春を忘れた君へ、笛を吹く

 春津は……本当に、何も覚えていないのだろうか。

 そんなことを考えながら、舞殿(まいどの)の真ん中に立ち、昇る朝日をぼんやり眺めていると、肩を軽く叩かれた。

「小夜……?」
「……葵」
「大丈夫? この頃、掃除の途中でぼうっと立っていることが多いから」

 そこで初めて、手に握った雑巾がすっかり乾いていることに気づいた。

「ごめん。ちょっと考え事してて」
「春津っていう、あのお友達のこと?」
「うん……」

 うつむくと、葵が両手で私の肩を揉んだ。

「ほらほら、掃除も終わったんだし、早く朝ご飯を食べて、お稽古に行こう?」

 思わず笑って、後ろを振り返る。

「どうしたの。いつもは、お稽古が怖いって泣き言ばっかりなのに」
「だって今日は、豊明節会(とよのあかりのせちえ)に出る人を決める、最後の披露の日でしょう。選ばれるには頑張らなくちゃ」
「へえ……。そんなの、どうなってもいいけど」

 ぶつぶつ言いながら、葵に背中を押されて部屋へ戻った。

***

 今日の舞殿は、私の知っている舞殿ではなかった。
 座る場所が変わり、合奏に加わる順番も違っている。典薬寮(てんやくりょう)で寝込んでいる間に、皆は新しい組み合わせを覚えていたのだ。
 以前の場所に座ろうとすると、預(あずかり)が顎をしゃくる。

「君は後ろへ行きなさい」

 最後列に座り、稽古用の笛を持つ。前に広げられた譜(ふ)を横目で追いながら、先に吹く人たちに合わせた。
 皆が止めるところで、私の笛だけが一音余計に鳴る。皆が息を継いでいる間に、一人だけ先に吹き始めてしまう。
 前の列から、小さな笑いが漏れる。
 稽古が終わると、預は隣の別当(べっとう)殿から巻物を受け取り、広げた。

「豊明節会に出る者の名を呼びます」

 最初に呼ばれたのは、白妙(しろたえ)。続いて、舞を披露する者たちの名が一人ずつ読み上げられる。

「葵」

 葵が両手で口を覆う。目がきらきらと輝く。けれど、私と目が合うと、手を下ろして唇を引き結んだ。
 最後の名が呼ばれても、私の名はなかった。

「何て顔してるの。葵が舞の上手なことくらい、私が一番よく知ってるんだから」

 葵の背を軽く押しながら、言った。

「でも、小夜が……」
「いいの、気にしないで。それより、おめでとう。本当に」

 周りでは、もう弾んだ声が行き交っていた。

「明日からは、雅楽寮(うたりょう)の楽人(がくにん)とも合わせるんですって」
「この前の、若い楽人も来るかしら」

 誰かが声をひそめると、皆は袖で口元を隠して笑った。
 私はその浮かれぶりを眺めながら、心の中でせせら笑う。
 笛を箱に収めていると、背後で話が続いた。

「ねえ、聞いた? 今年の節会には、あの採薬童子(さいやくどうじ)も出るんですって」
「従五位下(じゅごいのげ)を賜ったという、あの方?」
「傷もすっかり治ったそうよ。帝がじかにお会いになりたいんですって」

 手が止まる。

 ――御笛師(みふえし)となり、帝に笑っていただけたなら、その子に会うことも叶うかもしれん。

 あのときは、気の遠くなるような先の話だと思っていた。けれど、春津に会える場所は十四日後、すぐ目の前にある。
 そして私は、たった今、そこから落とされたのだ。
 箱を置き、預の前へ駆け寄って膝をつく。

「あの、預様。もう一度だけ、聴いていただけませんか。必ず、懸命に稽古します」
「もう決まったことです」
「でも……!」
「これ以上はなりません。下がりなさい」

 今度はその隣にいる別当殿へ向き直り、額が床につくほど頭を下げる。

「別当殿。どうか、もう一度だけ機会をください」
「ふん。体もろくに立て直せぬ娘が、欲だけは一人前だな。先ほどまでは、豊明節会などどうでもよいという顔をしておったくせに……」

 目だけを上げると、別当殿は髭をいじりながら、くつくつと笑い始める。

「さては、あの子のためか。お前がここで何をすべきか、まだわからぬのか?」

 唾を呑み込む。

「……笛を吹けば、あの人に会えるかもしれないとおっしゃったのは、別当殿です。だから、ここで学ぼうとしたんです。どうか、もう一度だけ機会をください」
「節会まで、あと十四日しかない。お前一人のために、皆の合奏を組み直すわけにはいかぬ。それに、あれは帝をお喜ばせするために励めという意味だ。男に媚びろと言った覚えはない」

 ふいに、回廊から足音がした。
 女の子たちの話し声が途切れ、誰かが息をひそめてつぶやく。

「あの方は……」

 声のした方へ顔を上げると、吸いかけた息が喉の奥で止まった。
 春津が立っていた。
 血のついた白い単(ひとえ)ではない。淡い緋色(ひいろ)の袍(ほう)をまとい、冠(かんむり)を着け、髪もきちんと撫でつけている。頬を横切る傷痕だけが、そのままだ。
 前に見たとき、真っ黒に染まっていた右手には、真っ白な包帯が巻かれていた。
 後ろには、数人の衛士(えじ)が付き従っていた。鉾(ほこ)を持ち、その背から一歩離れて立っている。
 春津が舞殿に上がり、礼をする。
 別当殿の顔が歪む。

「ほう。採薬童子殿が、内教坊(ないきょうぼう)に何の用だ」
「小夜という楽人に会いに参りました」

 舞殿を見渡していた彼の目が、私のところで止まった。口元に、淡い笑みが浮かぶ。
 春津は隣まで来ると、私の肩に手を置く。

「この人を迎えに来たのです。採薬童子の治療に力を貸してほしいと、お願いするために」

 彼は懐から折り畳んだ紙を取り出し、別当殿の前に広げる。

「陰陽寮(おんみょうりょう)からの牒(ちょう)です。彼女の笛を聴いてから、僕の状態はよくなりました。ほかの採薬童子にも、同じ方法を試したいと考えています。治療を助ける奏楽を、彼女に頼みたいという申し入れです」

 別当殿が、ひったくるように紙を取る。

「帝の仰せか」
「陰陽寮からの申し入れです」

 紙が折り畳まれる。

「ならば、ならぬ。帝はお前たちを治療せよと命じられたのであって、内教坊の楽人を連れていけと命じられたわけではない」

 顎で私を示す。

「この娘も、帝のお心に従って選ばれ、ここへ来たのだ。帝に仕える楽人を外へ出すには、それにふさわしい命が必要であろう」

 紙を持つ手が上がる。

「それに……五位になったからといって、役所という役所へ乗り込み、人を寄越せと言えると思うてか。陰陽寮の下役どもも、身の程を知らぬ」

 びり、と紙が二つに裂ける。
 破れた牒が、春津の足元に落ちる。
 春津は、それを見下ろした。

「彼女の演奏で、僕は正気を取り戻しました。まだ、暗闇の中にいる子たちが残っています」
「この娘の演奏のおかげだという証があるのか? そもそも、この娘の才を見抜き、宮へ連れてきたのは私だ」
「ですが、節会には出さないと伺いました」

 別当殿の眉が動く。

「当然だ。才があろうと、磨かぬ玉はただの石にすぎぬ」
「それならば」

 春津が顔を上げる。

「合奏に加えられないのであれば、彼女に一人で演奏させてください。それを聴いて帝がお笑いになったなら、治療への協力をお許しいただきたい。彼女なら、できると信じています」

 言葉を切り、私をちらりと見下ろしてから続ける。

「そうなれば……彼女の値打ちを正確に見抜いたのは、別当殿ではなく、僕ということになりますね」

 舞殿がざわめく。

「黙って聞いておれば……どこで、そのようなふざけた賭けを覚えた――!」

 別当殿が片膝に手をつき、立ち上がりかけたところで、春津が遮る。

「失敗したなら、この申し入れは取り下げます。そして、僕の賜る禄(ろく)を、すべて内教坊に差し出しましょう」

 別当殿が口を閉じる。それから、私を見下ろす。

「禄をすべて、か……。で、お前はどうしたい」

 春津を見る。ただ、目元を和らげて笑っていた。
 笛を握る手に目を落とす。
 その上に、灯台(とうだい)の明かりの下で、額を打ちつけていた少年たちの姿が重なる。そして、あの子たちの前で、力なく肩を落として膝をついていた、春津の背中も。
 息を整え、顔を上げる。

「……やります」

 別当殿が舌を打つ。

「……よかろう。一人で吹かせてやる。用意した合奏は変えられぬから、すべての演目が終わった後だ。誰の助けも借りられぬぞ。しくじれば、内教坊全体の恥だ。肝に銘じておけ」

 別当殿は去った。

***

 春津について回廊へ出ると、衛士たちは数歩後ろで足を止めた。
 人々の目から離れたところで、春津が口を開く。

「いきなり来て、あれこれ決めてしまったから、戸惑っただろう。重荷を背負わせたなら、すまない」

 大きな歩幅についていくのに息を切らしながら、答える。

「謝らなくていいですけど……どうして、あんな約束をしたんですか? 私、帝にお会いしたこともないんですよ。何がお好きなのかも知らないし、一人で吹いたのだって、村の板橋の上だけですし……」

 彼はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。

「……そなたは僕を救った。そのそなたに、今度は仲間まで助けてほしいと頼んでいる。僕だけ、何も差し出さずにいるわけにはいかないだろう」
「本当に……私の笛なら、できると思うんですか?」

 春津が、回廊の向こうの空を見上げる。

「何も見えない場所で、そなたの音だけは聞こえた。その音をたどって、出てきたんだ」

 目が、私の手の中の笛に下りてくる。

「僕は、そなたを信じている。僕に届いた音なら、帝にも届くだろう」

 そこで彼は「あ」と口を開き、人差し指を立てた。
 懐から、小さな袋を取り出す。
 私の守り袋(まもりぶくろ)だ。切れた紐の代わりに、新しい紐が付いている。

「これも返さなければ。もう切れないように、紐を替えておいた」

 受け取ろうと手を差し出したが、春津は紐を広げて持った。
 頭を下げる。彼の指が襟元をかすめ、袋が胸の辺りの、元の場所へ戻ってくる。
 春津が、自分の首にかけた袋を取り出して見せる。

「僕のものと似ているね。そなたのは、まだ色が残っている」

 灰色と、淡い藍色。一枚の布を半分に切って作った、二つの袋。

「春津……もしかして……」

 続きを言う前に、額を指で弾かれる。

「いたっ!」
「これ。いくら何でも、名を呼び捨てにしてはいけない」

 額を押さえると、春津は辺りを確かめ、身をかがめてささやく。

「……僕も、こういう作法には慣れていない。でも、人目があるから、そなたが叱られないように気をつけて」

 目の高さが合うと、茶色の瞳が日の光を含んで、柔らかく輝いた。じっとのぞき込まれ、頬が熱くなる。

「ところで……あの日の曲は、誰に教わった?」
「私が作った曲です。ある人を思い浮かべながら」
「誰を?」

 その顔を見つめる。

「私の笛を、一番好きでいてくれた人です」
「その人にも、また聴かせられるといいね」

 うつむき、下唇を噛んで袖の端を握りしめる。踵を返した春津の足だけが、伏せた目の先で遠ざかっていく。
 視界から消えかけたところで、その足が止まる。

「ああ、もう一つ」

 顔を上げると、彼が布で包んだ細長いものを差し出した。包みを開くと、龍笛(りゅうてき)が現れる。樺(かば)の皮を巻いた竹に、漆が艶やかに光っている。

「以前、禄をかき集めて手に入れた笛だ。吹けもしないのに、なぜ買ったのか……。ともあれ、そなたにあげよう」

 手を出せずにいると、春津が付け加える。

「あの日、そなたを傷つけた詫びには足りないだろうけれど、受け取ってくれると嬉しい」

 両手で、龍笛を受け取る。指で竹をたどる間に、幼い声が耳元に蘇る。

 ――そしたら小夜に、リュウテキを買ってやる!

 目の縁が湿る。
 春津はまた背を向け、歩きだした。

「春津様」

 その声に、彼が振り返る。

「ありがとうございます。……必ず、ご期待に応えます」

 春津が笑った。その場を離れずに耳の辺りの髪を掻き、口を開く。

「一つだけ欲を言うなら……よければ、帝にお聴かせした後で、僕にも一度、聴かせてくれないか?」

 その顔をぼんやりと見てから、口元が緩む。

「もちろんです……!」

 龍笛を握る手に、力がこもる。
 その返事を聞いて、ようやく春津は帰っていった。背中が見えなくなるまで見送ると、私は舞殿へ駆け戻った。

***

 時間は、あっという間に過ぎた。
 朝の掃除が終わると、葵が舞殿の端に座って、笛を聴いてくれた。白妙は通りかかるたびに足を止め、ひと言ずつ助言をくれた。
 息の一つも乱れないように、明け方も、稽古の時間も吹き続けた。眠る直前まで、掛け布の中で指を動かした。
 ある晩は、月が空高く昇るまで、一人で庭の隅に座り、笛を控えめに吹いていた。
 吹き終えて振り返ると、春津が立っていた。木の幹に背を預け、腕を組んで、穏やかに笑っている。

「び、びっくりした……。春津様……どうして、こんな夜更けにここへ」
「見てはいけないものでも見たような顔だな。僕がここにいては、いけないのか?」
「うっ……それは、もともとこういう顔なんです……」

 春津が首を傾げる。

「もともと? 普段はもっと丸くて、柔らかな顔をしているだろう。見ていると、こちらまで頬が緩む」

 言われた意味が遅れてわかり、頬が熱くなる。顔を横に向けて尋ねる。

「そ、それで、何のご用ですか。こんな遅くに、ここにいてもよろしいんですか?」

 春津は答えずに近づき、右手を差し出す。
 白い包帯の巻かれた手に、椿餅(つばいもちい)が載っていた。

「椿餅……!」

 口が勝手に開き、慌てて片手で覆う。
 春津が笑う。

「やはり、好きなのだな。よかった」
「……私が好きだって、どうしてご存じなんですか……?」

(まさか、記憶が……?)

 そう思いかけたところで、春津が答えた。

「ん? そなたとよく一緒にいる、葵という子に聞いたんだ。これが好きだと教えてくれた」
「あ……」

 椿餅を受け取り、目を伏せたまま、葉の縁を指でなぞる。

「私の好きなものを、聞いてくださったんですね……」

 そこまで言って、葉を開き、餅を二つに割った。

「……半分、召し上がりますか」

 差し出すと、春津は少し驚いてから、包帯のない左手を伸ばした。

 二人で黙って餅を口に運ぶ。柔らかな餅を噛むと、ほのかな甘みが広がる。

 春津は口を小さく結び、もぐもぐと頬を動かしている。昔とそっくりなその姿に、思わず笑みがこぼれる。私は片手で口元を隠しながら、残りを食べた。

 食べ終えてから、もう一度口を開く。

「それより、春津様。その右手は、大丈夫なんですか? 前に見たとき、真っ黒な痕がありましたよね」
「この手か……」

 右手を月明かりにかざし、角度を変えて包帯を眺めながら、春津が続ける。

「これは……そうだな、贖罪(しょくざい)の証とでも言っておこう。この手で、そなたの首を傷つけたのだったな……。本当に、すまない」
「いえいえ! それはもう、大丈夫です。十回以上も謝ってくださったじゃないですか」

 そこで会話が途切れた。
 私は衣の裾を手早く整え、部屋へ向かいながら頭を下げる。

「椿餅、ありがとうございます! では、もう遅いので、そろそろ戻りますね」

 戸口まで歩いて振り返ると、春津はまだ同じ場所に立っていた。笑いながら、こちらへ手を振っている。
 その顔につられて口元が緩み、私は部屋へ戻った。

***

 そうして今、豊明節会の夜を迎えていた。
 灯台と松明が、殿内を昼のように照らしている。白妙の笛が流れ、葵たちが袖を翻して舞っている。演目が終わるたびに、貴族たちが頷く。
 目元を隠す高さまで巻き上げられた御簾(みす)の向こうに、帝がお座りになっている。覗く口元は思っていたよりずっと若々しく、春津と同じくらいの年頃に思えた。
 けれど、その口元に笑みはなかった。
 すべての演目が終わり、一人で前へ進み出る。
 別当殿が腕を組み、私を見ている。

(帝を笑わせなきゃ。絶対、しくじっちゃ駄目……)

 龍笛を唇に当てる。四方から注がれる目が大きな口になって、私を丸ごと呑み込んでしまいそうだ。
 最初の息が出ていかない。胸のどこかで、つかえている。
 居並ぶ人々の間に、春津が見えた。何の合図もしない。ただ、目が合うと、静かに笑う。
 頭を埋めていた考えが、遠のいていく。
 代わりに、一枚の絵を思い描く。明るく笑い、宮の中を駆け回る、私と同じ年頃の少年たち。その中に、春津も笑って立っている。
 その絵を息に込め、一音ずつ重ねる。
 最後の音が、夜気に散る。誰も、手を叩かない。
 目を開けると、帝は口を半ば開けたまま、しばらく私をご覧になっていた。それから、春津へ顔を向けられる。

「……そなたにも、このような音が聞こえたのか?」

 春津が、深く頭を下げる。

「はい。この音をたどり、戻って参りました」

 帝が再びこちらへ向き直られる。その口元が、柔らかくほころぶ。

「はは。朕(ちん)はこれまで数多くの曲を聴いてきたが、このような曲は初めてだ。まるで……そう、野を駆ける子らのようであった。今にも立ち上がって、舞いたくなったぞ」

 帝が別当殿をご覧になる。

「別当、よい子を連れてきたな。それだけではない。先ほどの奏楽も、舞も、皆見事だった」

 別当殿が、深々と頭を下げる。

「身に余るお言葉……。お喜びいただけたのであれば、これ以上望むことはございませぬ」

 龍笛を握りしめていた手から、ようやく力が抜けた。手のひらは、冷たい汗で濡れている。
 春津を見て笑うと、同じように笑い返してくれた。
 宴が始まる前、別当殿は、陰陽寮からの申し入れを認めると告げた。
 やがて、宴が始まった。
 新穀で醸した酒を満たす盃(さかずき)が、貴族たちの間を巡る。膳には珍しい料理が並び、誰かが興に乗って和歌を詠むと、殿内に笑い声が満ちた。

***

 賑やかな宴がたけなわになった頃、春津が一人で回廊へ歩いていくのが見えた。私も、その後を追った。
 月明かりを帯びた髪が、風に揺れている。
 振り返った春津が言う。

「ここで何をしている。宴を楽しめばいいのに。珍しい料理がたくさんあるぞ。よく食べなければ、背が伸びない」
「……もう伸びきりました。それに、約束ですから」
「約束?」

 その前まで歩いていき、龍笛を持ち上げる。

「帝にお聴かせした後は、春津様にも聴いていただくって、言ったでしょう」

 唇に当てたが、細かく震えてしまう。指にも、力が入らない。
 春津の手が伸びてきて、龍笛を押し下げる。

「今日は、十分に聴かせてもらった。休みなさい」
「あれ……いつもは、こんなことないのに……。では、次こそ聴いていただきますね」

 春津は目を細めて笑うだけで、何も言わなかった。
 その顔を何度も横目でうかがってから、笛を持ち直した。

「すみません……。それでは、失礼します」

 おずおずと背を向け、宴の方へ戻ろうとすると、手首をつかまれる。驚いて顔を上げる間に、春津が自分の方へ引き寄せる。

「笛を吹かない日にも……会えないだろうか」
「はい……? ひっく」

 しゃっくりが出る。
 春津が続ける。

「そなたの村の話を聞きたい。あの曲をどこで作ったのかも、ここへ来て、どう暮らしていたのかも」

 どう答えようか迷い、間を置いてから口を開く。

「私の村には、小さな板橋があったんです。座るたびに、きしんで……」
「ほう、前に話していた、一人で笛を吹いたという板橋か。もしや、そこで……そなたの笛が好きだったという人に、聴かせてやったのか?」
「はい……そうです」

 春津の片眉が動く。目をそらし、口の端を下げる。

「誰かは知らないが、羨ましいな。そなたのような人に、笛を聴かせてもらえるなんて……」

 私はうつむき、ごく小さな声でつぶやいた。

「ばか……。あんたのことなのに……」

 強い風が吹き抜け、二人を包む。首に下がる袋が、それぞれ違う方へ揺れる。
 風がやむと、春津が乱れた髪を耳にかけてくれた。その顔を、まっすぐに見上げる。

「いいですよ……」
「ん? 何が?」

 龍笛を胸に抱きしめ、顔いっぱいに笑う。

「笛を吹かない日にも会いたいっていう、お話です。耳にたこができるくらい、私のことを話しますから、覚悟してくださいね。言いたいことが、山ほどあるんです」

 春津も笑う。

「ああ。楽しみにしているよ、小夜」

 笛を吹かなくても、私を呼ぶ声が、もうそこにあった。