「すみません」
声をかけた七穂を見て、壁島は目を見開いた。
開いていた本が手から滑り、膝をかすめて落ちる。
昼休み、七穂はミユに教わったクラスを訪ね、壁島の居場所を訊いた。上級生たちは揃って「なぜ壁島?」という顔をしたものの、昼休みなら屋上でよく見かけると教えてくれた。
屋上にいくつかあるベンチの一つに、その大きな背中を見つけたのだった。
「俺のこと、分かりますか……」
笑顔を作り、そっと近づく。分かるに決まっているので、ただの茶番だ。
壁島は本を拾い上げた。七穂の顔をじっと見て、ひと呼吸置いてから、
「この間の」
と、今思い出したように言う。
なぁにが「この間の」だよ、と七穂は内心で悪態をついた。
俺のこと、見てますよねぇ!?
そう言えたら、どれほど楽だろう。
「そうです、そうです。昨日はありがとうございました。保健室まで連れていってもらって……」
ベンチのそばで、深々と頭を下げた。迷惑をかけたのは間違いない。そこは、きちんとお礼を言いたかった。
頭の上で、少し間があった。
「……大丈夫だったのか」
「おかげさまで」
顔を上げて笑うと、壁島は目を逸らした。その視線が本へ戻りかけたところで、七穂は手にしていた紙袋を差し出した。
「これ、ご迷惑をおかけしたお詫びです!」
思い切って言うと、
「……え」
壁島が眉をひそめた。小さな紙袋と、七穂の引きつった笑顔を交互に見る。
(さっそく引いてる!)
傍から見れば、まるきりプレゼントを渡している図だ。実際、渡してはいる、が、これは巧妙な罠なのだと、自分に言い聞かせる。どうしても顔が熱くなってしまうが、出だしは悪くない……はずだ、頑張れ俺! と心の中で小さく自分を鼓舞した。
「詫びとかは、別に……」
「もらってください! 俺が焼きました!」
ここで引き下がるわけにはいかない。念を押すと、壁島は黙って紙袋を受け取った。
取り出されたのは、金色のタイで口を留めた透明な袋。中には、あえてハート型に抜いたクッキーを詰めてある。一番大きなものには、チョコペンで『礼』と書いた。
「……まぁ、どうも」
壁島はしばらくクッキーを眺め、それを紙袋へ戻そうとした。
「今、食べてほしいです!!」
七穂は慌てて言った。
「今?」
驚いた顔をされて、一瞬ひるむ。
昼休みの校庭から、生徒たちのはしゃぐ声が聞こえた。吹奏楽部の昼練の音も、風に乗って届いてくる。
「た、食べてるところ、見たいので」
口にしてから、いよいよそれらしくなってきたと思った。けれど、持ち帰って「まずそう」と捨てられては意味がない。
しっかり噛み締めてもらわなくては。こね回しすぎて、ゴムのようになった特製クッキーを。
そして、残したところで「ひどい」と被害者ぶって困らせる。そこまでが、今日の作戦なのだ。
昼食のごみらしいものが入ったコンビニ袋を端へよけ、七穂は隣に座った。
さぁ、どうぞ。
そんな顔で見つめていると、壁島は少し困ったように眉を寄せ、金色のタイをほどいた。
『礼』のクッキーを取り出す。裏や表へひっくり返して、
「……いただきます」
と、一口かじった。
さくっ、とはいかない。昨夜、七穂も試食しているので知っていた。
歯を立てて、引きちぎるようにしなければ食べられないのだ。砂糖も控えめにしたせいで、味のしないガムを焼いたような代物になっている。アクセントのつもりで入れたナッツも、食感の悪さに拍車をかけていた。
「どうですか」
七穂はにこっと笑った。美味しいと言ってもらえるのを待つ、期待いっぱいの顔を作る。
(さぁ、まずいとおっしゃい。泣いてやる)
壁島の口が動いている。もちゃもちゃと、いつまでも噛んでいる。無理に少し飲み込んだように、ごくりと喉が鳴る。
(くるか!? こい!)
七穂は前のめりになった。
が、
「……甘すぎねぇし、食いやすい」
と、壁島は言った。
壁島はペットボトルの茶を一口飲んだ。どうやら、あれをきちんと飲み込んだらしい。
「え?」
「ぼそぼそした甘いもん、普段あんま食わねーから」
壁島はもう一枚取り出した。
確かに、ぼそぼそしてはいない。甘くもない。
でも、だからといって食べやすいはずは、断じて、ない。
味のない生地が口にまとわりつくし、ナッツはガリガリ鬱陶しいはずなのに。
「俺も一個、いいですか」
まさか、一晩置いたら何か変わったのだろうか。
袋から一枚もらい、かじってみる。
「!!」
一ミクロも変わっていなかった。ちゃんとまずい。
唾液を吸った生地が、ますますもちゃもちゃと口の中に広がる。砕けたナッツまでちくちく引っかかって、どうしようもない。
完璧な失敗作だった。
それなのに、隣では一枚、また一枚とクッキーが減っていく。
「ごちそうさまでした」
とうとう袋が空になった。
「ど、……どういたしまして。俺、料理得意なんです……」
せめて、「その腕でよく言うな」くらいには思ってほしかった。
けれど、壁島は「ふぅん」と答えただけで、また本を開いてしまった。
「……」
何も成し得なかった。
七穂は呆然と座っていた。
しかも、自分の口にはまだクッキーが残っている。飲み込んだつもりでも、頬の内側や歯の隙間から、いつまでもまずさが戻ってくる。
水。水がないと死ぬ。
「あ、俺、邪魔ですよね」
その場を去りたくて腰を浮かせかけると、
「邪魔じゃねえ」
即座に壁島が言った。
その返事があんまりにも早かったので、そのまま立ち去るのも変な気がした。七穂はすとんと腰を下ろす。
邪魔ではないらしい。
けれど、構ってくれるわけでもなかった。
壁島がページをめくる。遠くの演奏が途切れ、また同じところから始まった。
何か喋ったほうがいいのだろうか。沈黙が苦手な七穂は、横目で壁島を窺った。
どうせ話すなら、引かれるようなことがいい。何か、ないだろうか。
首が太い。肩もでかい。手が大きいせいで、持っている単行本まで小さく見える。
その表紙に目が留まった。
「あ、その本、俺も読んだことあります」
「そうか」
少し前に話題になった推理小説だ。壁島は、ちょうど半分ほどまで読み進めていた。
そこで、七穂はピーン! と閃いた。
世界共通、ネタバレをする人間は悪魔のように嫌われる。
そう。犯人を言ってしまえばいい。
これは確実に引かれる。怒られるかもしれない。ワンチャン殴られるかも。言ったらすぐ、逃げよう。
七穂は膝の上で拳を握り、壁島へ向き直った。
「その本……」
声を出した途端、嫌な汗が背中ににじんだ。胸がどきどきする。
「ん」
壁島がこちらを見た。
先を促すその目に、言いかけた言葉がつかえた。
(その本、めっちゃ面白かったんだよな)
最後まで読んだ時のことを、思い出してしまった。
なんなら、少し泣いたのだ。
握った拳を、ゆっくりほどいた。
「……今度、映画化するらしいですね。その本……」
「へぇ」
壁島はそう答えて、本へ目を戻した。
やがて、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
「冷静に考えてさ」
その夜、七穂は祈のベッドに腰を下ろしていた。夕食は済み、家族も順番に風呂から上がっている。
七時には、やっぱり壁島が現れていた。
(クッキーくれた。自分で焼いたって)
嬉しそうにつぶやいて、そのうち消えた。
美味しかった、とは一度も言わなかった。ちゃんと「まずい」と思う味覚はあるのだろう。だったらなぜ、どうしてあんなに嬉しそうにできるんだ、と七穂は唇を噛んだ。家族会議は、「我慢強いわね、食べ物系はNGよ!」と、そんな結論で終わっていた。
「そもそも俺、壁島さんがどうとかじゃなくて、シンプルに人に嫌われるの、めっちゃ苦手かも」
祈のお気に入りの、大きなクマのぬいぐるみを膝へ抱き寄せる。
「出た、八方美人」
学習机でパソコンに向かっている祈は、振り返りもしなかった。
「これって、八方美人って言うの? 人にわざわざ嫌われたい人とか、いなくない?」
「それはもちろんそうだけど、お兄ちゃんはみんなににこにこしすぎ」
かたかたと、キーを打つ音が続く。
「だってぇ。神社の息子が感じ悪くちゃだめかなっていう、小さい頃からの配慮が体に染みついてて」
「評判を気にするほどの神社か」
ため息交じりに言われると、確かに、としか思えなかった。
「別に、何の害もないなら、壁島さんに好かれてることだって問題ないんだよ? でも、毎晩毎晩、食事時に出てこられるのって嫌じゃん。しかも、お兄ちゃんのことを、かわいい、かわいいって言ってるの聞かされて……拷問? キツすぎ」
そこでようやく、祈が振り向いた。二つに結んだ長い黒髪が、肩の向こうへ揺れる。
げんなりした顔で、七穂を指さし、
「迷惑!」
と言った。
「確かに」
クマをぎゅっと抱きしめ、七穂は俯いた。
「でも、あの人、保健室に運ぶ時も、俺が『いいです』って言ったのに、『怪我してたらまずいだろ』って連れていってくれたし、今日もまずいクッキー、文句も言わずに食べてくれたし……怖いけど、そこまで悪い人じゃないんじゃね?」
「じゃあ何? 付き合うっていうの?」
「それは違うけど」
「じゃあ、やっぱり殴られない程度に冷めてもらうしかないじゃん! 蛙化計画、やるしかないんだよ」
祈は本棚から雑誌を取り出して、付箋のついているページを開いて七穂に渡した。
『蛙化待ったなし!? やってはいけない。好きな人に引かれる・嫌われる行動100!』という特集ページだった。わざわざ調べてくれたのだろうか。
「100もあんの?」
呆れながら目を通していく。
私服がダサい。上から目線。料理が下手。プレゼントのセンスがない。お金にがめつい。いつもたかってくる。
「まぁ、そりゃ引かれるわな」
頷きながら読み進める。
感情的に喋る。泣けばいいと思っている。しつこい、粘着質。好きかどうかしつこく訊いてくる。すぐに脅す。
「ほうほう」
店員に偉そう。ゴミをポイ捨てする。
「好きな人にというか、普通に人として嫌われる行動ばっかじゃね」
「それをやるんでしょうが」
「ゲロォ」
七穂が項垂れると、祈はもう一度ため息をつき、パソコンへ向き直った。
「忙しいんだから、出てって。集中できない」
椅子に座り直し、背筋を伸ばす。静かに息を吸う音がした。
「バイト?」
「うん」
祈の指が、キーボードに戻った。
橘家にしては珍しく、妹には、ただ霊が視えるだけではない力があった。
探し物を見つけられるのだ。
小さい頃は、家族が「あれ、どこだっけ」と訊くと、必ず見つけてくれる程度だった。幼稚園でも、小学校でも、それが続いた。なくなったものは、祈に訊けば出てくる。やがて、周りもその不思議な特技に気づき始めた。
見たこともない品物が、行ったこともない場所にあると言い当てるのだから、祈が隠したのでは、と疑われることもなかった。
犬がいなくなった。土地の権利書が見つからない。
噂を聞いた近所の人たちが、ことあるごとに頼みに来るようになった。まだ幼かった祈は、訊かれるままに答えた。両親も、娘の力が人の役に立つならと、にこにこしていた。
ある時、娘のランドセルを探してほしいと頼まれた。
祈の教えた場所からは、ランドセルと一緒に、女の子の遺体が見つかった。
その両親は、あとで礼を言いに来てくれた。泣き腫らした目をしていた。それでも、娘が見つかってよかったと、感謝してくれた。
誰にも悪意はなかった。
女の子の両親は切実に娘を捜していただけで、祈もただ、力になろうとしただけだった。
それでも、祈はひどく傷ついた。
康二も明美も、そこで初めて考えた。例えば、DV夫が虐待の事実を隠し、逃げた妻子を「探してほしい」と言ってきたら。言われるままに教えれば、知らずに手を貸してしまうかもしれない。誰かの役に立つからと、それだけで使わせていい力ではなかったのだ。
そして、それから、祈は人の大切なものを探せなくなった。
靴下の片方。なくしたヘアピン。どこへしまったか忘れた帽子。
見つからなければ、それでもいいかと思えるもの。
探せるのは、そういうものだけになった。
大切なものにつながる品を代わりに探させようとしても、その意図まで見透かすように、祈の力は働かなかった。
祈の能力に制限がかかって、家族は、正直ほっとした。
女の子の遺体が見つかったと聞いた時の、妹の顔を忘れられなかった。黒い瞳が、今にもひび割れそうに見えた。
今の祈は、一回三百円で探し物を引き受けている。
見つかったら、ネットバンクに振り込んでもらう。振り込まれなくても、恨まない。
だって、どうでもいいものなのだから。
じっと目を閉じて、なくなってもいいものを探す。妹のバイトは、そういうものだった。
「頑張って」
七穂はクマをベッドに戻し、部屋を出た。
返事はなかった。
閉めかけたドアの向こうで、祈の背筋は、真っ直ぐに伸びていた。
