夢の置き場所
夢は、いつから「叶えるもの」になったのだろう。
小さい頃は、もっと簡単だった。
ケーキ屋さんになりたい。
宇宙飛行士になりたい。
アイドルになりたい。
そう言えば、大人たちは笑って「いいね」と言ってくれた。
叶うかどうかなんて、誰も聞かなかった。
けれど高校二年生になった今は違う。
夢を口にすると、決まって次の言葉がついてくる。
――どうしてなりたいの?
――どこの学校に行くの?
――その仕事で食べていけるの?
――本当に向いてると思う?
夢はいつの間にか、作文ではなく計画書になっていた。
私は、机の引き出しから一枚の紙を取り出した。
紙の一番上には、赤いペンで大きく書いてある。
「声優になる」
その文字を見つめていると、胸の奥が少しだけ痛んだ。
昔は、この文字を見るだけで嬉しかった。
今は違う。
見るたびに、「本当に?」と自分に聞き返したくなる。
私は紙を裏返した。
そこには、大学の名前が三つ並んでいた。
声優養成所。
専門学校。
そして、普通の四年制大学。
最後の選択肢だけ、まだ何も書き込まれていない。
その空白が、今の私には一番大きく見えた。
*
私が声優になりたいと思ったのは、中学一年生の冬だった。
たまたま見たアニメの最終回で、主人公が泣きながら言った台詞が忘れられなかった。
画面の中のキャラクターが泣いているのに、私はその声を聞いて、自分まで泣きそうになった。
そのとき初めて思った。
声だけで、人の心を動かせるんだ。
私はその日から、声優という仕事を調べ始めた。
オーディション。
発声練習。
演技。
滑舌。
専門学校。
養成所。
思っていたよりずっと厳しい世界だった。
それでも、やってみたいと思った。
両親に話したとき、父は少し黙ってから言った。
「いいんじゃないか。やりたいなら」
母は笑って、
「じゃあ、まず何をすればいいの?」
と聞いてくれた。
二人とも応援してくれた。
だから私は、頑張れた。
毎日発声練習をした。
帰宅してから台本を読んだ。
学校の演劇部にも入った。
休日にはオーディション情報を探した。
初めて受けたオーディションは、一次審査で落ちた。
二回目も落ちた。
三回目も。
それでも、そのたびに私は言った。
「次があるから」
四回目に落ちたときも。
「まだ始まったばかりだから」
五回目に落ちたときも。
「もっと練習すればいい」
六回目に落ちたとき、さすがに少しだけ黙った。
そして七回目。
結果は、不合格だった。
スマホの画面に表示されたその文字を見ながら、私はなぜか笑ってしまった。
「……またか」
それから私は、初めて思った。
もしかして、向いていないのかな。
その考えは、一度浮かんでしまうと、なかなか消えてくれなかった。
*
演劇部では、私は決して一番上手い部員ではなかった。
入部したばかりの頃は、声が大きいことだけを褒められた。
「美月は声が通るね」
先輩にそう言われると嬉しかった。
家に帰ってから、鏡の前で何度も同じ台詞を練習した。
嬉しい。
悲しい。
怒っている。
寂しい。
同じ言葉でも、声の出し方を変えると全然違って聞こえる。
それが面白かった。
だから続けられた。
高校一年生の文化祭では、私は脇役だった。
主役は、同じ学年の莉奈という子だった。
莉奈は演技が上手かった。
台詞を言うと、本当にその人物がそこにいるように見えた。
私は悔しかった。
けれど同時に、憧れた。
舞台袖から莉奈の演技を見ていると、胸の奥が熱くなった。
私も、あんなふうになりたい。
そう思った。
ところが、その年の冬。
部長から言われた。
「来年の大会、ナレーション役やってみない?」
「私が?」
「うん。美月、声がいいから」
嬉しかった。
声だけでも、誰かに必要としてもらえた気がした。
私は毎日練習した。
大会当日。
私は舞台袖で台本を握りしめていた。
照明が落ちる。
客席が静かになる。
合図が出る。
私はマイクに向かって声を出した。
最初の一文。
二文目。
三文目。
そこで、頭の中が真っ白になった。
次の台詞が出てこない。
たった数秒だったと思う。
けれど私には、永遠のように長かった。
ようやく台詞を思い出したときには、声が震えていた。
舞台が終わった。
私たちは入賞できなかった。
帰り道、部長は誰も責めなかった。
「みんな、お疲れ」
それだけだった。
私は一人でトイレに入り、鏡を見た。
自分の顔が情けなく見えた。
声優になりたい。
そう言いながら、舞台で一番大事なときに声が出なかった。
帰宅すると、母が、
「どうだった?」
と聞いた。
私は、
「普通」
と答えた。
その夜、布団の中で泣いた。
声優になりたいという気持ちと、
自分には無理なのかもしれないという気持ち。
二つが初めて、同じくらいの大きさになった夜だった。
*
「それ、まだ持ってたんだ」
昼休み。
隣の席から声がして、私は慌てて紙を閉じた。
「見た?」
「ちょっとだけ」
笑ったのは、幼なじみの真帆だった。
真帆は私が声優を目指していることを知っている。
というより、私が一番最初に夢を話した相手だ。
中学一年生の頃、私が興奮しながら声優について話したときも、
「じゃあ、私が一番最初のファンね」
と言ってくれた。
私は紙を机の中にしまった。
「もう、やめようかなって思ってる」
言ってから、自分でも驚いた。
今まで誰にも言えなかった言葉だった。
真帆はすぐには返事をしなかった。
「……そっか」
「うん」
「どうして?」
「分かんない」
私は窓の外を見た。
校庭では、一年生が体育の授業をしている。
「なんか……疲れた」
それが一番近い言葉だった。
「何回やっても落ちるし。私より上手い人なんていっぱいいるし。お金もかかるし。大学のことも考えないといけないし」
言葉が止まらなくなった。
「それにさ、最近思うんだ。私、声優になりたいんじゃなくて、声優になりたいって言ってる自分が好きだっただけなのかもって」
真帆は黙って聞いていた。
「だったら、普通に大学行って、普通に就職したほうがいいのかなって」
「……それが幸せ?」
私は答えられなかった。
「分かんない」
また同じ言葉が出た。
真帆は少しだけ笑った。
「そっか」
それ以上、何も言わなかった。
*
その日の放課後。
私は一人で駅へ向かっていた。
改札の前にある大きなポスターが目に入った。
声優オーディション。
高校生対象。
締め切りは、今週の日曜日。
私は立ち止まった。
写真の中には、笑顔の女の子がいた。
その顔を見ていると、胸の奥がざわざわした。
応募用紙をもらおうか。
やめようか。
手を伸ばしかけて、引っ込めた。
「……もういいや」
そう呟いた。
その瞬間だった。
「本当に?」
後ろから声がした。
振り返る。
知らない女の子だった。
制服は私と同じ高校のもの。
でも、見覚えはない。
「え?」
「今、『もういいや』って言ったでしょ」
「……聞いてたの?」
「うん」
女の子は悪びれる様子もなく答えた。
「ごめん。でも、気になって」
「何が?」
「そのポスター」
彼女はポスターを指差した。
「受けないの?」
「……受けない」
「どうして?」
「向いてないから」
すると女の子は、少し考えてから言った。
「へえ」
「……何?」
「私と同じこと言うんだなって」
彼女は笑った。
「私も、昔は声優になりたかったから」
心臓が少しだけ跳ねた。
「……昔?」
「うん」
「今は?」
「今は、なりたくない」
彼女はあっさり答えた。
「じゃあ、なんでここにいるの?」
「たまたま」
彼女はポスターを見上げた。
「たまたま見つけただけ」
それから私を見る。
「でも、あなたは違うでしょ」
「え?」
「あなた、諦めた人の顔してない」
私は何も言えなかった。
彼女は笑った。
「じゃあね」
「ちょっと待って」
気づけば私は呼び止めていた。
「名前……」
「ああ」
彼女は振り返った。
「莉子」
「私は……美月」
「知ってる」
「え?」
「同じクラスだから」
私は目を丸くした。
莉子は笑った。
「また明日ね、美月」
*
次の日から、莉子と話すようになった。
莉子は二年三組。
私は二年一組。
廊下ですれ違うと話す。
昼休みに一緒にお弁当を食べる日もあった。
不思議だった。
昨日までほとんど知らなかった人なのに、昔から知っていたような気がした。
莉子も以前、声優を目指していた。
中学三年生のとき、オーディションに何度も挑戦したらしい。
けれど高校受験をきっかけに、やめた。
「怖くなったんだよね」
ある日、莉子はそう言った。
「何が?」
「このまま続けて、何年も何年も受からなかったらどうしようって」
「……うん」
「だから、やめた」
「後悔してない?」
莉子は少し黙った。
「してるよ」
意外な答えだった。
「じゃあ、なんでやめたの?」
「後悔することと、やめちゃいけないことは、同じじゃないから」
その言葉が、胸に残った。
「やめたことを後悔してる。でも、やめたことで救われた自分もいる」
「……難しいね」
「うん。だから正解が分からない」
莉子は笑った。
「夢って、そういうものなんじゃない?」
私は返事をしなかった。
*
ある日の放課後、莉子が言った。
「私がやめた理由、もう一つあるんだ」
私たちは駅前のベンチに座っていた。
「何?」
「お金」
莉子は膝の上に置いた鞄を見た。
「養成所って、結構お金かかるじゃん」
「うん」
「うちは余裕がある家じゃなかったから」
私は何も言えなかった。
「母親がパートを増やしてくれたんだ」
「……そうなの?」
「うん。でも、ある日、母親が寝てるところを見たの。疲れ切ってて」
莉子は少し笑った。
「そのとき、私の夢のために誰かが無理してるのが嫌になった」
「だからやめた?」
「うん」
私は自分の家のことを思い出した。
両親は、私が声優を目指すことに反対したことはない。
教材も買ってくれた。
オーディションの交通費も出してくれた。
そのたびに私は「ありがとう」と言っていた。
でも。
それが当然だったわけではない。
「……私も」
口から言葉が出た。
「何?」
「私も、最近ちょっと思ってた」
「何を?」
「私が夢を追いかけることで、家族に負担をかけてるんじゃないかって」
莉子は私を見た。
「でも、美月のお母さん、応援してくれてるんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、本人がいいって言ってるならいいんじゃない?」
「……そう簡単じゃないよ」
「そう?」
「応援してくれるからこそ、やめづらいんだよ」
莉子は黙った。
私も黙った。
駅に電車が入ってくる音がした。
遠くから風が吹いてくる。
「応援されるって、難しいね」
莉子が呟いた。
「うん」
「反対されるより、ずっと難しいかも」
その言葉は、妙に胸に残った。
*
それから一週間。
私はオーディションのポスターの前を通るたびに立ち止まった。
応募用紙を取る。
家に持って帰る。
机の上に置く。
翌朝、捨てようとする。
でも捨てられない。
そんなことを繰り返した。
ある夜、母が部屋に入ってきた。
「まだ悩んでる?」
「うん」
「そっか」
母は私の机に置かれた応募用紙を見た。
「受けたいなら、受ければいいんじゃない?」
「……簡単に言わないでよ」
思わず強い口調になった。
母は少し驚いた。
「ごめん」
「だって、落ちたらどうするの?」
「うん」
「また落ちたら?」
「うん」
「何回落ちれば諦められるの?」
自分でも驚くくらい、声が震えていた。
「大学だってある。お金だってかかる。いつまでも夢だけ見てるわけにはいかないじゃん」
母は黙っていた。
私は俯いた。
「……ごめん」
「謝らなくていいよ」
母は椅子に座った。
「お母さんね、美月が夢を諦めても、応援するよ」
「……え?」
「もちろん、続けるならそれも応援する」
母は静かに言った。
「だから、お母さんが決めることじゃない」
その言葉を聞いて、私は余計に苦しくなった。
「そんなの……ずるいよ」
「どうして?」
「どっちでもいいって言われたら、自分で決めなきゃいけないじゃん」
母は笑った。
「そうだね」
それだけ言って、部屋を出ていった。
私はしばらく動けなかった。
やがて机の上の応募用紙を見た。
紙の端が少し折れていた。
私はそれを指で伸ばした。
そのとき、母の声が廊下から聞こえた。
「美月」
「なに?」
「お父さんも、同じこと言ってたよ」
「……何を?」
「美月が自分で決めたことなら、応援するって」
私は返事をしなかった。
ドアの向こうで、母が言った。
「ただし、一つだけお願いがある」
「何?」
「諦めるなら、自分のために諦めてね」
私は顔を上げた。
「誰かに言われたからじゃなくて」
母の足音が遠ざかっていく。
「続けるなら、それも自分のために」
部屋に静けさが戻った。
私は応募用紙を見つめた。
初めて、
「自分のため」
という言葉を、正面から考えた。
*
翌日。
真帆にその話をした。
「お母さん、いい人だね」
「そうなんだけど……」
「うん」
「決められない」
真帆はしばらく考えてから言った。
「じゃあ、決めなくてもいいんじゃない?」
「え?」
「今すぐ一生分を決めなくてもいいじゃん」
「でも、進路は決めないと」
「進路と人生って、同じじゃないでしょ」
私は黙った。
「美月はさ、夢を続けるか諦めるかの二択にしてるけど」
「うん」
「本当はもっといっぱいあるんじゃない?」
「いっぱい?」
「例えば、大学に行きながら続けるとか。趣味にするとか。一年間だけ挑戦するとか。一度やめて、また戻るとか」
真帆は指を一本ずつ立てた。
「夢って、オンかオフじゃないと思う」
その言葉を聞いて、私は少し笑った。
「真帆って、たまにすごいこと言うよね」
「たまに?」
「たまに」
「ひどい」
二人で笑った。
でも、その夜。
私は真帆の言葉を何度も思い出していた。
*
日曜日。
オーディションの締め切り日。
私は応募用紙を前にしていた。
時計を見る。
午後十一時。
締め切りまで一時間。
スマホを手に取る。
写真を選ぶ。
入力する。
志望理由を書く。
消す。
また書く。
消す。
最後の欄。
「あなたの夢を教えてください」
私は手を止めた。
夢。
その言葉を見つめていると、昔の自分を思い出した。
中学一年生。
初めて声優になりたいと思った日。
初めて台本を読んだ日。
初めてオーディションに応募した日。
落ちた日。
また挑戦した日。
また落ちた日。
演劇部の舞台で声が出なかった日。
母に「続けてもやめても応援する」と言われた夜。
莉子に「後悔することと、やめちゃいけないことは同じじゃない」と言われた日。
真帆に「夢って、オンかオフじゃない」と言われた日。
いろんな言葉が、頭の中に浮かんでは消えていった。
私は入力欄に文字を打った。
――声優になりたいです。
そこで止まった。
その後に続く言葉が思いつかなかった。
私は削除した。
もう一度書く。
――誰かの心に残る声を届けたいです。
それも消した。
綺麗すぎる。
今の自分の言葉じゃない。
私はしばらく考えてから、ゆっくり文字を打った。
――私は、まだ自分が本当に声優になりたいのか分かりません。
指が止まる。
こんなことを書いていいのだろうか。
オーディションなのに。
夢を語る場所なのに。
それでも、続きを書いた。
――でも、諦めたあとに後悔するのか、それとも挑戦したことを後悔するのか、それすら今の私には分かりません。
――だから、もう一度だけ挑戦してみたいです。
送信ボタンを押した。
画面に、
「応募を受け付けました」
と表示された。
私は椅子の背もたれに体を預けた。
「……送っちゃった」
怖かった。
でも、不思議と少しだけ笑えた。
*
翌朝、学校に行くと、莉子が待っていた。
「送った?」
「……なんで知ってるの?」
「昨日、メッセージしたじゃん」
スマホを見る。
確かに、莉子からメッセージが来ていた。
――どうした?
私は返信していなかった。
「ごめん。見てなかった」
「嘘」
「え?」
「見てた顔してる」
「そんなの分かるの?」
「分かるよ」
莉子は笑った。
「で?」
「送った」
「そっか」
「うん」
「怖い?」
「ちょっと」
「私も昔、送信ボタン押すの怖かった」
莉子は窓の外を見た。
「押した瞬間、戻れなくなった気がした」
「分かる」
「でもね」
「うん」
「実際には、何も変わらなかった」
私は莉子を見た。
「落ちたら、ただ落ちただけだった」
「……うん」
「受かったら、きっと人生変わったんだろうけど」
「うん」
「でも、落ちたからって、それまでの私が全部間違いになったわけじゃなかった」
莉子は笑った。
「だから美月も、結果がどうでも大丈夫だよ」
「……どうでもいいって言われると、それはそれで複雑」
「じゃあ、結果は大事」
「うん」
「でも、結果だけが全部じゃない」
「それならいい」
二人で笑った。
*
結果が届くまで、一か月。
その間、私は以前ほど必死に練習しなかった。
毎日ではない。
できる日だけやった。
学校の勉強もした。
友達とも遊んだ。
映画も見た。
帰り道に寄り道もした。
以前の私は、「夢のために何かをしなきゃ」と思っていた。
でも今は違った。
夢があるからって、夢以外の全部を捨てなくてもいい。
そう思えるようになった。
演劇部の活動にも少しずつ戻った。
以前は「声優の練習」として台詞を読んでいた。
今は、単純に演じることが楽しいと思える瞬間が増えた。
ある日の部活で、後輩が台詞の読み方に悩んでいた。
「美月先輩、ここってどうしたらいいですか?」
台本を見せられる。
私は少し考えた。
「一回、感情を入れないで読んでみたら?」
「え?」
「そのあと、どこで気持ちが変わったのか考える」
後輩が言われた通りに読む。
「どう?」
「なんとなく分かった気がします」
「よかった」
その瞬間、私は少し驚いた。
誰かに教えるのが、楽しかった。
以前なら、「私は演じる側にならなきゃ」と思っていた。
でも、舞台にはいろんな関わり方がある。
そのことを、少しずつ理解し始めていた。
*
ある日、莉子にそのことを話した。
「それ、いいんじゃない?」
「そうかな」
「うん」
「莉子は、もう声優になりたいと思わない?」
莉子は少し考えた。
「分からない」
「え?」
「昔はなりたかった。でも今は、別の夢もあるから」
「別の夢?」
「舞台を見るのが好きなんだ」
莉子は笑った。
「だから、今は舞台を作る側に興味がある」
「裏方?」
「うん。照明とか、音響とか。演者じゃなくても、誰かの心を動かす場所は作れるから」
私はその言葉を聞いて、少しだけ驚いた。
「それって……声優を諦めたってこと?」
「たぶんね」
「寂しくない?」
「もちろん」
莉子は笑った。
「でも、寂しいからって戻らなきゃいけないわけじゃないでしょ?」
私は頷いた。
「……そうだね」
「美月は?」
「え?」
「もし受かったら、どうするの?」
「分からない」
「もし落ちたら?」
「それも分からない」
莉子は笑った。
「じゃあ、まだ分からない同士だね」
私たちは笑った。
*
ところが、その数日後。
莉子が学校を休んだ。
最初は風邪かと思った。
でも三日経っても来なかった。
私はメッセージを送った。
――大丈夫?
しばらくして返信が来た。
――大丈夫。ちょっと家のことで。
それ以上は聞かなかった。
四日目。
放課後、私は莉子の家の近くまで行った。
インターホンを押そうとして、やめた。
何を言えばいいのか分からなかったからだ。
帰ろうとしたとき、後ろから声がした。
「美月?」
振り返ると、莉子が立っていた。
「……来てたの?」
「うん」
「なんで?」
「心配だったから」
莉子は少し笑った。
「そっか」
「何かあった?」
「お父さんが仕事を辞めた」
私は黙った。
「しばらく大変になるみたい」
「……そっか」
「だから、大学のことも考え直してる」
「舞台の大学?」
「うん」
莉子は空を見上げた。
「たぶん、家から通えるところにする」
「夢、変わる?」
「分からない」
またその言葉だった。
私は少しだけ笑った。
「私たち、何でも『分からない』だね」
「そうだね」
莉子も笑った。
「でも、美月」
「うん」
「夢を諦めるって、夢を嫌いになることじゃないよ」
私は黙って聞いた。
「好きだけど、今は別のものを選ぶこともある」
「……うん」
「だから、美月がもし声優をやめても、私はそれを負けだとは思わない」
私は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「ありがとう」
「逆に、続けても負けじゃないけどね」
「それもそうだね」
私たちは笑った。
夕方の道に、長い影が伸びていた。
*
一か月後。
結果は、不合格だった。
メールを開いた瞬間、胸が締め付けられた。
でも、泣かなかった。
以前なら、何日も引きずっていたかもしれない。
今回は違った。
スマホを机に置いて、窓を開けた。
冷たい風が入ってきた。
私はしばらく空を見た。
「……落ちたか」
それだけだった。
不思議なくらい、静かだった。
けれど、その日の夜。
私は一人で布団の中に入ってから、少しだけ泣いた。
悲しくないわけではなかった。
悔しくないわけでもなかった。
やっぱり受かりたかった。
「もう一度だけ」と思っていたのに、その一度も届かなかった。
スマホを手に取る。
合格者への通知。
不合格の通知。
どちらも、たった数行だった。
何年も夢を見てきたのに。
何度も練習したのに。
何度も落ちたのに。
結果は、画面の中の数行で終わってしまう。
私はそのことが、少しだけ可笑しかった。
夢って、案外あっけない。
そう思った。
でも同時に。
だからこそ、夢をどうするかは、結果だけで決めなくてもいいのかもしれない。
翌日、学校で莉子に伝えた。
「そっか」
「うん」
「どうする?」
「分からない」
「またそれ?」
「だって分からないんだもん」
二人で笑った。
すると莉子が言った。
「でも、美月」
「何?」
「一回挑戦してみて、それで分からなかったんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、前より分かるようになったじゃん」
私はその言葉を聞いて、少し考えた。
確かにそうだった。
受ける前の私は、
「諦めたら後悔するかもしれない」
と思っていた。
でも、受けて落ちた今は、
「挑戦しても、夢が消えるわけじゃない」
ということを知っている。
そしてもう一つ。
「夢を追っている自分」だけが、自分の全部ではない。
それも分かった。
*
その日の帰り道。
駅のポスターの前で立ち止まった。
新しいオーディションの告知が貼られていた。
私はしばらく眺めた。
前なら、すぐに応募用紙を探していただろう。
今は違った。
スマホを取り出す。
写真を撮った。
それから、その場を離れた。
応募するかどうかは、まだ決めなかった。
*
高校二年生の冬。
進路希望調査が配られた。
私は第一希望の欄に、大学の名前を書いた。
第二希望の欄には、専門学校の名前を書いた。
そして最後の「その他」の欄に、
「声優養成所」
と書いた。
先生に提出すると、
「進路、決まったんだね」
と言われた。
「……まだです」
「え?」
「決めてません」
先生は少し驚いた顔をした。
「でも、第一希望は大学なんだろ?」
「はい」
「じゃあ大学に行くんじゃないの?」
「たぶん」
「たぶん?」
私は笑った。
「人生って、そんなに簡単に決められないじゃないですか」
先生も笑った。
「それはそうだな」
私は調査票を見た。
昔だったら、ここで「声優になる」と書いていた。
今は違う。
でも、だからといって夢がなくなったわけではない。
夢は、少しだけ形を変えた。
毎日追いかけるものではなくなった。
でも、なくなってはいない。
*
ある夜。
私は父の部屋の前を通りかかった。
中から声が聞こえる。
「……うん。そうだな」
電話をしているようだった。
私はそのまま通り過ぎようとした。
でも、
「美月がどうするかは、あいつが決めることだから」
という言葉が聞こえて、足が止まった。
「俺たちは応援するしかないだろ」
少し間があった。
「……そうだな」
私はその場を離れた。
部屋に戻って、机の引き出しを開ける。
赤いペンで書いた、
「声優になる」
という文字。
私はその紙を手に取った。
そして、初めて裏返さなかった。
表にしたまま、机の上に置いた。
しばらく見つめる。
昔の自分が書いた文字。
その文字を消すことは、簡単だった。
でも消す理由も、今の私にはなかった。
だから、代わりにその下へ小さく書き足した。
「いつか、また考える」
それが逃げなのか。
諦めなのか。
それとも、新しい夢の始まりなのか。
私には分からない。
*
卒業式の日。
校門の前で、私は莉子と話していた。
「ねえ、美月」
「何?」
「結局、声優どうするの?」
「分からない」
「まだ言ってる」
「だって、本当に分からないんだもん」
莉子は笑った。
「私は、たぶん舞台関係の大学を受ける」
「そっか」
「うん」
「頑張って」
「美月も」
「何を?」
「大学」
「声優は?」
「それも」
私たちは顔を見合わせた。
そして笑った。
少しだけ寂しかった。
これまで毎日のように会っていた人と、これからは違う場所へ行く。
でも、寂しいからといって、同じ場所に戻らなければならないわけではない。
そのことを、私は少しだけ分かっていた。
帰り道、駅で莉子と別れた。
「じゃあね」
「うん」
「また会おうね」
「もちろん」
手を振る。
莉子の姿が人混みに消えていく。
私は一人でホームに立った。
電車を待ちながら、スマホを取り出す。
撮ったままになっていた、あのオーディションのポスターの写真を開いた。
応募期限は、明日。
私は画面を見つめた。
応募することもできる。
しないこともできる。
どちらを選んでも、きっと何かを失う。
どちらを選んでも、きっと何かを得る。
私はまだ、その答えを知らない。
電車がホームに入ってきた。
風が吹く。
私はスマホの画面を閉じた。
そして、ポケットにしまった。
そのまま電車に乗る。
窓の外を眺めながら、ふと思った。
夢は、叶えるためだけにあるのだろうか。
追いかけるためだけにあるのだろうか。
諦めるためだけにあるのだろうか。
もしかしたら。
夢には、もっとたくさんの置き場所があるのかもしれない。
胸の奥に置いておくことも。
一度手放すことも。
遠くから眺めることも。
また拾い上げることも。
私はまだ、自分の夢をどこに置くのか決めていない。
ただ――
それでいいのだと思った。
窓に映った自分と目が合う。
私は、少しだけ笑った。
そしてポケットの中で、スマホを握った。
明日、応募するかもしれない。
しないかもしれない。
大学に行くかもしれない。
声優を目指すかもしれない。
全然違う道を選ぶかもしれない。
そのどれが正解なのか、今の私には分からない。
きっと、十年後の私にも分からない。
それでも。
十七歳の私は、十七歳なりに考えている。
自分の人生を。
自分の夢を。
そして、自分だけの「正解」を。
電車は、次の駅へ向かって走っていく。
まだ名前のない未来へ。
私は窓の外を見ながら、小さく呟いた。
「……またね、夢」
それが別れの言葉なのか。
再会の約束なのか。
私自身にも、まだ分からなかった。
私は、夢の置き場所を知らない。
夢は、いつから「叶えるもの」になったのだろう。
小さい頃は、もっと簡単だった。
ケーキ屋さんになりたい。
宇宙飛行士になりたい。
アイドルになりたい。
そう言えば、大人たちは笑って「いいね」と言ってくれた。
叶うかどうかなんて、誰も聞かなかった。
けれど高校二年生になった今は違う。
夢を口にすると、決まって次の言葉がついてくる。
――どうしてなりたいの?
――どこの学校に行くの?
――その仕事で食べていけるの?
――本当に向いてると思う?
夢はいつの間にか、作文ではなく計画書になっていた。
私は、机の引き出しから一枚の紙を取り出した。
紙の一番上には、赤いペンで大きく書いてある。
「声優になる」
その文字を見つめていると、胸の奥が少しだけ痛んだ。
昔は、この文字を見るだけで嬉しかった。
今は違う。
見るたびに、「本当に?」と自分に聞き返したくなる。
私は紙を裏返した。
そこには、大学の名前が三つ並んでいた。
声優養成所。
専門学校。
そして、普通の四年制大学。
最後の選択肢だけ、まだ何も書き込まれていない。
その空白が、今の私には一番大きく見えた。
*
私が声優になりたいと思ったのは、中学一年生の冬だった。
たまたま見たアニメの最終回で、主人公が泣きながら言った台詞が忘れられなかった。
画面の中のキャラクターが泣いているのに、私はその声を聞いて、自分まで泣きそうになった。
そのとき初めて思った。
声だけで、人の心を動かせるんだ。
私はその日から、声優という仕事を調べ始めた。
オーディション。
発声練習。
演技。
滑舌。
専門学校。
養成所。
思っていたよりずっと厳しい世界だった。
それでも、やってみたいと思った。
両親に話したとき、父は少し黙ってから言った。
「いいんじゃないか。やりたいなら」
母は笑って、
「じゃあ、まず何をすればいいの?」
と聞いてくれた。
二人とも応援してくれた。
だから私は、頑張れた。
毎日発声練習をした。
帰宅してから台本を読んだ。
学校の演劇部にも入った。
休日にはオーディション情報を探した。
初めて受けたオーディションは、一次審査で落ちた。
二回目も落ちた。
三回目も。
それでも、そのたびに私は言った。
「次があるから」
四回目に落ちたときも。
「まだ始まったばかりだから」
五回目に落ちたときも。
「もっと練習すればいい」
六回目に落ちたとき、さすがに少しだけ黙った。
そして七回目。
結果は、不合格だった。
スマホの画面に表示されたその文字を見ながら、私はなぜか笑ってしまった。
「……またか」
それから私は、初めて思った。
もしかして、向いていないのかな。
その考えは、一度浮かんでしまうと、なかなか消えてくれなかった。
*
演劇部では、私は決して一番上手い部員ではなかった。
入部したばかりの頃は、声が大きいことだけを褒められた。
「美月は声が通るね」
先輩にそう言われると嬉しかった。
家に帰ってから、鏡の前で何度も同じ台詞を練習した。
嬉しい。
悲しい。
怒っている。
寂しい。
同じ言葉でも、声の出し方を変えると全然違って聞こえる。
それが面白かった。
だから続けられた。
高校一年生の文化祭では、私は脇役だった。
主役は、同じ学年の莉奈という子だった。
莉奈は演技が上手かった。
台詞を言うと、本当にその人物がそこにいるように見えた。
私は悔しかった。
けれど同時に、憧れた。
舞台袖から莉奈の演技を見ていると、胸の奥が熱くなった。
私も、あんなふうになりたい。
そう思った。
ところが、その年の冬。
部長から言われた。
「来年の大会、ナレーション役やってみない?」
「私が?」
「うん。美月、声がいいから」
嬉しかった。
声だけでも、誰かに必要としてもらえた気がした。
私は毎日練習した。
大会当日。
私は舞台袖で台本を握りしめていた。
照明が落ちる。
客席が静かになる。
合図が出る。
私はマイクに向かって声を出した。
最初の一文。
二文目。
三文目。
そこで、頭の中が真っ白になった。
次の台詞が出てこない。
たった数秒だったと思う。
けれど私には、永遠のように長かった。
ようやく台詞を思い出したときには、声が震えていた。
舞台が終わった。
私たちは入賞できなかった。
帰り道、部長は誰も責めなかった。
「みんな、お疲れ」
それだけだった。
私は一人でトイレに入り、鏡を見た。
自分の顔が情けなく見えた。
声優になりたい。
そう言いながら、舞台で一番大事なときに声が出なかった。
帰宅すると、母が、
「どうだった?」
と聞いた。
私は、
「普通」
と答えた。
その夜、布団の中で泣いた。
声優になりたいという気持ちと、
自分には無理なのかもしれないという気持ち。
二つが初めて、同じくらいの大きさになった夜だった。
*
「それ、まだ持ってたんだ」
昼休み。
隣の席から声がして、私は慌てて紙を閉じた。
「見た?」
「ちょっとだけ」
笑ったのは、幼なじみの真帆だった。
真帆は私が声優を目指していることを知っている。
というより、私が一番最初に夢を話した相手だ。
中学一年生の頃、私が興奮しながら声優について話したときも、
「じゃあ、私が一番最初のファンね」
と言ってくれた。
私は紙を机の中にしまった。
「もう、やめようかなって思ってる」
言ってから、自分でも驚いた。
今まで誰にも言えなかった言葉だった。
真帆はすぐには返事をしなかった。
「……そっか」
「うん」
「どうして?」
「分かんない」
私は窓の外を見た。
校庭では、一年生が体育の授業をしている。
「なんか……疲れた」
それが一番近い言葉だった。
「何回やっても落ちるし。私より上手い人なんていっぱいいるし。お金もかかるし。大学のことも考えないといけないし」
言葉が止まらなくなった。
「それにさ、最近思うんだ。私、声優になりたいんじゃなくて、声優になりたいって言ってる自分が好きだっただけなのかもって」
真帆は黙って聞いていた。
「だったら、普通に大学行って、普通に就職したほうがいいのかなって」
「……それが幸せ?」
私は答えられなかった。
「分かんない」
また同じ言葉が出た。
真帆は少しだけ笑った。
「そっか」
それ以上、何も言わなかった。
*
その日の放課後。
私は一人で駅へ向かっていた。
改札の前にある大きなポスターが目に入った。
声優オーディション。
高校生対象。
締め切りは、今週の日曜日。
私は立ち止まった。
写真の中には、笑顔の女の子がいた。
その顔を見ていると、胸の奥がざわざわした。
応募用紙をもらおうか。
やめようか。
手を伸ばしかけて、引っ込めた。
「……もういいや」
そう呟いた。
その瞬間だった。
「本当に?」
後ろから声がした。
振り返る。
知らない女の子だった。
制服は私と同じ高校のもの。
でも、見覚えはない。
「え?」
「今、『もういいや』って言ったでしょ」
「……聞いてたの?」
「うん」
女の子は悪びれる様子もなく答えた。
「ごめん。でも、気になって」
「何が?」
「そのポスター」
彼女はポスターを指差した。
「受けないの?」
「……受けない」
「どうして?」
「向いてないから」
すると女の子は、少し考えてから言った。
「へえ」
「……何?」
「私と同じこと言うんだなって」
彼女は笑った。
「私も、昔は声優になりたかったから」
心臓が少しだけ跳ねた。
「……昔?」
「うん」
「今は?」
「今は、なりたくない」
彼女はあっさり答えた。
「じゃあ、なんでここにいるの?」
「たまたま」
彼女はポスターを見上げた。
「たまたま見つけただけ」
それから私を見る。
「でも、あなたは違うでしょ」
「え?」
「あなた、諦めた人の顔してない」
私は何も言えなかった。
彼女は笑った。
「じゃあね」
「ちょっと待って」
気づけば私は呼び止めていた。
「名前……」
「ああ」
彼女は振り返った。
「莉子」
「私は……美月」
「知ってる」
「え?」
「同じクラスだから」
私は目を丸くした。
莉子は笑った。
「また明日ね、美月」
*
次の日から、莉子と話すようになった。
莉子は二年三組。
私は二年一組。
廊下ですれ違うと話す。
昼休みに一緒にお弁当を食べる日もあった。
不思議だった。
昨日までほとんど知らなかった人なのに、昔から知っていたような気がした。
莉子も以前、声優を目指していた。
中学三年生のとき、オーディションに何度も挑戦したらしい。
けれど高校受験をきっかけに、やめた。
「怖くなったんだよね」
ある日、莉子はそう言った。
「何が?」
「このまま続けて、何年も何年も受からなかったらどうしようって」
「……うん」
「だから、やめた」
「後悔してない?」
莉子は少し黙った。
「してるよ」
意外な答えだった。
「じゃあ、なんでやめたの?」
「後悔することと、やめちゃいけないことは、同じじゃないから」
その言葉が、胸に残った。
「やめたことを後悔してる。でも、やめたことで救われた自分もいる」
「……難しいね」
「うん。だから正解が分からない」
莉子は笑った。
「夢って、そういうものなんじゃない?」
私は返事をしなかった。
*
ある日の放課後、莉子が言った。
「私がやめた理由、もう一つあるんだ」
私たちは駅前のベンチに座っていた。
「何?」
「お金」
莉子は膝の上に置いた鞄を見た。
「養成所って、結構お金かかるじゃん」
「うん」
「うちは余裕がある家じゃなかったから」
私は何も言えなかった。
「母親がパートを増やしてくれたんだ」
「……そうなの?」
「うん。でも、ある日、母親が寝てるところを見たの。疲れ切ってて」
莉子は少し笑った。
「そのとき、私の夢のために誰かが無理してるのが嫌になった」
「だからやめた?」
「うん」
私は自分の家のことを思い出した。
両親は、私が声優を目指すことに反対したことはない。
教材も買ってくれた。
オーディションの交通費も出してくれた。
そのたびに私は「ありがとう」と言っていた。
でも。
それが当然だったわけではない。
「……私も」
口から言葉が出た。
「何?」
「私も、最近ちょっと思ってた」
「何を?」
「私が夢を追いかけることで、家族に負担をかけてるんじゃないかって」
莉子は私を見た。
「でも、美月のお母さん、応援してくれてるんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、本人がいいって言ってるならいいんじゃない?」
「……そう簡単じゃないよ」
「そう?」
「応援してくれるからこそ、やめづらいんだよ」
莉子は黙った。
私も黙った。
駅に電車が入ってくる音がした。
遠くから風が吹いてくる。
「応援されるって、難しいね」
莉子が呟いた。
「うん」
「反対されるより、ずっと難しいかも」
その言葉は、妙に胸に残った。
*
それから一週間。
私はオーディションのポスターの前を通るたびに立ち止まった。
応募用紙を取る。
家に持って帰る。
机の上に置く。
翌朝、捨てようとする。
でも捨てられない。
そんなことを繰り返した。
ある夜、母が部屋に入ってきた。
「まだ悩んでる?」
「うん」
「そっか」
母は私の机に置かれた応募用紙を見た。
「受けたいなら、受ければいいんじゃない?」
「……簡単に言わないでよ」
思わず強い口調になった。
母は少し驚いた。
「ごめん」
「だって、落ちたらどうするの?」
「うん」
「また落ちたら?」
「うん」
「何回落ちれば諦められるの?」
自分でも驚くくらい、声が震えていた。
「大学だってある。お金だってかかる。いつまでも夢だけ見てるわけにはいかないじゃん」
母は黙っていた。
私は俯いた。
「……ごめん」
「謝らなくていいよ」
母は椅子に座った。
「お母さんね、美月が夢を諦めても、応援するよ」
「……え?」
「もちろん、続けるならそれも応援する」
母は静かに言った。
「だから、お母さんが決めることじゃない」
その言葉を聞いて、私は余計に苦しくなった。
「そんなの……ずるいよ」
「どうして?」
「どっちでもいいって言われたら、自分で決めなきゃいけないじゃん」
母は笑った。
「そうだね」
それだけ言って、部屋を出ていった。
私はしばらく動けなかった。
やがて机の上の応募用紙を見た。
紙の端が少し折れていた。
私はそれを指で伸ばした。
そのとき、母の声が廊下から聞こえた。
「美月」
「なに?」
「お父さんも、同じこと言ってたよ」
「……何を?」
「美月が自分で決めたことなら、応援するって」
私は返事をしなかった。
ドアの向こうで、母が言った。
「ただし、一つだけお願いがある」
「何?」
「諦めるなら、自分のために諦めてね」
私は顔を上げた。
「誰かに言われたからじゃなくて」
母の足音が遠ざかっていく。
「続けるなら、それも自分のために」
部屋に静けさが戻った。
私は応募用紙を見つめた。
初めて、
「自分のため」
という言葉を、正面から考えた。
*
翌日。
真帆にその話をした。
「お母さん、いい人だね」
「そうなんだけど……」
「うん」
「決められない」
真帆はしばらく考えてから言った。
「じゃあ、決めなくてもいいんじゃない?」
「え?」
「今すぐ一生分を決めなくてもいいじゃん」
「でも、進路は決めないと」
「進路と人生って、同じじゃないでしょ」
私は黙った。
「美月はさ、夢を続けるか諦めるかの二択にしてるけど」
「うん」
「本当はもっといっぱいあるんじゃない?」
「いっぱい?」
「例えば、大学に行きながら続けるとか。趣味にするとか。一年間だけ挑戦するとか。一度やめて、また戻るとか」
真帆は指を一本ずつ立てた。
「夢って、オンかオフじゃないと思う」
その言葉を聞いて、私は少し笑った。
「真帆って、たまにすごいこと言うよね」
「たまに?」
「たまに」
「ひどい」
二人で笑った。
でも、その夜。
私は真帆の言葉を何度も思い出していた。
*
日曜日。
オーディションの締め切り日。
私は応募用紙を前にしていた。
時計を見る。
午後十一時。
締め切りまで一時間。
スマホを手に取る。
写真を選ぶ。
入力する。
志望理由を書く。
消す。
また書く。
消す。
最後の欄。
「あなたの夢を教えてください」
私は手を止めた。
夢。
その言葉を見つめていると、昔の自分を思い出した。
中学一年生。
初めて声優になりたいと思った日。
初めて台本を読んだ日。
初めてオーディションに応募した日。
落ちた日。
また挑戦した日。
また落ちた日。
演劇部の舞台で声が出なかった日。
母に「続けてもやめても応援する」と言われた夜。
莉子に「後悔することと、やめちゃいけないことは同じじゃない」と言われた日。
真帆に「夢って、オンかオフじゃない」と言われた日。
いろんな言葉が、頭の中に浮かんでは消えていった。
私は入力欄に文字を打った。
――声優になりたいです。
そこで止まった。
その後に続く言葉が思いつかなかった。
私は削除した。
もう一度書く。
――誰かの心に残る声を届けたいです。
それも消した。
綺麗すぎる。
今の自分の言葉じゃない。
私はしばらく考えてから、ゆっくり文字を打った。
――私は、まだ自分が本当に声優になりたいのか分かりません。
指が止まる。
こんなことを書いていいのだろうか。
オーディションなのに。
夢を語る場所なのに。
それでも、続きを書いた。
――でも、諦めたあとに後悔するのか、それとも挑戦したことを後悔するのか、それすら今の私には分かりません。
――だから、もう一度だけ挑戦してみたいです。
送信ボタンを押した。
画面に、
「応募を受け付けました」
と表示された。
私は椅子の背もたれに体を預けた。
「……送っちゃった」
怖かった。
でも、不思議と少しだけ笑えた。
*
翌朝、学校に行くと、莉子が待っていた。
「送った?」
「……なんで知ってるの?」
「昨日、メッセージしたじゃん」
スマホを見る。
確かに、莉子からメッセージが来ていた。
――どうした?
私は返信していなかった。
「ごめん。見てなかった」
「嘘」
「え?」
「見てた顔してる」
「そんなの分かるの?」
「分かるよ」
莉子は笑った。
「で?」
「送った」
「そっか」
「うん」
「怖い?」
「ちょっと」
「私も昔、送信ボタン押すの怖かった」
莉子は窓の外を見た。
「押した瞬間、戻れなくなった気がした」
「分かる」
「でもね」
「うん」
「実際には、何も変わらなかった」
私は莉子を見た。
「落ちたら、ただ落ちただけだった」
「……うん」
「受かったら、きっと人生変わったんだろうけど」
「うん」
「でも、落ちたからって、それまでの私が全部間違いになったわけじゃなかった」
莉子は笑った。
「だから美月も、結果がどうでも大丈夫だよ」
「……どうでもいいって言われると、それはそれで複雑」
「じゃあ、結果は大事」
「うん」
「でも、結果だけが全部じゃない」
「それならいい」
二人で笑った。
*
結果が届くまで、一か月。
その間、私は以前ほど必死に練習しなかった。
毎日ではない。
できる日だけやった。
学校の勉強もした。
友達とも遊んだ。
映画も見た。
帰り道に寄り道もした。
以前の私は、「夢のために何かをしなきゃ」と思っていた。
でも今は違った。
夢があるからって、夢以外の全部を捨てなくてもいい。
そう思えるようになった。
演劇部の活動にも少しずつ戻った。
以前は「声優の練習」として台詞を読んでいた。
今は、単純に演じることが楽しいと思える瞬間が増えた。
ある日の部活で、後輩が台詞の読み方に悩んでいた。
「美月先輩、ここってどうしたらいいですか?」
台本を見せられる。
私は少し考えた。
「一回、感情を入れないで読んでみたら?」
「え?」
「そのあと、どこで気持ちが変わったのか考える」
後輩が言われた通りに読む。
「どう?」
「なんとなく分かった気がします」
「よかった」
その瞬間、私は少し驚いた。
誰かに教えるのが、楽しかった。
以前なら、「私は演じる側にならなきゃ」と思っていた。
でも、舞台にはいろんな関わり方がある。
そのことを、少しずつ理解し始めていた。
*
ある日、莉子にそのことを話した。
「それ、いいんじゃない?」
「そうかな」
「うん」
「莉子は、もう声優になりたいと思わない?」
莉子は少し考えた。
「分からない」
「え?」
「昔はなりたかった。でも今は、別の夢もあるから」
「別の夢?」
「舞台を見るのが好きなんだ」
莉子は笑った。
「だから、今は舞台を作る側に興味がある」
「裏方?」
「うん。照明とか、音響とか。演者じゃなくても、誰かの心を動かす場所は作れるから」
私はその言葉を聞いて、少しだけ驚いた。
「それって……声優を諦めたってこと?」
「たぶんね」
「寂しくない?」
「もちろん」
莉子は笑った。
「でも、寂しいからって戻らなきゃいけないわけじゃないでしょ?」
私は頷いた。
「……そうだね」
「美月は?」
「え?」
「もし受かったら、どうするの?」
「分からない」
「もし落ちたら?」
「それも分からない」
莉子は笑った。
「じゃあ、まだ分からない同士だね」
私たちは笑った。
*
ところが、その数日後。
莉子が学校を休んだ。
最初は風邪かと思った。
でも三日経っても来なかった。
私はメッセージを送った。
――大丈夫?
しばらくして返信が来た。
――大丈夫。ちょっと家のことで。
それ以上は聞かなかった。
四日目。
放課後、私は莉子の家の近くまで行った。
インターホンを押そうとして、やめた。
何を言えばいいのか分からなかったからだ。
帰ろうとしたとき、後ろから声がした。
「美月?」
振り返ると、莉子が立っていた。
「……来てたの?」
「うん」
「なんで?」
「心配だったから」
莉子は少し笑った。
「そっか」
「何かあった?」
「お父さんが仕事を辞めた」
私は黙った。
「しばらく大変になるみたい」
「……そっか」
「だから、大学のことも考え直してる」
「舞台の大学?」
「うん」
莉子は空を見上げた。
「たぶん、家から通えるところにする」
「夢、変わる?」
「分からない」
またその言葉だった。
私は少しだけ笑った。
「私たち、何でも『分からない』だね」
「そうだね」
莉子も笑った。
「でも、美月」
「うん」
「夢を諦めるって、夢を嫌いになることじゃないよ」
私は黙って聞いた。
「好きだけど、今は別のものを選ぶこともある」
「……うん」
「だから、美月がもし声優をやめても、私はそれを負けだとは思わない」
私は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「ありがとう」
「逆に、続けても負けじゃないけどね」
「それもそうだね」
私たちは笑った。
夕方の道に、長い影が伸びていた。
*
一か月後。
結果は、不合格だった。
メールを開いた瞬間、胸が締め付けられた。
でも、泣かなかった。
以前なら、何日も引きずっていたかもしれない。
今回は違った。
スマホを机に置いて、窓を開けた。
冷たい風が入ってきた。
私はしばらく空を見た。
「……落ちたか」
それだけだった。
不思議なくらい、静かだった。
けれど、その日の夜。
私は一人で布団の中に入ってから、少しだけ泣いた。
悲しくないわけではなかった。
悔しくないわけでもなかった。
やっぱり受かりたかった。
「もう一度だけ」と思っていたのに、その一度も届かなかった。
スマホを手に取る。
合格者への通知。
不合格の通知。
どちらも、たった数行だった。
何年も夢を見てきたのに。
何度も練習したのに。
何度も落ちたのに。
結果は、画面の中の数行で終わってしまう。
私はそのことが、少しだけ可笑しかった。
夢って、案外あっけない。
そう思った。
でも同時に。
だからこそ、夢をどうするかは、結果だけで決めなくてもいいのかもしれない。
翌日、学校で莉子に伝えた。
「そっか」
「うん」
「どうする?」
「分からない」
「またそれ?」
「だって分からないんだもん」
二人で笑った。
すると莉子が言った。
「でも、美月」
「何?」
「一回挑戦してみて、それで分からなかったんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、前より分かるようになったじゃん」
私はその言葉を聞いて、少し考えた。
確かにそうだった。
受ける前の私は、
「諦めたら後悔するかもしれない」
と思っていた。
でも、受けて落ちた今は、
「挑戦しても、夢が消えるわけじゃない」
ということを知っている。
そしてもう一つ。
「夢を追っている自分」だけが、自分の全部ではない。
それも分かった。
*
その日の帰り道。
駅のポスターの前で立ち止まった。
新しいオーディションの告知が貼られていた。
私はしばらく眺めた。
前なら、すぐに応募用紙を探していただろう。
今は違った。
スマホを取り出す。
写真を撮った。
それから、その場を離れた。
応募するかどうかは、まだ決めなかった。
*
高校二年生の冬。
進路希望調査が配られた。
私は第一希望の欄に、大学の名前を書いた。
第二希望の欄には、専門学校の名前を書いた。
そして最後の「その他」の欄に、
「声優養成所」
と書いた。
先生に提出すると、
「進路、決まったんだね」
と言われた。
「……まだです」
「え?」
「決めてません」
先生は少し驚いた顔をした。
「でも、第一希望は大学なんだろ?」
「はい」
「じゃあ大学に行くんじゃないの?」
「たぶん」
「たぶん?」
私は笑った。
「人生って、そんなに簡単に決められないじゃないですか」
先生も笑った。
「それはそうだな」
私は調査票を見た。
昔だったら、ここで「声優になる」と書いていた。
今は違う。
でも、だからといって夢がなくなったわけではない。
夢は、少しだけ形を変えた。
毎日追いかけるものではなくなった。
でも、なくなってはいない。
*
ある夜。
私は父の部屋の前を通りかかった。
中から声が聞こえる。
「……うん。そうだな」
電話をしているようだった。
私はそのまま通り過ぎようとした。
でも、
「美月がどうするかは、あいつが決めることだから」
という言葉が聞こえて、足が止まった。
「俺たちは応援するしかないだろ」
少し間があった。
「……そうだな」
私はその場を離れた。
部屋に戻って、机の引き出しを開ける。
赤いペンで書いた、
「声優になる」
という文字。
私はその紙を手に取った。
そして、初めて裏返さなかった。
表にしたまま、机の上に置いた。
しばらく見つめる。
昔の自分が書いた文字。
その文字を消すことは、簡単だった。
でも消す理由も、今の私にはなかった。
だから、代わりにその下へ小さく書き足した。
「いつか、また考える」
それが逃げなのか。
諦めなのか。
それとも、新しい夢の始まりなのか。
私には分からない。
*
卒業式の日。
校門の前で、私は莉子と話していた。
「ねえ、美月」
「何?」
「結局、声優どうするの?」
「分からない」
「まだ言ってる」
「だって、本当に分からないんだもん」
莉子は笑った。
「私は、たぶん舞台関係の大学を受ける」
「そっか」
「うん」
「頑張って」
「美月も」
「何を?」
「大学」
「声優は?」
「それも」
私たちは顔を見合わせた。
そして笑った。
少しだけ寂しかった。
これまで毎日のように会っていた人と、これからは違う場所へ行く。
でも、寂しいからといって、同じ場所に戻らなければならないわけではない。
そのことを、私は少しだけ分かっていた。
帰り道、駅で莉子と別れた。
「じゃあね」
「うん」
「また会おうね」
「もちろん」
手を振る。
莉子の姿が人混みに消えていく。
私は一人でホームに立った。
電車を待ちながら、スマホを取り出す。
撮ったままになっていた、あのオーディションのポスターの写真を開いた。
応募期限は、明日。
私は画面を見つめた。
応募することもできる。
しないこともできる。
どちらを選んでも、きっと何かを失う。
どちらを選んでも、きっと何かを得る。
私はまだ、その答えを知らない。
電車がホームに入ってきた。
風が吹く。
私はスマホの画面を閉じた。
そして、ポケットにしまった。
そのまま電車に乗る。
窓の外を眺めながら、ふと思った。
夢は、叶えるためだけにあるのだろうか。
追いかけるためだけにあるのだろうか。
諦めるためだけにあるのだろうか。
もしかしたら。
夢には、もっとたくさんの置き場所があるのかもしれない。
胸の奥に置いておくことも。
一度手放すことも。
遠くから眺めることも。
また拾い上げることも。
私はまだ、自分の夢をどこに置くのか決めていない。
ただ――
それでいいのだと思った。
窓に映った自分と目が合う。
私は、少しだけ笑った。
そしてポケットの中で、スマホを握った。
明日、応募するかもしれない。
しないかもしれない。
大学に行くかもしれない。
声優を目指すかもしれない。
全然違う道を選ぶかもしれない。
そのどれが正解なのか、今の私には分からない。
きっと、十年後の私にも分からない。
それでも。
十七歳の私は、十七歳なりに考えている。
自分の人生を。
自分の夢を。
そして、自分だけの「正解」を。
電車は、次の駅へ向かって走っていく。
まだ名前のない未来へ。
私は窓の外を見ながら、小さく呟いた。
「……またね、夢」
それが別れの言葉なのか。
再会の約束なのか。
私自身にも、まだ分からなかった。
私は、夢の置き場所を知らない。

