めながら、ふと思った。
夢は、叶えるためだけにあるのだろうか。
追いかけるためだけにあるのだろうか。
諦めるためだけにあるのだろうか。
もしかしたら。
夢には、もっとたくさんの置き場所があるのかもしれない。
胸の奥に置いておくことも。
一度手放すことも。
遠くから眺めることも。
また拾い上げることも。
私はまだ、自分の夢をどこに置くのか決めていない。
ただ――
それでいいのだと思った。
窓に映った自分と目が合う。
私は、少しだけ笑った。
そしてポケットの中で、スマホを握った。
明日、応募するかもしれない。
しないかもしれない。
大学に行くかもしれない。
声優を目指すかもしれない。
全然違う道を選ぶかもしれない。
そのどれが正解なのか、今の私には分からない。
きっと、十年後の私にも分からない。
それでも。
十七歳の私は、十七歳なりに考えている。
自分の人生を。
自分の夢を。
そして、自分だけの「正解」を。
電車は、次の駅へ向かって走っていく。
まだ名前のない未来へ。
私は窓の外を見ながら、小さく呟いた。
「……またね、夢」
それが別れの言葉なのか。
再会の約束なのか。
私自身にも、まだ分からなかった。
私は、夢の置き場所を知らない。
夢は、いつから「叶えるもの」になったのだろう。
小さい頃は、もっと簡単だった。
ケーキ屋さんになりたい。
宇宙飛行士になりたい。
アイドルになりたい。
警察官になりたい。
学校の先生になりたい。
目をキラキラと光らながら語る子どもたちの目を見ると
大人たちは笑って「いいね」とか「〇〇ならきっとなれ
るよ」などと言ってくれる。
しかし、それが叶うのか、叶わないのか。
叶えられるものなのか叶えられないものなのか。
そんなことは、今まで誰一人して聞かれなかった。
けれど高校二年生になった今は違う。
夢を口にすると、決まって次の言葉がついてくる。
――どうしてなりたいの?
――どこの学校に行くの?
――その仕事で食べていけるの?
――本当に向いてると思う?
――難しくない?叶えられるの?
夢はいつの間にか、作文ではなく計画書になっていた。
ただ「なりたい」じゃ叶えられない。
どうしてそれになりたいのか、どうやったらそれになれるのか。それになるために何をしないといけないのか。
あるいは大学に行くのなら家族への負担、自分への負担など、考えればキリがない。
「…小さい時はそんなの考えなくてよかったのにな」
私は、机の引き出しから一枚の紙を取り出した。
紙の一番上には、赤いペンで大きく書いてある。
「声優になる」
その文字を見つめていると、胸の奥がチクッと小さな針で刺されたように少しだけ痛んだ。
昔は、この文字を見るだけで嬉しかったのに。
今は違う。
変わってしまったんだ。
見るたびに、「本当に?」と自分に聞き返したくなる。
私は紙を裏返した。
そこには、大学の名前が三つ並んでいる。
声優養成所。
専門学校。
そして、普通の四年制大学。
最後の選択肢だけ、まだ何も書き込まれていない。
その空白が、今の私には一番大きく見えた。
〜
私が声優になりたいと思ったのは、中学一年生の冬だった。
たまたま見た戦闘系アニメの最終回で、主人公が泣きながら言った台詞が忘れられなかったのがきっかけだ。
画面の中のキャラクターが泣いている。
そのキャラクターは現実には存在しない二次元の世界のものなのに、私はその声を聞いて、自分まで泣きそうになったのだ。
そのとき初めて、こう思った。
声だけで、人の心を動かせるんだ。
私はその日すぐに、声優という仕事を調べ始めた。
何かに取り憑かれたように、声優という仕事のありとあらゆることを調べ尽くした。
オーディション。
発声練習。
演技。
滑舌。
専門学校。
養成所。
思っていたよりずっと厳しい世界。
声優は話す仕事なのに演技力も必要なんだ。
滑舌ってどうやってよくするんだろう。
あの日出会った、声優という仕事。
何も知らない。何もわからない。
無知な私だけど。
それでも、やってみたいと思った。
両親に打ち明けるのはそんなに難しくなかった。
なんの躊躇いもなく、ただ真っ直ぐに「声優になりたい」と両親に話したとき、父は少し黙ってから言った。
「いいんじゃないか。やりたいなら」
母は笑って、
「じゃあ、まず何をすればいいの?私たちが美月に何かできることはあるの?」
と聞いてくれた。
二人とも応援してくれた。
だから私は、頑張れた。
毎日発声練習をしたり、帰宅してからアニメに出てくる台本を読んだり、できることをやる日々。
高校に入学してからは演劇部にも入った。
声優なりたいと思うまでは、演劇部に入ろうなんて一度も考えたことがなかった。
休日にはオーディション情報をひたすらに探した。
初めて受けたオーディションは、一次審査で落ちた。
二回目も落ちた。
三回目も。
不合格の文字を見るたびに、悔しくなる。
それでも、そのたびに私は言った。
「次があるから」
四回目に落ちたときも。
「まだ始まったばかりだから」
五回目に落ちたときも。
「もっと練習すればいい」
六回目に落ちたときは、いつもみたいに「次がある」という言葉が詰まって出てこなかった。
そして七回目。
結果は、不合格だった。
また不合格。
スマホの画面に表示されたその文字を見ながら、私はなぜか笑ってしまった。
「……またか」
それから私は、初めて思った。
もしかして、向いていないのかな。
その考えは、一度浮かんでしまうと、忘れたくても忘れたくても、なかなか消えてくれなかった。
〜
演劇部では、私は決して一番上手い部員ではなかった。
入部したばかりの頃は、声が大きいことだけを褒められて、演技力なんてものは微塵もなかった。
「美月は声が通るね」
先輩にそう言われると嬉しかった。
家に帰ってから、鏡の前で何度も同じ台詞を練習した。
ただ台詞を言うだけ。
それは声優ではない。
嬉しい。
悲しい。
怒っている。
寂しい。
喜怒哀楽をいかに豊かに、言葉だけで表現できるか。
同じ言葉でも、声の出し方を変えると全然違って聞こえる。
それが面白かった。
だから続けられた。
高校一年生の文化祭では、私は脇役だった。
主役は、同じ学年の莉奈という子だった。
莉奈は演技が本当に上手かった。
顧問の先生も先輩たちも、みんなが口を揃えて同じことを言う。
莉奈が台詞を言うと、本当にその人物がそこにいるように見える、と。
同じ学年というのもあって、私は悔しかった。
けれど同時に、莉奈に憧れた。
舞台袖から莉奈の演技を見ていると、胸の奥が熱くなるのがわかる。
私も、あんなふうになりたい。
そう思った。
そして、その年の冬。
部長から言われた。
「来年の大会、ナレーション役やってみない?」
「私が?」
「うん。美月、声がいいから」
正直に言って、すごく嬉しかった。
声だけでも、誰かに必要としてもらえた気がしたから。
その日から大会まで、私は毎日練習した。
大会当日。
私は舞台袖で台本を握りしめていた。
緊張のせいで、台本がひどくクシャクシャになった。
照明が落ちて、客席が静かになる。
合図が出る。
大きく息を吸って、吐く。
私はマイクに向かって声を出した。
最初の一文。
二文目。
三文目。
そこで、頭の中が真っ白になった。
次の台詞が出てこない。
たった数秒だったと思う。
けれど私には、永遠のように長かった。
ようやく台詞を思い出したときには、声が震えていた。
舞台は終わった。
あの数秒のせいだろうか、無事終わった達成感よりも、後味の悪さと心の奥底にあるモヤモヤが気持ち悪かった。
私たちは入賞できなかった。
帰り道、部長は誰も責めなかった。
「みんな、お疲れ」
それだけだった。
私は一人でトイレに入り、鏡を見た。
自分の顔が情けなく見えた。
声優になりたい。
そう言いながら、舞台で一番大事なときに声が出なかった。
本当に情けない。情けなくて仕方がない。
どんよりした気分で帰宅すると、母が、
「どうだった?」
と聞いてくれたが、私は、そんな気分でもなく
「普通」
とそっけなく答えてしまった。
その夜、布団の中で泣いた。
声優になりたいという気持ちと、
自分には無理なのかもしれないという気持ち。
二つが混ざって私の中で渦を巻く。
初めて、二つの気持ちが同じくらいの大きさになった夜だった。
〜
「それ、まだ持ってたんだ」
昼休み、隣の席から声がして、私は慌てて紙を閉じた。
「…見た?」
「ちょっとだけ」
クスッと笑ったのは、幼なじみの真帆だった。
真帆は私が声優を目指していることを家族以外で唯一知っている。
というより、私が一番最初に夢を話した相手が真帆だったという方が良いかもしれない。
中学一年生の頃、私が興奮しながら声優について話したときも、
「じゃあ、私が一番最初のファンね」
と言ってくれた。
私は紙を机の中にしまった。
「もう、やめようかなって思ってる」
言ってから、自分でも驚いた。
今まで誰にも言えなかった言葉だった。
真帆はすぐには返事をしなかった。
「……そっか」
「うん」
少し残念そうな、悲しそうな顔をした。そして少し間をあけて、
「どうして?」
と聞かれた。
「…分かんない」
私はぼんやりと窓の外を見た。
校庭では、幾つもの木々が風に揺らされたり、時より止まったり。
「なんか……疲れた」
それが一番近い言葉だった。
「何回やっても落ちるし。私より上手い人なんていっぱいいるし。お金もかかるし。大学のことも考えないといけない。お母さんたちにも負担が…」
言葉が止まらなくなった。
「それにさ、最近思うんだよね。私、声優になりたいんじゃなくて、声優になりたいって言ってる自分が好きだっただけなのかもって」
嘲笑う私に対して、真帆は黙って聞いていた。
「それだったら、普通に大学行って、普通に就職したほうがいいのかなって」
「……それが幸せ?」
短い質問なのに、私はすぐには答えられなかった。
「…分かんない」
また同じ言葉が出た。
真帆は少しだけ笑った。
「そっか」
そしてそれ以上、私に何も言わなかった。
〜
その日の放課後。
私は一人で駅へ向かっていた。
改札の前にある大きなポスターが目に入った。
声優オーディション。
高校生対象。
締め切りは、今週の日曜日。
昼休み、あんなにやめようかなんて考えてたのに。
私はなぜか立ち止まってしまった。
写真の中の、笑っている一人の女の子。
その顔を見ていると、胸の奥がざわざわした。
応募用紙をもらおうか。
それともやめようか。
手を伸ばしかけて、引っ込めた。
「……もういいや」
そう呟いた。
その瞬間だった。
「本当に?」
後ろから声がした。
驚いて後ろを振り返ると、知らない女の子が一人で立っていた。
パッと見る限り私と同じぐらいの年齢だろうか。
制服は私と同じ高校のもの。
でも、見覚えはない。
「今、『もういいや』って言ったでしょ」
「……聞いてたの?」
「うん」
女の子は悪びれる様子もなく答えた。
「ごめん。でも、気になって」
「何が?」
「そのポスター」
彼女はスラッとした細長い指で、私の後ろにあるポスターを指差した。
「あなた、これ受けないの?」
「……受けない」
「どうして?」
「向いてないから」
すると女の子は、少し考えてから言った。
「へえ」
「……何?」
「いや、私と同じこと言うんだなって思って」
彼女は笑った。
「私も、昔は声優になりたかったから」
心臓が少しだけ跳ねた。
「……昔は?」
「うん。昔は」
「…じゃあ今は?」
「今は、なりたくないかな」
彼女はあっさり答えた。
はっきりと聞こえる声で、なりたくないと言った。
「じゃあ、なんでここにいるの?」
「たまたま」
彼女はポスターを見上げた。
「たまたま見つけただけ」
それから私を見る。
「でも、あなたは違うでしょ」
「え?」
「あなた、諦めた人の顔してない。私にはわかる。そうでしょ?」
私は何も言えなかった。
彼女は笑った。
「じゃあね」
「ちょっと待って」
気づけば私は呼び止めていた。
「名前……」
「ああ」
彼女は振り返った。
「莉子」
「私は……美月」
「知ってる」
「え?」
「同じ部活だから」
私は目を丸くした。
莉子は笑った。
「また明日ね、美月」
〜
次の日から、莉子と話すようになった。
莉子は二年三組。
私は二年一組。
莉子は私と同じ演劇部だけど、滅多に顔を出さないらしい。でも部員の顔と名前はちゃんと覚えてるだとか。
「だから私のこと知ってたんだ…」
ぽつりと吐いた独り言が消える。
次の日から、私は廊下ですれ違うと話したり、昼休みに莉子と一緒にお弁当を食べたりした。
すごく不思議だった。
昨日まで(私は)知らなかった人なのに、昔から知っていたような気がした。
莉子も以前までは声優を目指していて、中学三年生のとき、オーディションに何度も挑戦したらしい。
けれど高校受験をきっかけに、やめたとか。
「怖くなったんだよね」
ある日、莉子はそう言った。
「何が?」
「このまま声優のオーディションに応募し続けて、何年も何年も受からなかったらどうしようって」
「……うん」
「だから、やめた」
「…後悔してないの?」
莉子は少し黙ってから、絞り出したような声で言った。
「……そりゃ、後悔してるよ」
意外な答えだった。
「じゃあ、なんでやめたの?」
「後悔することと、やめちゃいけないことは、同じじゃないから」
莉子の言ったその言葉が、心のどこか奥で響いた気がした。
「私は声優のオーディションの応募をやめたことを後悔してる。でも、やめたことで救われた自分もいる」
「……なんか、難しいね」
「うん。だから私には何が正解かは分からない」
莉子は外を見て、自然な笑みを浮かべる。
「夢って、そういうものなんじゃない?」
私は返事をすることができなかった。
〜
ある日の放課後、空を眺めてぼーっとしている私に向かって、不意に莉子が口を開いた。
「私が応募するのをやめた理由、もう一つあるんだ」
私たちは駅前のベンチに座っていた。
急なことすぎて、戸惑ってしまう私に莉子は「お金」とだけ言った。
「…お金?」
「そう。お金」
莉子は膝の上に置いた鞄を見て、少し悲しそうな、残念そうな顔をする。
「養成所ってさ、結構お金かかるじゃん」
「うん」
「私は余裕がある家じゃなかったから」
なんとなく気まずさを感じたのだろうか。私は何もいうことができなかった。
「お母さんがさ、パートを増やしてくれたんだ」
「……そうなの?」
「うん。でも、ある日、お母さんが寝てるところを見たの。疲れ切ってて」
莉子は少し笑った。
気のせいかもしれないけど、莉子の目が少しうるっとしてるような気がした。
……泣いてる?
「そのときにね、私の夢のために誰かが無理してるのが嫌になったの」
「…だから、やめたの?」
「うん。そういうこと」
莉子の話を聞いて、私は自分の家のことを思い出した。
両親は私が声優を目指すのに反対したことはない。
教材を買ってくれた。
オーディションの交通費も出してくれた。
応援も沢山してくれた。
そのたびに私は「ありがとう」と言った。
でも。
それが当然だったわけではない。
「……私も」
「何?」
「私も、最近今莉子が言ったこと思ってた」
「お金のこと?」
「……うん。私が夢を追いかけることで、家族に負担をかけてるんじゃないかって」
莉子が私の目をじっと見つめる。
「でも、美月のお母さんもお父さんも、美月が声優目指してるの応援してくれてるんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、本人がいいって言ってるならいいんじゃない?」
「……そう簡単じゃないよ」
「そう?」
「応援してくれるからこそ、やめづらいんだよ」
息が荒くなっていることに気づき我に変える。
落ち着きを戻すために深呼吸をする。
莉子が黙って俯いた。
私も黙った。
駅に電車が入ってくる音がした。
遠くから強い風が吹いてくる。
「…応援されるって、難しいね」
莉子がポツリと呟いた。
「うん」
「反対されるより、ずっと難しいかも」
クスッと笑いながら言った莉子の言葉が妙に胸に残り、なかなか私から消えてくれなかった。
〜
それから一週間。
私はオーディションのポスターの前を通るたびに立ち止まってしまう。
応募用紙を取る。
家に持って帰る。
机の上に置く。
翌朝、捨てようとする。
でも捨てられない。
そんなことを毎日毎日繰り返した。
ある夜、コンコンコンと3回ノックの後に母が部屋に入ってきた。
「まだオーディションのこと悩んでる?」
「……うん」
「そっか」
母は私の机に置かれた応募用紙を見た。
「美月が受けたいなら、受ければいいんじゃない?」
「……簡単に言わないでよ」
簡単そうに言う母に少し腹が立ち、思わず強い口調になってしまった。
そんな私を見て母は少し驚いたのか、すぐに「ごめん」と言った。
「だって、落ちたらどうするの?」
「うん」
「もしまた落ちたら?」
「…うん」
「何回落ちれば諦められるの?」
そう言った自分の声は、自分でも驚くくらい、震えていた。
「大学だってある。お金だってかかる。いつまでも夢だけ見続けるにはいかないじゃん」
母は数秒黙った後、また「ごめん」と言った。
「謝らなくていいよ。お母さんが悪いわけじゃないし」
母は椅子に座った。
「お母さんはね、美月が夢を諦めても、応援するよ」
「……え?」
「もちろん、続けるならそれも応援する」
母は静かに言った。
「だから、お母さんが決めることじゃない」
その言葉を聞いて、私は余計に胸が苦しくなった。
17歳には難しい。17歳だから難しい。
目の奥が熱い。今にも涙が溢れそうなのがわかる。
「そんなの……ずるいよ」
「どうして?」
「どっちでもいいって言われたら、自分で決めなきゃいけないじゃん」
母がクスッと笑う。
「そうだね」
その一言だけ置いて、部屋を出ていった。
部屋の真ん中で1人。
私はしばらく動けなかった。
やがて机の上の応募用紙を見る。
オーディション用紙の端が少し折れていたのを指で伸ばす。
そのとき、母の声が廊下から聞こえた。
「美月」
「…なに?」
「お父さんも、同じこと言ってたよ」
「……何を?」
「美月が自分で決めたことなら、応援するって」
私は返事をしなかった。できなかった。
ドアの向こうで、母が言った。
「ただ、一つだけお願いがある」
「……何?」
「諦めるなら、自分のために諦めてね」
ハッとなって、私は顔を勢いよく上げた。
「誰かに言われたからとかじゃなくて」
母の足音が遠ざかっていく。
「続けるなら、それも自分のために…」
部屋に静けさが戻っていく。
私は応募用紙を見つめた。
そして初めて「自分のため」という言葉を、正面から考えた。
〜
翌日。
真帆にその話をした。
「お母さん、いい人だね」
「そうなんだけど……」
「うん」
「…でもやっぱり…どうしても、自分じゃ決められない」
真帆はしばらく考えてから言った。
「じゃあ、決めなくてもいいんじゃない?」
「え?」
「今すぐ一生分を決めなくてもいいじゃん」
「でも、進路は決めないと」
「進路と人生って、同じじゃないでしょ。そんな焦る必要はないんじゃないかな」
「そうだけど…」
「美月はさ、夢を続けるか諦めるかの二択にしてるけど」
「うん」
「本当ににその二択だけしかないの?美月が分かってないだけで、本当はもっといっぱいあるんじゃない?」
「…いっぱい?」
「私は沢山あると思うよ。例えば、大学に行きながら続けるとか、趣味にするとか。あるいは一年間だけ挑戦するとか、一度やめて、また戻るとか」
真帆は指を一本ずつ立てた。
「夢って、オンかオフじゃないと思う」
その言葉を聞いて、私は少し笑った。
それと同時に、少し心が軽くなった気がした。
「真帆って、たまにすごいこと言うよね」
「たまに?」
「たまに」
「ひどい」
二人で笑った。
それ以降。
帰る時も、お風呂に入ってる時も。ご飯を食べてる時も、勉強してる時も。
私は真帆の言葉を何度もなぞり、忘れられなかった。
〜
日曜日。
オーディションの締め切り日。
私はまだ、応募用紙を前にしていた。
時計を見る。
午後十一時。
締め切りまでは、あと一時間しかない。
ゆっくりとスマホを手にとって写真を選ぶ。
入力する。
志望理由を書く。
ちょっと止まって消しては書く。ちょっと止まって消しては書くの繰り返し。
そして最後の欄。ここまで辿り着くのに長い時間がかかってしまった。
“あなたの夢を教えてください”
私の手が再び止まる。
夢…。
その字だけ私には大きく見え、重く感じた。
その言葉を見つめていると、昔の自分を思い出してしまう。
中学一年生。
初めて声優になりたいと思った日。
初めて台本を読んだ日。
初めてオーディションに応募した日。
落ちた日。
また挑戦した日。
また落ちた日。
演劇部の舞台で声が出なかった日。
母に「続けてもやめても応援する」と言われた夜。
莉子に「後悔することと、やめちゃいけないことは同じじゃない」と言われたあの日。
真帆に「夢って、オンかオフじゃない」と言われた日。
いろんな言葉が、頭の中に浮かんでは消えていった。
沢山の日が頭の中でフラッシュバックする。
私は入力欄に文字を打った。
――声優になりたいです。
そこで止まった。
その後に続く言葉は思いつかなかった。
削除して、もう一度書く。
――誰かの心に残る声を届けたいです。
それも消した。
綺麗すぎる。
それは、今の自分の言葉じゃない気がした。
いや違う、今の自分の言葉じゃないんだ。
私はしばらく考えてから、ゆっくり文字を打った。
――私は、まだ自分が本当に声優になりたいのか分かりません。
画面をタップしていた指が止まる。
こんなことを書いていいのだろうか。
オーディションなのに。
夢を語る場所なのに。
それでも、続きを書いた。
――でも、諦めたあとに後悔するのか、それとも挑戦したことを後悔するのか、それすら今の私には分かりません。
――だから、もう一度だけ挑戦してみたいです。
送信ボタンを押した。
画面に、
「応募を受け付けました」
と表示された。
私は椅子の背もたれに体を預けた。
「……送っちゃった」
怖かった。
でもなぜか、不思議と少しだけ笑えた。
〜
翌朝、学校に行くと、莉子が待っていた。
「送った?」
「……なんで知ってるの?」
「昨日、メッセージしたじゃん」
スマホを見る。
確かに、莉子からメッセージが来ていた。
――どうした?
私は返信していなかった。
「ごめん。見てなかった」
「嘘」
「え?」
「見てた顔してる」
「そんなの分かるの?」
「分かるよ」
莉子は笑った。
「で?」
「送った」
「そっか」
「うん」
「怖い?」
「ちょっと」
「私も昔、送信ボタン押すの怖かった」
莉子は窓の外を見た。
「押した瞬間、戻れなくなった気がした」
「分かる」
「でもね」
「うん」
「実際には、何も変わらなかった」
私は莉子を見た。
「落ちたら、ただ落ちただけだった」
「……うん」
「受かったら、きっと人生変わったんだろうけど」
「うん」
「でも、落ちたからって、それまでの私が全部間違いになったわけじゃなかった」
莉子は笑った。
「だから美月も、結果がどうでも大丈夫だよ」
「……どうでもいいって言われると、それはそれで複雑」
「じゃあ、結果は大事」
「うん」
「でも、結果だけが全部じゃない」
莉子の言葉にまた心が軽くなった。
〜
結果が届くまで、一か月。
その間、私は以前ほど必死に練習しなかった。
毎日ではなく、できる日だけ自分のペース続けた。
学校の勉強はもちろんしたし、友達とも遊んだ。
映画も沢山見て、帰り道に寄り道もした。
以前の私は、「夢のために何かをしなきゃ」と思っていたけと。
でも今はもう違う。
夢があるからって、夢以外の全部を捨てなくてもいい。
そう思えるようになった。
演劇部の活動にも少しずつ戻った。
以前は「声優の練習」として台詞を読んでいた。
今は、単純に演じることが楽しいと思える瞬間が増えた。
ある日の部活で、後輩が台詞の読み方に悩んでいた。
「美月先輩、ここってどうしたらいいですか?」
台本を見せられて、私は少し考えてからこう言った。
「一回、感情を入れないで読んでみたら?」
「え?」
「そのあと、どこで気持ちが変わったのか考える」
後輩が私の言った通りに読む。
「どう?」
「…なんか、なんとなく分かったような気がします」
「それならよかった」
その瞬間、私は気づいた。
誰かに教えるのが、楽しいんだ。
以前なら、「私は演じる側にならなきゃ」と思っていたけど。
舞台にはいろんな関わり方がある。
そのことの意味を今理解した気がした。
〜
ある日、莉子にそのことを話した。
「それ、いいんじゃない?」
「そうかな」
「うん」
「莉子は、もう声優になりたいと思わない?」
莉子は少し考えた。
「分からない」
「え?」
「昔はなりたかった。でも今は、別の夢もあるから」
「別の夢?」
「舞台を見るのが好きなんだ」
莉子は笑った。
「だから、今は舞台を作る側に興味がある」
「裏方ってこと?」
「うん。照明とか、音響とか。声優とかじゃなくても、誰かの心を動かす場所は作れるから」
私はその言葉を聞いて、納得した反面、莉子に対するモヤモヤも残った。
「それって……声優を諦めたってこと?」
「たぶんね」
「寂しくない?」
「もちろん」
莉子は笑った。
「でも、寂しいからって戻らなきゃいけないわけじゃないでしょ?」
私は頷いた。
「……そうだね」
「美月は?」
「え?」
「もし受かったら、どうするの?」
「分からない」
「もし落ちたら?」
「それも分からない」
莉子は笑った。
「じゃあ、まだ分からない同士だね」
分からない同士で空を見上げた。
空も心も前よりかはすっきりとしているのは私だけじゃないはずだ。
〜
ところが、その数日後。
莉子が学校を休んだ。
最初は風邪かと思った。
でも三日経っても来なかった。
私はメッセージを送った。
――大丈夫?
しばらくして返信が来た。
――大丈夫。ちょっと家のことで。
それ以上は聞かなかった。
聞いちゃいけないと心のどこかでストップがかかった。
そして莉子が学校を休んで四日目。
放課後、私は気になって莉子の家の近くまで行った。
インターホンを押そうとしたけど、やめた。
何を言えばいいのか分からなかったからだ。
帰ろうとしたとき、後ろから声がした。
「美月?」
振り返ると、莉子が立っていた。
「……来てたの?」
「うん」
「なんで?」
「心配だったから」
莉子は少し笑った。
「そっか」
「何かあった?」
「お父さんが仕事を辞めた」
私は黙った。
「しばらく大変になるみたい」
「……そっか」
「だから、大学のことも考え直してる」
「舞台の大学?」
「うん」
莉子は空を見上げた。
「たぶん、家から通えるところにする」
「…じゃあ、夢、変わっちゃうの…?」
「…分からない」
またその言葉だった。
莉子に会ってから何回の“わからない”を聞いただろう。
思い返すと、自然と笑みが溢れた。
「なんで笑ってるの?」
「私たち、何でも『分からない』だなぁと思って」
「確かにねぇ」
そう言う私に釣られて莉子も笑った。
「でも、美月」
「うん」
「夢を諦めるって、夢を嫌いになることじゃないよ」
「…つまり?」
「好きだけど、別のものを選ぶこともある」
「……うん」
「だから、美月がもし声優をやめても、私はそれを負けだとは思わない」
私は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「ありがとう」
「逆に、続けても負けじゃないけどね」
「それもそうだね」
私たちは笑った。
夕方の道に、長い影が伸びていた。
〜
一か月後。
結果が届いた。
不合格だった。
メールを開いた瞬間、胸が締め付けられた。
でも、泣かなかった。
以前なら、何日も引きずっていたかもしれない。
今回は違った。
スマホを机に置いて、窓を開けると、風が入ってきた。
私はしばらく空を見上げて考える。
「……落ちたか」
出てきた言葉、思いついた言葉はただそれだけだった。
不思議なくらい、静かだった。
けれど、その日の夜。
私は一人で布団の中に入ってから、少しだけ泣いてしまった。
落ちたことが悲しくないわけではなかった。
でも、悔しくないわけでもなかった。
正直に言えば、やっぱり受かりたかった。
受かれるものならそりゃ受かりたかった。
「もう一度だけ」と思って手を伸ばしたけど。その一度も、私の手も届かなかった。
スマホを手に取って、もう一度“不合格”の文字を見つめる。
合格への通知。
不合格の通知。
どちらも、たった数行。
何年も夢を見てきたのに。
何度も練習したのに。
何度も落ちたのに。
結果は、画面中のたった数行で終わってしまう。
私はそのことが、少しだけ可笑しかった。
夢って、案外あっけない。
そう思った。
でも同時に。
だからこそ、夢をどうするかは、結果だけで決めなくてもいいのかもしれないとも思った。
翌日、学校で莉子に伝えた。
「そっか」
「うん」
「どうする?」
「分からない」
「またそれ?」
「だって分からないんだもん」
二人で笑った。
すると莉子が言った。
「でも、美月」
「何?」
「一回挑戦してみて、それで分からなかったんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、前より分かるようになったじゃん」
私はその言葉を聞いて、少し考えた。
確かにそうだった。
受ける前の私は、「諦めたら後悔するかもしれない」と思っていた。
でも、受けて落ちた今は、
「挑戦しても、夢が消えるわけじゃない」
ということを知っている。
そしてもう一つ。
「夢を追っている自分」だけが、自分の全部ではない。
それも莉子のおかげで分かった。
〜
その日の帰り道。
駅のポスターの前で立ち止まった。
新しいオーディションの告知が貼られていた。
私はしばらく眺めた。
前なら、すぐに応募用紙を探していただろうけど、私はスマホを取り出して、ポスターの写真だけを撮って、その場を離れた。
応募するかどうかは、まだ決めてない。
〜
高校二年生の冬。
進路希望調査が配られた。
私は第一希望の欄に、大学の名前を書いた。
第二希望の欄には、専門学校の名前を書いた。
そして最後の「その他」の欄に、
「声優養成所」
と書いた。
先生に提出すると、
「進路、決まったんだね」
と言われた。
「……まだです」
「え?」
「まだ決めてません」
先生は進路希望調査の用紙を見て少し驚いた顔をする。
「でも、第一希望は大学なんだろ?」
「はい」
「じゃあ大学に行くんじゃないのか?」
「たぶん」
「たぶん?」
私は笑った。
「その紙にそう書いたからって言って絶対そこにいくとは限りませんし。人生って、そんなに簡単に決められないじゃないですか」
「それはそうだな」
先生は納得したような顔をして顎に手を当てる。
私は調査票を見た。
昔だったら、ここで声優という文字が書かれていたけど今はない。
でも、だからといって夢がなくなったわけではない。
夢の形を少し変えただけだ。
毎日追いかけるものではなくなった。
でも、私の中で完全になくなってはいない。
〜
ある夜。
私は父の部屋の前を通りかかった。
中から声が聞こえる。
「……うん。そうだな」
電話をしているようだった。
私はそのまま通り過ぎようとした。
でも、
「美月がどうするかは、あいつが決めることだから」
という言葉が聞こえて、足が止まった。
「俺たちは応援するしかないだろ」
少し間があった。
「……そうだな」
私はその場を離れた。
部屋に戻って、机の引き出しを開ける。
赤いペンで書いた、
「声優になる」
という文字。
私はその紙を手に取った。
そして、初めて裏返さなかった。
表にしたまま、机の上に置く。
昔の自分が書いた文字を見つめる。
その文字を消すのは簡単だった。
でも消す理由も、今の私にはない。
だから、代わりにその下へ小さく書き足した。
「いつか、また考える」
それが逃げなのか。
諦めなのか。
それとも、新しい夢の始まりなのか。
私には分からない。
〜
私はまた莉子と話していた。
「ねえ、美月」
「何?」
「結局、声優どうするの?」
「分からない」
「まだ言ってる」
「だって、本当に分からないんだもん」
「それもまた言ってる」
莉子は笑った。
「私は、たぶん舞台関係の大学を受ける」
「そっか」
「うん」
「頑張って。莉子ならできるよ」
「美月も」
「何を?」
「大学」
「声優は?」
「それも」
私たちは顔を見合わせた。
そして笑った。
少しだけ寂しかった。
これまで毎日のように会っていた人と、これからは違う場所へ行く。
でも、寂しいからといって、同じ場所に戻らなければならないわけではない。
そのことを、私は少しだけ分かっていた。
帰り道、駅で莉子と別れた。
「じゃあね」
「うん」
「また会おうね」
「もちろん」
手を振る。
莉子の姿が人混みに消えていく。
私は一人でホームに立った。
電車を待ちながら、スマホを取り出す。
撮ったままになっていた、あのオーディションのポスターの写真を開いた。
応募期限は、明日。
私は画面を見つめた。
応募することもできる。
しないこともできる。
どちらを選んでも、きっと何かを失う。
どちらを選んでも、きっと何かを得る。
私はまだ、その答えを知らない。
電車がホームに入ってきた。
風が吹く。
私はスマホの画面を閉じた。
そして、ポケットにしまった。
そのまま電車に乗る。
窓の外を眺めながら、ふと思った。
夢は、叶えるためだけにあるのだろうか。
追いかけるためだけにあるのだろうか。
諦めるためだけにあるのだろうか。
もしかしたら。
夢には、もっとたくさんの置き場所があるのかもしれない。
胸の奥に置いておくことも。
一度手放すことも。
遠くから眺めることも。
また拾い上げることも。
私はまだ、自分の夢をどこに置くのか決めていない。
ただ――
それでいいのだと思った。
窓に映った自分と目が合う。
私は、少しだけ笑った。
そしてポケットの中で、スマホを握った。
明日、応募するかもしれない。
しないかもしれない。
大学に行くかもしれない。
声優を目指すかもしれない。
全然違う道を選ぶかもしれない。
そのどれが正解なのか、今の私には分からない。
きっと、十年後の私にも分からない。
それでも。
十七歳の私は、十七歳なりに考えている。
自分の人生を。
自分の夢を。
そして、自分だけの「正解」を。
電車は、次の駅へ向かって走っていく。
まだ名前のない未来へ。
私は窓の外を見ながら、小さく呟いた。
「……またね、夢」
それが別れの言葉なのか。
再会の約束なのか。
私自身にも、まだ分からなかった。
私は、夢の置き場所を知らない。

