壁島の生き霊は、それからも毎晩やって来た。
決まって夕食時に七穂の後ろに現れては、
(間違えてコーヒー買って、友達のジュースと交換してもらってた)
とか
(サッカーボール顔面に当たったのにゲラゲラ笑ってた)
とか
(一本の傘に友達三人で入ってぎゅうぎゅうしてた)
とか、あとはシンプルに
(前髪切ってた)
とか。
その日見かけた七穂のことをぽつりぽつりと口にして、いつの間にか消える。
家族はすっかり面白がっていたが、七穂としてはたまったものではない。おまぬけ暴露マシーンなのも嫌だし、一体いつどこから見ているんだと思うと、それも薄気味悪い。おちおち廊下も歩けない。
そして肝心の本人は、どこかしらから見ているくせに、未だ、ただの一度も話しかけてこなかった。
やむを得ない。
そっちが生身では来ないというなら、こちらから行くしかない。
作戦はこうだ。
思慮の足りない妹は簡単に「嫌われればいい」などと言ったけれど、相手はヤンキーだ。本気で嫌われては困る。「気に入らん。殺す」と、七穂まで鍋にされるかもしれない。
目指すのは、「好きだと思ってたけど、なんか違った」くらいの落差だ。恋心だけを、そっと引っ込めていただきたい。
いわゆる「蛙化現象」を狙う。
「つまり、いったんはお友達になりつつ、ちょっと引かせればいいわけだ……」
昼休み、七穂は三年生の教室がある階までやって来た。階段脇の壁に身を寄せ、顔だけを出して廊下を窺う。
食堂や購買へ向かう生徒が、目の前を次々に通り過ぎていく。連れ立って中庭へ下りていく集団もいた。そのどこにも、金髪の大男は見当たらない。
七穂も176cmあるが、壁島はさらに大きい。おそらく185cmは超えている。通れば、さすがに気づくだろう。
教室にいるのだろうか。四つあるクラスを、一つずつ覗くべきなのか。
「いや、見つけたとして、どうすんだ!?」
そこが、ここ数日間少しも進んでいなかった。七穂は頭を抱え、その場にしゃがみ込んだ。
お話があります、とでも言って来てもらうのか?
それでは呼び出しだ。果たし合いだと思われたらどうする。殴られなかったとしても、二人きりで何を話せばいいのか。
考えている間にも、頭上を足音と話し声が通り過ぎていく。
「あ、橘くんじゃん☆」
甘い声がしたので顔を上げると、三年生の美人な先輩が立っていた。こんなところに座り込んでいる七穂を不思議そうに見て、それでも大人っぽく微笑んでくれる。
「こんちゃす」
短いスカートから伸びる白い脚を見ないようにしつつ、七穂も笑って立ち上がった。誰かははっきりとは知らない。見かけるたびにかわいいなぁと思っていた人だ。
「三階で何してんの?」
「いや、ちょっと……ふらりと」
「ふーん? まぁいいや。連絡先教えてー☆」
軽く言われ、七穂もスマホを取り出した。
こういう時には、ちゃんと言葉が出てくる。「アイコンかわいいっスね」などと話しながら連絡先を交換し、画面に表示された名前を確かめた。ミユ、というらしい。
「ミユさん、あの」
スマホをポケットに戻しながら、
「……壁島って人、分かります……?」
と訊いてみる。
ミユはきょとんとした。
「同じクラスだけど? 用事? 呼んでこようか?」
「いやいやいや、いいです。心の準備がっ」
慌てて両手を振ると、ミユはくすくす笑った。長い茶髪が肩でさらさら揺れる。かわいい。
「怖いですか、その人」
「さぁ? 喋ったことないし」
ミユはそう言うと、「じゃあ、また連絡するねー☆」とひらひら手を振り、短いスカートを揺らしながら歩き去ってしまった。
その後ろ姿を見送り、七穂は壁へ戻った。
せっかくかわいい先輩と喋っていたいのに、ヤンキーを探さなくてはならないなんて。こんな理不尽があっていいのだろうか。ため息しか出ない。
何度も廊下を覗いているうち、通りかかる生徒と妙に目が合うようになった。そろそろ不審に思われている気がする。
予鈴まで鳴り、廊下がにわかに慌ただしくなる。
「無理だ。やっぱり俺には無理だ」
肩を落として踵を返した、その時だった。
どん、と顔が何かにぶつかった。
硬い。広い。壁かと思ったが、視界の端に学ランの黒が映った。人だ、と理解した時には、七穂だけが後ろへ弾かれていた。
「いたっ」
尻餅をついた床の硬さに、顔をしかめる。相手はびくともしていなかった。
「……すみません、慌ててて」
座り込んだまま、七穂は顔を上げた。
長い脚、太い腰、がっしりとした胴、広い肩。
その先に──壁島の顔があった。
廊下に差す光の中で見る金髪は、茶の間で見るよりずっと明るかった。
「……っ!」
喉まで出かかった悲鳴を飲み込み、七穂は笑った。考えるより先に口角が上がる。もはや反射だった。
「す、すすす、すみません……」
へらりと笑顔だけは保って、壁島を窺う。
見下ろしてくる目が据わっていた。太く真っ直ぐな眉の間には、深い皺が刻まれている。
「ちゃんと前見ろや」
低い声が腹の底に響いた。
同じ声なのに、全然違う。茶の間で「かわいい」とつぶやく時の柔らかさが、どこにもない。下がった口の端も、七穂にはひどく不機嫌そうに見えた。
「ご、ごめんなさい」
立たなければ、と思うのに、脚に力が入らない。生まれたての子鹿みたいに膝を震わせていると、壁島の腕が伸びてきた。
殴られる!
そう思って目を瞑ったが、痛みはなかった。
代わりに、学ランの襟元がぐっと持ち上がった。引かれるまま脚を伸ばすと、もう立っていた。あまりの呆気なさに、七穂は口を開けたまま壁島を見上げた。
「気ぃつけろ」
吐き捨てるように言われ、睨まれる。
「ハイ!!!」
七穂は勢いよく返事をして、階段へ逃げ出した。
慌てすぎていた。
「げっ」
踏み出した足が滑った。
「なッ!?」
背後で壁島の声がした。あの人も驚くんだ、と考えるより早く、視界が回った。
どこをどう転がったのか、よく分からない。十段ほど下の踊り場で止まった時には、息が詰まっていた。頭は打っていない。激しい痛みも、今のところない。たぶん大丈夫だ。
そう思った七穂の脳裏に、昨日聞いた噂が浮かんだ。
睨まれて骨折。ぶつかって吹き飛ばされた女子。首根っこをつかまれた猫。
──全部じゃん。
この短時間で、猫の分まで体験してしまった。
体を起こすと、壁島が大股で階段を下りてきた。
「痛むか」
「大丈夫です!」
反射的に立ち上がり、そのまま逃げようと一歩踏み出す。途端に、足首へ鋭い痛みが走った。
「っ……」
ほんの一瞬、顔をしかめただけなのに、見逃してはもらえなかった。
「怪我したか」
「いや、本当に大丈夫です。これくらいなら……」
もう一度歩こうとした、その時。
「動くな! 怪我ァ舐めてんのか!!」
雷みたいな怒声が階段に響いた。
七穂はびくりと肩を跳ねさせ、涙目で壁島を見上げた。
めちゃくちゃ怖かった。
「それで???」
祈が、一生懸命笑いを堪えようと口元を押さえている。
「……足首をちょっと痛めたから、壁島……さんに、保健室まで肩を貸してもらった……」
七穂は死んだ魚のような虚ろな目を食卓へ落とした。思い出すだけで、頬が熱くなる。
「いや、肩を貸してもらったというより、もはや肩に担ぎ上げられた……」
醜態を思い返しながら、
「米俵のように……」
と、つぶやく。
そこまで耐えていた祈が、盛大に吹き出した。まだ料理の並んでいないテーブルをばんばん叩く。台所では、ハンバーグを焼いている母の肩が震えていた。祖父の顔は夕刊に隠れているが、紙面が細かく揺れているので、隠す意味がない。
「ちょっとは心配してくれてよくない? その時は痛かったんだからさあ」
七穂は涙目で口を尖らせた。
「いや、今はもう痛くないんでしょ? ならよかったじゃん。壁島さんとも出会えたんだし」
祈は、ひぃひぃと笑いながら涙を拭っている。
「みっともない」
秀進も、そう言いながら顔を歪めて笑っていた。
「みっともないを超えて、恥ずかしすぎる! あれ?? でも、情けないところを見せられたってことは、ある意味、作戦成功!? 怪我のコーミョーってやつ!?」
「まるでわざとそうしたかのように。ただのドジのくせに」
半笑いの祈に七穂が言い返そうと口を開いたところで、玄関の戸ががらがらと鳴った。
「今日ついに話しかけるって言ってたよね? どうだった?」
うきうきと帰ってきた康二は、祈と明美から事の次第を聞くと、やはり吹き出した。
「素が出ちゃったかぁ」
手を洗ってから、テーブルにつく。
「うるさいなぁ」
「いやいや、壁島さんがどう思ったかだからね。問題は」
時計の針が、間もなく七時を指す。
ハンバーグの皿が並び、ご飯と味噌汁が行き渡る。その頃にはもう、七穂の後ろに壁島が立っていた。
壁島は、いつもなら現れてもすぐに喋るわけでもないのに、その日は
(今日、初めてしゃべった)
現れて早々、言った。
(めっちゃ軽かった)
噛み締めるようにつぶやいた。
「軽いわけない。俺、体重60はあるもん!」
思わず弁明すると、皆から一斉に「しっ!!」と制された。
壁島は、自分の右手に視線を落としていた。
昼間、七穂の襟をつかんだその手を、何か大事なものがまだ残っているように、じっと見ている。
(いきなり落ちたから、びっくりしたけど……受け身うまかった……)
「ちびっこ柔道教室のおかげだわ! この人、通ってました!」
明美がまるで報告するように言う。
(保健室で、ありがとうって言ってくれた……)
「うちの子が本当にすみません」
康二が深々と頭を下げる。
「嫌いになるんじゃない? さすがに、この目に余るほどのおっちょこちょいぶりには!? イタいですよねぇ!? 共感性羞恥を煽られますよね!?」
祈が鼻息も荒く壁島に向かって言う。
「言いすぎ!」
七穂は真っ赤になった。
「ううう、自分がわざとやったことで嫌われるのはいい。けど、単なるミスで人として引かれるのは不本意だ! シンプルに恥ずかしい!」
言い終えるなり、七穂はご飯を口にかき込んだ。これ以上、誰の顔も見ていたくなかった。
(かわいい)
壁島の柔らかな声に、米を少し吹き出した。
もう勘弁して、ともぐもぐしながらぼやいた。
「これでもだめかぁ。あんな醜態を晒したのに大丈夫とは。相手もなかなかやりますな?」
祈が呆れたように言って、腕を組んだ。
「でも、これってチャンスじゃない? お礼を言いに行くっていう体で、話す口実ができたし」
明美が「名案よ!」とでも言いたげに人差し指を立てた。
「確かに、口実としてはばっちりかも。問題は、どうやって『ちょっと嫌だな』と思ってもらうかだね」
康二が真面目な顔で考え込んだ。
「好きな人にされて、嫌だったこと……」
箸を動かしながら、皆で首をひねる。七穂の背後には、その相談の対象が立ったままだった。
「あ、そういえば、高校の時に付き合ってた子が、バレンタインにくれた鯖の味噌煮が、生臭くて嫌だったなぁ」
康二が、今でも味を覚えているような顔をした。
「臭みの前に、バレンタインに鯖の味噌煮をくれる神経が嫌なんだけど」
「いやいや、食べ盛りだったから」
父は懐かしそうに頷いている。七穂には、どうにも理解しがたい青春だった。
「でも、それいいじゃん! とんでもなくまずいのはかわいそうだけど、なんか美味しくはないクッキーとかを焼いて渡したらいいんじゃない!?」
祈が言った。
「え、やだよ。男からクッキーなんて」
「いや、だから、それが作戦でしょうが!」
そうだった。
男子高校生が、もじもじしながらクッキーを渡してくる。しかも、食べてみたら普通にまずい。
「俺なら、『なんじゃこいつ』くらいにはなるかも!?」
「でしょでしょ!?」
「じゃあ、さっさとご飯を食べて、壁島くんに美味しい……じゃなくて、美味しくないクッキーを焼きましょう!」
明美はうきうきと言った。
「なんか楽しそうじゃな」
そう言った秀進も、ものすごく楽しそうな顔をしていた。
