彼氏がいるか、訊かなかった自分も悪い──のかもしれない、と七穂は思った。
昼休み。人気のない校舎裏で、三年生四人に囲まれている。
連日ヤンキーの生き霊に悩まされているというのに、今日は現実の不良が四人。増えるな増えるな、と七穂はこっそり舌打ちをした。
呼び出された時には、まるで漫画みたいだなぁ、などと呑気に考えていた。が、その余裕は胸ぐらをつかまれ、塀に押しつけられたところで吹き飛んだ。
「ミユちゃんは、たっくんと付き合ってんだよぉ」
すぐ目の前の男から睨まれる。
その後ろで、茶髪の男が眉間に皺を寄せていた。こめかみに青筋まで浮いている。あれが、たっくんなのかもしれない。ほかの二人も怒っているので、確信はなかった。
どうやらここは、ミユを巡っての修羅場らしい。
「す、すみません……」
胸元の布を握る手に、力がこもった。
「ああ!?」
「すみません!」
聞こえなかったはずはない。誠意が足りないということだろう。七穂は声を張り、もう一度謝った。
自分からミユに連絡したことは、一度もない。返信できずにいても、彼女からは次々とメッセージが届いた。
そもそも連絡先を訊いてきたのも向こうだ。まさか、彼氏がいるとは思わなかった。
けれど、それを言ったら今度はミユが責められるのではないか。
開きかけた口からは結局、謝罪しか出てこなかった。
「もうしません」
胸ぐらをつかまれたまま、顔の前で手を合わせる。
「ちょっと面がいいからって、調子乗ってんじゃねぇぞ!」
たっくんと思しき男が近づき、七穂の髪をつかんだ。頭皮が引きつれ、思わず顔をしかめる。
(それとこれとは、今関係なくない?)
もちろん言えるはずもない。
たぶん、何を言っても無駄なのだ。何発か殴らなければ、相手の気が済まないのだろう。
顔は目立つから、きっと腹を狙われる。そう考えただけで胃がむかむかした。
「本当にすみません!」
いつ殴られてもいいように、ぎゅっと目を瞑る。
「なんだ、てめぇ!」
相手が声を荒げたので、覚悟を決めて歯を食いしばった。
けれど、衝撃はこなかった。胸元を締めつけていた手も、髪を引いていた手も、なぜか離れた。
「……?」
おそるおそる目を開ける。
目の前に、学ランの背中があった。
太い首。その上の金髪。
「壁島さん……!?」
壁島が、七穂と四人の間に立っていた。
「邪魔すんな!」
向こう側から、たっくんの声がした。
「そいつが人の女にちょっかいかけたんだよ!」
別の男が壁島の肩を押す。大きな背中はびくともしなかった。
それでやめておけばいいのに、さらにもう一人が「こいつ!」と、外腿へ蹴りを入れた。
壁島は動かなかった。
七穂からは、その顔が見えない。何も言わないのがかえって怖かった。
(ままま、まずい!)
自分が数発殴られるだけなら、それで済む。けれど、ここで喧嘩になったら、壁島まで巻き込んでしまう。たっくんたちだって、ただでは済まないかもしれない。
「先輩、いいですから。俺、自分で……!」
背中の陰から出ようとした途端、また髪をつかまれた。
「いたた、ハゲる!」
引かれるまま、体が傾く。
その時、壁島が動いた。
たっくんの手首をつかみ、七穂の髪から引き離す。続いて胸ぐらをつかむと、そのままぐいっと持ち上げた。たっくんの靴の底が、地面を離れた。
「あ!」
「ぐ、ぐるじぃ……」
たっくんの顔が、みるみる赤くなっていく。七穂は反対に青ざめる。
「ハゲてません! 大丈夫だから、下ろしてあげて!」
慌てて壁島を見上げた。鬼の形相というほどではない。ただ、目が据わりきっていた。
学ランをぐいぐい引っ張ってみるも、反応がない。たっくんを持ち上げている腕にしがみついても、少しも下がらなかった。
「たくましすぎだろ!」
七穂は背中へ回り込み、腰に足をかけた。肩へ腕を回し、よじ登るようにして顔を覗き込む。
「壁島さん!!!」
大きな声で呼びかけると、ようやく目が合った。
壁島がはっとした顔をする。
「もういいですから! ね?」
なだめるように言うと、壁島の腕がゆっくり下がった。
解放されたたっくんが、げほげほと咳き込む。残りの三人が、その周りに集まった。
「そいつが悪いのに!」
しわがれた声で言って、たっくんが七穂を指さす。
四人分の目が向けられ、壁島の背に隠れたくなった。それでも、肩越しに顔を出し、もう一度手を合わせる。
「本当にごめんなさい。もうしません。この通り!」
完全に、壁島の威を借る狐だった。壁島にしがみついたまま謝るのもどうかと思うが、だからといって降りる勇気はない。
「次はねぇからな!」
捨て台詞とともに、四人が去っていく。漫画みたいだな、と七穂はまた思った。
足音が遠ざかって、やっと息をつけた。
「降りねぇか」
「……あ」
言われて、慌てて腕をほどこうとすると、壁島が少し屈んでくれた。七穂はそっと地面へ足を下ろした。
膝が、まだ震えている。
「……こ、怖かった」
力が入らず、その場にしゃがみ込んだ。引っ張られた頭皮がひりひりする。シャツの一番上のボタンは、糸が緩んで頼りなくぶら下がっていた。
これくらいで済んでよかった。
七穂はそばに立つ壁島を見上げた。
「助けてくれて、ありがとうございます」
返事はなかった。
何を考えているのか、顔を見ても分からない。いつもの不機嫌そうな目に見下ろされて、七穂はへらりと笑った。
「殴られなくて、ラッキー」
どうにか立ち上がり、ズボンについた土を払う。
「本当に、お前が悪いのか?」
不意に言われて、その手が止まった。
壁島が真っ直ぐに見ている。七穂は、目を合わせていられなかった。
「いやぁ、どうでしょう? 彼氏がいるとは聞いてなかったし……まぁ、俺も訊かなかったけど……」
靴の先で、地面を掘った。
「連絡先も、俺から訊いたわけじゃないけど……でも、彼氏さんが嫌な思いをしたのは間違いないだろうし……?」
できた窪みへ、今度は土を戻す。
「俺が悪い……かな?」
あはは、と笑って顔を上げた。
壁島は、少しも笑っていなかった。
胸の奥が、嫌なふうに疼く。七穂はまた目を逸らした。
「誤解なら、誤解って言えばいい。違うなら、違うって言え」
そう言われて、胸ぐらをつかまれた時より胸が痛くなった。
そんなに簡単に言えたら、苦労はしない。
(そんな勇気があるなら、あんたにだって体当たりで嫌われにいってるっつーの)
なぜか、少し泣きたくなった。唇を噛んで堪える。
それから顔を上げた。
「ですよねぇ~」
結局、いつもどおり、にこにこと笑いかけた。
その夜、七時になっても壁島は現れなかった。
「無事に嫌われた!?」
久しぶりに家族だけで囲む食卓で、皆が嬉しそうにハイタッチをしていた。
もう来ないなら、それに越したことはない。七穂も心底そう思った。
連日、次は何を口走られるのかと食事のたびにひやひやしていた。もうこれで、背後を気にせずご飯を食べられる。正直、かなりほっとした。
今日の壁島は、大きかった。
もともと大きいけれど、それとは別に、とても自分の手には負えない人に思えた。必死にしがみついても下がらなかった腕を思い出す。
自分よりずっと強くて、大きい人は、やっぱり少し怖い。
「助けてもらっておいて、『怖い』とかさぁ」
部屋へ戻り、宿題を開いて、つい口に出してしまった。
なぜか、ちっとも集中できないでいる。
生き霊が来なかったのは嬉しい。恋愛対象ではなくなったなら、それもありがたい。
でも、「人の彼女に手を出す奴」とか「言い返しもできないでヘラヘラしているだけの奴」と思われて、人として軽蔑されたのなら──。
それは、少し悲しかった。
(怖いけど、悪い人でもないし……)
シャーペンの尻を押す。かち、かち、と芯を出した。
ぶっきらぼうでも、保健室まで運んでくれた。今日だって、助けてくれた。
いまだに、住む世界が違う人だとは思う。
それでも、蔑まれたくはなかった。
(……いや、つーか、こういうところが、今日みたいなトラブルを呼んだのでは!?)
七穂はシャーペンを置き、頭を抱えた。
自分も人も、無闇に傷つくのは嫌だ。平和的にいきたい。
そうやって誤魔化してばかりいたら、いつしかそれが板について、外面だけはずいぶんよくなった。
誰といても、言えないことがある。
彼氏がいるのにアピってきたらダメでしょう。彼女の気持ちが浮つくのは俺のせいじゃないでしょう、とか。
もしくは。
見えますか、あそこの電柱の裏。幽霊がいますよ。コンビニの中。ファミレスの隅。あなたの後ろにも。
そういうことを平気な顔では言えない。
だから、見えなかったふりをして笑う。
友達と同じものだけを見ている顔で、話を合わせる。
「あ」
そこまで考えて、気づいてしまった。
壁島が好きになったのは、そういう自分なのではないか。
友達に囲まれて、にこにこしている七穂。怖いものを見ても笑っていて、何も困っていないように見える七穂。
ミユだって、本当の自分を知っていたわけではない。壁島も、外から見えるそれを全部だと思って、好きになったのではないだろうか。
ノートに目を戻すと、書きかけの公式は、最初から間違っていた。
消しゴムをかける。力が入りすぎて、紙がぐしゃりとよれた。
『もう連絡とれないっぴ☆ ごめんね!』
ミユから届いたメッセージ。
怒っていた先輩たちの顔。
『違うなら、違うって言え』
壁島の、真っ直ぐな目。
「……心に来るなぁ」
今日一日で、まぁまぁ精神をやられた気がする。
ノートの端に『自業自得』と書いた。眺めて、やっぱり消す。
嫌われたくなくて、自分を誤魔化す。
それなのに、いざ嫌われたかもしれないと思うと、今度は「別にいい」と、自分の気持ちまで誤魔化そうとする。本当に嫌なのは、そういう自分だった。
もう、考えるのはやめよう、と七穂は思った。そのうち、宿題や友達との約束に追われて、今日のことも薄れていく。思い出しても、今ほど胸が痛まなくなる。
そういう一日だったのだと思えばいい。
「蛙化作戦、終了かぁ~」
七穂は宿題に向き直った。シャーペンの芯が、ぽきっと折れた。
どうにか宿題を終え、ベッドに入っても、なかなか眠れなかった。
枕元のスマホを見る。間もなく日付が変わる。
眠い。なのに、頭のどこかが妙に冴えている。何かを考えようとしているわけでもないのに、眠りに落ちていけない。
七穂はスマホを伏せ、目を閉じた。
こういう時は、無理にでも目をつぶったほうがいい。それだけでも少しは休まるはずだ。
じっとしているうちに、少しずつ体の力が抜けてきた。頭を締めつけていたものも、ゆっくり緩んでいく。
眠れるかもしれない。
そう思った時だった。
ベッドの上に、何かがいる。
物音はしなかった。マットレスが沈んだわけでもない。
それでも、そばにいると分かってしまった。
七穂は目を開けた。
壁島がいた。
両腕をベッドにつき、すぐ上から七穂を覗き込んでいる。
「わっ……!?」
跳ね起きかけて、声を飲み込んだ。こんな時にも、大声を出せば近所迷惑になる、と思ってしまった。
「なんで……」
壁島の輪郭が、部屋の闇に滲んでいる。もちろん、生き霊だった。
それは分かる。分かるけれど、こんな時間に、しかもベッドの上に来るなんて聞いていない。
動けずにいる七穂へ、壁島の顔が近づいてきた。
これって──。
「いや待って、これはまずい」
七穂は慌てて両手を振った。煙を払うように、目の前の姿をかき消そうとする。そんな能力はないので無駄なのだが、そうせずにはいられなかった。
するとなぜか、壁島の姿がふっと消えてくれた。
天井が見える。祓える力はないんだから、ただの偶然だろうか。
現れたことも、消えたことも、訳が分からない。
混乱したまま、七穂はしばらくそのまま動けなかった。持ち上げていた両手を、のろのろと布団の上へ下ろす。
どうして、こんな時間に──?
「……俺のこと、考えてたってこと?」
しかも、覆い被さって、顔まで近づけてきた。それは、つまり、そういうことなのだろうか。
「どんな想像してくれてんだ、バカ野郎……」
自分まで軽くそういう場面を想像してしまって、七穂は再び両手を顔の前で振った。
誰もいなくなったのに、今さら心臓がうるさい。
真っ直ぐにこちらを見ていた目。すぐ上にあった、大きな体。
「……全然、作戦終了してなかった……」
いや──むしろ、悪化しているのではないか。
少なくとも、嫌われてはいないらしい。それどころか、あんなことまで想像されているとしたら。
「早く蛙化してもらわないと、俺の貞操が霊的に危うい……」
心底動揺した。
今まで、ここまではっきり欲を向けられたことがなかった。こんなに、直に心臓にくるものなのか。
頬が熱かった。
七穂は布団を引き上げ、頭まですっぽりかぶった。
今度こそ、眠れそうになかった。
