決戦は土曜日、午前十時半。映画館の最寄り駅前にて。
以前壁島に話した、推理小説の映画化作品に誘われたのだ。
「行ってきます」
敬礼する七穂に、家族も揃って敬礼を返した。
映画の約束は、七時の「今日の壁島くんニュース」で、早々に家族へ知れ渡っていた。
「デ、デートじゃん」
祈が箸を取り落とした。
「ば、バカタレ。決戦ぞ、これ、決戦ぞ? ここでお兄ちゃんは、壁島さんの恋心にとどめを刺してくる……!」
「まぁ! ついに本腰を入れた蛙化作戦ね……!」
「立派だぞ、七穂」
「仕留めてくるまで、戻らぬ覚悟でな……!」
母も父も祖父も、はじめは真剣に応援してくれた。
けれど、土曜日が近づくにつれ、生き霊が、
(あと三日か……)
(映画、明後日……)
と、つぶやくのを聞いて、
「なんか、かわいく思えてきた……」
「楽しみにしてて、きゅんとしちゃうわ」
「分かるなぁ。楽しみな気持ち……」
「七穂! 男として恥ずかしくないデートプランはあるんじゃろうな!?」
と、次々に寝返りだした。冗談じゃない。
「だからデートじゃないって! プランなんてないから。映画に行くだけだし!」
薄情な家族にはそう言ったが、別の意味での作戦ならあった。
蛙化現象100選、「私服がクソださい」作戦だ。
わざわざ古着屋まで出向いて、服を「逆整え」してきた。
ゆったりした黒いズボンには、大きな白い花と緑の葉が、うるさいほど散っている。黒いTシャツの胸元を占領しているのは、見続けると頭が痛くなりそうな、オレンジ色の謎の幾何学模様。さらに白いキャップには、なぜか『MEOW』の文字だけが、黒い糸で大きく刺繍されている。足元だけは、もともと持っていた白いスニーカーだ。
「うーん、ださい」
待ち合わせ場所近くのカフェのガラス窓へ自分の姿を映し、七穂は満足げに言った。祈からも、「そんな格好でデートに来られたら、ダッシュで逃げる」と、お墨つきをもらっている。街を歩く自分が一番恥ずかしい、という問題はある。その点は、考えないことにした。
「早くねえか」
背後から声がして、七穂は振り返った。
壁島が立っていた。
今の姿は、待ち合わせ前に身なりを気にしているように見えたのではないか。確認していたのは、だささなのに。
恥ずかしくなりかけて、いや、引かれていいのだと思い直した。
「おはようございます。どうですか、似合うでしょう」
七穂は胸を張って、服を見せた。
「ん、ああ。いいんじゃねぇの」
さほど関心もなさそうな返事に、七穂は憮然とした。
(よくないでしょうよ)
「もっとちゃんと見てもらえますか!」
言いながら、その場でぐるぐると二回ほど回ってみせる。
壁島は七穂を上から下までじっと眺め、
「おー、似合う似合う」
と、困ったような、いかにも適当な調子で二回言ってから、
「すまんが、ファッションのことは分からん」
と続けた。
そういう本人は、黒いVネックのTシャツに黒いパンツを合わせている。分からない割に、ずいぶん自分に合った服装を選ぶではないかと、面白くない。さらに腹の立つことに、映画館へ向かって歩いていると、ファッション雑誌の街頭スナップを撮ってもいいかと声までかけられてしまった。
「え、これでですか???」
七穂は、自分の服装を上から下まで、もう一度よく見た。
「はい。お二人ともかっこいいなって。スタイルいいですよね!」
カメラを抱えた、自分こそ一番おしゃれなお兄さんが笑顔で言った。
壁島はすっと脇へ離れた。それだけで、撮られる気はないのだと分かった。
「いや、あのー、えっとぉ、……」
わざわざこんな格好の日に写真を撮られて、万が一にも雑誌に掲載されたくはなかった。が、さぁさぁこちらに、と促されてしまうと、断りたくても断れなくなってしまった。結局、取り残された七穂だけが、しぶしぶカメラの前に立った。
適当に作った笑顔で写真を撮られながら、少し離れたところに立ち、こちらを見ている壁島をちらりと見る。
「あっちのお兄さんは、写真嫌いなんですか?」
訊かれても、よく知らない。
「かっこいいのに」
残念そうに言うカメラマン。彼がどの部分をかっこいいと言ったのかは知らないけれど、確かに、すっとその場を離れるところはかっこいいな、と七穂も思った。嫌なら、やらない。ああいうふうには、自分はできなかった。
「お待たせしました」
撮影を終え、壁島のところへ急いで戻る。待たせて申し訳ないと思ったが、壁島は気にしていない様子だったのでほっとした。そのまま映画館へ向かう。
「お前、なんか撮られ慣れてねぇか」
壁島が言う。
「あー。俺、実家の神社のPRをSNSでやってるんで。写真とかはよく撮ってます」
「へぇ」
「先輩もフォローしてくれたら、最新情報が届きますよ」
「最新情報って?」
「……」
「……」
「……草刈りをしました、とか」
「……なるほど?」
神社にいかに何もないかを説明しているうちに、映画館へ着いた。
一階がゲームセンターになっている、二階建てのビルだった。上階の映画館はそれほど大きくないが、話題の作品はひと通り上映しているらしい。
気づけば、上映まで十五分しかない。壁島がチケットを買う間に、七穂は飲み物を買いに行った。
「お茶か、コーラです」
七穂が言うと、壁島はお茶を選んだ。
「シアター5の、F1とF2」
壁島がとった席は小さめのシアターの中ほど、階段通路脇に二席並んだ場所だった。
場内はもう薄暗く、スクリーンでは予告編が流れている。足元を確かめながら、緩やかな階段を上がる。
「あれ」
目で番号をたどると、自分の席にすでに誰かが座っているのが分かった。間違えてますよと言わなければならないのかと、少し気が重くなった。近づいて声をかけようとして、息を呑む。
そこに座っていたのは、全身の皮膚が焼け爛れている人……の、霊だった。
目のあるはずの場所には、黒い穴が二つ開いているのに、それでも、真っ直ぐスクリーンの方へ顔を向けていた。
その前を壁島が横切り、何事もなく奥の席へ腰を下ろす。
嫌な汗が噴き出した。
いつまでも座れずにいる七穂を、壁島が不思議そうに見上げる。
「橘」
呼ばれて、はっとした。このまま立っていては、人の邪魔になる。
七穂は、その席にゆっくり腰を下ろした。
焼け爛れた体と、自分の体が重なっていく。触れた感触はないのに、ぞっとするほどの寒気が走った。全身の毛が逆立ち、胃がひっくり返りそうになって気持ちが悪い。
席を立ちたかったけれど、映画が始まってしまった。
最初の殺人。滴る血の映像。燃える家屋と、それを眺める犯人のシルエット。スクリーンの中だけでのことなのに、七穂の鼻を人の焦げた臭いがかすめた、気がした。体がダブって見えるせいで、まるで自分の肌が溶けているように見えて恐ろしい。
(無理だっ)
もう音をあげてしまおうと、壁島の方を向く。
ちょうどそれは、壁島が共有の肘掛けへ腕を乗せたタイミングだった。じり、と寄ってきた手が七穂の手に触れる。
(え、マジかっっ)
触れ合った手の感触が、さらに近づく。
(もしや! 手をつなごうとしてんのかこの人!? しかもよりによって今!!!)
お化けと合体している気持ち悪い状況、そして自分と手をつなごうとしている男。
板挟みになって、完全にパニックになった。
嫌なら嫌でさっさと手を離さなくては、変な誤解を生んでしまう。
けれど、できなかった。
むしろ、いっそのこと、壁島の手を握ってしがみつきたかった。
小さい頃は、怖いものを見ると、迷わず父か母の手を握った。二人とも「大丈夫」とは言わなかった。ただ、そっと別のほうへ連れていってくれた。
あの時のように、怖いと言って、手を握りたい。
でも、壁島は何も知らない。その手にすがったら、こちらを好きでいてくれる気持ちを利用することになる気がした。せめて、ほんの少しの間だけでいいから、触れさせていてほしかった。
壁島の体温を頼りに、どうにか前に視線を戻しかけると、今度は自分の足元から無数の焼けた手が伸びてきていることに気がついた。
「……っ!」
悲鳴をあげそうになるのを必死に堪える。退路を確認しようと首を捻った時、後ろの席にも焼けた幽霊が座っていると気がついた。あっちの席も、こっちの席もそうだった。
赤黒い腕がまるで七穂の膝をつかむように登ってくる。一方、触れていただけだったはずの壁島の小指も動いて、七穂の手を握ろうとしてきていた。
耐えきれなくなって、七穂はついに立ち上がった。
体を低くして、暗い通路を足早に抜ける。シアターを出ても足を止められず、人を避けながらエスカレーターへ向かった。駆け下りた先に、人影があった。勢いを殺せず、ぶつかる、と思った体が、そのまま相手をすり抜けた時に、もう本当に何もかも嫌になった。
建物を飛び出した。通りの向かいにあるベンチまで行き、座面に両腕をついてしゃがみ込む。込み上げるものを、何度も飲み込んだ。冷や汗が止まらない。
まだ体の中に、あの焼け焦げた霊がいたらどうしよう、と、肩や腕を何度も擦ってみるが落ち着かない。
もう、いないと思う。
でも、さっきまでいた。まだ、臭いがする気がした。あれほど皮膚が焼け落ちるには、どれほど強い炎で焼かれたのだろう。きっと、息もできなかったのだろう。そう思うと、七穂まで息が苦しくなった。
「橘」
追いかけてきてくれたのだろう。壁島の声がしたが、七穂は振り返れなかった。何も知らない壁島を暗いシアターに一人で置いてきてしまったことが、遅れて胸にのしかかってきた。
「悪かった」
何を謝られたのか、すぐには分からなかった。
手をつなごうとしたことか、と気がついて、七穂は小さく首を振った。
壁島がそばにしゃがみ、ベンチに手をつく。
七穂は、その手を見た。
何もなければ、きっとあの手はもっとうまく避けられた。少なくとも、こんなふうに謝らせるような逃げ方はしなかった。安心するために触れて利用したくせに、本人には、席を立つほど嫌がられたと思わせた。
何も言わずに飛び出して、傷つけてしまった。
「手が、……嫌だったんじゃない」
それだけは、信じてほしかった。
ベンチについた壁島の手の小指に、震えたままの自分の手の指を重ねた。うまく話せる気がしなかったので、傷つけようとしたわけではないと、そうやって証明してみせるしかなかった。
「ごめんなさい」
そう言ったけれど、聞こえたかは分からない。
「大丈夫か」
壁島は手をゆっくりと返し、手のひら同士を合わせるように握り返してくれた。
「具合悪くなったか。家、送るか」
そう言われ、七穂は首を振った。これ以上、心配をかけたくなかった。
「ちょっと……変な感じがして……あの場所に、もういたくなくなっただけ」
それ以上を話す勇気はなかった。けれど、もっともらしい理由を作る余裕もない。言えるだけのことを、正直に言った。
「座れるか」
壁島が、少し手を引いて起こしてくれる。
二人でベンチへ腰かけた。
壁島は、まだ震えている七穂の手を握り直した。つないだ手を下ろし、二人の膝の陰へそっと隠してくれた。
「なんか、嫌な感じがしたってことか?」
壁島が言った。
七穂は頷いた。
「そうか」
それ以上、壁島は何も言わなかった。
「なんか嫌な感じがした」。それだけで、頷いてくれた。
もっと説明しなくていいらしい。少しだけ、息がしやすくなった。
俯いたまま、人々が行き交う足音を聞く。周囲の話し声が、意味を持たずに流れていった。
「ガキの時」
不意に、壁島が言った。顔はまだ上げられなかったので、七穂は耳を澄ませた。
「その日は親と出かけるはずで。でも、朝からなんかすげー行きたくなくて」
壁島は、ゆっくりと話した。
「じーちゃんとばーちゃんの家にいるって、駄々こねて留守番してた。そしたら電話があって、両親が事故に遭ったって」
七穂はようやく顔を上げた。
見上げた壁島の横顔は、いつもと変わらなかった。
だから、何も言えなかった。
「早めに帰ってくる、とか、お土産にケーキ買ってくる、とか。そういう話が最後だった。たぶん、俺もついていってたら、死んでたんだろうなって思う」
壁島は、ずっと遠くを見るような目をしていた。
「自分だけ助かったのが、よかったのかは分かんねーけど。そういう……予感とか、虫の知らせとか、変な感じみたいなのは……普通にあると思う」
きゅっと、手を握られる。
「だから、そういうのは大事にすりゃいいと思う」
そう言ってくれた。
けれど七穂はやっぱり何も言えなかった。
そっと傷口を見せてくれた相手のその傷口が、もう痛くないかは、七穂には分からなかったから。
でも、息の仕方だけは思い出すことができた。壁島の手がとても熱くて、自分の手がひどく冷たくなっていたことにも気がつけた。
七穂は帽子のつばを少し引き下げ、目を閉じた。
喧騒が遠くなり、世界が静かになった。壁島の手だけが、ずっと熱かった。
どのくらい経ったのだろう。
「……お腹すきましたね」
自分の声が、久しぶりに聞こえた。
通りに設置された時計を見上げると、実際、もう昼過ぎになっていた。
話もせず、誰かの隣にこんなに長くいたことは、ほとんどなかった。何か話題を探さなければ、とも思わなかった。
何を考えていたわけでもない。
ただ、隣にいた。
「なんか食うか」
壁島が、いつもと同じ調子で静かに言った。
「何の気分ですか?」
「なんでも」
「じゃあ、なんか美味しいもの調べます」
スマホを触ろうとしたけれど、右手は壁島とつないだままだった。
「放しますね……」
そう言って、ゆっくりと手を解いた。
ずっとつないでもらっていたことに、今さらながら耳が熱くなった。
それを誤魔化すように、画面を睨む。
近くの店をいくつか見つけたが、当日の予約枠は埋まっていた。ほかも、昼時はかなり並ぶらしい。口コミを読んでは、別の店を開く。
「事前に予約しておけばよかったですね。すみません」
七穂が言うと、壁島は少し驚いたように眉を上げた。
「そういうふうには思わない」
はっきりそう言ってから、
「でも、お前、そういうのマメそうだな」
と、少し笑った。
女の子とデートをするなら、きっと好みを訊いて、店も予約する。そういうところを見抜かれた気がして、どんな顔をすればいいのか分からなかった。
「牛丼でも買って帰るか」
壁島は立ち上がり、伸びをした。
「帰るって?」
「買って、うちで食うっていうのは」
そう言い直す。
「二時から試合ある」
壁島がスマホの画面を見せた。
ブルーホークスの試合予定だった。
「お、いいですね。じゃあ今日だけはブルーホークスの応援してあげます」
七穂が笑うと、壁島はその笑顔をじっと見た。それから、安心したように目を細めて笑った。
壁島の家は、ここからバスで十五分ほどらしい。場所を聞くと、七穂の家から歩いても三十分くらいだった。
それなら、あの通りのバス停で降りて、近くの店で牛丼を買えばいいとか、あそこのコンビニにも寄って、飲み物や、つまめるものを買おう、と、互いに知っている道や店の名前が出てきて、話はすぐに決まった。
「映画代、無駄にしちゃったんで。先輩はメガ大盛り二杯食べていいですよ」
「メガ大盛り一つでいい」
「じゃあ、せめて温玉つけます」
「じゃあそれで」
「あ、おうちの方の分もいりますか?」
「いや、いねぇからいい」
誰もいないなら、気楽でいい。そう思ってから、では二人きりなのか、と気づいた。
いや、牛丼にデーゲームだ。そんな雰囲気ではない。
七穂は雑念と、ベッドに現れた時の壁島の姿を、頭から追い払った。
バスを降りて、目当てのものを買う。七穂もメガ大盛りにした。
買い物袋をぶら下げながら歩いてたどり着いたのは、古い平屋の日本家屋だった。
玄関のそばには、小さな松と楓の木がある。庭は広く、柿や枇杷の木も植わっていた。物干しには、タオルとシャツが少しだけ並んでいて、風にふわりと揺れていた。
「お邪魔します」
上がり框を越えると、木とお香の匂いがした。
通された居間は畳敷きだった。
荷物を置いたところで、ちりん、と音がした。縁側と部屋を隔てる障子戸の隙間から、三毛猫がするりと現れた。
「にゃんこ!」
思わず頬が緩んだ。七穂はしゃがみ込んで
「おいで~」
と言ってみる。けれど、三毛猫は少し背中を丸め、しゃーっと毛を逆立てた。
「しゃーしゃー系だぁ。かわいい。猫ちゃん、何ていう名前ですか?」
近づくのはやめたが、目は離せなかった。
壁島はコンビニの袋から飲み物や菓子を出していた。少し間を置いて、
「……ミケ」
と言った。
「ミケちゃん! かわいい。お手々もふもふ」
猫を飼っているのか。いいなぁと、すっかりデレデレしながら眺めていて、ふと気づいた。
「先輩、ミケちゃんって、もしかして拾いました?」
「ん、ああ。去年の初め頃に、怪我してたの拾った」
壁島が答える。
しゃーしゃー威嚇する三毛猫の首根っこをつかんでいる壁島の姿が、頭に浮かんだ。
「……猫鍋じゃなかったねぇ」
七穂は笑いそうになりながら、ミケに言った。
「ん?」
壁島が不思議そうに聞き返したが、
「洗面所、貸してください」
と言って誤魔化した。
手を洗っていると、壁島が新しいタオルを出してくれた。そのまま、後ろで順番を待っている。
鏡の中で目が合って、なんとなく気まずくて、七穂は手元へ視線を落とした。
居間へ戻ると、ミケの姿はなくなっていた。少し寂しかったけれど、牛丼が冷めないうちに食べ始める。
「先輩んちは、ご飯中にテレビつけないんですね」
食べながら言った。
「まあ、そうだな。つける習慣はねぇな。つけるか?」
「いや、うちもつけないので、大丈夫です。家それぞれですよね、そういうの」
壁島は頷いた。
牛丼一つでも、二人の食べ方はずいぶん違った。
壁島は、七穂が笑ってしまうほど七味をかけた。七穂は七穂で、肉を覆うほど紅生姜を乗せた。「それって、もう肉の味しないんじゃねーか?」と訊かれたが、そちらの七味も大概でしょうと返した。
朝食はパンか、ご飯か。カレーには何の肉を入れるのか。そんな話を続けているうちに、おでんの話になった。
「うちは、牛すじが絶対入ってます」
「へぇ。食ったことねぇかも。うちはホタテが入ってる。あと、生姜味噌で食う」
「うまそ! おでん食べたい。今度、おでん食いましょう」
「夏なのに?」
「汗だくでも、うまいもんはきっとうまい」
「だな」
壁島は手を合わせて「ごちそうさま」と言ってから、テレビをつけた。いつの間にか、二時になっていた。
試合は、ずっとブルーホークスの優勢で進んだ。
しかし、七回裏でツーアウト満塁となり、七穂は手に汗を握った。
「頼むぞ、清田」
画面の向こうのピッチャーに向かって、祈るように言う。
ちゃぶ台の上には、炭酸飲料や菓子が広がっていた。食べているのは、ほとんど七穂ばかりだ。
壁島は畳の上にごろんと寝転がり、立てた片腕に頭を乗せて、画面を見ていた。
空振り三振で、チェンジ。
「やった!」
七穂が振り返ると、壁島は、
「ライメイズの試合でもねーのに、よくそんなに応援できるな」
と笑った。
「スポーツマンシップです」
胸を張ってみせてから、ふと気になった。
「あ、もしかして、俺うるさいですか?」
野球中継を静かに見る家庭ではないので、つい、いつもと同じように騒いでしまった。
「いや? うちのじーさんも、そんな感じだから」
壁島は、何でもないことのように言ってくれた。
「ちょっと、黙って見ます」
七穂が言うと、
「無理すんな」
と、笑われてしまった。
そこへ、また、ちりんと鈴の音がした。
縁側にでもいたのか、ミケがとことことやって来る。寝転がっている壁島の胸元へ体を擦りつけてから、くるんと丸くなりあくびをした。
「寝ちゃうの?」
七穂はミケのほうへ体を寄せ、手を伸ばした。今なら背中くらい撫でられるだろうか。
指先が届く前に、ミケはさっと起き上がって、そのまま居間を出ていってしまった。
「あー、行っちゃった」
つんと立った尻尾を、目で追いながら言う。
「今度おもちゃ買ってこようかな」
壁島へ顔を向ける。するとなぜか壁島は少し難しい顔をしていた。よく見ると、耳の先が赤い。不思議に思っていると、そのまま寝返りを打ち、向こうを向かれてしまった。
近づきすぎたのだろうか。猫に気を取られて、距離を気にしていなかった。でも、そこまでではなかったはずだ。
そんなに意識されていると思うと、こちらまで落ち着かなくなる。七穂はそっと体を戻し、テレビへ向き直った。
結局、そのまま危なげなくブルーホークスの勝利となった。
「やりましたねぇ」
壁島へ向き直ると、返事がない。
「先輩?」
近寄り、顔を覗き込んでみる。壁島は、小さな寝息を立てて眠っていた。
「いや、寝てるんかーい」
小声で言いながら、七穂はテレビを消した。音を立てないよう、菓子の袋や飲み物を片づけた。
自分も昨日はよく眠れなかった。もしかしたら、先輩もそうだったのかな?と七穂は思った。
きれいに片づけて、ふぅ、と息をつく。
窓から、夕方の黄色い光が差していた。蒸された畳の香りが、ふわりと届く。
静かだった。
壁にかかった古い時計が、一つずつ時を刻んでいる。その音だけが、妙に大きく聞こえた。
居間の隣は仏間になっていた。広い部屋の奥に、線香立てや、お供えのオレンジが見える。
片づいた部屋というのは、視界のごちゃつきがないせいか目や頭に優しい感じがする。
静かな人の家は、家まで静かなのだろうか。
ペットが飼い主に似るみたいに。
(あれ、でも、ミケちゃんは俺のこと嫌いだけどな?)
そこで引っかかって、いや、何が引っかかったのだろうと考え直した。
そこへ、壁島が起き上がった。
「寝てた」
少し低い声で言った。
「うぅ、先輩が寝てる間に……ブルーホークスが……なんと……」
「え」
「無事勝ちました」
「何だよ」
壁島は笑ってから、時計を見上げた。
時計の針は、間もなく六時を指そうとしている。
「お前んち、飯何時?」
壁島は座ったまま、大きく伸びをした。
「七時です」
「ん。なら、そろそろ帰るか。俺もスーパー行く」
外へ出ると、西日が眩しかった。並んで歩く二人の影が、長く伸びている。
七穂の家とスーパーは同じ方向なので、途中まで一緒に帰ることになった。
「先輩がご飯作るんですか?」
七穂は見上げて訊いた。
「まぁ、作る時もあるけど。今は一人だから、適当に買ってるほうが多いな」
壁島が言った。
七穂はきょとんとして、
「おじいちゃんと、おばあちゃんは?」
と訊いた。
「ばーちゃんは去年亡くなって、じーちゃんは今、入院中」
壁島は前を向いたまま言い、少し鼻をすすった。
「……そうなんですね」
七穂は小さく返事をした。
家に人がいないというのは、出かけている、という意味ではなくて、本当に帰ってこないという意味だったのか。
では、と七穂は考えた。
(買い物から戻ったあとは、一人なんだ)
ふと、そのことに気がついた。
さっきまでいた居間を思い出す。古い時計の音。テレビをつけない食卓。
自分がいなくなったあの部屋で、壁島は買ってきた夕飯を食べる。
先輩は、そういう時間を一体どんな風に、何を思って、過ごすのだろう。そう思って、はっとした。
「先輩って、夜ご飯は何時に食べてますか?」
答えを待つ間、胸がどきどきした。
「七時」
と、壁島が答えた。
同じだ、と七穂は思った。
七穂の家でも夕食が始まる時間。
家族の声と食器の音が絶えない食卓で、並んだおかずを取り合い、一日の出来事を好き勝手に話しているその時間。
その時、壁島は一人、あの静かな居間にいて、誰の声もしない食卓で自分のことを思い浮かべているのかもしれないと、気づいてしまった。
入院中の祖父のことが心配で、一緒に野球を見られない日には、きっと寂しくなることもあるだろう。そんな時、一体どんな気持ちで自分を思い出し、一人きりの食卓で「かわいい」などと考えていたのだろう。
想像した途端、途方に暮れるような気持ちになってしまった。
胸がいっぱいで立っているのがつらくて、七穂はその場にしゃがみ込んだ。
「橘?」
また具合が悪くなったのかと、壁島もしゃがみ込み、七穂の顔を覗き込んできた。七穂はそこから隠れるように膝へ顔を埋める。今、顔を見たら、涙が出てしまう気がした。
何も訊かず、壁島が背中をゆっくりと撫でてくれる。
「……おじいさんが入院なさったの、いつからですか」
「三週間くらい前かな」
壁島の答えに、七穂は息を詰めた。家に生き霊が来始めたのと、ちょうど同じ頃だった。七穂の中で疑いがほとんど確信へ変わる。
(寂しい時に思い出すのが、俺なのかよ……)
七穂は膝へ顔を埋めたまま、思った。
俺のたわいもない毎日は、ほんの少しでも、あなたの寂しさを埋めましたか──。
訊きたくて、訊けなくて、黙っていた。
深く息を吐いた。
「先輩、俺んちで飯食いませんか」
どうしてそう言ってしまったのだろう。
気分任せの偽善かもしれない。
けれど、一人で帰らせたくなかった。
顔を上げると、覗き込んでいた壁島の顔がすぐそこにあった。
「いや、急には行けねぇだろ」
壁島が戸惑った顔をする。
「大丈夫です。いつも友達も勝手に来るし、夕飯食べて帰る時もありますから」
「でも」
「連絡しますね」
七穂は返事を待たず、母親へぽちぽちとメッセージを送った。その様子を、壁島はどうしたものかという顔で見ている。
「行きましょうか」
既読はまだついていなかったが、七穂はスマホをポケットへしまい、立ち上がった。
「本当にいいのか」
戸惑ったままの壁島へ、
「もちろん」
と答える。
壁島は観念したように小さく息を吐いた。
「じゃあ、ちょっと寄り道する。向こうに美味いコロッケ売ってる店があるから、手土産にする」
「気にしなくていいんですよ?」
七穂はそう言ったが、壁島は譲らなかった。
細い道へ入ってしばらく進むと、揚げ油の香ばしい匂いが漂ってきた。小さなお肉屋さんの店先には、『コロッケ一個八十円』と書かれた札が出ている。
「安い!」
七穂が感動していると、
「揚げたてだよ」
と、エプロン姿のおばちゃんが笑った。
壁島がコロッケを十個注文する横で、
「揚げたてを、揚げたてのまま食べないのは軽犯罪でしたね?」
と七穂が訴える。壁島は笑いながら、
「確かに」
と、食べ歩き用に二つ追加してくれた。
さくさくの衣に齧りつくと、中のじゃがいもは熱々でほくほくだった。ミンチ肉の脂と一緒に、ふんわりとした甘さが口いっぱいに広がる。
「うまぁ」
美味しすぎて、頭の中にぶわっと幸せ汁が湧き出るようだった。隣では、壁島もうんうんと頷いている。
「もう一個買いに行こうかな!?」
感動のあまりそう言うと、
「ほかのが冷める」
と壁島が笑った。
確かに、と思いながら、最後の一口をもぐもぐと味わう。その様子を、壁島がじっと見ているのが分かった。
「いい顔して食うよなぁ」
不意にそう言われ、まだ噛んでいたかったのに、口の中のものをごくりと飲み込んでしまう。
生き霊の姿で「廊下を歩きながらパンを食べているのがかわいかった」と言っていたことを思い出した。かっと顔が熱くなり、それを見られないよう、七穂は足を速める。
「熱いうちに、ダッシュで帰りましょう」
顔を背けたまま、言った。
