恋するヤンキーに憑かれた王子は、カエルになりたい!



誕生日が終わると、いよいよ期末試験に向けて勉強しなくてはならなくなった。

日頃から勉強を重ねていれば、テスト期間前に慌てる必要などない。が、七穂はそういうタイプではなかったので、きっちりテスト二週間前からじたばたする。

休み時間には友人たちと情報交換をし、放課後は真っ直ぐ家へ帰る。そこから眠るまで、ほとんど部屋を出ない。夕食も夜食も、部屋で食べる生活を送った。頭のいい祈からすれば、その行動はナンセンスだったが、ほかの家族は応援してくれた。

えみるからは、夜遅くに、

『はかどってる?』

と、さりげないメッセージが届く。

大体三往復くらいで、

『邪魔してごめんね』

という言葉と、かわいらしいスタンプとともに終了する。

壁島の生き霊が、来ることはなかった。よほど頑張って勉強しているのかもしれない。息抜きなら手伝うと言われていたが、邪魔してはいけないと思ったので連絡することはなかった。

皆、ちゃんとやるべきことをやっている。そう思い、七穂も勉強を頑張った。

そしてテスト最終日。

「結果はともかく! 終わった!」

七穂と高村は、硬い握手を交わした。

「寝られる! 遊べる!」

そう言って、山下ともハイタッチをする。

夏の青空が、ようやく爽やかに目に映った。

テスト返却期間が終われば、いよいよ夏休みだ。

「何する? 旅行とか行っちゃう?」

吉田が、わくわくした様子で言う。

「海は行こう、海は」

七穂が言うと、全員が頷いた。

「でも俺、夏期講習あるんだよなぁ」

「俺んちはたぶん、最後の週に田舎のじーちゃんちへ行くかも」

それぞれが、夏の予定を言い合う。こういう予定のすり合わせも、結構楽しい。

「七穂の予定は?」

訊かれて、七穂は少し考えた。

「俺は、何かバイトでもしよっかなぁと」

「王子業はやめんのか?」

「あはは、王子は勘弁してよ。どんなバイトしよっかなー」

一般人のくせに、人から山ほどプレゼントをもらったりすることに、申し訳なさを感じていた。そろそろ別の方法で、財源を確保したいと思っている。

海へ行くにも、服を買うにも、お金がかかるに決まっている。

(蛙五匹の予定もあるしな)

七穂は思った。

家へ帰ったら、バイト情報を検索してみよう。けれど、今日はとりあえず打ち上げだ。というわけで、皆でカラオケへ行くことになった。

本当は二度と、あのカラオケ店には行きたくなかった。けれど、そんなことは言えるはずもない。何人か仲のいい友人に声をかけたつもりだったが、話が広がってしまい、最終的にはかなりの人数で行くことになった。えみるもいた。

部屋が空くまで、カラオケ店の周辺で時間を潰す。近くの書店へ入り、夏のお出かけ雑誌を眺めていた。

「テストお疲れさま」

声がして、そちらを見る。

えみるがすぐそばに立っていた。さらさらとした黒いストレートヘアが、夏服の肩にかかっている。採寸した時のまま、短くしたりはしていない、膝の隠れる丈のスカート。

「橘くんたちも、夏はどこか遊びに行くの?」

えみるは、七穂と同じ雑誌を手に取った。

「海は行きたいって思ってるかな」

「海。いいねー」

「佐々木さんたちは?」

「遊園地へ行きたいって話になってる。知ってる? ここ、いろんなアトラクションが新しくなったの」

えみるは、少しマイナーではあるものの、近隣の人たちがよく訪れる中型テーマパークのページを開いて見せた。

木製ジェットコースターと、お化け屋敷がリニューアルされたらしい。お化け屋敷に至っては、『日本最大級! 最恐お化け屋敷』と銘打っている。

「でも私、ジェットコースターも、お化け屋敷もすっごく苦手で」

えみるは、照れたような、困ったような顔で笑った。

「お化け屋敷なんて、本当に駄目だと思う。一人で外で待ってていいかなぁ?」

「そんなに?」

かわいらしくて、つい笑ってしまう。

「でも、そんなこと言ったら、気を遣わせちゃうかな」

えみるは雑誌へ目を落とし、お化け屋敷の恐怖ポイントを熱心に読み始めた。

「怖いなら、怖いって言っていいんじゃない?」

七穂は、そう言っていた。

「そうかな?」

えみるが見上げてくる。大きな目が、さっと潤んだ。

「たぶん」

じっと見つめられても、七穂は曖昧に笑うことしかできなかった。

どうして「たぶん」としか答えられなかったのだろう。不思議に思い、考えてみる。

それがきっと、自分の言葉ではなく、壁島からもらったものだからだろうと思い至った。

『誤解なら、誤解って言えばいい。違うなら、違うって言え』

壁島は、そう言った。

あの時、絡んできた相手に反論の一つもできない自分を、七穂は情けなく思った。きっと壁島からも、情けないと思われているのだろうと考えていた。

けれど、もしかすると、今、自分がえみるに言ったのと同じように、「正直に言っていい」と言われていたのかもしれない。

そのことに、ようやく気づいた。

「橘くんは、お化け屋敷とか平気?」

えみるが言って、七穂ははっと我にかえった。少し黙ってから、

「めっちゃ無理」

と、笑って答えた。えみるも笑った。

「じゃあ、私たちは外でお留守番組だね」

そっと言って、本を閉じた。


カラオケ店へ入ると、例の男の霊は、一番かわいいえみるのところへ寄っていった。

男というのは、霊になってもとことんくだらない存在だなぁ。そう思いながらも、七穂は動けなかった。

帰ろうと言ってえみるを連れ出すこともできない。えみるには見えていないとしても、せめて霊との間に立ち、壁になってやることもできなかった。タンバリンを叩きながら、だらだらと冷や汗を流すことしかできない。

でも、怖い時には怖いと言ってもいいのなら、怖くて動けないことも、どうか許してほしい。

結局カラオケを心から楽しむこともできず、テストの疲れもあって、その日は風呂へ入ると、すぐに眠ってしまった。


次の日も、その次の日も、壁島の生き霊は現れなかった。

七穂と同じように、テスト疲れが出ているのかもしれない。忙しくて、七穂のことを考えている時間などないのかもしれない。

平和な夜を過ごし、ベッドへ寝転がる。ちらりと蛙の顔を覗いてみると、やはり、お世辞にもかわいいとは言えない顔をしていた。

(元気にしてるのかな……?)

あれほどよく来ていた生き霊がぱったり来なくなったのは、異常と言えば異常なので気になって、次の日の昼休み、七穂は久しぶりに屋上へ行ってみた。

ベンチには誰もいない。

辺りを見回すと、屋上の手すりのそばに立つ、大きな背中が見えた。

驚かせてやろう、そう思い、そっと近づく。

その時、壁島の手元が見える。スマホの画面には、誕生日に撮った、蛙を持って笑う七穂の写真が表示されていた。

(げっ)

七穂は一瞬で気まずくなり、先ほどよりさらにそっと、後ずさった。

息を殺して見ていると、壁島はいつまでもじっと写真を眺めていた。

(人の写真を、そんな熱心に見るなよぉ)

顔が真っ赤になってしまった。

七穂は壁島へ声をかけられないまま、屋上をあとにした。

生き霊が来なくなってから、すでに二週間以上が経っている。屋上でこそこそ人の写真を眺めているくらいなのだ。いつ来てもおかしくない。

それでも、壁島の生き霊は現れなかった。

「最近、生き霊来ないじゃん!」

祈が文句を言ってきた。自分に言われても困る、と七穂は思った。

「テスト疲れとかあるんじゃない? 夏休み明けには大会もあるらしいし、稽古してるとか……」

なぜか庇うみたいになってしまう。

「ふぅん?」

皆たいそう不満そうな顔をしたが、そもそも、生き霊が来ないことのほうが当たり前ではないか。

七穂は、至極真っ当なことに気づいた。

でもどうしてパタリと来なくなったのだろう。それは気になった。

そう考えた時、あの写真が原因なのかもしれないと思った。

一人で寂しい思いをしながら七穂のことを考えていると、生き霊がこちらまで来てしまう。けれど、写真を見ることで寂しさが紛れていれば、生き霊が来なくて済むのかもしれない。もちろん、ただの仮説でしかない。辻褄だけは合う気がする。

その日も、その次の日も、終業式を終えても、壁島の生き霊は現れなかった。

夏休みに入った。


やった、と、七穂は思った。

当初の、

「少し仲よくなってみたら、やっぱり思っていたのとは違った」という蛙化作戦とは違う。

けれど、要するに生き霊が来なくなれば、それでいいではないか。

気がついて、今度こそ作戦終了だと思った。

壁島が今七穂を思っているかは関係ない。愛しく写真を眺めていようと、関係ない。

あのかわいいえみるでさえ、七穂を誘っても、「バイトがあるから」と断られている。

大きくて、かわいくない壁島が、片思いの味を噛み締めるくらいなんだ。恋とはそういう、人知れず、ある程度苦しいのが普通なのだ。

祖父が入院していて心細いという点だけなら、頼ってもらって構わない。けれど、それは七穂ではなく、親戚の方が頼りやすいだろう。

事情があるにせよ、写真で寂しさを紛らわせることができるのなら、これ以上、自分にするべきことは、ない。

夏休み四日目にして、七穂はそのことに気づいた。

「壁島くんが来なーい」

家族は、まだ恨めしそうに七穂を見た。

「来ないね! 来ないほうがよかったんでしょ?」

全員が黙った。

生き霊は嫌だけれど、本人が来る分には問題ない。家族はそう言ったが、友達のつもりで気軽に呼べる関係でもない。

そう。あとは、知らないふりをしていればいいのだ。

えみるの好意が見えていても、それが相手の中でも確信に変わり、「好き」と口に出せるようになるまでは、こちらからも踏み込まない。その間に、自分も相手を知っていく。

お互いのための、時間稼ぎだ。

壁島が黙っているのなら、こちらも黙ってやり過ごせばいい。



だから、秀進の湿布をもらうために立ち寄った病院で、壁島の姿を見かけた時も、黙っていればよかったのだ。

「先輩!」

一階の待合で、エントランスから入ってくる壁島を見つけ、思わず呼んでしまった。

ひときわ大きいので、今さら、見て見ぬふりをするほうが無理だった。一緒にいた明美も秀進も、ほとんど同時に気づいていた。

「壁島くんじゃない」

明美の声は弾んでいた。

二人を残し、七穂は壁島へ歩み寄った。入院生活に必要な荷物が入っているのか、また紙袋を持っていた。今日も黒い服。

「ちょっと焼けたか?」

壁島は七穂を見るなり、笑った。

「バイト結構頑張ってます」

壁島の笑顔がいつもどおりだったので、七穂も同じように笑った。

「久しぶりですね」

「そうだな」

返ってきたのは、それだけだった。

元気そうなので、「元気ですか」と訊く必要はなさそうだ。

けれど、病院へ一人で来て、祖父のために動いている姿を見て、あの和室の静けさを否応なしに、思い出してしまった。

どう過ごしていましたか。

寂しくはないですか。

顔を見たら、そんな思いが、一度に湧き上がってしまった。

久しぶりに会ってから、まだ五分も経っていないのに、涙腺がちくちくした。

「今から病室へ行くんですか? 俺も、お見舞いに伺っていいですか?」

七穂が訊くと、壁島は少し驚いた顔で七穂を見た。

少し考えてから、

「いいけど」

と答えた。

昔、ちびっこ柔道教室へ通っていたのだから、まったくの無縁でもないと考えてくれたのかもしれない。

七穂は振り返り、母に向かって「壁島先輩と行く。先に帰って」というようなハンドサインを適当に送った。明美は、親指を立てた。


壁島の祖父は、「巌男」と書いて「いわお」と読むらしかった。

小さい頃のことはほとんど覚えていない。怖い人だったらどうしよう。少し緊張しながら、四人部屋の病室へ入れてもらった。けれど、その不安は杞憂に終わった。

巌男は、とても優しい目をした老人だった。

白髪は、ほとんど坊主に近い長さまで刈られている。病衣のせいでずいぶん痩せて見えたが、それでも肩の骨格は大きく、首も太かった。布団の上へ出した手は皺だらけなのに、指の節だけは妙にごつい。

「こんにちは」

挨拶をしてから名前を名乗ると、笑顔を見せてくれた。

「高校の後輩。昔、うちのちびっこ柔道教室に来てたって」

壁島が紹介してくれた。

「ほんのちょこっとの間です。すみません」

七穂が慌てて付け加えると、巌男はまた優しく目を細めた。

「そうですか」

笑った時の目元が、孫と同じだと七穂は思った。

目の形が似ているわけではない。笑い方が、よく似ていた。

壁島がりんごを剥いてくれたが、手を伸ばしているのは七穂ばかりだった。食べないでいると茶色くなってしまうし、自分ばかり食べるのもよくないことは分かっている。

「遠慮なく召し上がってくださいね。たくさんは、食べられなくなってしまって」

りんごを一切れだけ食べた巌男が、そう言ってくれた。

「なんならもう一個剥くか?」

壁島にからかわれて、七穂は笑って断った。

巌男の皮膚は、年齢相応に薄くなっていた。腕には、点滴の跡や、採血でできた青あざがある。

七穂の家の秀進は、りんごをもっとたくさん食べる。けれど、アイスクリームは半分ほどしか食べなくなった。肉よりも、魚を好むようになった。

ずっと元気でいてくれているような気がしていた。けれど、昔のように、家の中で七穂や祈を追いかけ回して遊ぶことは、ずいぶん前からなくなっていた。そういえば、歩くのも立ち上がるのも、昔よりゆっくりになった。

そういう「老い」をふと感じて、切なくなる時がある。いつか、やがて……そういう言葉の先を、少なくとも自分は、一人ではとても受け止められない、と七穂は思った。

自分が今ここにいて何かの助けになるとはまったく思わなかったけれど、換気のような、少しいつもとは違う風になればいいなぁ、と七穂は小さく願った。

壁島が何歳から柔道をしているのか。いつ頃から、こんなに身長が伸びたのか。そういう話を、巌男から聞かせてもらった。

もう少し聞きたかったが、あまり長居をして疲れさせてはいけないと思い、お礼を言って席を立とうとすると、巌男が微笑んだ。

「鷹矢に橘くんのようなお友達がいて、安心しました」

壁島は少し困ったような顔で、その言葉を聞いていた。

七穂は咄嗟に、

「はい。壁……鷹矢先輩は、いつも優しいです」

と答えた。少しとんちんかんな返事だっただろうか。病室を出てから気になった。

「外まで送る」

鷹矢がついてきてくれた。

エレベーターで一階まで降りる。どこもかしこも消毒液の匂いがすることに、今さら気づいた。

「俺、今度写真持ってこようかな」

七穂が言うと、鷹矢は少し笑った。

「そこまでしなくていいぞ」

総合案内や会計窓口に列ができている。一人一人は静かなのに、病院というものは空気がなんだか忙しない。

鷹矢は大きいので、すれ違う人が時々振り返る。

「お前に会えて喜んでたし、無理しなくても大丈夫。ありがとう」

会計窓口の向かいにある自販機に小銭を入れる鷹矢に、「どれがいい?」と顔で訊かれたが、七穂は首を横に振った。

ありがとうと言ってくれた。でも、『無理しなくても』という言葉の方が気になって、飲み物の気分ではなかった。

「無理とかじゃないです」

お茶のボタンを押す大きな背中に、七穂は言った。

何度も何度も来ますかと訊かれたら、そりゃ、それは分からない。けれど、写真を見てもらったりはしたかった。

ほんの少し話しただけだけれど、七穂は巌男のことが好きになっていた。

秀進も含め、七穂は小さい頃から年配の人が好きだった。ただ単に、優しくしてくれるからというのとは違う。長く生きる中で培ってきた知性や品性が、白っぽくなった瞳の奥に宿っているような、あの温かい光が好きだった。

七穂は人よりも少しだけ、「死」というものの近くにいるせいか、その光を尊く思う。

もちろん、電柱裏のクチャラーじじいのような奴は好きではない。誰でもいいわけではない。長年柔道に向き合ってきた直向きさが肩の厚みや背筋の角度に現れているような巌男だから、また会いたいと思ってしまったのだ。

「無理してねえならいいけど。お前、そういうところ分かりづれーしな」

鷹矢が飲み物の蓋を開けながら、なんてことないように言った。

「『そういうところ』って、何ですか?」

すかさず訊きすぎて、食ってかかったような言い方になってしまった。

鷹矢は少し驚いた顔で、七穂をじっと見た。

「……本当にそうしたいのか、気ぃ遣ってんのか?」

言葉を選びつつ、はっきりと言われる。

「お前って軽口はきくけど、変なとこで気ぃ遣うだろ」

その言葉に、悪意はなさそうだった。けれど、痛いところを言い当てられた気がした。

巌男にまた会いたいと思ったことは、嘘でもなければ、気を遣ったわけでもない。だからこそ、何だか腹が立った。

そもそも、分かりにくいのは、あんたのほうでしょうが。七穂は思った。

普段は分かりにくいくせに、こちらの都合もおかまいなしに、本音だけは漏れてくる。おかげでこっちは散々振り回されてるんですが!?

そんなことまで思い出し、余計に腹が立った。

「じゃあ、もう来ないです」

言い捨てて、七穂は病院の自動ドアを抜けた。

あまりにも意地悪で、幼稚な言い方になってしまった。みっともなくて、顔を上げていられない。

「おい」

腕へ伸びてきた手を避けた。

そのまま、足早に立ち去った。追いかけてこられなくてよかった。


帰る道では、さっそく後悔が次々と押し寄せた。家へ着く頃には、罪悪感で潰れそうになっていた。

鷹矢はただ、気を遣わなくていいと言ってくれただけだ。

それなのに、自分が八方美人で、本音と建前が違うことを見透かされた気がして、勝手に怒りだしてしまった。

分かっている。でもまだ腹が立っていた。

(来てほしくないなら、行きませんが?)

拗ねたまま、「ただいま」も言わず、自室へ続く階段を上る。

四、五段上がったところで、自分の足音がひどくうるさいことに気づき、ぴたりと止まった。

そこで一瞬冷静になったせいで、よくないことに気がついてしまう。

もしや。

もしや、自分は、

「そうまでして会いに来なくていい」、つまりたいして会いたくもないと、鷹矢に言われたような気がして、腹が立ったのではないか。そういう疑念が湧いてしまい、唇を噛んだ。

学校で見かける程度で十分。何なら、写真一枚で事足りる。

連絡を取りたいと思うほどの相手でもないのだから、ただでさえ大変な入院生活の隙間にまで、会いたいとは思わない。そういうことなのかもしれない。

「よく考えれば、そもそも……」

階段の真ん中で七穂は立ち尽くした。

生き霊が来なければ、七穂は、鷹矢の好意を一生知らずにいたのではないだろうか。

彼は初めから、七穂と知り合って、話して、告白しようなどとは考えていなかったのかもしれない。

今、一緒に映画館へ行ったり、互いの家を訪ねたりしているのは、七穂が蛙化させようとわざわざ近づいたからだ。

自分が動かなければ、何も起こらなかった。

だから、連絡しなくても、会わなくても、鷹矢は平気なのだろう。

そのことに一度に気づいてしまい、七穂は今度こそ音を立てて階段を駆け上がった。

「うるさい!」

階下から明美に叱られたが、それどころではない。

鷹矢の気持ちが、自分へ向けた矢印になっているのだと、勝手に思っていた。

でも本当は、七穂の足元にそっと咲く花のような思いとして、そこにあっただけなのだ。

鷹矢本人の知らないところで、気持ちだけがタンポポの綿毛みたいに勝手に飛んできていた。

咲いているところを見てくださいと、頼まれたわけではなかったのだ。

「やば」

ベッドへ腰を下ろし、半ば愕然とする。

蛙のぬいぐるみは、相変わらず背中を向けている。これだって、誕生日だから買ってくれと自分がねだったものを、鷹矢が一匹分けてくれただけだった。

「はぁ~~~~?」

驚愕の仮説を前に、思い切り声が出た。

今度は隣の部屋から、どん、と壁を叩かれた。壁の向こうで、

「うるさい!」

と、祈が言った。