「……お兄ちゃん。それって……霊だよね?」
七穂の背後を、妹の祈が指さした。か細い指先は、小刻みに震えている。七穂は、茶碗を持つ手を止めた。
夜の七時。いつもの夕食の時間。
一家団欒の食卓に、それは何の前触れもなく現れた。
「やべ、マジじゃん!」
米を頬張ったまま振り返り、七穂は驚いて言った。
椅子のすぐ後ろに、男が立っている。
よく見ると、うっすら透けた胴の向こうに、見慣れた茶の間が見えた。ひどく大柄な奴なので、顔を見るにはぐっと顎を上げなくてはならなかった。
「情けないぞ、七穂。あれほど妙なものには関わるなと教えてきたというのに。霊なんぞ家まで連れてきおって! 『触らぬ神に祟りなし』、我が家の家訓を忘れたのか!」
祖父の秀進が箸を止め、深々とため息をついた。
「いや、じいちゃん。仮にも神主なんだから、祓ってよ」
言いながら、七穂は野菜炒めに箸を伸ばした。ぼーっとしていると、飯がなくなる。
「バカタレめ。わしにそんな大それた力はない」
祖父は、なぜか堂々と胸を張っていた。白衣姿だけは立派な神主である。
「そうだよ、七穂。お祓いだなんて、無茶を言っちゃあいけない。橘家は先祖代々、うっすら霊が視える。それ以上でもそれ以下でもない、由緒ある一族なんだ」
「そうよ。お母さんも、自分と同じ中途半端な霊感を持つお父さんに惹かれて、結婚したのだから。ねぇ、あなた」
父の康二が眼鏡をくいっと上げる。その隣では、母の明美が満足そうに頷いてから、味噌汁を一口すすった。
「なんかめっちゃ情けないんだけど?」
このへっぽこ霊感家族に、霊をどうにかできる者はいないらしい。もはや苦笑いするしかない。
「いや、それはともかく。その人、誰? 知ってる人?」
いくらか落ち着いたらしい祈が、男の顔をまじまじと見上げる。
「えー?」
七穂は茶碗を片手に席を立ち、箸をくわえたまま、霊の顔をおそるおそる、けれどよぉく見てみた。
前髪ごと後ろに流した金髪。太い眉の間には皺が寄り、その下の三白眼は、見ているだけでこちらが叱られている気になる。骨っぽい鼻筋にもなんとなく見覚えがあった。
「あ、この人、三年のヤンキーの人だ! かべ……壁……壁島? とかいう人。くそ、面識もないのに、なんだって俺んとこに!」
試しに肩へパンチを繰り出してみる。手は何にも触れず、壁島の体をすっと通り抜けた。やはり実体はない。
「死んでるってこと? 憑かれちゃった!?」
「生徒が死んだって話はまったく聞いてないけどなぁ」
「死んでないなら、生き霊じゃん!?」
祈は震え上がった。
「なんでお兄ちゃんのところに? なんかした?」
祈が「最悪ぅ!」と声を上げ、まるで汚いものを避けるように椅子ごと七穂から離れた。
「知らねーよぉ。俺がわざわざヤンキーに近づいたり、話しかけたりすると思う?」
弱々しく尋ねると、全員が一斉に首を横に振った。
「『君子危うきに近寄らず』」
「余計なことに首は突っ込まない」
「お化けを見ても、不良を見ても、ゆっくり慌てず、背中を見せずに後ずさる。それがうちのやり方よ」
「熊かよ」
「それをわざわざ、ヤンキーの生き霊なんぞ連れてきおって! 二重に怖くて、ご飯が喉を通らん!」
祖父の言葉に、皆が揃って頷く。
「本当に知らないんだって。話したこともないし──」
ぼやいていると、
(……橘が)
突然、壁島の低い声が響いた。
「喋ったぁあ!」
椅子が一斉に音を立て、飛び上がった橘家の面々は、あっという間に茶の間の壁際へ寄り集まった。秀進が一応何かを唱え始めるも、効果のほどは誰も当てにはしていない。互いに身を寄せたまま、皆で次の言葉を待った。
橘が……恨めしい? 許せない? 憎い?
そういう言葉が続く気がした。
けれど。
(今日は、廊下で歩きながらパン食ってた。……かわいかった)
そう言って、壁島の声は途切れた。
誰も動かなかった。小鼠のように壁際に固まったまま、金髪の男を見つめている。
今、あの恐ろしい顔で、「かわいかった」と──?
「は?」
ひと呼吸遅れて意味が追いつき、七穂の顔にかっと熱が上った。
「かわいかったって、なに!?」
