恋するヤンキーに憑かれた王子は、カエルになりたい!



北海道は雨だった。

気温自体は想像していたほど低くなかった。湿気も軽く感じた。皮膚に当たる雨粒の一滴一滴は、とても冷たかった。

出発前の夜も眠れなかったし、飛行機の中でも妙に目が冴えていた。深く物事を考えると不安なことばかり浮かんでしまうので、ばきばきに冴えた意識の中で、何も考えないようにするのに苦労した。

両親が渡してくれた現金と、スマホのポータブル充電器が入ったリュックには、蛙の片割れのぬいぐるみをつけてきた。

こんな時くらい、何らかのご利益を発揮してくれるかもしれないと期待したのだ。

目が合うたびに気持ち悪いなぁと思っていたが、七穂はぬいぐるみをリュックから外して抱きしめ、タクシーに乗った。

「雨澄寺までお願いします」

そうお願いした。一時間ほどで着くらしい。

静かな雨が窓を流れていくのを、ずっと見つめていた。

眠ってしまえば少しは楽だったのかもしれないが、今度は目を閉じることすら怖かった。自分が眠っている間に鷹矢を見逃してしまうかもしれない。そうしたら最後、もう二度と会えないような、そんな馬鹿な気がした。

膝の上にぬいぐるみを置いて、鷹矢のバッグには、今でも片割れがぶら下がっているだろうか、と想像した。


タクシーを降りると、看板の案内に従って坂道を上り、山門を目指した。

緩やかな道の両脇には、赤みがかった紫陽花が、鉢植えでずらりと並べられている。それをたどるように、歩いていった。

黒ずんだ木造の山門を抜けると、右手の斜面いっぱいに紫陽花園が広がっていて、紫やピンク、濃い青色をした丸い花々が、ずっと遠くまで続いている。

七穂は息を呑んだ。

きれいだと思った。

こんな時なのに。

北海道に来て蟹だジンギスカンだと言わず、こんな素敵な場所に足を運ぶ。素敵な家族だったのだろうな、と想像した。

庭園へ入る前に、ひとまず参道を抜け、正面の本堂へ向かった。

濡れた石段は、どう見ても五十段以上あった。その片側いっぱいに、鉢植えの紫陽花が隙間なく置かれている。青い紫陽花の間には、白い紫陽花が川の流れを描くように並べられていて、きれいだった。

けれど、階段がきつすぎる上に、目を皿のようにして鷹矢を探していたので、景色を心から楽しむ余裕などなかった。

本堂の前にも、軒下にも、鐘楼のそばにも、鷹矢の姿はない。

七穂は、いったんその場に立ち尽くした。

北海道まで来たのに、見当違いだったのかもしれない。

生き霊の言葉を、自分に都合よく解釈してしまったのかもしれない。

そもそも、紫陽花が見られる場所なんて北海道中にいくつあるのだろう。

急に、ここまで来てしまった自分が、とんでもなく馬鹿なことをしたような気がした。

胸がざわついた。

本堂前の高台から下を見てみようとした時、小雨とはいえ、傘も差さずに立っている女性がいた。

七穂は一か八か、

「すみません。俺より背の高い、でっかい金髪の兄ちゃんを見ませんでしたか? もしかしたら、この気持ち悪いぬいぐるみが鞄についてたかも……」

ぬいぐるみを見せながら、訊いてみた。

人見知りしない自分を褒めたかった。今は、自分しか頼る相手がいないのだ。頑張ろう。

「そのぬいぐるみなら、見ましたよ」

あっさりと返事が返ってきた。

心臓が跳ね上がる。

「え、本当に?」

思わず聞き返してしまった。

目が合うと、女性は垂れた目をいっそう優しく細め、微笑んだ。

「庭園のほうです」

そう言って、下を指さした。

庭園は上から眺めると、雨に煙る青や紫の花々の間を、何本もの細い道が曲がりくねりながら通った迷路のように見えた。

「ありがとうございます!」

走り出しかけてから、七穂はいったん戻った。

「傘、よかったら」

自分の傘を差し出した。

女性は目を細め、

「大丈夫です。ありがとう。もう帰るだけなので」

と、優しく、けれどきっぱりと断った。

七穂は傘を引っ込め、もう一度礼を言ってから、今上ってきたばかりの階段を慎重に駆け下りた。石段にたまった水が跳ね、靴が濡れた。

いる。

鷹矢は、今ここにいる。

間違っていなかった。

蛙のぬいぐるみと一緒に、来ている。

それだけで、一度折れかけた気持ちが勢いよく戻ってきた。

心臓が逸った。

迷路のように見えた庭園の道は、入り口から三つに分かれていた。

見晴台、池、休憩所。それぞれを示す小さな看板が立っている。

どの道だ。

さっきまで「ここにいる」と分かっただけで嬉しかったのに、今度は、一秒でも早く見つけなければという気持ちになる。

ちょうど見晴台のほうから男性が戻ってきたので、またぬいぐるみを見せ、金髪の男を見なかったかと訊いてみた。

「いましたよ。見晴台のところに」

返事を聞き、七穂は飛び上がった。

「ありがとうございます!」

また礼を言い、細い小道で男性の体を避けながら、先へ進む。

「雨が上がりましたね」

すれ違いざま、男性が言った。

背が高く、眉の太い男の人だった。

「本当だ」

七穂は傘を畳んだ。男の人は、最初から傘を差していなかった。

「気をつけてね」

そう言ってもらい、

「はい!」

と返事をした。

舗装されていない道は、少しぬかるんでいる。確かに気を抜けば、ずるりと滑ってしまいそうだった。

それでも頑張って走った。

ほかにもちらほらと観光客がいて、紫陽花の間をすれ違うたびに体をぎゅっと道の端へ寄せなくてはならなかった。

見晴台へ着いた頃には、息が上がり、じっとりと汗をかいていた。

それなのに、鷹矢の姿はなかった。

「うそっ」

声が漏れた。

見晴台に立つ。斜面に咲く紫陽花の向こうに、本堂が遠く見えた。

鷹矢の写真と同じ景色だった。

間違いなく、ここなのに。

さっきまでいたのかもしれない。自分が階段を上ったり下りたりしている間に、すれ違ったのかもしれない。

そう考え始めると、一気に焦った。

息が整わないまま、辺りをきょろきょろと見回した。

見晴台は、なだらかな坂の途中にある。ここでもまた、上へ行くか、下へ行くかを決めなければならなかった。

喉が干上がり、汗ばんだ額に髪が張りつく。

ぬいぐるみを、ぎゅっと握った。

すると、坂の下から一人のおばあちゃんが上ってきた。

七穂の顔とぬいぐるみをじっと見ていた。そして、すっと坂の下を指さした。

息が上がって、汗を拭う手も震えている。苦しくて何も言えなかった。

ただ、手に持ったぬいぐるみを指さしてみた。すると、おばあちゃんは、こくんと頷いた。

何も言っていないのに、話が通じた。

今の自分は、よほど困り果てた、迷子のような顔をしているのだろうか。

緩やかな下り道へ踏み出しながら、おばあちゃんへ礼を言った。

黒目がちの、つぶらな瞳をした、優しそうなおばあちゃんだった。

「きっと会えるよ」

優しく、そう言ってくれた。

どうしてか、その言葉だけは、何の疑いもなく信じることができた。

「じゃあね」

と言ってから、おばあちゃんが坂の上に向かって手を振ったので視線を向けると、ずっと遠く、坂の上の方に人影が見えた。男の人だと思う。けれど、遠すぎてよくは見えなかった。

下り道の先は『西門』と小さな看板に書かれていた。

門から出て、帰ってしまうかもしれない。もう一度、道を急いだ。

途中、紫陽花の群れの中に、小さな屋根つきの休憩所が見えた。

近づいていく。

そこに、金色の頭が見えた。

あれだ。

胸の奥が、一気に熱くなった。


「鷹矢先輩!」


七穂は思わず叫んだつもりだったが、息が上がり、うまく声が出ない。それでも、もう一度叫ぶ頃には、休憩所まで駆け下りていた。

「橘!?」

休憩所へたどり着き、鷹矢と、鞄にぶら下がった間抜けな蛙の顔を見た途端、七穂はその場にへたり込んだ。

いた。いた。本当にいた──!

そう思った途端、膝から力が抜けた。昨日から、走ってばかりだ。

心臓がばくばくと鳴り、その振動が耳の奥まで響いているようだった。手放したぬいぐるみが、床へ転がった。

(よかった──)

「なんでここに?」

鷹矢が驚いて声を上げる。

床でへばっている七穂を見て、鷹矢は腕を取り、起こそうとしてくれた。

その顔を間近で見た途端、今度は安堵がそのまま怒りにひっくり返った。

七穂はその勢いのまま顔を上げ、

「あんたがいなくなったからでしょうが!」

と怒鳴った。

いきなり声を荒らげられ、鷹矢は目を丸くした。

「会いに行ったら、家にも病院にもいないし! そしたら、巌男さんが亡くなったって聞いて……」

そこまで言っただけで、また胸が苦しくなった。

七穂は、助け起こしてくれた鷹矢の手へ、自分の手を重ねた。

ぎゅっと握る。

ちゃんと温かかった。

「道場の人にも話を聞いたら、何か『遠くへ行く』って言ってたって聞いたから……」

手から、鷹矢の温度が伝わってくる。

目頭が熱くなった。

いつかの時と同じように、七穂の手は冷たくなっていた。

「前、紫陽花の話をしてたから……ネットの力を借りて、ここまで来ました」

かなり端折って話したが、そんなことはどうでもよかった。

「ネットすげーな」

感心する鷹矢を、七穂は睨み上げた。

なんでそんな顔をしていられるのだ。

こっちはほとんど眠れず、飛行機に乗り、北海道まで来たというのに。

「ただの旅行かもしんないけど。でも何か……もう帰ってこないんじゃないかとか、あんたが馬鹿な真似をするんじゃないかって、すごい心配した」

生き霊から聞いたとは、まだ言えなかった。

今まで抑えていた不安を口にした途端、涙まで溢れそうになった。

「ああ……」

鷹矢はそう言うと、七穂の腕から手を離し、床に落ちていたぬいぐるみを拾い上げた。

七穂がどういう心配をしていたのか、分かったのだろう。

ぬいぐるみについてしまった泥を払いながら、静かに笑って、

「んなことはしねーな」

とはっきり言った。

「分かってるけど! ……もう会えないかと思った」

だって、生き霊の姿で、『最後に』とか、『もう会えない』とか言ったじゃないか。

そう言いたかったが、まだ喉の奥へ飲み込んだ。

「心配してくれたんだな。ありがとう。それにしても、よく北海道まで来たな」

信じられないというふうに笑われた。

違う。

何か、そこだけは違うと思った。

心配したから来た、だけではない。

そんなきれいな話にされたくなかった。


「違う」


七穂は言った。

もう誤魔化したくなかった。


「好きだから来た」


はっきりと、言った。

自分でも意外なほど、落ち着いた声だった。

言ってしまうと、むしろ腹の中が少しだけ静かになった。

「心配しただけで、こんなところまで来ない。俺は確かに八方美人って言われるし、多少のことなら人のためにしちゃうけど、こんなことをするのは、先輩にだけです」

見開かれた鷹矢の目を、真っ直ぐ見つめて言う。

今度こそ、笑って逃げたりしなかった。

「大好きです」

そう言った途端、涙が一粒こぼれ、頬を流れた。

鷹矢は息を詰めるようにして、七穂を見ていた。

人に告白なんてしたことがないものだから、次に何をしたらいいのか分からなかった。ただ手をぎゅっと握りしめて動けなかった。

鷹矢がそっと手を伸ばした。流れたままの涙を拭ってくれる。

その手が優しかったので、きちんと伝わったのだと思えた。

七穂が、その手へ頬を擦りつけるようにして甘えると、


「ごめん」


と、鷹矢が言った。

意味が──分からなかった。

思わず見上げる。

鷹矢は悲しそうに目を歪め、手を離した。

さっきまで触れていた頬が、急に冷たくなった。

「ありがとう。でも、ごめんな」

七穂は、しばらく何も言えなかった。

そんな返事が来るとは、正直、夢にも思っていなかった。

生き霊が毎晩あれだけ好き勝手に気持ちを垂れ流しておいて、ごめんとは。

え、ごめんとは???

「は?」

思わず、そう言ってしまった。

「どうしてですか?」

「どうしてと言われても……」

「先輩は、俺のこと好きじゃないんですか?」

「好きじゃないとかじゃねぇけど……」

「じゃあ何ですか???」

七穂が食い下がると、鷹矢は目を逸らした。

何だ、それ。

これまでの七穂なら、鷹矢が困った顔をした時点で、あぁ、困らせてごめんなさいと、言っていたかもしれない。

けれど、今日は無理だった。

「はっきりしてくださいよ」

さらに詰め寄る。

「……好きではない」

まったく目を合わせないまま、そう言った。

一瞬、今この時この場面が、現実かも分からなくなった。

それから、腹の底から何かが一気にせり上がってきた。


「嘘じゃん!!!」


七穂は大声を上げた。

鷹矢が驚いて、ようやくこちらを見る。

「どうして嘘つくんですか!?」

「嘘じゃねぇよ」

「嘘ですよ! だって……!」

そこまで言って、言葉が止まった。

本当のことを──話すのか。

今まで、ただの一度も、家族以外とは分かち合ってこなかった、秘密を。

気味悪がられて、かえって本当に嫌われるかもしれない。

そう考えただけで、心臓が重く脈打つ。変な汗が出てくる。

けれど。

俺の好きになった先輩は、そんな人じゃない。

たぶん。

きっと!

「……嘘ですよ、そんなの」

顔を上げて、言った。

「何で言い切れるんだよ」

「だって! 俺知ってるもん!!!」

鷹矢の服の胸元を、ぎゅっとつかんだ。

「先輩が俺のことかわいいと思ってるとか、全部知ってます。パン食ってるところがかわいいとか、友達と笑ってるところがかわいいとか、映画死ぬほど楽しみにしてたのとか、全部知ってます」

鷹矢の顔が、真顔になった。

「……何で」

「先輩の生き霊が言ってました!」

「い、『生き霊』……?」

鷹矢が眉を寄せた。当然の反応なのに、やっぱり怖くなった。

「なんだ、それ」

「知りませんよ! 俺だって知りません!」

一度口にしてしまうと、もう止まらなかった。

「先輩、夜ご飯を食べる時、一人で俺のことを考えてたでしょ? その時の先輩の気持ちが、俺のところへ飛んできてたの。先輩の姿で俺んとこへ来て、かわいいとか何とか毎晩言ってたの!」

鷹矢は、唖然としていた。

「前髪切ったとか、ボールぶつかっても笑ってたとか、そんなことまで!」

言いながら、自分でもだんだん恥ずかしくなってきた。

それでも、もう止めなかった。

「俺、最初はすげー迷惑でした」

「……迷惑だったなら」

「でも、好きになっちゃったんです」

鷹矢の言葉を遮った。

「だから今さら、好きじゃないって嘘をつかれても困ります……!」

必死だった。手が震えている。けれど胸元をつかんだまま、離さなかった。

「生き霊の話も、嘘だと思うかもしれないけど。俺、お化けとか視えるから、嘘じゃないです。先輩の生き霊が見えました。言ってたことも聞きました」

七穂は、額を鷹矢の胸元へこつんとつけた。

言った。言ってやった。蛙化のためにしたどんな行動よりも、今が一番、怖い。

「信じて」

祈った。

鷹矢は、しばらく黙っていた。

返事を待つ数秒が、ひどく長かった。

やがて、


「やっぱりか」


と鷹矢がぽつりと言った。

七穂は顔を上げた。

「……え? やっぱりって……?」

またしても、そんな返事が来るとは思わなかった。目を丸くして鷹矢を見上げる。

「いや……」

鷹矢は気まずそうな顔をした。

「うちのミケ、三ヶ月前に病気で亡くなってるから……」

今度こそ、七穂の頭の中が真っ白になった。

「……は?」

かわいいミケちゃん。

三ヶ月前に、亡くなって──?

とたんに、鷹矢の家へ行った時の自分の行動が、次々と蘇ってくる。

「にゃんこ!」と話しかけた。

名前を訊いた。

鷹矢の胸元で眠るミケへ、「寝ちゃうの?」なんて言いながら、鷹矢の胸元まで手を伸ばした。

あの時。

鷹矢には。

自分が。

一体どう見えていたのか。

顔から火が出そうになった。

「言ってよ!!!」

七穂は真っ赤になって言った。

鷹矢は、七穂の奇行を咎めず、ただ見守ってくれていたのだ。

「いや、言ったら何か……もうミケが来てくれなくなるんじゃないかと思って……言えなかった」

鷹矢はばつが悪そうに言って、目を伏せた。

「だからって……」

文句を言いかけて、やめた。

その感覚は、七穂にもなんとなく分かった。

何でもかんでも言葉にすればいいわけではない。そっとそこにあるものを、大切にしたほうがいいこともある。

鷹矢はきっと、七穂が何もないところへ手を伸ばしているのを見ながら、それでもミケがそこにいるのなら、それでいいと思ったのだろう。

けれど、七穂にとって、鷹矢の気持ちはもう、そういう類いのものではなくなっていた。

そっとしておくなんて、もうできない。

「信じてくれたなら、話が早いじゃないですか。先輩も、好きって言ってくださいよ」

半ばやけになって詰め寄る。

「ネタはあがってんですから」

もはや脅迫めいた取り調べのようだった。

それでも鷹矢は答えなかった。

困ったように七穂を見たあと、また少し目を伏せる。

「実は、九州の親戚が、一緒に住むかって言ってくれてんだよな」

「え」

話の行き先が見えた気がして、どきりとした。

「そうすんなら、夏休み中とかに……引っ越すかも」

聞きたくないと思った言葉が、そのままやってきた。

七穂は凍りついた。

生き霊が言っていた『もう会えない』とは、このことだったのか──。

「だから、『もう会えない』って思ってたんですか?」

鷹矢は答えない。

「もう気持ちは決まってるってこと?」

それにも、答えなかった。

その沈黙が肯定に思え、七穂はその場にうずくまった。

ぼたぼたと涙が落ち、床を濡らす。

本当に、「親戚と暮らせるのはいいことだな」と思う自分も、確かにいる。

一人きりの家にいるよりも、一緒に暮らしてくれる親戚の家へ行けるのなら、鷹矢にとっては、それが一番いい。

そうすれば、もう一人きりの食卓ではない。

七穂が心配する必要も、もうない。

親戚の家族構成は知らないが、きっと一緒にご飯を食べたりするのだろう。

鷹矢は自分からはあまり喋らないけれど、話せば楽しい。

橘家でだって、皆と一緒に笑っていた。

きっと九州でも同じだろう。

だから、九州へ行った方がいい。

ちゃんとそう思えた。

「……分かりました」

七穂はそう言って、立ち上がった。涙をぐいっと拭う。

鷹矢を見ると、鷹矢もつらそうな顔をしていた。けれど、つらそうな中にも、分かってくれたか、という安堵が見えた。

それを裏切りたくなかった。

笑って、送り出さなければ──。


「無理ですね」


口が、馬鹿になってしまっていた。

そして口にした途端、さっきまで必死に納得しようと押し込めたものが、どかんと爆発した。

七穂は鷹矢へ抱きついた。

「無理! 無理です!! 嫌だ、いなくならないでほしいですっ!!!」

しがみつき、大泣きを始めた。

「橘?」

ものすごくたじろぐ鷹矢へ回した腕に、さらに力を込める。

「無理ったら無理! 一緒にいる!!」

大声で言いながら、泣いた。

「先輩にも生活があるのは分かるし、俺が何とかするとかは言えないけど! でも、それでも離れるのは嫌だ! どうせ離れたって、連絡くれないでしょ!? 絶対、俺のこと忘れるじゃん!」

思い切りすがりつかれ、鷹矢は初めて少しよろめいた。

「俺が忘れるかはともかく、お前は忘れていいから……」

「忘れるかぁ! バカタレっ!!!」

ほとんど八つ当たりだった。

それでも止まらない。

騒ぎながら、同時に七穂の頭の中には、あの蛙化行動100選の項目が次々と蘇ってきた。

感情的に喋る。

泣けばいいと思っている。

しつこい。粘着質。

好きかどうかを、何度もしつこく訊いてくる。

「離れたら、今度は俺が生き霊になって追いかけるからな!?」

すぐに脅す。

前までは、嫌われるために、やらなくてはいけないことのリストだった。

どれも、とてもできる気がしなかった。

でも今は全部、本気で──本性。

「人の気持ちを弄ぶのは重罪では!?」

うわぁっと泣く。もう全部が全部、駄目な行動だと分かっている。

けれど、なりふりなど構っていられなかった。

人を本当に好きになるということは、自分が本当は汚い蛙でも、それを隠さず見てもらうことなのかもしれないじゃないか。

最初から、王子なんかじゃない。

いぼいぼで、出目の気持ち悪い蛙のままでも、そばにいたい。

「先輩が寂しい時だけじゃなくて、困った時も、苦しい時も、思い出すだけじゃなくて、本当に頼ってもらえるような男になるから! お願いっ」

しゃくり上げながら、鷹矢へぎゅうっと身を寄せた。

人とは、どうやって泣き止むものだったか。それも分からなくなってしまった。

なんて汚い泣き声だ、と七穂は自分で情けなくなる。泣きすぎてちょっとおえっとすらなる。

しばらく、泣き止み方を必死に思い出そうとしていた。

鷹矢は何も言わなかった。

嫌がられているかもしれないと思ったが、それでも離せなかった。

やがて、

「お前って」

鷹矢が、ぽつりと言った。

しつこい? 気持ち悪い? 思ってたのと違う?

そういう言葉が続く気がした。それでも七穂は言葉を待った。

「言いたいこと、言える時もあんだな」

意外にも、必死に笑いを堪えるような声だった。

「……今、それ言います?」

七穂は泣きながら睨み上げた。

「普段、人が困るようなことしねぇだろ」

すぐには言い返せなかった。

「……困らせてすみませんね」

悪態をついて、涙を拭う。

「困る」

そう言って、鷹矢は少し笑った。

それから、七穂の頭の上へ、ぽすっと蛙のぬいぐるみを置いた。

七穂はそれを受け取ると、鷹矢の鞄についている片割れの蛙へぴたっとくっつけた。

「やっぱり相撲じゃねーか」

鷹矢が笑った。

「ハグですよ」

七穂はまた、鷹矢へぎゅうっと抱きついた。まだまだ困らせる覚悟も体力もある。最悪、床に転がってばたばたしてやる、と決める。

けれど、今度は、鷹矢の腕も上がった。

腕は、背中へ回される。そして、しっかり抱き返してくれた。

その瞬間、張り詰めていたものが完全に切れて、七穂はいよいよ大声で泣いた。

「お願い。行かないって言って。今言って。今、決めて」

相当な無茶を言っている自覚はあった。

それでも今は、未来の正しさより、鷹矢の口からその言葉を聞きたかった。

鷹矢はすっと、息を吸った。

そして、

「行かねえ」

と、言った。

あまりにもすぐ答えたので、七穂はあっけにとられ、泣いたまま顔を上げた。

「なんて?」

耳を疑った。声が震えた。

「俺、霊感ねえし。お前の生き霊が来ても分かんねー」

七穂を抱く腕に力がこもる。

「お前が遠くで泣いてんの、嫌だ」

うんと、ぎゅうっと、抱きしめてもらって、胸がいっぱいになった。

嬉しくて嬉しくて、小さくぴょこっと跳ねた。

さっきまであれだけ泣いていたのに、今度は笑顔になってしまうのを堪えられなかった。

「大騒ぎもしちゃったし、引かれついでに言いますけど、じゃあ、好きって言ってください」

「引かれてねーって」

図々しいのを承知で言うと、鷹矢は笑った。

それから、ひどく困った顔をして、

「……好きだ」

と、極小の声で言った。

「聞こえません」

「聞こえてただろ」

「もう一回、はっきりと」

「……好きです」

「どこが? ちゃんと言って」

駄々をこねるように服を引っ張って、さらにしつこくすると、鷹矢はとうとう吹き出した。

「もう勘弁してくれ」

そう言って七穂の腰へ腕を回し、引き寄せた。

何をされるのか分かった時には、唇が重なっていた。

七穂は驚き、目を見開いた。

近い。

ずっと生き霊では至近距離で見ていた顔なのに、本物がこんなに近いのは初めてだった。

思っていたよりもずっと温かかった。

七穂は、少し遅れて目を閉じる。

辺りには夕方の黄色っぽい光が降りてきていた。雨に濡れたままの紫陽花がまんまるく咲いている。

目を閉じても、その青やピンクや紫が瞼の裏に残っていた。