恋するヤンキーに憑かれた王子は、カエルになりたい!



激しいノックの音とともに、「ご飯!!」と呼ばれ、七穂は目を開けた。

先ほどまで鷹矢のことを考えて愕然としていたはずが、いつの間にか眠っていたらしい。物事を深く考え続けられないのかと自分に呆れてしまう。

いや、考えても仕方がない。

眠ってやり過ごすしかない時もある。時間薬というやつだ、と思ってから、いや、別に傷ついてねーし、と誰にともなく言い訳してベッドを降りた。

階段を下り、居間の扉を開ける。

そこに、鷹矢がいた。

一瞬、夢かと思った。

心臓がめちゃくちゃに跳ねたが、夢でもそのくらいのことはある。夢でなければ、生き霊か。ついに、自分より先に席へ着くようになったのか。

「お邪魔してます」

鷹矢がものすごく気まずそうに挨拶したので、夢でもなければ、生き霊でもないと分かった。

「何で!?」

七穂は心底驚きつつ、席に着いて隣を見た。鷹矢は苦笑するばかりだった。

「実はさぁ!」

仕事着のままの康二が、情けない声で話し始めた。

会社からの帰りに公園へ寄ったところ、柄の悪そうな連中に囲まれ、財布を出せと言われたらしい。たまたま通りかかった鷹矢が、そのオヤジ狩りから助けてくれたのだという。

喧嘩にはならなかった。鷹矢が康二へ「お父さん」と声をかけただけで、相手は逃げていったという。

「命拾いとは、まさにこのことだよ! だから、お礼と言っては何だけど、夕飯に呼んだってわけ」

康二は興奮したまま喋り続けた。

「いやぁ、本当に助かった。かっこよかったなぁ」

うっとりしている向かいの席で、よりによって、何で今日連れて帰ってくるんだよ、と七穂が奥歯を噛んでいると、祈が首を傾げた。

「公園で何してたの?」

康二の口が止まった。

七穂は鷹矢を見上げたが、相変わらず苦笑いしている。

父はしばらく何かをもごもごと言っていたが、やがて観念したように、

「実は……コンビニの新作スイーツを、一人で食べてました」

と白状した。

「はぁ!?」

祈が大声を上げる。

「ふざけんな」

七穂も言った。

「卑劣だわ」

明美が眉をひそめる。

「姑息なうえにオヤジ狩りに遭うとは……情けない」

秀進まで、深々とため息をついた。

「だって──」

「買ってきてよ、全員分!」

祈が言い訳を遮った。

「今!?」

「今以外、いつがあんだよ」

「やむなしね」

七穂と明美も加勢した。

「えぇ……」

「俺が行きましょうか?」

鷹矢だけが助け舟を出したが、残りの全員が首を横に振った。

「甘やかさない」

しょんぼりと出ていく康二の背に、「早くして」と声が重なる。

鷹矢は申し訳なさそうに見送っていたが、やがて口元を隠して笑った。

結局、康二は人数分を揃えるため、何軒もコンビニを回る羽目になったらしい。

待ちくたびれた一同はウノを始めていた。鷹矢に何度もドロー2を引かせているうちに、七穂の機嫌もいくらか直った。

パフェを食べ終えると、鷹矢が帰り支度を始めた。今度も少し送って行こうと思った時、

「え!」

ソファの陰から取りあげられたボディバッグを見て、七穂は声を上げた。

黒くてシンプルなデザインのバッグに、あの赤茶色をした不気味な蛙のぬいぐるみが、堂々とぶら下がっていたのだ。

「まぁ、かわいそう。七穂に買わされたの?」

明美が同情すると、

「はい。誕生日に」

鷹矢は被害者ぶって、弱々しく答えてから少し笑った。

「ひどいことを」

祈も憐れむように言ってから、笑った。

玄関では、家族が口々に、

「悪いことは言わないから、帰ったらそれを外しなさい」

と言って手を振った。

「これ、本当に御神体のぬいぐるみなんだよな?」

怪訝そうな鷹矢が歩くたび、夜の闇の中でも確かな存在感を放ちながら、ぬいぐるみが揺れている。

その様子がおかしくて仕方なかったけれど、

「別に、送んなくていいぞ」

と鷹矢が言ったので、七穂の笑いが止まった。

吊るされた蛙と目が合う。湧きかけた感情をどうにか抑えようとした。なのに、口から出たのは

「送られたくないなら、そうはっきり言ってもらえますか」

また嫌な言い方だった。

鷹矢は黙った。そして、言葉を選ぶようにして、答えた。

「送られたくないわけじゃねえ」

「じゃあ、問題ないっしょ」

七穂は歩き出した。少し、早足になってしまう。

「昼間のも」

鷹矢が追いついてきた。

「来てほしくないって言ったんじゃねぇぞ」

表情を確かめるように見下ろされているのが分かり、七穂は俯いた。

「分かってます」

少し間を置いてから、

「あれは、俺が悪かったかも、です」

と付け足した。

「お前は悪くねぇよ」

鷹矢にそう言ってもらっただけで、胸の中に引っかかっていたものが解けてしまった。自分でも呆れるほど簡単だった。七穂は少し歩みを緩めた。涼しい夜風が吹いた。

「パフェ、美味しかったですね」

言ってから、はっとする。

「先輩、甘いもの、あんまりなんでしたっけ」

今さら、クッキーの時の言葉を思い出した。

「いや、美味かった」

「よかった」

ほっとしてから考える。あのクッキーを食べ切れる人なのだ。多少甘くても、きちんと美味しいものなら大丈夫だろう。

「先輩がお父さんを見つけてくれて、助かりました」

「ああ……怪我でもしてたら、大変だもんな」

「いや、それもそうですけど。一人で勝手にパフェ食べてたのを、隠し通されるところでしたから。あのおっさん、油断も隙もないですよね!? いい歳して」

「ふっ……。おじさん、絡まれながらも、最後までパフェ握りしめてて……」

鷹矢が思い出し笑いをしながら、口元を押さえる。想像したら、七穂も吹き出してしまう。

しかも、財布の現金より、全員分のパフェ代の方が高くついたそうだ。「カツアゲされていたほうが安くついたかも!?」と、嘆いていた。

「アホすぎる」

声をたてて笑っていると、

「でも、お前んちのそういうところ、いいよな」

と鷹矢も笑った。

「え、食い物に一生懸命なところですか?」

「まぁ、それもそうだが。何つーか、仲いいところ」

ぽつりと言われて、七穂は黙った。

鷹矢の両親が事故で亡くなっていることを知っている。

いくらアホしかいないとはいえ、うちの家族を見ていて、つらくならないのだろうか。

そのためらいが伝わったように、鷹矢が言った。

「お前んち、好きだよ」

好き。

賑やかだ、楽しい、落ち着く。友達からそう言われたことはある。好きとまで言ってもらえたのは、初めての気がした。

「俺さぁ……」

鷹矢は言いかけて、そこで言葉を切った。口に出すか、迷っているように見えた。

七穂は、ちゃんと待った。話して、聞きたいよ、という言葉を、肩先の空気で伝えようとしてみる。歩く速さを、少し落とす。昼間の熱が、まだアスファルトに残っていた。

「怒ってたんだよな。親が死んだこと、ずっと」

鷹矢は前を向いたまま、言った。

「親が悪いわけじゃねぇのは分かってるし、仕方ねぇことなんだけど。何つーか……俺だけ残して死なれて、腹立ってた。小学生の時も、中学生の時も、高校に入ってからも。ずっと……怒ってた」

二人の靴音だけが続いた。

「だから、結構喧嘩とかして、八つ当たりもしてた」

「そうなんだ?」

「うん。まぁ、自分から喧嘩売ったことはねぇけど。売られたのをいいことに……みたいなところはあって」

鷹矢は一度、口を閉じた。

「そんなことのために稽古してたわけじゃねぇのにな。じーちゃんにも叱られたし、正直、腐って、柔道も一時期どうでもよくなってて……」

七穂は何も挟まず、頷いた。鷹矢はゆっくり、言葉を探しながら話している。

「でも、二年の時、お前の、これ見て……」

鷹矢が取り出したスマホの画面が、夜道に明るく浮かんだ。

そこには、七穂が一年生の時、課題で書かされた詩が写っていた。

正直、ほとんど覚えていなかった。けれど、用紙の端には自分の名前があったし、確かに七穂の字だった。



冷凍庫から

アイスが失踪

笑顔が四つで

捜査は難航

今日も笑って

迷宮入り



「お、おお……?」

出来がいいのか悪いのかは、今見ても分からない。ただ、他の何作品かと一緒に、廊下へ張り出されていたことは思い出した。

それを、鷹矢が読んだということだろうか。

「何か、これ読んだ時さ。あ、俺も許せばいいんじゃんって……単純に思ったんだよな」

七穂がぽかんと見つめていた画面を、鷹矢がふっと消した。スマホをポケットへ戻す。

「いつまでも何かこう、腹ん中でずっと何かが煮えてる感じで、許すって発想がなかった。親のことだけじゃなくて──こういう境遇とか、そういうのを、許せばいいんだって分かった」

そんなメッセージを込めた覚えは、まったくなかった。

けれど、七穂は黙っていた。

そんな大げさな、適当に書いただけですよなどと、今本当のことを言えば、鷹矢の大切なものを傷つけてしまうような気がした。

「こういうもん書けるやつって、どんな奴かなって思ってた。だから、本当はお前が一年の時から……お前のこと知ってた。ごめん」

いつか、七穂の名前を初めて知ったように振る舞ったことを謝っているのだと分かった。

「でも、想像どおりだった。お前も、お前の家族も」

鷹矢はそう言った。

なんとなく聞いてはいけないものを聞いたような気がした。

これは、生き霊から勝手に漏れてきた「かわいい」とは違う。今度は鷹矢本人が、自分の意思で話してくれている。

ずっと好きだったと言われているような気さえして、七穂は真っ赤になった。

けれど、それを知っていると、悟られてはいけないのだ。

赤くなった顔を隠すように俯き、

「それは……よかったです」

とだけ返した。

「うん。よかった」

繰り返されて、胸が苦しくなった。

「じゃあ、ここで」

以前別れた電柱のそばまで来て、鷹矢が言った。

老人のお化けは相変わらず、くちゃくちゃと音を鳴らして電柱の陰に潜んでいた。

七穂はまた、鷹矢を道の反対側へ押した。

「こっち側、歩きゃいいの?」

「はい。もっとあっち行って」

「なんで?」

「俺も歩くからです」

ぐいぐいと鷹矢を押しながら言う。

「え」

鷹矢が七穂を見た。

「……もうちょっと先まで、送ります」

俯いた先で、ぬいぐるみと目が合った。

鷹矢を押している姿が、図らずも両腕を伸ばした蛙とまったく同じ格好だった。

「縦になりゃいいんじゃ?」

壁際まで追いやられた鷹矢が言った。

確かに、と思ったところで腕を取られ、壁側へ移動させられる。

縦に並べばいいと言ったくせに、鷹矢は隣に来た。

そういえば、この人はいつも車道側を歩いてくれている。

一度気づいてしまうと、そこからはもう何も喋れなくなった。

怖い電柱が遠ざかってから、七穂は反対側の歩行者用の白線の内側へ戻った。鷹矢も黙ってついてきて、やはり車道側を歩いている。

どうして道の端を行ったり来たりするのかは、訊かれなかった。

「マメなのはどっちだよ」

七穂は小さくつぶやいた。聞こえなかったらしく、鷹矢は黙って歩いている。バッグの蛙が揺れていた。やっぱり、かわいくなかった。

「最近、忙しいですか?」

ようやく、声が出た。

「そうだな。毎日稽古も行ってるし、じーちゃんのところにも行ってる」

「ですよね」

忙しいのは分かっている。暇ではないことも、大変な時なのも知っている。

それでも、さっき聞いたことや、今になって気づいたことばかりが胸の中に溜まっていた。

それが、苦しかったのだ。


「でも、たまには俺のことも考えて?」


溢れるように言って、踵を返した。

「ばいばい」

全力で走り出す前に、かろうじてそう言えたからなのか、追いかけてはこられなかった。

気がつけば、家へ着いていた。あの怖い電柱のことなど、すっかり頭から飛んでいた。

七穂は階段を駆け上がり、部屋の鍵を閉めた。

振り返った先の光景を見て、泣きたいような、笑いたいような気持ちになる。

暗い部屋の中に、さっき別れたはずの鷹矢の姿が、ぼんやりと浮かんでいた。

(どういう意味だ……?)

困った顔で考え込んでいる、生き霊の姿があった。

本当に、どういう意味だよ。

七穂はその幻のそばで、一人、うずくまった。