揺蕩う雲の向かう先


 真っ青な空に白い雲が所在なげにぷかぷかと浮いている。
 今にも消え入りそうな薄い雲を見つけて、ふと、ああ、私みたいだな……、そう思った。

 教室を見回せば、クラスメイトたちは楽しそうに笑っている。
 友達の話、彼氏彼女の話、好きなアイドルの話、昨日の配信番組なんていう、本当に些細な話で盛り上がっている姿を見て、私は漠然と思う。


 私、どうしてここにいるんだろう?
 どこにいるのが正解なんだろう?


 目線を落とした机の上には、チョークで書かれた落書き。それに丸められた紙屑。ノートはぼろぼろに引き裂かれていて、教科書もところどころ破れていた。

 再びクラスを見回せば、私なんていないみたいに、こっちに視線を向ける者は誰一人としていなかった。

 もしかして私って、ここに存在していないのかな……?
 そんな錯覚を覚える。

 17歳、高校二年生になった私、櫻井 心春(さくらい こはる)は、クラスメイトからいじめられていた。

 何故いじめられているのか、私にはその理由が分からない。
 私が何をしたと言うのだろう? 
 とろくてどんくさいから、気に入らなかった?
 何をしても言い返さないから、ストレス発散の捌け口にちょうど良かった?

 分からない。
 一人だな、って思った。うん、独りだ。

 視線を窓の外の青空に戻せば、さっきの雲は跡形もなく消えてしまっていた。
 居場所のない私も、あの雲みたいに消えちゃうのかな。

 私の居場所って、どこにあるんだろう?
 私がいていい場所ってどこにあるんだろう?
 間違えた場所にいるから、こんなに苦しいのかな……。

 私を必要としてくれて、私がいても大丈夫だって思える場所。
 少なくともここ、学校に、私の居場所はないみたいだった。



 放課後。チャイムが鳴ると、私は一目散に教室を飛び出して帰路に就く。
 学校は息が詰まる。早く外に出たかった。

 廊下に出ると、隣のクラスから出て来た男子とばっちり目が合った。

 整った顔立ちに少しだけ驚きの色を滲ませて、彼は私を見つめた。
 彼の名前は、一ノ瀬 湊(いちのせ みなと)。私の小学生の頃からの幼馴染だ。

 湊とは高校二年生になってクラスが離れてしまって、それからあまり話さなくなった。それまではお互いの家を行き来するくらい仲が良かったのに。

「よお」

 湊は手を挙げる。

「えっと……よお……」

 私も弱々しく手を挙げる。

 そうだ、湊に相談してみようか。
 でも、なんて相談したらいいんだろう?
 「クラスでいじめられているの、助けてください」って?

 そんなこと言えるはずがなかった。

 いじめられてるなんて、恥ずかしくて湊に言えるわけない。

 そうこうしている間に、同じように隣の教室から出て来た男子が湊に声を掛けて、そのまま湊を連れて行ってしまった。
 私を気に掛けるように振り返る湊を見送って、私はまた独り、ぽつんと廊下に取り残された。

「……帰ろう……」

 私は重い脚を精一杯前に出しながら、家路を歩いた。




「ただいま……」

 玄関の扉を開けて早々、ガシャンっと大きな音が響く。お皿が割れたようなそんな音。
 動悸がして、息苦しくなってくる。

 もう、帰ってきてるんだ……。

 リビングの様子は見なくても分かる。見ないほうがいい。だけど無視すれば余計に酷くなることが分かっている。
 私は渋々リビングへの扉を開いた。

 扉を開けた途端、むわっとたばこの煙が鼻についた。
 思わずけほっと咳き込んでしまえば、父と母、二人の視線が私を射抜いた。

「あら、心春。帰ってたの」
「た、ただいま……」

 お母さんの足元には、割れた真っ白のお皿。粉々になって破片がこちらまで散らばっている。
 ソファにどかっと背を預けた父が、またたばこをふーっとくゆらせて、煙と一緒にだるそうに言葉を吐き出した。

「心春、帰ったのならたばこと酒、買って来てくれ」
「え……。わ、私、買えないよ……未成年だし……」

 一段と大きなため息が聞こえたかと思うと、灰皿が勢いよく飛んでくる。灰皿は私の後ろの壁にぶつかって、ガランっと大きな音を立てて転がった。
 辛うじて私には当たらなかったものの、恐怖で身体が動かなくなる。

「ちっ、使えねえな……」

 お父さんは私をぎろりと睨む。

 また叩かれる……!
 瞬時にそう思った。

 ゴンっとグラスが机に叩きつけられる音がして、お母さんが言う。

「心春、夕飯の支度して。お母さんお腹空いてるの」

 お酒の入った瓶を傾けながら、お母さんは私に言う。
 私の返事なんて一切待たずに、お母さんはヒステリックに叫んだ。

「早く支度しろって言ってんの! お母さん仕事で疲れてるの分からない!? お父さんがリストラされて、どれだけ頑張ってるか分かるでしょ!? 役立たずの、こんな男と結婚したせいで、私の人生めちゃくちゃ……っ!!」

 お母さんの言葉に、「おい、今なんつった!?」とお父さんが立ち上がる。

「あんたがもっとちゃんと働いていれば、クビになんてならなかったでしょう!!」
「俺はちゃんと働いてただろうが!! お前に何が分かるっていうんだ!!」

 二人の怒声が、頭の奥まで響く。

 もう嫌だ、嫌だ。

 ここにも私の居場所はない。

 私は後退ると、リビングを飛び出して、そのまま家まで飛び出した。
 失業し飲んだくれの父。そして心が壊れてしまったみたいにヒステリックに叫び散らす母。
 家を出てすぐ、うちからまた大きな音がして、罵声が聞こえた。

 私は耳を塞ぎながら走り続けた。
 家にも学校にも私の居場所はない。
 お父さんもお母さんも先生も頼れない。


 私の居場所はどこ? 
 どこにいるのが正解なの?


 私はただ、ここにいていいんだって思える場所がほしいだけなのに……。



 帰る場所も行く場所もなく街中を彷徨って、辿り着いたのは繁華街のような場所だった。
 ネオンの光が鮮やかにピカピカと輝いていて、同い年くらいの子がたくさん集まっていた。

 賑やかな場所……。こんなところがあったんだ……。

 何があるというわけではないけれど、そこはちょっとした広場になっていて、私と同じ歳くらいの男女がそこかしこでお喋りしていた。なんだかみんな楽しそう……。

 周りに大人はいない。教室を思い出す。
 見ず知らずの人が、私をいじめることなんてきっとない。だけどどうしても息苦しくなってしまう。

 ぎゅっと手を握りしめていると、一人の女の子がひょこっと私の顔を覗き込んできた。

「やっほー」
「え?」
「大丈夫?」

 こてんと可愛らしく首を傾げたのは高校生くらいの女の子。太腿丸出しの短いスカートに、黒いうさぎの耳が付いたパーカー。首からなにかカード型のケースを下げている。
 急に話し掛けられた私は、なんと言っていいのか分からず、ただただ彼女の綺麗な顔を見つめてしまった。

「一人で辛そうにしてたから、声掛けたんだけど……。平気? 体調悪い?」

 女の子は心配そうに眉を下げながら、私の背中を擦ってくれた。
 一瞬両親に叩かれた記憶が蘇ったけれど、その手はすごく温かくて、すごく優しかった。
 ただそれだけのことなのに、何故だか自然と涙が溢れて、私は泣いてしまった。
 やっと少しだけ、ほっと息がつけた。

「ありゃりゃ……。よしよし、怖くないよ~、大丈夫だからね」

 女の子は小さい子をあやすように、私の背中を優しくぽんぽんと撫でてくれた。


 私はきっとずっと、こうしてほしかったんだなぁって、やっとその時、気が付いたんだ。