壁島鷹矢。
それが、昨夜の生き霊のフルネームだと、調べて分かった。
あのあと、壁島は食事が済む頃にふっと消えた。家族揃って胸を撫で下ろしたものの、七穂のことを「かわいかった」と言った、そのひと言まで消えてくれたわけではない。
翌日の昼休み。七穂は弁当を広げながら、さりげなさを装って友人たちに切り出した。
「三年の壁島鷹矢って知ってる?」
訊くと、七穂の机を囲んで弁当を広げていた友人たちは、
「知ってるに決まってる。朝も見たぞ」
「デカいから目立つんだよあの人」
と全員が頷いた。
よかった。やっぱり死んでいなかった。いや、それはいいけど、ではやっぱり生き霊じゃないか、と七穂は思い直し、
「で、どんな人?」
ともう一回訊いた。
入学早々、当時の三年生に喧嘩で勝った。それ以来、敵う相手はいない。返ってくるのは、そんな話ばかりだった。どうやら、見た目どおりの怖い人らしい。
「俺の部活の先輩は、骨折させられたらしい」
友人の高村が、神妙な口調で言った。
「マジ?」
卵焼きへ伸ばしかけた箸が止まった。
「うん。睨まれてびっくりして、慌てて階段から落ちて……!」
「それは自損事故じゃん」
ほっとして箸を動かすと、今度は横から声が上がった。
「あたしの先輩も、突き飛ばされたって!」
「え、女の人にそんな?」
「うん。廊下の曲がり角でぶつかって、吹き飛ばされて……!」
「それも事故だね?」
皆の声はひそまるばかりなのに、よく聞けば、今のところ二件とも事故である。
「なんかもっとこう、具体的なことを知ってる人いないの?」
次は唐揚げを頬張りながら、七穂は皆の顔を順番に見た。
「……そういえば、猫を鍋にして食ったって」
今度は山下が、真剣な目で言った。
「まさか」
ごくりと唐揚げを飲み込む。
「少なくとも、猫の首根っこをつかまえて、連れて帰るところを見た先輩がいる! これはガチ!」
「なにそれ! 怖いよぉ!」
友人たちは、青い顔で震え上がった。
猫を。そんなまさか、と思う。思うのだが、昨夜見上げた顔が脳裏に浮かぶと、どうにも否定しきれなかった。
人を二、三人殺しています、と言われても納得しそうな迫力だったのだ。猫の一匹や、二匹……。
「で、橘は、なんで壁島のことを訊くんだ?」
高村が不思議そうに訊いた。
「カツアゲされた?」
「『兄ちゃん、金貸してくれよぉ』みたいな!?」
皆が心配そうに七穂を見る。
「いや、全然そんなんじゃなくて……」
七穂は口ごもった。
「昨日、かわいいと言われました。しかも生き霊の姿で」などと、言えるはずもない。曖昧に笑うしかできなかった。
「なんかされたら言えよ!?」
山下が言ってくれる。
「山下……」
「巻き込まれないよう、ちゃんと逃げるから!」
ちょっと感動しかけた七穂は、がくりと肩を落とした。
「いや、助けないんかーい」
ひょうきんな吉田が言ったので皆がどっと笑い、七穂もつられて笑った。話題はいつの間にか壁島から離れ、放課後、カラオケへ行こうという話になった。
友達といるのは楽しい。
それは、本当だった。
けれど。
「次のお客様」
放課後のカラオケ店。受付の声に、七穂は前に並ぶ男性を見た。
順番が来たのに、男性は動かない。聞こえなかったのかと思い、
「あのぉ、順番来てますよ」
と声をかけると、それを聞いた高村が、
「ん? 俺たちのこと?」
と怪訝な顔をした。
高村が受付へ進んだ。その肩が、前にいた男性の体を何の抵抗もなくすり抜けていく。
まずい。
七穂は息を止めた。
声をかけてしまった。
男性は、ゆっくり、ゆっくりと──七穂のほうへ振り返ろうとしていた。
「部屋、八番だって」
受付を済ませた高村が言うやいなや、七穂はダッシュでその場を離れた。
「いや、どんだけ歌いたいんだ?」
山下に笑われてしまう。
「……あ、ほら、まずは俺の盛り上がるチューンから……」
硬いソファに倒れ込み、冷や汗をだらだら流しながら、それでも七穂は笑った。
嘘をついているわけではない。歌いたいし、友達と遊ぶのも楽しい。
ただ、分かり合えないだけなのだ。友人たちとも、霊とも。
七穂は曲に合わせてタンバリンを鳴らし、サビを歌う友人に笑いかけ、合いの手を入れる。
扉のガラスの向こうからは、あの男性がじっとこちらを覗いていた。
それを口に出せない。ただ、それだけだ。
時々、その「それだけ」が、とても苦しかった。
結局、霊は最後まで見ないふりをした。
カラオケ店を出て、いつもの夕食に間に合うよう家へ帰る。食卓には生姜焼きが並んでいた。
「いただきます」
七穂が手を合わせた途端、
「出た、ヤンキー!!!」
祈が目を見開いて叫んだ。
箸を取る前に、おそるおそる振り返る。今日もまた、壁島がいた。
いないけど、いる。
「なあんで食事中に来るんじゃ、こいつは!」
秀進が味噌汁を片手に、怒ったように言った。
「今日はおかずが少ないから、恥ずかしいわ」
「そんな。いつも美味しいよ、明美さん」
「いや、品数見てないっしょ」
生き霊の壁島を見上げながら、七穂が言う。誰も箸を止めないので、かちゃかちゃと食器の音が続いている。
「そうだよねぇ。壁島さんが見てるのは、お兄ちゃんだよね」
祈は軽く吹き出しながら、付け合わせのキャベツに胡麻ドレッシングをかけた。
「趣味悪ぅい」
「祈、お兄ちゃんを悪く言ってはいけないよ。少なくとも、顔だけはいいんだから」
「お父さんに似てね?」
父が取りなし、母が嬉しそうに相槌を打つ。
「七穂が顔出しで神社のことをSNSで宣伝してくれるようになって、来客が増えたんだから!」
「効果の怪しいお守りがたくさん売れて、ホクホクよ?」
「このご飯も、お兄ちゃんの顔で食べているようなものなんだ。感謝しないと。顔に」
「さすが、わしの孫」
「ありがとう、顔」
褒められているのに、少しもありがたくなかった。顔だけに礼を言われても嬉しくない。異常な景色の中で、食べる手だけは通常運行に戻っていく。
橘家の営む平普神社には、これといった伝承も、ご利益の噂もない。
一応御神体として、蛙を祀ってはいる。ただ、その蛙が何なのかと訊かれても、家族の誰ひとり答えられなかった。
しかも、絵馬に描かれているのは、皮膚がイボイボで目の出た、ぼてっとした腹の蛙である。ありがたいお言葉として掲げられているのは、『我にかえる』。
もっと蛙がかわいかったり、「無事帰る」「お金が返る」みたいなありがたい語呂合わせなら、すがろうという人もいたかもしれない。
けれど、「我にかえる」では、そもそも参拝者が正気を失っている前提みたいでいただけない。
社殿もごく普通で、写真目当てに人が集まるような花や木があるわけでもない。
圧倒的に、映えが足りない。
苦肉の策で、七穂が白衣と袴を着て写真に収まるようになった。
白衣は、七穂のピンクベージュの髪をよく引き立てた。背景は平凡な境内や、どこにでも生えていそうな木。それでも、人がひとり立つだけで多少は見栄えがするらしい。
ほかに売り込めるものもなく、地道に投稿を続けていたら、いつの間にか「平普神社の王子」なんて呼ばれるようになり、フォロワーもかなり増えた。
草むしりが仕事の王子なんて、この世のどこにいるんだと思いつつ、七穂は軍手をして草を抜く様子を祈に撮ってもらったりしている。
ありがたいことに参拝客は増えたし、SNSの収益の一部は七穂に入るので助かっている。
「いや、待って。今はそんなことより」
七穂は背後の壁島を改めて指さした。
「なんとかしてよ、この生き霊!」
訴えたが、家族は顔を見合わせ、肩をすくめた。
「どこかに、お祓いにでも行く?」
明美が眉をひそめて言う。困ったわねぇ、と頬に手を当てている。
「神社やってるくせに、お祓いをよそに頼んでるのがバレたら、お守りがまた売れなくなりそう」
「っていうか、わしもちょっぴり恥ずかしい」
祈に続いて秀進までそんなことを言う。
恥ずかしいなら精進せんかい、とは誰も言わなかった。自分たちには素質がないと、皆十二分に分かっている。
「じゃあ、どうすんだよ」
七穂は口を尖らせた。
「知らないわよぉ。あなたが連れてきたんだから、お母さんは面倒みませんよ?」
「自分で飼うって約束で連れてきたんだろう?」
「捨て犬拾ってきたんじゃないんだから!」
両親は揃って味噌汁の椀に口をつけた。責任を持って飼えとでもいうのだろうか。
その時。
(放課後──)
低い声がしたとたん、一同の肩がびくりと跳ねた。椀を置き、箸を止め、皆が壁島を見る。
(友達と歩いてた)
ぽつり、ぽつりと落ちるような言葉。
(笑ったとこ、かわいい)
「またかよ!」
叫んで、七穂は顔を覆った。熱が首から頬へ、一気に駆け上がった。
「いい加減にしてほしい。恥ずいし死ぬ。取り憑かれて生気を吸われるほうがマシ!」
いたたまれず、食卓の空いたところに突っ伏した。
頭の上で、祈がしみじみと言った。
「恋だね、これは」
「……恋?」
とんでもない単語が聞こえた気がして、顔を上げた。
「恋ね」
「片思いだね」
他の皆も頷く。
「な……恐ろしいことを言うなよ! 面識もないってのに、恋って!」
声が裏返った。それなのに、家族の誰ひとり撤回してくれない。
「いやー、生き霊を飛ばすほど、お兄ちゃんのことを想ってるってことでしょ、これは」
「相当強くお前を想っていなければ、なかなか生き霊なんて飛ばせないだろうしなあ」
「恋なのね」
「BIG LOVEじゃ。青春じゃ」
「待て待て待て」
七穂は頭を抱えた。
そんなわけがない。喋ったこともなければ、まともに顔を合わせた覚えさえない相手なのだ。
なんせ七穂は、注意深く生きてきたのだ。
霊とは目を合わせない。話しかけない。今日はうっかり失敗したけれど、普段はそういうことを徹底している。
「君子危うきに近寄らず」をストイックに実践しているうちに、生きた人間に対しても、ヤバそうな相手には近づかなくなった。
誰にでも愛想はよくする。そのぶん、例えば妙に執着してきそうな女の子には気をつけて、早めに距離を取る。SNSの変なコメントも、見つけ次第ブロックする。
とにかく、トラブルが嫌なのだ。
平穏無事。
七穂は、そういうのが好きだった。
壁島のことも、きっと無意識に、けれど徹底的に避けてきたのだ。そうでなければ、あれほどデカくて怖い人を、見逃すはずがない。視界に入るたび、顔を確かめるより先に自然と目をそらしていたのだろう。
それなのに。
避けてきたはずのヤンキーが、二日続けて自宅の茶の間にいる。
しかも生き霊になって、自分を「かわいい」と言う。
怖がっていた家族まで、今では口を揃えて恋だと言っている。
否定したい。したいのに、ではほかに何なのかと訊かれたら、七穂にも答えられなかった。
「……俺は、どうすればいいの?」
口から出た声は、自分でも情けなくなるほど頼りなかった。途方に暮れる、とはこういう気持ちなのだろうかと七穂は思った。
「はっきりお断りしたらどうだい?」
康二が真顔で提案した。眼鏡がきらりと光る。誠実さを信じて疑わぬ尊い光だった。
「話したこともないのに、急に『ごめんなさい。諦めてください』なんて言えないよぉ」
七穂は項垂れた。
「あ、じゃあさ」
祈がぽんと手を打った。
「出会って、嫌われればいいんじゃない?」
「へ?」
妹の軽い言葉に、七穂は目を瞬かせた。
「いい考えかもしれないわね。まずはちゃんと出会って、お友達になって、それから嫌われるよう、頑張ってみたら?」
明美も賛同する。「頑張って嫌われる」という言葉のアンバランスさに理解が追いつかない。
「お兄ちゃんなんて最初から顔だけなんだし、向こうもお兄ちゃんのことをよく知れば、あっという間に正気に戻るんじゃない?」
「顔だけだしのう」
「ヘタレだし」
「八方美人だし」
「今は悪口やめような???」
放っておくと、いくらでも続きそうだった。
「つまり、俺はわざわざこの人とお近づきになって、嫌われるようなことをするってこと?」
七穂は後ろに立つ壁島を見上げた。
口にしてみると、改めて無茶な話だった。
この顔に、自分から話しかけに行く。しかも、嫌われるために。考えただけで目眩がした。
「頑張ってよ。穏やかな家族団欒のために」
祈が平然と言った。皆も茶碗を手に、真顔で七穂を見ていた。生姜焼きは、すっかり冷めていた。
