昨夜は、ほとんど眠れなかった。目を閉じるたび、少年に掴まれた手首が痛む。
翌日、丹波に「明日には内教坊へ帰す」と言い渡された。
陰陽寮がどこにあるのかも分からないまま、掛け布の端を握る。
暗がりで泣き叫び、床に頭を打ちつける春津の姿が、勝手に浮かぶ。
(……変なことを考えないの、小夜。まだ、何も見ていないんだから)
そう言い聞かせながら、目を閉じた瞬間。
「きゃああっ! 物の怪だ!」
外から悲鳴が聞こえた。
「何……?」
目を開けると、戸の向こうを幾人もの足音と松明の明かりが通り過ぎていく。
「ぎゃあああっ!」
また悲鳴が上がり、戸板に血が飛び散る。
びくりと肩が跳ねる。
身を縮め、枕元にあった稽古用の笛を握りしめる。辺りを見回しても、いつも薬を煎じる炉の前で居眠りしている丹波の姿がない。
めきっ、と木の裂ける音がしたかと思うと、戸が丸ごと吹き飛んだ。
「ひっ……!」
転がるように部屋の隅へ逃げ、灯台の火を吹き消して息を殺す。
誰かが入ってくる。
清澄よりはやや低く見えるものの、背の高い男だ。白い単をまとい、体のあちこちに血の染みた呪符を貼りつけている。手にした松明の炎が天井へ向かって揺れ、陰になった顔は見えない。
「犬丸……鶴丸……どこにいる……皆、どこへ……」
誰かの名を一人ずつ呼びながら、片足を引きずって進んでいく。床に赤い筋が延び、その背後で闇に呑まれる。
喉が勝手に動き、からからに乾いた口の中で唾を呑み込む。
男を追って、鉾を構えた衛士たちがなだれ込んでくる。
「貴様! ここをどこだと心得る!」
その前に、若い男が立ちはだかる。
白い狩衣に烏帽子を着けた、細身の男。片手には墨でびっしりと文字の書かれた呪符を握り、額には汗が光っている。
陰陽師だ。
「下がれ! お前たちの手に負える相手ではない!」
そんな騒ぎにも構わず、男は足を引きずって進んでいく。
灯台のそばを通り過ぎた拍子に、その上半身が明かりに浮かんだ。
首に下がった、小さな袋。藍の色がすっかり抜け、灰色になった麻の袋だった。
松明に照らされ、明るく見える茶色の髪。丸い目と、その下の頬を横切る長い傷痕。
息が止まる。
向かっているのは昨夜、私が忍び込んだ部屋――採薬童子たちのいる場所だ。
考えるより先に、足が床を蹴っていた。
「どこへ行く! 危ないぞ!」
陰陽師につかまれた腕を、体ごと振り回して振りほどいた。息を切らしながら、足を引きずる姿が消えた先へ走る。
部屋の前まで来た。
少年たちが、あちこちに力なく倒れていた。その真ん中に、彼は膝をついている。両手で、一人の少年の首を絞めながら。
片目に布を巻いた、あの少年だ。
「すまない、鶴丸……。少しの間だけ、気を失っていてくれ。眠れずに苦しみ続けるよりは、ましだろう。近いうちに、僕が必ず……ここから抜け出す道を見つけてくる」
「たい……しょう……」
鶴丸の手から、ふっと力が抜けた。男はぐったりした鶴丸を両腕で抱き上げ、部屋の隅に横たえる。
「春津……!」
思ったよりも高い声が出た。
彼は立ち上がると、こちらへ顔を向ける。
顎の線が鋭くなっていた。首も太く、肩幅も広くなっている。それでも、丸い両目と茶色の髪は、昔のままだ。
顔いっぱいに笑みが広がり、一歩踏み出す。
「春津!! 私だよ、さ――」
足が止まる。
春津の目がつり上がり、ぎり、と歯を軋ませる音がする。
「忌々しい妖め……。僕を仲間から引き離そうと……」
大股で迫ってくる姿に、後ずさる。
「春津、待っ――かはっ!」
首をつかまれる。墨を浴びたように、手首まで真っ黒に染まった右手。
つま先が床を離れ、頭に血が押し寄せる。手から滑り落ちた笛が、地面を転がる。
背後が騒がしくなる。
「あの子が死ぬぞ!」
「は、早く引き離せ!」
けれど、衛士たちは敷居を越えて一歩も入ってこられない。構えた鉾の穂先だけが、がたがたと震えていた。
陰陽師が彼らを押しのけ、前に出る。呪符を握った手を突き出し、早口に何かを唱える。
「急急如律令……!」
呪符の先が細かく震えたが、春津は振り向きもしない。
陰陽師が歯を食いしばる。
「くっ……帝より、必ず生かせと仰せつかっているというのに。これでは、うかつに手を出せぬ……!」
「はる……つ……」
視界が赤く染まり、意識が薄れていく。
春津の左手がうなじへ伸び、何かを引いた。首にかけていた紐だった。襟元から、小さな袋が引き出される。
藍色の、守り袋。
彼はそれを引きちぎると、ぼんやりと見下ろす。首を絞めていた手が緩み、私はその場に落ちてへたり込む。
「げほっ、ごほっ……」
霞んでいた目が、ようやく見えるようになってくる。震える手を伸ばし、落ちていた笛を拾い上げる。
「馬鹿……」
勝手に声が漏れる。
「何が、いつも守ってくれた、よ……。絶対、元気で帰ってくるって……どこが元気なのよ……」
涙がぼたぼたと落ちて、また前が見えなくなる。
震える息を整え、笛を唇に当てる。そのまま、息を吹き込む。
――桜人。
別れる前の日、彼が吹いてほしいと言った曲。舞い散る桜の中で笑う、私の英雄を思い浮かべて作った曲。
部屋に桜の旋律が咲く。一輪、また一輪と、枝の先まで花が開くように、私は吹き続けた。
いつしか、周りの声は聞こえなくなっていた。
そっと目を開ける。
春津が私の守り袋を片手に握りしめ、泣いていた。頬についた血が、澄んだ涙に洗われていく。
「今だ! 取り押さえろ!」
衛士の一人が鉾を手に飛び出しかけたが、陰陽師が腕を上げて制する。
「待て……。もうしばらく、待つのだ」
春津が足を運び、私の前に膝をつく。懐かしい土の匂いが、鼻先をかすめる。
彼の片手が持ち上がる。私は笛を握りしめ、固く目をつぶった。けれど、触れたのは、乱れた髪を耳にかけてくれる慎重な指先だけ。
目を開けると、春津は眉を寄せ、その手を下ろして私の首に当てた。
「……僕は、そなたを傷つけてしまったのか……?」
その顔を見ていたら、喉が詰まって何も言えなくなった。
返事ができずにいる私に、彼は言葉を続けた。
「何もかも、真っ暗だった。来る日も来る日も物の怪が湧いて出て……目を開けても閉じても、変わらなかった」
春津の指先が笛をなぞる。
「そこに、この音が聞こえた。闇の中に、色が咲いたのだ。桜のような……温かな色が。それを追ってきたら……」
顔が上がり、目が合う。
「何年ぶりだろうな。世が、まともに見える」
そう言って、笑う。目元はまだ濡れている。片方の口の端を先に持ち上げる、その笑い方だけは昔のままだ。
私の手を包み込む。すっぽりと覆っても余るほど、大きく、幅の広い手。
「ありがとう。それから……本当にすまなかった。この償いは、必ずする」
まっすぐに私を見つめ、尋ねる。
「それで、そなたの名は……?」
いったんうつむき、唇をきつく噛みしめる。
顔を上げ、精いっぱい笑う。
「小夜……。ただ笛を吹くのが好きな、小夜と申します」
それを最後に、春津は衛士たちに両腕を取られ、どこかへ連れていかれた。
壊れた戸板と、火の消えた灯台の間に一人残されて、私は彼の消えた廊下の先を、いつまでも見つめていた。
翌日、丹波に「明日には内教坊へ帰す」と言い渡された。
陰陽寮がどこにあるのかも分からないまま、掛け布の端を握る。
暗がりで泣き叫び、床に頭を打ちつける春津の姿が、勝手に浮かぶ。
(……変なことを考えないの、小夜。まだ、何も見ていないんだから)
そう言い聞かせながら、目を閉じた瞬間。
「きゃああっ! 物の怪だ!」
外から悲鳴が聞こえた。
「何……?」
目を開けると、戸の向こうを幾人もの足音と松明の明かりが通り過ぎていく。
「ぎゃあああっ!」
また悲鳴が上がり、戸板に血が飛び散る。
びくりと肩が跳ねる。
身を縮め、枕元にあった稽古用の笛を握りしめる。辺りを見回しても、いつも薬を煎じる炉の前で居眠りしている丹波の姿がない。
めきっ、と木の裂ける音がしたかと思うと、戸が丸ごと吹き飛んだ。
「ひっ……!」
転がるように部屋の隅へ逃げ、灯台の火を吹き消して息を殺す。
誰かが入ってくる。
清澄よりはやや低く見えるものの、背の高い男だ。白い単をまとい、体のあちこちに血の染みた呪符を貼りつけている。手にした松明の炎が天井へ向かって揺れ、陰になった顔は見えない。
「犬丸……鶴丸……どこにいる……皆、どこへ……」
誰かの名を一人ずつ呼びながら、片足を引きずって進んでいく。床に赤い筋が延び、その背後で闇に呑まれる。
喉が勝手に動き、からからに乾いた口の中で唾を呑み込む。
男を追って、鉾を構えた衛士たちがなだれ込んでくる。
「貴様! ここをどこだと心得る!」
その前に、若い男が立ちはだかる。
白い狩衣に烏帽子を着けた、細身の男。片手には墨でびっしりと文字の書かれた呪符を握り、額には汗が光っている。
陰陽師だ。
「下がれ! お前たちの手に負える相手ではない!」
そんな騒ぎにも構わず、男は足を引きずって進んでいく。
灯台のそばを通り過ぎた拍子に、その上半身が明かりに浮かんだ。
首に下がった、小さな袋。藍の色がすっかり抜け、灰色になった麻の袋だった。
松明に照らされ、明るく見える茶色の髪。丸い目と、その下の頬を横切る長い傷痕。
息が止まる。
向かっているのは昨夜、私が忍び込んだ部屋――採薬童子たちのいる場所だ。
考えるより先に、足が床を蹴っていた。
「どこへ行く! 危ないぞ!」
陰陽師につかまれた腕を、体ごと振り回して振りほどいた。息を切らしながら、足を引きずる姿が消えた先へ走る。
部屋の前まで来た。
少年たちが、あちこちに力なく倒れていた。その真ん中に、彼は膝をついている。両手で、一人の少年の首を絞めながら。
片目に布を巻いた、あの少年だ。
「すまない、鶴丸……。少しの間だけ、気を失っていてくれ。眠れずに苦しみ続けるよりは、ましだろう。近いうちに、僕が必ず……ここから抜け出す道を見つけてくる」
「たい……しょう……」
鶴丸の手から、ふっと力が抜けた。男はぐったりした鶴丸を両腕で抱き上げ、部屋の隅に横たえる。
「春津……!」
思ったよりも高い声が出た。
彼は立ち上がると、こちらへ顔を向ける。
顎の線が鋭くなっていた。首も太く、肩幅も広くなっている。それでも、丸い両目と茶色の髪は、昔のままだ。
顔いっぱいに笑みが広がり、一歩踏み出す。
「春津!! 私だよ、さ――」
足が止まる。
春津の目がつり上がり、ぎり、と歯を軋ませる音がする。
「忌々しい妖め……。僕を仲間から引き離そうと……」
大股で迫ってくる姿に、後ずさる。
「春津、待っ――かはっ!」
首をつかまれる。墨を浴びたように、手首まで真っ黒に染まった右手。
つま先が床を離れ、頭に血が押し寄せる。手から滑り落ちた笛が、地面を転がる。
背後が騒がしくなる。
「あの子が死ぬぞ!」
「は、早く引き離せ!」
けれど、衛士たちは敷居を越えて一歩も入ってこられない。構えた鉾の穂先だけが、がたがたと震えていた。
陰陽師が彼らを押しのけ、前に出る。呪符を握った手を突き出し、早口に何かを唱える。
「急急如律令……!」
呪符の先が細かく震えたが、春津は振り向きもしない。
陰陽師が歯を食いしばる。
「くっ……帝より、必ず生かせと仰せつかっているというのに。これでは、うかつに手を出せぬ……!」
「はる……つ……」
視界が赤く染まり、意識が薄れていく。
春津の左手がうなじへ伸び、何かを引いた。首にかけていた紐だった。襟元から、小さな袋が引き出される。
藍色の、守り袋。
彼はそれを引きちぎると、ぼんやりと見下ろす。首を絞めていた手が緩み、私はその場に落ちてへたり込む。
「げほっ、ごほっ……」
霞んでいた目が、ようやく見えるようになってくる。震える手を伸ばし、落ちていた笛を拾い上げる。
「馬鹿……」
勝手に声が漏れる。
「何が、いつも守ってくれた、よ……。絶対、元気で帰ってくるって……どこが元気なのよ……」
涙がぼたぼたと落ちて、また前が見えなくなる。
震える息を整え、笛を唇に当てる。そのまま、息を吹き込む。
――桜人。
別れる前の日、彼が吹いてほしいと言った曲。舞い散る桜の中で笑う、私の英雄を思い浮かべて作った曲。
部屋に桜の旋律が咲く。一輪、また一輪と、枝の先まで花が開くように、私は吹き続けた。
いつしか、周りの声は聞こえなくなっていた。
そっと目を開ける。
春津が私の守り袋を片手に握りしめ、泣いていた。頬についた血が、澄んだ涙に洗われていく。
「今だ! 取り押さえろ!」
衛士の一人が鉾を手に飛び出しかけたが、陰陽師が腕を上げて制する。
「待て……。もうしばらく、待つのだ」
春津が足を運び、私の前に膝をつく。懐かしい土の匂いが、鼻先をかすめる。
彼の片手が持ち上がる。私は笛を握りしめ、固く目をつぶった。けれど、触れたのは、乱れた髪を耳にかけてくれる慎重な指先だけ。
目を開けると、春津は眉を寄せ、その手を下ろして私の首に当てた。
「……僕は、そなたを傷つけてしまったのか……?」
その顔を見ていたら、喉が詰まって何も言えなくなった。
返事ができずにいる私に、彼は言葉を続けた。
「何もかも、真っ暗だった。来る日も来る日も物の怪が湧いて出て……目を開けても閉じても、変わらなかった」
春津の指先が笛をなぞる。
「そこに、この音が聞こえた。闇の中に、色が咲いたのだ。桜のような……温かな色が。それを追ってきたら……」
顔が上がり、目が合う。
「何年ぶりだろうな。世が、まともに見える」
そう言って、笑う。目元はまだ濡れている。片方の口の端を先に持ち上げる、その笑い方だけは昔のままだ。
私の手を包み込む。すっぽりと覆っても余るほど、大きく、幅の広い手。
「ありがとう。それから……本当にすまなかった。この償いは、必ずする」
まっすぐに私を見つめ、尋ねる。
「それで、そなたの名は……?」
いったんうつむき、唇をきつく噛みしめる。
顔を上げ、精いっぱい笑う。
「小夜……。ただ笛を吹くのが好きな、小夜と申します」
それを最後に、春津は衛士たちに両腕を取られ、どこかへ連れていかれた。
壊れた戸板と、火の消えた灯台の間に一人残されて、私は彼の消えた廊下の先を、いつまでも見つめていた。

