「勉強しないと」と言ったのは、嘘だ。
少なくとも、今日はできない。
映画へ行った翌日。日曜日は、七穂の誕生日だった。
特別なイベントをするわけではない。けれど、SNSのプロフィール欄で誕生日を知ったフォロワーから、
『明日、行きますね!』
『差し入れ、何がいいですか?』
と、連絡が入っていた。『平普神社王子生誕祭』というまったく広まらないタグまで作ってくれていた。
開門が九時なので、それまでに起きて、白衣を着ておく。髪も、ある程度はセットした。
お守りや神社のグッズが売れれば御の字だ。誕生日の日付が入った御朱印が欲しいと言ってくれる人もいるし、それに伴い、ものすごく普通で、何の工夫もない平普神社の御朱印帳も、絶賛発売中だ。
「そういえば」
朝食を食べたというのに、まだ大きなおにぎりを頬張りながら、思い出す。
とんでもなくたくさん、それこそ全種類の商品を買ってくれるような人がたまに、「使っていない私物をください」
と言ってくることがある。
誰にでもどうぞどうぞと私物を渡すわけにはいかない。けれど、さすがに全種類を大人買いしてくれる人の要望を無視するのも忍びない。
二度と読みたくないつまらない本や、壊れたものを押しつけるのも、少し違う気がする。
ほどよく、いらないものがいい。例えば、一度身につけたけれど、もう使わないもの、とか。
「あ」
昨日の白いキャップ。
そう思い当たり、部屋へ戻ってみる。けれど、帽子は見当たらなかった。玄関にもない。ほかに使っていない私物を探しつつ、キャップも探して回ったが、どこにもなかった。
ちょうど祈が起きてきたので、
「昨日の白いキャップ、分かる?」
と訊いてみた。
祈は大あくびをしながら、
「三百円」
と言った。それから、すっと目を細め、
「壁島さんが持ってる」
と言った。
昨日、壁島の家に忘れてきてしまったのだろう。やってしまった、と思ったが、なくてもまったく困らないので、まぁいいかと思い直す。いらない私物としては、インクさえ詰め替えてもらえばまだ使える、赤ペンと青ペンを筆箱から出しておいた。
ありがたいことに、思っていたよりもたくさんの女性客が、朝から神社に来てくれた。
とんでもない行列とまではいかないが、うっかり休憩へ行けない程度には、頻繁に授与所へ人が訪れる。
「お誕生日、おめでとうございます」
プレゼントが入った紙袋をいくつももらった。御朱印を押した横へ日付を書き、お守りを買ってもらい、「写真いいですか?」と言われれば、それにも応じる。遠くは北海道や沖縄から来ました、とまで言われた。ありがたすぎて、こちらが拝んでしまいそうになる。
その人たちと写真を撮り終えると、ちょうど人の流れが途切れた。少なくなったお守りを補充する。
再び人の気配がしたので、きゅっと笑顔を作ってから、
「こんにちは」
と言った。
「こんにちは」
太い声が返ってくる。少し驚いて顔を上げると、壁島が授与所に立っていた。いつもどおり、少し怖い顔をしている。
「わ、びっくりした」
七穂は声を上げた。
「何でここに?」
訊くと、壁島は手に持っていた大きめの紙袋から、七穂の白いキャップを取り出した。
「忘れもん」
そう言って、窓口へ乗せた。
「わざわざ来てくれたんですか! ありがとうございます」
キャップを受け取り、荷物置き場へ置いておく。
「このために来てくれたんですか? それとも、今日が何の日か知ってて──?」
一応、訊いてみる。SNSの存在は昨日教えたので、知っている可能性もあると思ったのだ。
「何の日とは?」
壁島が首を傾げた。どうやらSNSは見られていないらしい。少しだけほっとして、
「今日、俺、誕生日なんですよ」
と、にやにやしながら言った。
「マジか」
壁島は、目を見開いた。それから口元を手で押さえ、
「わりぃ。知らなかったから。昨日言ってくれれば」
と、気まずそうに言った。
「あ、じゃあこれ買ってくださいよ」
窓口の一番目立つところに置いてあるにもかかわらず、本日一度も売れていない、神社で祀っている蛙さまを模したぬいぐるみを指さした。
壁島は、赤茶色と苔のような緑色がまだらに混じった、不気味な──もとい、味のある蛙のぬいぐるみを、まじまじと見た。
「これは……」
御神体の蛙さまを忠実に再現した、ごつごつとした皮膚。体に広がる青黒い斑点模様。飛び出した目玉には縦長の瞳孔があり、瞼は赤く縁取られている。ずんぐりむっくりとした腹は、一見かわいらしい。けれど、全体像があまりにも禍々しかった。
その蛙は金色の座布団の上に鎮座し、『我にかえる』という言葉が刺繍された硬いフェルトを背負っている。
「これを?」
壁島は声を少し震わせた。
「違いますよ。そっちは旧商品。先輩には、こっちの新商品を買ってほしいです」
七穂は、座布団蛙のさらに隣に置かれたぬいぐるみを指さした。
同じ造形の蛙が二匹、取っ組み合いをしているように見える、対のぬいぐるみだ。
「相撲?」
「ハグですよ!」
七穂は手元にあったサンプル品を取り出し、二匹を引き離しては、またくっつけてみせた。腕の部分に磁石が仕込まれているので、二匹がぴたっとくっつく仕様だ。
「恋愛系のご利益とは一切関係ないうちが、何の根拠もなく置いてるペアぬいですよ。苦肉の策ですよぉ。買ってくださいよ」
ぬいぐるみをぴたぴたさせながら、七穂は笑った。
「何で、新発売のタイミングで造形を見直さねーんだ……?」
壁島は、頭にボールチェーンのついたぬいぐるみを手に取り、まじまじと眺めた。一匹のぬいぐるみが、壁島の手のひらとちょうど同じくらいの大きさだった。
「しかも、ビッグサイズ……」
「チェーンつきなので、鞄につけられますよ。しかも今なら、俺と写真が撮れます」
「……」
壁島の顔が明らかに引きつっているので、七穂は笑いを堪えられなかった。
けれど、
「じゃあ、これ……」
と、壁島が二千円を差し出した。
「あれ、本当に買ってくれるんですか!?」
冗談のつもりだったので、びっくりした。壁島が、こくりと頷く。七穂は遠慮なく、
「毎度あり~」
と言い、ぬいぐるみをビニール袋へ入れて渡した。
すると壁島は、袋から蛙たちを取り出した。一匹をぴっと外し、七穂へ差し出す。
「じゃあ、どうぞ」
にやりとされた。
「え! こんなかわいくないの、いらない!」
七穂が咄嗟に言うと、壁島は吹き出した。
「お前んちのグッズだろ」
残った蛙を見つめ、何とも言えない顔をする。蛙と目が合うのを嫌がるように、さっとビニール袋へ戻した。
それからスマホを取り出し、
「はい」
カメラを七穂へ向けた。
「あ、写真。先輩は写らないの?」
「俺はいい」
断られてしまったので、不細工な蛙と一緒に撮ることにした。
一応、お金を払ってもらっているので、顔の横で蛙を両手で持ち、とびきりの笑顔を作っておく。
ふっ、と笑いながら、壁島が撮った写真を見せてきた。
ものすごい形相の蛙と、白衣姿の七穂の満面の笑み。
「俺がかわいいだけじゃないですかっ」
七穂が写真を見ながら言うと、
「だし、昨日見せてもらった写真と顔、同じ」
壁島は笑いを噛み殺している。
ちびっこ柔道教室の写真のことだろう。小さい頃の姿を知られているという親密さが恥ずかしくなり、七穂が何も言えずにいると、壁島の後方から七穂を呼ぶ声がした。
気づけば、壁島の後ろに女性が一人並んでいる。そのまた後ろに、クラスメイトの山下と高村、吉田が来ていた。それから、なぜか隣のクラスの女子二人まで一緒に並んでくれていた。
「来たぞ~」
山下が、声をかけながら手を振っている。
「おお」
七穂が振り返すと、壁島はおもむろにその場を離れた。
「あ、先輩。もう帰りますか?」
ぬいぐるみとそっくりな御神体を後で見せてやりたかったので、訊いた。
壁島は手に持った紙袋を、ひょいと持ち上げた。
「今から見舞い。親戚も来るし」
「なるほど」
七穂は頷き、小さく手を振った。
次の女性が待っていたので、今日はその背中が見えなくなるまで見送ることはできなかった。その女性は、ぬいぐるみも含め、並んでいる商品を、全種類一つずつ買ってくれた。
その代わり、と
「何か、私物をもらえませんか?」
かわいらしい顔で頬を染め、いじらしく言った。
「あ! はい」
七穂は笑顔で答え、用意していた私物を取ろうとした。
そこで、ふと手を止める。
壁島から、あのキャップが返ってきたことを思い出した。キャップへ手を伸ばす。
けれど、せっかく届けてくれたものを、いらないからとほかの人へ渡すことが憚られた。
結局、キャップはやめた。
赤ペンと青ペンを取り出し、そばにあったメモ帳へ蛙の絵を描く。お世辞にもうまいとは言えない絵の横に、『七穂』とだけ書いた。その紙を、二本のペンと一緒に差し出す。女性は、いたく気に入ってくれたらしい。
「これからも応援しています」
笑顔で言ってくれた。七穂がほっと胸を撫で下ろしていると、
「儲かってんのか? っていうか、お誕生日おめでとう」
順番が来た友人たちが、口々に祝ってくれた。皆で選んだプレゼントまでくれたので嬉しかった。
「っていうか、さっき壁島いなかった? 何でここに?」
高村が、もう見えなくなった壁島の背中を探すように、背伸びをして辺りを見回した。
「もしかして、カツアゲ!?」
山下が、いつもの軽い調子で言った。
「『賽銭よこせよ』ってさぁ」
男子たちは、ぎゃははと笑った。
この間までなら、七穂も一緒に笑っていただろう。けれど、その時は、そうできなかった。
「そんなんじゃないよ」
そう言った自分の声が、妙に冷たく響いたことに気づいた。友人たちも、少し目を丸くしていた。
「冗談だって」
吉田が笑ったので、七穂も、
「だよな!」
と笑った。
一瞬気まずい空気になりかけたところへ、高村たちと一緒に来ていた女子の一人が、一歩前へ出た。
「橘くん」
少し高くて、ころんとしたきれいな声で言った。彼女の顔をまじまじと見て、
「ささ……」
名前を思い出そうとしていると、
「佐々木です」
向こうから名乗ってくれた。「ささ」までは合っていたことに、ほっとしてくれているような表情だった。
くりっとした大きな目。顔も体も、きゅっと小さくてかわいらしい。男子から、かなり人気のある女の子だということは知っていた。
「お誕生日、おめでとう……!」
しっかりとした作りのピンク色の紙袋を、差し出してくれた。
「え、わぁ。ありがとう!」
顔を赤くし、少し俯きながら、はにかんでいる佐々木。七穂は、その顔とプレゼントを交互に見た。中身は、ふわふわとしたラッピングに包まれていて、一見しただけでは何か分からなかった。
「あとで開けるね。ありがとう」
紙袋の端を指で弄びながら、七穂は言った。
嬉しいというより、佐々木とはこれまで話したことがなかったので、正直、驚いていた。
「あの、連絡先、訊いてもいいかな?」
顔を赤らめたまま、佐々木がスマホを取り出した。
「うんうん」
七穂もスマホを出した。
幸い、にやにやしながら二人を囲んでいる友人たち以外に、参拝客はいなかった。その隙に、さっと交換を済ませる。誰とでも連絡先を交換すると思われても困る。
『佐々木 えみる』
表示された名前を見て、
「名前かわいいね」
と正直な感想を言ったら、本当に真っ赤にさせてしまった。
「じゃあまた明日」
「頑張って」
少し話して、自分たちの後ろに人が並びだしたのを見て気を遣い、友人たちは帰っていった。
えみるだけが一度振り向いて、小さく手を振った。
夕方六時までは授与所にいて、それから部屋へ戻り、プレゼント開封の儀を執り行った。手紙を読み、全体への感謝のメッセージをSNSへ投稿する。
「疲れた~~~」
笑顔を作りすぎたせいで、なんとなく顔が痛い気がする。
たぶん、この商売のやり方は自分に向いていない。改めて、そう思った。けれど、今日の売り上げは過去最高だと、家族は喜んでくれた。神社らしく、ご利益で人を集めたいものだと思う。
将来は、もしかしたら七穂がこの神社を継ぐことになるのかもしれない。そうなったら、もう少し一生懸命考えてみよう。けれど今日は、とても疲れてしまった。
えみるからもらったものは、いい匂いの入浴剤だった。あとで風呂へ入れてもいいかもしれない。ほかにも、夏らしい、さっぱりとした使い心地らしい洗顔料も入っていた。小さなメッセージカードには、『お誕生日おめでとう』という言葉と、小さなハートマークが添えられていた。
「うーん」
七穂は白衣を脱いで普段着になり、すっかりくつろいだ格好でベッドへ寝転がった。
「かわいすぎでは?」
適当に剥がしたラッピングは、いつまでもふわふわしていて、しかも、いい匂いがした。
ほかの女性たちからもらったものも、美味しそうな食べ物や実用品が、かわいらしく包まれていた。
けれど、えみるのものは、その中でもひときわ甘く、淡く、きらきらとしたフィルターがかかっているかのように輝いて見えた。
七穂が彼女をどう思っているかというより、えみるの声の調子や、赤らんだ頬、少し潤んだ目。そういうものが残像のように目に残り、プレゼントまでそんなふうに見せている。そんな感じだった。
「それに比べて」
七穂は、たくさんのかわいらしいプレゼントの奥にある、不細工な蛙のぬいぐるみを手に取った。
「これはひどい」
ペアでくっついていた時には、かろうじて「相撲?」と意味を見いだせた。
けれど一匹になってみると、禍々しい蛙が二本足で立ち、何もないところを押しているような、意味の分からない姿になっている。
「誰が鞄につけるんだ、こんなもん」
おかしくなり、財布からお札を一枚取り出した。
片手で支えた蛙の腕へお札を立てかけ、まるで持たせているようにして、写真を撮る。
『妖怪 お札盗み蛙』
そう書いて、写真を壁島へ送ってみた。
自分で撮っておいて何だし、御神体にも失礼だが、本当に汚らしい蛙がお札を盗んでいるようにしか見えない。
そこへ、ご飯だと呼ばれ、下へ降りた。
七時をかなり回っても、壁島の生き霊は現れなかった。
「来ないねぇ、誕生日なのに」
と残念そうに祈は言った。昼間に来てはくれたが、誕生日だから来てくれたというわけでもないので、七穂は黙っていた。親戚が来ると言っていたので、一緒に夕飯を食べているのかもしれないなと思った。
寂しい部屋で、七穂のことを思い出しているのでなければ、それでいい。
家族でケーキを食べ、プレゼントには色気もなく現金をもらい、祈には三百円を取られた。風呂へ入ってから部屋へ戻り、スマホを見る。メッセージが届いていた。
開いてみると、それはえみるからだった。そこで、入浴剤を使うのを忘れたことに気づいた。丁寧に礼を言い、『明日また使うね』と一言添えて返事をする。かわいらしいウサギが笑っているスタンプと、『おやすみなさい』のスタンプが届いた。かわいい子のメッセージは、余韻まで甘いのか。
蛙のぬいぐるみを手に取り、寝転がったまま、なんとなく天井へ放り投げる。
スマホが鳴った。
蛙を受け止めてから画面を開くと、
『俺もその妖怪に、二千円取られた』
壁島から、返事が来ていた。
笑ってしまってから、
『先輩は、誕生日いつですか?』
と送る。
『九月一日』
『新渡戸稲造と同じじゃないですか』
『知るか』
『じゃあ、プレゼントは五千円くらいでいいですかね~?』
『別にいらん』
『蛙五匹ですね』
『何で蛙限定?』
何度かやりとりをしたところで、電話が鳴った。壁島からの着信だった。
「どなたですか?」
電話に出る。
「それ、毎回やんのか」
「ふ。で、どうしましたか?」
蛙を胸に抱きながら、天井を見る。
「いや、ちゃんと言ってねぇなって。誕生日おめでとう」
そう言われ、七穂は時計を見た。
23時56分。
「ぎりぎりじゃないですか」
「言ったしセーフ」
「滑り込みましたねぇ」
七穂が笑う。
電話越しに、壁島の息遣いが聞こえた。
「蛙、大事にしますね」
七穂は静かに言った。
「ん? ああ」
「祟られそうなんで」
「ふっ。そういう顔はしてる」
今度こそ壁島がきちんと笑った声がした。
おやすみなさいを言って、電話を切った。
ベッドの脇へ、ぬいぐるみを置く。
じっと見られて、自分の顔が緩んでいるのを鼻で笑われている気がした。そういう、余計なことを言いそうな顔をしているぬいぐるみなのだ。
薄気味悪いので、七穂は蛙を壁のほうへ向かせた。
