しばらく泣いて、どのくらいの時間が経ったのだろう。
女の子は呆れることもなく、ずっと私の傍にいて、背中を撫で続けていてくれた。
知らない人の前で泣いてしまった罪悪感と申し訳なさとで、顔が上げられなかった。
「……ご、ごめんなさい……、急に、泣いたりして……」
言葉に詰まりながらもそう言うと、女の子の優しい声が落ちてくる。
「いいのいいの! 泣きたい時は泣いていいんだよ?」
「え……?」
泣きたい時は泣いていい。
その言葉がじんわりと心に沁み込んでいく。
「落ち着いた?」
「え、あ、はい……」
女の子は背負っていた卵型のリュックから、ペットボトルを一本取り出した。
「これ、良かったら飲んで。さっき自販機で買ったばかりだから」
そう言って強引に水の入ったペットボトルを手渡される。
「え、いや、でも……」
「いいからちゃんと飲む!」
「は、はい……」
女の子に促されてペットボトルに口を付ければ、相当喉が渇いていたのか、ごくごくと半分以上を飲み干してしまった。
「ん! 水飲めて偉い!」
女の子はにこっと笑うと、私の頭を勢いよく撫でる。
照れくさかったけれど、それが妙に心地よくて嬉しかった。
「んで、どうしたん? 制服ってことは学校帰り?」
女の子が聞いてくる。
私達はその辺の車止めへと腰を下ろした。
少しずつ日が暮れ始めていたけれど、広場は相変わらず賑やかなままだった。
「いえ……、一度家に帰ったんです。でも……」
「帰りたくないんだ?」
女の子に言われて、私はドキッとする。
帰りたくない。帰ってもまた、お父さんとお母さんから怒鳴られ、叩かれるだけ……。
私はこくんと小さく頷いた。
「そっか」
女の子は淡泊にそう答えた。
「今日はどうするの? ホテルとか、友達の家に泊まるの?」
そういえば、慌てて家を飛び出したせいで、私は何も持って来ていなかった。
制服のポケットには、所持金三千円の入った小さなお財布とスマートフォン。
「ホテル……泊まるお金はなさそうです……。友達も、いなくて……」
家にも学校にも居場所がない私は、誰に頼ることもできない。
「そっか」
女の子はまた同じように頷くと、「じゃあさ!」と明るく言った。
「うち、来なよ!」
「え?」
「うち、すぐそこなんだ。ちょっとボロいけど。それでも良ければ!」
女の子はにこっと微笑む。
「い、いいの……?」
「うん! もちろん! 嫌だったら誘わないって!」
私は驚いて目を瞬かせる。
こんな見ず知らずの私に優しくしてくれて、あまつさえ泊めてくれようとしている彼女の存在が信じられなかったのだ。
だって今まで、そんなふうに私を助けてくれた人はいなかったから……。
「お、お邪魔、しても、……いいの?」
「うん! おいで! あ、名前! 言いそびれてたよね。私、愛川 莉音。気軽に莉音って呼んで!」
「わ、私は、櫻井 心春、です……」
「心春! 可愛い名前!」
莉音は綺麗な顔に笑顔を浮かべて、またにこっと明るく笑う。
私には莉音が、神様みたいに思えた。
「じゃあ、行こっか!」
莉音は私に手を差し伸べた。
白くて細くて、少しだけかさついた手だった。
私が恐る恐る手を重ねれば、莉音はぎゅっと握り返してくれた。
すごく温かな手。
私は安心してまた少し、涙が出そうになってしまった。
広場から十分ほど歩いた住宅街の一角、小さなアパートの前で莉音は足を止めた。
「ここの二階だよん」
カンカンカンとブーツのヒールの音を響かせながら、錆びた階段を二人で昇る。
そうして一番奥の部屋へとやってくると、莉音はポケットからジャラジャラといろんなキーホルダーの付いた鍵を取り出して、ドアノブを回した。
「ほんと狭くて汚いけど、まぁ、雨風はしのげる!」
「どうぞ~」と促されて、私は部屋へと足を踏み入れた。
「お、お邪魔します……」
小さなアパートの一室は、服やコンビニ弁当のゴミが散らばっていて、お世辞にも綺麗とは言えなかった。
部屋の入り口で佇んでしまった私をどう思ったのか、莉音は焦ったような声を出す。
「ごめん、心春! 汚いよね? 今片付けるから!」
言うや否や、莉音は手直に落ちていた袋にゴミを突っ込んでいく。
「わ、私も手伝う?」
「いいの! いいの! お客さんは座ってて!」
丸いピンク色のクッションをこちらへ寄越した莉音は、私に座るように促した。
腰を下ろして改めて部屋を見回してみれば、ドレッサーの前に大量の化粧品が置かれていて雪崩れていた。その足元に薬箱のような透明なケースがあり、たくさんの薬が入っている。
落ちていた服を洗濯機と洗濯籠に突っ込んだ莉音は、ようやく私の隣に腰を下ろした。
「ふー、ひとまずこれで勘弁して!」
先程よりも足場が広くなり、ゴミは綺麗に片付けられていた。
「わ、わざわざ、ごめんね……」
「ううん! こっちこそ! 片付けようとは思ってたんだけど、ついつい後回しにしちゃって! 心春が来てくれたおかげで、片付けるいい機会になったよ~」
あはは、と照れたように笑う莉音。
明るくて気さくで、いいなって、莉音を見て素直に思った。
きっと友達もたくさんいるんだろうな……。
「ご、ごめんね……急にこんな……迷惑掛けて……」
「迷惑? 迷惑なんかじゃないよ~! 私、心春と友達になれて嬉しいし!」
「えっ、と、友達……?」
「あ、友達っていうのはまだ早かったかな? でも私、心春と友達になりたいなって思って!」
莉音はにこっと嬉しそうに笑う。
莉音の言葉がゆっくりと胸に沁み込んで、ぎゅっと苦しかった心が、少しだけ解けていったような気がした。
「とにかく! 好きなだけここにいたらいいよ!」
「え? でも、ご家族とか……」
「大丈夫! どうせ帰って来ないから」
「え? それはお仕事で……?」
「さあ? 知らない。興味もないし」
莉音は自分のネイルを見つめながら、どこか虚ろに言う。
もしかして莉音も、家族とうまくいっていないのかな。
……私と、同じなのかも……。
そう思って、思い切って言ってみる。
「わ、私も、家族とうまくいっていなくて……。学校にも、友達がいなくて……。どこにも居場所がないの……」
私の言葉に、莉音は一瞬目を丸くして、それからにこっと笑顔に戻る。
「そっか! 私と同じだ。私達、もしかしたら似た者同士なのかもね!」
「う、うん……!」
同じ。なんて心強い言葉なんだろう。
それから莉音と一緒に晩ご飯を作った。
豚肉とキャベツときのこを焼き肉のタレだけで炒めた簡単なご飯だったけど、何故だかものすごく美味しくてお箸が止まらなかった。
「はー、食べた食べた! あ、アイスあるけど、食べる? デザートは別腹でしょ?」
「う、うん!」
莉音はにひひと笑うと、冷凍庫からアイスを二つ持って来て、私の目の前に置いた。
「ほい、ハロゲンダッツの秋限定マロン味!」
「え、こ、コンビニ限定の……?」
「そ! 昨日買ったの!」
「い、いいの?」
ハロゲンダッツは高校生の私達からしたら少しお高いカップのアイスクリーム。
きっと莉音も楽しみに、大事に食べようと思っていたはずだよね。それを私なんかが食べてもいいのかなって、不安になった。
莉音は相変わらず気さくな笑みを浮かべると、私にスプーンを渡した。
「いいよん! 一緒に食べた方が美味しいでしょ?」
莉音はまたにひひっと笑う。
「あ、ありがとう……!」
私はスプーンでアイスをすくうと、ゆっくり口の中に入れた。栗の甘みが口いっぱいに広がって、アイスと一緒に辛い心も溶けていくみたいだった。
満たされるような心地がしたのは、きっとアイスのおかげだけじゃないけれど。
その日は小さな一人用のベッドで、莉音とくっついて眠った。
誰かの家に泊まって、誰かの布団で眠るなんて初めてのはずなのに、何故だか家のベッドよりも心地よくてぐっすりと眠れたような気がした。
翌朝、午前六時。
私はいつもと同じ時間に目を覚ました。
早く朝食を作らないと、お母さんに怒られる、そう思って慌てて身体を起こしたけれど、そこは見知らぬ部屋だった。
隣を見ると、すやすやと眠る同い年くらいの女の子がいて、私はふっと肩の力を抜いた。
そうだった……、私、家を出て来たんだった……。
飲んだくれの父にヒステリックな母。
今戻れば、今までどこに行っていたのだと、確実に怒鳴られるだろう。
「学校……どうしよう……」
学校に連絡はいっているのだろうか。もし両親が学校に連絡をしていたら、きっと家に連れ戻される。そうして結局怒られるだろう。
教室に私の居場所はない。
誰もが私をいないみたいに無視して、先生すら私を見てみぬふりをする。
ぼうっとしていると、隣の布団がもぞりと動く。
「……んー? もう朝~?」
莉音が目を擦りながら、枕元のスマホに手を伸ばす。
「げ、まだ六時じゃん!」
「ご、ごめんね、起こしちゃって……」
「んーん、大丈夫。心春、寝れなかった?」
「あ、ううん。ちゃんと眠れたよ。でも、学校どうしよう、って思って……」
私が言うと、莉音は私の腕を強く引っ張った。
私はバランスを崩して、そのまま布団に背中を預けてしまう。
「学校なんて行かなくていーよ」
「え? で、でも……」
「学校、行きたくないんでしょ? 本当は」
行きたくない……?
そう、なのかもしれない。
「……あれ……? 私、なんのために学校行っていたんだろう……?」
学校に私の居場所はない。
それなのにどうして、私はあんなに必死に学校に通っていたんだろう?
「心春。人生楽しんだもん勝ちって言うじゃん? 楽しいほうが正解だよ」
莉音は布団の中でにひひっと笑った。
「二度寝しちゃお! んで起きたら美味しい朝ごはん食べて、どっか遊びに行こうよ!」
学校を一度もサボったことのない私にとって、その提案は魅力的であり、ものすごく背徳的だった。
「う、うん……!」
私の返事に、莉音はまた笑って、ゆっくりと目を閉じた。
うん、そうだよ。
学校なんて行く必要ない。
だってそこに私の居場所はないんだから。私がいてもいなくても、きっと気に掛ける人なんて誰一人いない。
それなら、私をちゃんと見てくれる人、莉音と一緒にいたほうがいいに決まってる。
私も布団を掛け直すと、莉音と同じようにもう一度目を閉じた。
次に目を覚ましたのは、お昼前だった。
陽はとっくに高くなっていて、カーテンの隙間から漏れた光が、部屋を明るく照らしていた。
「……学校……本当にサボっちゃった……」
壁に掛けてもらっていた制服のポケットからスマホを取り出すと、通知欄には何も来ていなかった。
ほっとしたと同時に、何故だかズキっと胸が痛む。
お父さんもお母さんも、やっぱり私のことを気に掛けていないんだって、改めて思い知らされた気がしたんだ。
私はそのまま、スマホの電源を切った。
「んーっ! よく寝たっ!」
莉音が気持ち良さそうに伸びをして起き上がった。
「おはよ~、心春~」
「お、おはようっ」
私は慌てて制服のポケットにスマホを戻した。
莉音はカーテンを開けると、「もうお昼じゃん!」と笑って、「朝昼ごはん食べたら、出掛けよ!」と私の手を握った。
私も「うん!」と大きく頷いた。
「制服のままだと目立つから、これ着て」
莉音はクローゼットから黒のパーカーを取り出して、私に貸してくれた。
「ありがとう」
「ん!」
莉音と一緒にアパートを出て、私達は街を歩く。
昨日と同じように広場にやってくると、やっぱり昨日と同じように私達と同い年くらいの子達が集まっていた。
この子達も、学校には行っていないのかな。
「やっほー莉音~」
「莉音来るのおっそー」
莉音の周りに、女の子達が集まってくる。
「おはよん~」
「おはようの時間じゃないっつの。んじゃまた~」
「うん、また~」
軽く挨拶を交わしただけで、二人は去って行く。
それからも擦れ違う人達から声を掛けられる莉音。
「す、すごいね……友達がたくさん……。莉音ってやっぱり人気者なんだ……」
私が驚いていると、莉音はからからと笑う。
「そんなんじゃないよ~。心春もすぐに仲良くなれるよ。この広場にいる子達はみんな、いい子ばっかりだから」
「そ、そうかな……」
「そうだよっ」
莉音が言うと、本当にそんな気になるから不思議だ。
「あの、聞いてもいい?」
「もちろん」
私は昨日から気になっていたことを、莉音に尋ねてみることにした。
「どうしてみんなこの広場に集まってるの? 昨日も集まってたけど、なにかイベントがあるとか?」
私の質問に、莉音は「違う違う」と笑いながら顔の前で手を振った。
「ここはいつもこんな感じなの」
「こんな感じ?」
「そ。家とか学校に居場所がなくて、どこに行ったらいいか分からない。そういう子達が集まる場所なんだよ~」
「家にも、学校にも、居場所がない……」
それはまるきり、私と一緒だった。
家では両親から暴力を振るわれ、学校ではいじめられ。
私の居場所は、どこにもない。
私は広場を見回した。
何人かで集まっていて、楽しそうな笑い声も聞こえる。
そっか、ここにいる子達はみんな、私と同じ境遇の子達なんだ。
家にも学校にも、居場所のない子達。
そう思うと、少しだけ親近感が湧いてくる。
「莉音~」
「お、みっちーやほ~!」
可愛らしいピンク色の服に身を包んだ女の子が、莉音の元へとやって来る。
私に視線を向けると、一瞬誰だろうみたいな顔をしたけれど、にこっと笑ってくれる。
「莉音の知り合い?」
私がもごもごしていると、莉音がさらっと紹介してくれた。
「そ! 心春って言うの! 超可愛いっしょ?」
私は慌てて頭を下げる。
「こっ、心春です……っ!」
「こはるん! よろしく~」
みっちーと呼ばれた女の子は気さくに挨拶を返してくれた。この子も莉音と同じで、それ以上何も訊いてくることはなかった。
「莉音、これ、渡したかったんよ」
みっちーは小さな紙袋を手渡す。
「お! 頼んでたやつだ! あんがと! みっちー」
「昨日夜渡すって言ってたのに、広場にいないからさぁ~」
「あ……、すっかり忘れてたよ~」
小さな紙袋を受け取った莉音は、ポケットからお財布を取り出し、千円札をいくつか彼女に渡した。
「ん、たしかに。ほいじゃ、またね~」
「はーい、ありがとー」
みっちーはそそくさとその場を後にする。
莉音はみっちーから受け取った紙袋を、大事そうに卵型のリュックにしまった。
なにを受け取ったんだろう……?
莉音に尋ねようと口を開きかけると、広場がざわざわとし出して、さっきまで集まっていた子達が散り散りになっていく。
「あれ、みんなどうしたんだろう?」
大人の人が数人やって来て、集まった子達に声を掛けているのが見えた。
莉音は慌てたように私の手を引いて歩き出す。
「心春、こっち! 急いで!」
「え? う、うん!」
莉音に促されるまま、私も広場を後にした。
その日はそのまま莉音の家に帰ることになった。
莉音に「なにかあったの?」と聞くと。
「よくあることなんだよ~。誰にも迷惑掛けてないのに、広場に集まるな~とか、学校に行け~とか言ってくるの。大人はなんにも助けてくれないくせにね」
莉音にしては珍しく、少しだけ棘のある言い方だった。
莉音もやっぱり、大人を信用していないんだ。
知らなかっただけで、もしかしたら私と同じような悩みを抱えている子は多いのかもしれなかった。



