恋するヤンキーに憑かれた王子は、カエルになりたい!



玄関を開け、「ただいま」と言うと、奥から明美のスリッパの音が近づいてきた。

家へ入る前から、肉を焼いた匂いがしている。

「おかえり。デート、どうだった? あれ、今日は壁島くん、早いのね」

デートって言うな、というのと、これは自分からのメッセージを読んでいないな、という二重の危機感に、七穂はぎょっとした。

説明を挟もうとするより先に、

「こんばんは。壁島です。初めまして」

と、壁島が挨拶した。

明美の笑顔が、一瞬で消えた。玄関先に立つ壁島をまじまじと見つめ、

「ほ、本物ぉおっ!?」

と、叫んだ。目を見開いて壁島を見上げ、口をぱくぱくさせた。

「ご飯に呼んだ。連絡入れたんだけど。いいよね?」

誤魔化すように早口で言い、七穂は靴を脱いだ。

「あがってください」

声をかけると、壁島は母親の反応に当然、戸惑っていた。

「お母さん!」

七穂がたしなめるように呼ぶと、明美は、はっとして、

「どうぞ、あがってね! どうぞどうぞ、どうぞ!」

と、ほとんど「どうぞ」以外の語彙を失いながら、壁島へ来客用のスリッパを出した。

「お邪魔します」

そう言って、ようやく壁島は家へあがった。

居間へ案内する途中、洗面所へ立ち寄って手を洗う。

「すげーびっくりしてたけど、大丈夫なのか?」

壁島が少し不安そうに訊いた。

「大丈夫です」

七穂が力強く答えた、ちょうどその時。

「お兄ちゃん、おかえり」

祈がやって来た。洗面所へ入ろうとして、入り口に立っていた壁島へぶつかる。

「は?」

鼻をぶつけた祈は、壁島を見上げた。

「こんばんは。邪魔でごめん」

壁島が申し訳なさそうに、そっと横へよける。

「本物じゃん!!!」

叫ぶ祈の口を、七穂は慌てて塞いだ。きょとんとしている壁島の腕を取り、居間へ連れていく。

ドアを開けた先では、秀進がソファで夕刊を読んでいた。

「じいちゃん」

嫌な予感しかしないので、七穂は早めに声をかけた。

しかし、

「お邪魔します。壁島といいます」

と壁島が挨拶した途端、

「挨拶するようになったんか」

と、秀進が顔を上げて言った。

七穂は慌てて壁島をぺたぺたと触り、実体であることを無言で祖父へ伝えた。

秀進は目を見開き、大きく頷いてから、

「本物じゃ!!!」

と、わざわざ大声で言った。何のために無言で伝えたと思っているのか。七穂は頭を抱えた。

「お茶でもどうぞ!」

完全に上擦った声で明美が言い、ダイニングテーブルへ冷たいお茶を置いた。

「椅子、持ってきました!!」

祈も、やけに大きな声を出しながら、七穂の隣へ椅子を足す。

「せんべい食うか!」

秀進まで口を挟んできたところで、

「みんな、一回落ち着いて?」

と、さすがに七穂は言った。

「急にお邪魔してすみません。これ、ご飯の足しにしてください」

壁島が明美へ近寄り、コロッケの袋を渡した。

「あらあら、まあまあ。どうもありがとう! みんな、コロッケ大好きよ」

ぐんと見上げながら、明美はようやく普通に笑った。

「本物を間近で見ると、めちゃくちゃ大きいですね。身長いくつですか?」

七穂は目で「本物とか言うな」と訴えたが、祈は目の前の壁島に興味津々だった。ぱっと見は、こんなに大きくて怖い。けれど、生き霊が内面や本音を漏らすところを一方的に知っているものだから、すっかり壁島を舐め切っている。

「188」

壁島はそう答えながら、七穂と祈の間に用意された席へ座った。

「でっかー!」

祈は、きゃははと笑った。明らかにテンションがおかしくなっている。橘家は基本的に来客が好きなのだ。しかも、それがあの壁島である。生き霊ではない、本物の姿でやって来た。

肉野菜炒めとサラダ、玉ねぎと豆腐の味噌汁、筑前煮、漬物、枝豆が、次々とテーブルへ並ぶ。少し温め直したコロッケも、一緒に置かれた。

ちょうどその頃、康二が帰ってきて、廊下からどたばたと足音が聞こえた。

これ以上騒がれたくなかったので、あらかじめ『壁島さん、家に呼んだから』と連絡しておいた。

それなのに、

「本当に本物だぁ!!!」

と、またしてもわざわざ大声で言った。うちには馬鹿しかいないのだと七穂は天を仰いだ。父にも自己紹介を済ませた壁島が、少し七穂へ身を寄せた。

「『本物』って何?」

もっともな疑問を、小声で口にする。

「いや、あのー……階段から落ちた時に助けてくれたとか、そういう話を家族にもしたんで……」

七穂は真っ赤になりながら答え、

「いただきます!」

と、半ばやけになってサラダを食べ始めた。

夜七時過ぎ。いつもの時間。

「壁島くん、ドレッシングは何にする? 胡麻? 醤油? フレンチ?」

「じゃあ、胡麻で」

「うま! このコロッケ、めっちゃ美味しいんだけど! どこの?」

「三鍋町の……堀越通りから一本奥に入ったところにある肉屋の」

「あの、古い写真館の近くのところかな?」

「はい」

「美味い!」

家族全員の視線を一度に浴びながら、壁島は食べては受け答えを繰り返していた。

ちらりと横顔を見る。緊張はしているようだったが、笑う目元は、いつもと変わらない気がした。

「壁島くん、何かスポーツとかしてるのかな? その体格だし」

康二が訊いた。

壁島は食べている口元を手で隠し、

「柔道してます」

と答えた。

「え。柔道? 知らなかった」

七穂が言うと、壁島は七穂を見て少し笑った。

「うち、柔道部ないから。学校ではやってない」

「どこかの道場に通ってるのかしら?」

明美が訊いた。

「はい。祖父がやってる道場があって、そこで」

「どこにある道場?」

「吉木町ってところの──」

「え!!」

明美が素っ頓狂な声を上げた。

「行ってた! この子、小さい頃、その道場のちびっこ教室に行ってたのよ!」

目をきらきらと輝かせて立ち上がり、居間にある大きな飾り棚の奥を探り始める。

「柔道してたのか?」

壁島が七穂に向き直った。

「いや、少しでやめたから、してたってほどではないです。してたのは水泳くらい」

「柔道は、大人の試合を見たら怖くなっちゃったんだよね」

「そうだっけ?」

康二まで、

「泣いちゃって、稽古にならなかったからなぁ」

と、懐かしそうに言う。

壁島もまた微笑みかけてくるので、七穂はどんな顔をすればいいのか分からなくなった。家族と、自分を好きでいてくれる人との間で板挟みになり、居心地が悪い気もする。それでも、壁島が笑っていてくれることが嬉しかった。

「ほら! これ」

棚の奥から取り出した四角い缶の中から、明美が写真を持ってきた。

全員で頭を突き合わせ、テーブルへ並べられた写真を見る。

真新しい柔道着に身を包み、ピースをしている黒髪の幼い七穂。先生の話を正座で聞いている姿。休憩中、お茶を飲みながら、カメラを向ける母親へ手を振っているところ。

それらを眺めていた壁島が、

「ふっ」

と笑った。

七穂がそちらを見ると、

「ごめん」

と口元を隠しながら、まだにやにやしている。

(はい、今かわいいって思いました~~~!!!!)

橘家全員がそう思い、目だけで「やれやれ」と七穂を見る。

知らんがな! と、七穂は目を伏せた。

「あ」

内心を見透かされているとも知らない壁島が、一枚の写真を指さした。

「これ、俺だ」

七穂の後方に写り込んだ男の子を指している。また全員で覗き込む。

黒髪で、やんちゃそうな男の子だった。角刈りに、歯の抜けた笑顔。笑うと目が細くなるところは、今と同じように見えた。

「この時は顔怖くないね」

祈がさらりと言った。

「祈!」

七穂は、本当に頭を抱えたくなった。

「確かに」

壁島が明るく笑ってくれたことだけが救いだった。

「っていうか待って。壁島さん、何か優勝とかしてる!?」

スマホを操作していた祈が声を上げ、画面を全員へ見せた。

何かの大会の優勝者欄に、壁島の名前が載っている。

「道場から出場したやつ」

壁島はそう言いながら、味噌汁を飲んだ。

「すご!」

七穂と祈の声が揃った。

「めっちゃ強いんじゃん。かっこいいー」

「立派なもんじゃ」

祈と秀進に感心され、壁島は、

「いや……」

と、小さく返した。照れたように箸が迷っている。

「……知らなかった」

七穂がぽそりとこぼすと、壁島はきょとんとしてから、困ったように笑った。

自分が壁島のことをよく知らないことは、なにも壁島が無口なことが悪いわけではないと、分かっている。

名前よりも、特技よりも、好きな野球球団よりも先に、彼の好意を知ってしまった。七穂は蛙化させることに夢中で、壁島自身を知ろうとしてこなかったのだ。

意外な一面に、少し驚いた。礼儀正しくて、案外、人見知りもしない。美味しいと言いながら、遠慮しすぎずにたくさん食べる。そういうところを、きっとうちの家族はもう好きになっただろうな、と思う。

デザートにパイナップルを食べ、九時半を回ったところで、壁島がそろそろ帰ると言った。

「泊まっていけばいいのに」

明美と祈が言うので、七穂はこっそり二人を睨んだ。完全に、壁島側へ寝返っている。

何度も礼を言い、歩き出した壁島についていくと、意外そうな顔をされた。

「何で来るんだ?」

「え? もう暗いし、送ります」

「何で?」

「危ない……から?」

「俺が?」

「確かに」

柔道の大会で優勝するような人間の夜道は、きっと危なくない。

だからといって、「じゃあ帰ります」とも言えなかったので、

「じゃあ、半分だけ送ります」

と言った。

夜の闇を、街灯の明かりが途切れ途切れに照らしていた。電柱の影。犬の散歩をしている人と、時々すれ違う。丸に近い月が、白く浮かんでいた。

「腹いっぱい」

壁島が言い、

「足りましたか? ってか、無理しませんでしたか?」

七穂が訊いた。

「ちょうど。お前のお母さんの飯、うまいな」

「みんないっつも喋りながら食ってるから。味とか分かってませんよ、きっと」

今夜は、いつも以上にはしゃいでいた家族を思い出す。少し不安になり、

「うるさくなかったですか?」

と、見上げた。

「全然」

答えた壁島の横顔は優しかった。

「楽しかった」

その言葉に、胸がじんとした。

「本当ですか?」

なぜだか、もう一度言ってほしくなって、目をじっと見る。

「うん。楽しかった」

もう一度、言ってくれた。

恥ずかしいほどうるさくて、馬鹿ばかりだけれど、七穂は自分の家族が好きだった。楽しかったと言ってもらえて、嬉しかった。

へへ、と笑うと、壁島も笑った。

「夏休み、どっか行ったりすんのか?」

歩きながら、話をする。

「いや、うち、あれでも妹が受験生なんですよ」

「へぇ。あんまり切羽詰まってないんだな」

「頭だけはいいんですよね」

「勉強、教えてやったりすんの?」

「……息抜きは手伝ってますよ?」

「あれ?」

壁島が笑う。

中学の勉強の記憶がほとんどないうえ、祈が目指している高校は、七穂が通っている高校とはレベルが違う。勉強で頼られたことなど、一度もなかった。

勉強疲れが出た時に「アイス買ってきて!」と言われれば、すぐに「はい」と返事をする。それが、自分にできる唯一の応援だった。

「先輩は、夏はどうするんですか?」

適当に履いてきたサンダルの足音が、夜道に小さく響く。ださいままのズボンを見て、そうだ、今日は蛙化してもらうために一緒にいたのだと、今さら思い出した。でも今は、それもどうでもいい気がした。

「夏は稽古もあるし、それこそ、ちびっこ教室も手伝う予定」

壁島が答えた。

「忙しいんですね」

そう言ってから、

「あれ。というか、先輩も受験生では?」

と気づいた。

「俺はまぁ、柔道関係のことで、いろいろ声かけてもらってるから……」

「うわ、余裕だ! いいなぁ、最強は!」

「優勝は、しとくもんだなって思った」

珍しく、壁島が少し得意げだった。

「本当にすごいです」

七穂は素直に言った。

「じゃあ、夏は頑張り時ですね」

「だな」

「ほかに、したいこととかはないんですか?」

訊くと、壁島は「うーん」と言いながら伸びをした。

「紫陽花、見に行きてーけどな。家族全員が揃って、最後に行ったとこ」

少し間を置いてから、

「あの時も、夏休みの終わりだったから。その頃に」

と、遠くを見た。

夏休みはまだ来てもいないのに、夏の終わりの寂しさが、七穂の胸を通り過ぎた。

その時見た紫陽花は、どんな色だったのだろう。

訊いてみようかと思っていると、

「まぁ、その前に期末だけどな」

壁島が言った。

一気に現実へ引き戻された七穂は、

「確かに。勉強しないと。先輩、勉強教えてくださいよ」

と言った。

「……息抜きなら、手伝えるかもな」

「あれ?」

壁島が気まずそうに笑ったので、七穂も笑った。

けれど、笑った視界の端、暗い電柱の陰に、以前つきまとわれたクチャラーじじいがいるのを見つけてしまう。

ぴたりと足を止める。

半分送りますと言った、その距離くらいは歩いただろうか。

「ここまでで、大丈夫ですか?」

足がすくんだまま、七穂は言った。

「おう」

唐突な申し出だったのに、壁島は「またな」と手を振った。

「先輩」

壁島へ近寄り、その体をぐいぐいと押して、道の反対側へ移動させようとする。相変わらず、びくともしない。

「なんだなんだ」

壁島が、押してくる七穂の腕に触れた。

「道のこっち側を歩いて帰ってください」

クチャラーじじいのいる電柱とは、反対側の道端を指す。

「なんで?」

「なんででも」

説明できないまま壁島を押していると、ぽん、と頭に手を置かれた。

「分かった」

そう言ってくれる。

「またな」

去っていく背中に、霊がついていかないかだけを、最後まで確認した。

途中で、壁島が一度だけ振り返り、手を振った。

姿が見えなくなるまで見送っているように、見えただろうか。

本当は違うのに。

申し訳なく思いながら、七穂は後ずさるように家へ引き返した。

家に帰って風呂へ入り、寝ようとしたところでメッセージに気づいた。

『今日、楽しかった。ご家族にもよろしく』

短く、そう書いてあった。

七穂にとっては、今日という日は『楽しかった』の一言で終わらせるには、いろいろありすぎた。映画はまともに見られなかったし、怖い思いもした。恥ずかしいことも、知らなかったことも、たくさんあった。

なにより、壁島の孤独を知ってしまった。そしておそらく、生き霊の意味も──。

楽しかった、と言ってくれた穏やかな声を思い出す。

少なくとも今日だけは、自分も素直にそう思ったまま眠りたい。