恋するヤンキーに憑かれた王子は、カエルになりたい!



よくない。

動揺は、よくないのだ。


「気を確かに」


霊が視える者は、常にそう肝に銘じておかなければならない。

自分をしっかり保ってさえいれば、悪いものにつけ入られる隙も生まれない──はずなのだ。

けれど、昨夜は壁島に振り回され、ろくに眠れなかった。おかげで、いつも以上にたるんでいたのだろう。

通学路に、老人がしゃがみ込んでいた。具合でも悪いのかと思って声をかけた。

振り向いた顔には、目も鼻もなかった。口だけが耳元まで裂けていた。悲鳴を飲み込み、登校する生徒の間を縫って走った。学校に着いて、ようやく振り返る。

老人は、真後ろにいた。

教室へ入っても、体育の授業で移動してもついてくる。何をするでもなく、七穂のそばで、くちゃくちゃと口の中で唾を鳴らし続けていた。鳥肌が止まらなかった。

顔色が悪いと友人に言われても、「大丈夫」と笑うしかなかった。保健室へ行こうが、家へ帰ろうが、きっと同じだ。午前中の授業は、ほとんど頭に入らなかった。

昼休み、楽しそうな友人たちのそばにいることが申し訳なく思えて、やっぱり保健室へ行く、と言って席を立った。

廊下は騒がしかった。笑い声も、誰かを呼ぶ声もする。その間を一人で歩いていく。くちゃくちゃ、という音だけが、どこまでもついてきた。

「くちゃくちゃくちゃくちゃ、クチャラーじじいめ……」

食事中は音を立てるなと散々言われて育ったので、不快なことこの上ない。いい加減、腹が立ってきた。七穂はスマホを取り出して、検索欄へ『お祓い 自分でできる 簡単』と打ち込んだ。

「塩、ねぇ」

検索結果をざっと読んで、つぶやいた。本当は、塩を入れた風呂に浸かる、と書いてあったが、学校で風呂を沸かせるはずもない。家庭科室なら、塩がある。手に入れたら、くちゃくちゃいわすその顔面に思い切り振りかけてやる。

七穂は足を速め、別棟へ続く渡り廊下へ入った。

突き当たりの自動販売機の前に、見慣れた金髪があった。

げ、と声が出そうになる。

足を止めた拍子に上履きがきゅっと鳴って、人気のない廊下によく響いた。

壁島が振り返る。

あ! 昨夜、俺で卑猥な想像をしてた人だ!

──とも言えず、七穂は笑顔を作った。

「どうも~……」

あはは、と笑いながら歩み寄る。

前門の壁島、後門の幽霊である。

「よお」

壁島は七穂を少し見てから、自動販売機の商品へ視線を戻した。

(よお、じゃねーよ、この野郎)

そう思ったけれど、それどころではない。

そういえば、静かだ。

振り返る。なんと、不思議なことに、クチャラーじじいがいなくなっていた。

「ラッキー!」

(お化けも、やっぱりヤンキーが怖いのか!?)

つい声が弾んだ。壁島がきょとんとして、こちらを見ている。

「あ、いやいや……。ジュース奢ってもらえるじゃん、ラッキーって……」

口から出まかせを言い、すぐに後悔した。ずいぶん厚かましいことを言ってしまった。

いや、待て。

『お金にがめつい。いつもたかってくる』、蛙化100選に載っていたではないか。

チャンスだ!

七穂は訂正の言葉を飲み込み、りんごジュースを指さした。

「じゃあ俺、これで」

家族にだって、こんな厚かましい態度を取ったことはない。

えへへ、と笑っていると、壁島は

「『じゃあ』じゃねーよ」

と言いつつも、ジュースを買ってくれた。

「あざ~す」

申し訳ないと思いつつも、にぱっと笑って、さっそくジュースを飲む。冷たいジュースが喉を通った。

こんなに喉が渇いていたのか、と飲んで初めて気づいた。りんごの甘さが、信じられないほど美味しかった。先ほどまでの恐怖が、甘さに解けるようで、少しだけ、涙が出そうになった。

「あ」

思い出して、七穂は言う。

「先輩、昨日の夜、七時頃。何してました?」

いつも生き霊が現れる時間。

昨日はなぜその時間に来なかったのか気になったので、唐突だとは分かっていたが訊いてみた。

「七時……? 知り合いと、外で飯食ってた」

壁島は不思議そうに言った。

ほう。

誰かと食事をしていて、七穂のことを考えていなかった。だから来なかった、ということだろうか。

だとしたら、夜中には、やっぱり──。

耳が熱くなりかけて、七穂は考えるのをやめた。

その代わりに、

「昨日は、ありがとうございました。助けてくれて」

と、改めて言った。

壁島は答えず、小銭入れの中を探っている。

「あ、俺が払います……」

言ってから、しまったと思った。それでは、たかった意味がない。

「三十円だけ……」

苦し紛れに付け足した。

「三十円だけ?」

壁島が、ふっと吹き出した。

笑うと、こういう顔になるのか。

思わず見てしまった。ついでに、自分の申し出た三十円が、急に恥ずかしくなってくる。

「今月ピンチで」

制服の後ろポケットから財布を取り出し、本当に三十円だけ、投入口へ入れる。

「どうぞ?」

あえて偉そうにしてみると、壁島は呆れたように少し笑い、残りの百円を自分で入れて、お茶を買った。

「美味しいですか、俺のお茶は」

軽口を続けても、壁島は目を細めるだけだった。

何か。何かないか。

もっと、絶妙にうざいこと。

「っていうか、俺、見下ろされるの嫌なんで、しゃがんでもらえますか?」

散々迷って、身長にいちゃもんをつけてみた。

自分よりこんなに大きい人は身近にいないので、見上げるのは慣れない。ただ、嫌だと思ったことはなかった。

壁島は七穂を見た。顔に「なんで?」と書いてある。それでも、何も言わずに自動販売機の横へ寄り、壁際にしゃがんだ。

「よしよし」

七穂は得意げに言い、ジュースを飲み干した。

次はポイ捨てなのだが。さすがにそこまではできなかった。空いた容器は、きちんと分別して捨てた。

静かにお茶を飲んでいる壁島を見下ろしながら、決定打を探す。

自分がされて、困ったこと。何か最近なかっただろうか。

──そうだ!

「先輩?」

呼ぶと、壁島は顔を上げた。

その顔へ、ずいっとスマホを向ける。

「連絡先、交換してあ・げ・て・も、いいですよ?」

胆力を振り絞り、横柄に言ってみた。

そろそろ怒るか、と覚悟する。

壁島はぽかんとした顔をした。けれど、それだけだった。後ろのポケットからスマホを取り出し、画面を開く。

あっさりと、交換できてしまった。

手持ちの中でも、妹に「気持ち悪い」と一番不評な、ブサイクな猫が「げへへ」と言っているスタンプをさっそく送ってみた。

けれど、壁島の反応はない。

「橘、七穂」

アカウント名を確かめるように、壁島が読んだ。あたかも初めて知りましたとでも言うような口調に呆れてしまう。

仕返しのつもりで、

「先輩って、鷹矢っていうんですね。ホーク壁島って呼んでいいですか?」

と、変なあだ名をつける意地悪をしてみた。

壁島は怪訝な顔をしてから、

「……長くねえか?」

と、ぼそりと言った。

その時、幼稚園の先生の声が頭の中に蘇った。人に変なあだ名をつけてはいけません。

「……やっぱ、やめます」

七穂はしょんぼりして言った。

「変なやつ」

それだけ言って、壁島はまた少し笑った。

くそう。笑っていられるのも、今のうちだからな、と内心地団駄を踏み、スマホを握りしめた。



その日は、朝から大変すぎたので、寄り道をする気力もなかった。真っ直ぐ家へ帰り、ベッドに転がってスマホを開く。

さて、何を送ろうか。

「用事もないのに、やたらめったら連絡してきて、ちょっと困るやつ」作戦。

そのために壁島の連絡先を手に入れたのだ。

ミユにとめどなく連絡されて少し困ったけれど、ミユの場合は迷惑よりもかわいいが勝っていた。自分からなら、そうはいかないだろうと、七穂は踏んだのであった。

「くくく、愚か者め。個人情報を、いともあっさりと……」

こちらの連絡先も渡していることは棚に上げ、七穂はほくそ笑んだ。

手始めに、

『やっほー☆今なにしてますか??』

と、ミユの文面を真似して送ってみた。

すぐには既読がつかなかったので、宿題を広げながら返事を待つ。

ちらちらと画面を見るが、何もない。

スマホを頻繁に見るタイプには見えないな……と先行きを怪しんでいた矢先、スマホがぶぶっと震えた。待ってましたとばかりに画面を開くと、

『なにも』

という三文字だけが並んでいた。

「な に も……!?」

(こいつ、仮にも俺のこと好きなんじゃないのかよ!? もっと気のきいた返信してこいよ!)

スマホを壁へぶん投げたくなった。

七穂は、人にメッセージを送る時には文章の長さもスタンプも、やり取り自体の長さも、いつも気を遣ってきた。

そのすべてを『なにも』の三文字で片づけられると、もはや異次元の感覚としかいいようがない。

負けてたまるか、と、

『息もですか(^O^)』

と、クソリプを送り返してみる。

すぐに既読はついたが、返信はなかった。

自分の送った小学生のようなくだらない文面を読み返し、今度は自分の頭を壁へ打ちつけたくなった。

いや、作戦だ。これでいいのだ。

しかし、夕方になっても返信はない。

めげるな、これはまたとないチャンスなのだ、と画面を睨む。

『おーい』

『生きてる?』

『返信みた?』

秘技、連投に次ぐ連投。

『既読無視ですか……?』

と、例の気持ち悪いと評判の猫のスタンプも送った。

既読はつかない。見てさえくれれば、かなりうざいはずなのに……! 七穂は唇を噛んだ。

暇なので、スマホを持ってリビングへ下りた。アイスを食べながら時間をつぶし、やがて野球中継が始まると、テレビの前へ陣取った。

そして、

『頑張れー。今年こそ優勝だ、ライメイズ』

『打った! 取ったー!』

『スリーアウト、チェンジ』

『盗塁いけんじゃない? 田中、自分の脚を信じろ』

『行った!』

『何してんの、田中』

などと、リアルタイムの感想を送って差し上げる。

五回裏あたりで、ようやく一気に既読がついた。

『うるせー』

と返ってきた。

手応えあり……と、七穂はにやりとする。

『俺はブルーホークスファン』

追加で送られてきた。

『鷹矢だからですか』

『まぁ、そう』

『もう絶交ですね』

『え』

『うちは筋金入りのライメイズファンなので』

そこから、また返信が来なくなった。

『逃げるな。ライメイズと向き合え』

『負けた』

『許さん』

『覚えてろ』

くじけず連投していると、突然、画面に着信が表示された。壁島の名前が表示されていて、七穂はソファの上で跳ね起きた。電話が来るとは思っていなかった。

めちゃくちゃ怒っていたら、どうしよう。

そう思いながら、おそるおそる電話に出る。

「どちら様ですか」

「『どちら様ですか』じゃねーよ。散々連絡してきといて」

「ひどい。せっかく実況してあげたのに」

「まぁ、勝ったから許すわ」

「あ、それはマジで腹立つ」

受話口から届く声は、いつもより低く聞こえた。ふっ、と笑う息まで、ノイズに混じって耳へ届く。

「スマホ、近くに置いてねぇから。連絡もらっても分からん」

壁島が言った。

「そんなの関係ありません。俺が送りたいことを、送りたい時に送るだけです」

七穂がきっぱりと言うと、

「いや、別にいいけど。なんかあんなら電話して。それなら気づくから」

柔らかな声に、耳がむずむずした。返事をしそびれていると、

「な?」

低い声が、重ねて届いた。

イケボかよ、と、むかっとしつつ、

「はい」

と、返事をした。

次は死ぬほど着信履歴を残したら、嫌になってくれるだろうか──。

メッセージならぽんぽん送れるくせに、もう次に何を喋っていいのか思いつかなくなってしまって、黙っていた。

「それと」

沈黙を破って、壁島が言った。

「土曜、映画行かね?」