春を忘れた君へ、笛を吹く

 鼻を刺す匂いに、目が覚めた。
 見知らぬ天井がある。梁(はり)には乾いた草の束がいくつも逆さに吊るされ、どこかから薬草をすり潰す音が聞こえていた。部屋には白い煙が立ちこめている。

「ここは……こほっ、こほっ!」

 口を開いた途端、煙が喉に入り込んだ。艾(もぐさ)を燃やしたような煙たさに、草の根の苦い匂いが混じっている。咳が止まらず、目尻に涙がにじむ。
 そのとき、倒れる直前に聞いた声が蘇る。

『すぐ典薬寮(てんやくりょう)へ運びます』

(ここに春津がいるかもしれない……!)

 掛け布を払い、体を起こす。一歩踏み出した途端に目の前が回り、足首から力が抜ける。横へ倒れかけた体を、誰かの腕が腰のあたりで支えた。

「おやおや。物音がしたので来てみれば、目が覚めたか」
「誰……?」

 顔を上げると、中年の男がいた。
 烏帽子(えぼし)の下から白いものの交じった髪がはみ出し、顎には手入れしていない髭が生えている。間近にある薄青い衣からも、薬草の苦い匂いがする。

「ははっ! あれほど熱が出ていたから、もう駄目かと思ったぞ。口を利けるなら何よりだ」

 男は私を抱え上げ、さっきまで寝ていた畳の上に戻す。

「私は丹波保友(たんばのやすとも)。ここ典薬寮で針師(はりし)を務めておる」

 名乗り終えた丹波に背を押され、うつ伏せになる。

「丹波様……あの――」
「先に熱を下げる。じっとしておれ」

 首の付け根に針が触れ、肩のこわばりが少しずつほどけていく。

「三日三晩、熱に浮かされておったのだぞ。動けると思っても、今は寝ておれ」

 立ち上がろうとする丹波の衣の裾を、どうにかつかんだ。

「一つだけ……伺ってもよろしいですか」
「何だ。手短に言いなさい」
「採薬童子(さいやくどうじ)が、典薬寮にいると聞きました。どこへ行けば会えるのでしょうか……」
「採薬童子だと??」

 丹波は自分の両腕を抱え、肩をすくめる。

「恐ろしいことを言わんでくれ。あの子らのために、何か月も夜通しここへ詰めていたんだぞ。何人かを引き取ってもらって、ようやく休めると思っていたところだ。ああ、思い出しただけで身震いする」
「引き取ってもらった……?」

 丹波は首をかしげる。

「お前、本当に知らぬのか。特に症状の重い子らは、先週、陰陽寮(おんみょうりょう)へ移された。典薬寮では、もう手の施しようがなくてな」
「陰陽寮……」
「内教坊にいるからといって、楽のことばかり知っていてどうする。採薬童子の話など、宮の鼠まで知っておるぞ。たまには外へ出て風にでも当たりなさい。部屋にこもっているから、こんなふうに倒れるのだ」

 そのとき、壁の向こうで何かがぶつかる音がした。

 どん。

 続けて、どん、どん。棚に並んだ薬壺が、かたかたと鳴る。
 丹波が両手で頭を抱え、顔をしかめる。

「噂をすれば、これだ……。お前はここで休んでおれ! また具合を悪くされては困る」

 音のするほうへ走っていく。
 私も起き上がろうとする。だが針を打たれたところから再び力が抜け、腕で体を支えられない。
 瞼が重くなる。

 どん、どん。

 壁の向こうの音を聞きながら、また眠りに落ちた。

***

 はっと目が覚めた。
 上体を起こして背に手を回す。針はいつの間にか抜かれていた。枕元には、底に黒い薬の跡がこびりついた空の椀がある。
 がらりと遣戸(やりど)が開いた。
 朝の日差しに目がくらみ、とっさに手で顔を覆う。煙のこもった部屋へ、冷たく澄んだ外の空気が流れ込んでくる。久しぶりに吸う新鮮な空気だ。
 指の隙間から、葵が見えた。口を開けたまま、目には涙がたまっている。

「小夜!」

 葵は駆け寄って私を抱きしめかけ、途中で止まる。代わりに私の手を両手で握る。

「やっとちゃんと目を覚ましたんだね! 私がどれだけ心配したか……。うう……朝の掃除を一人でするの、どれだけ大変だったと思う?」

 片手で目元を拭っている。

(掃除って、こいつ……)

 口元が勝手に上がる。けれど葵の涙を見ていると、怒る気もなくなる。つないだ手をそっとほどき、腕を曲げてみせる。

「ごめんごめん、心配かけたね。もう平気だから……こほっ、こほっ」

 話している途中で喉がむずがゆくなり、咳が出た。葵が肩に手を添え、私を横にする。

「ほら、無理しないで。丹波様が、治るまであと七日はかかるって」

 そう言って、懐から何かを取り出す。二枚の椿の葉に挟まれた、白い餅だ。

「ここにいると煎じ薬ばかりでしょう? これ、こっそり持ってきたの」

 椿餅(つばいもちい)。
 見ただけで腹が大きく鳴る。ひったくる勢いで受け取り、葉を外す。

「葵! ありがとう!」

 餅を口へ入れる。もちもちとした生地が歯にまとわりつき、淡い甘さが舌に広がる。苦い薬の味が残っていた口の中に、ようやく別の味が入ってきた。
 夢中で噛んでいると、葵がぽかんと私を見ていた。

「……何? 顔に何かついてる?」
「ううん。小夜って、本当によく食べるなぁ、と思って」

 餅を飲み込む。

「食べられるときに食べておかないと。ね?」
「ふふ、そうだね」

 葵は笑い、腰に差していた笛を一本差し出す。

「これは……」

 握った途端に分かった。私の稽古用の笛だ。

「別当殿が、あなたに届けて稽古させるようにって。何度か持ってきたんだけど、そのたびに小夜、うわ言を言ってて。やっと渡せたよ」

 髭を撫でる別当殿の顔が浮かび、眉間に力が入る。

「稽古ね……。まあ、暇だったから助かる。でも、うわ言って? 私、そんなに喋ってた?」
「うん。私の袖をつかんで、春津……春――んむっ!」

 葵の口を手で塞ぐ。頬が熱くなる。

「わ、分かった! 分かったから、もう言わないで」

 廊から、人が慌ただしく行き交う足音が聞こえる。葵が立ち上がる。

「そろそろ行かなきゃ。稽古に遅れたら、たっぷり叱られる。早く治して戻ってきてね、小夜。待ってるから!」

 私も手を振る。

「うん。またね、葵!」

 遣戸が閉まる。
 差し込んでいた日が消え、部屋は再び薄暗くなった。枕元の灯台(とうだい)だけが、煙の中でぼんやり揺れていた。

***

 はっきり意識が戻ってから、典薬寮で迎える三度目の夜。その間に、ここで働く人たちの動きを覚えた。
 最初の巡回の足音が通り過ぎると、医師(くすし)たちが一人ずつ帰っていく。二度目の足音が過ぎる頃には、灯が消される。そして月が屋根の端にかかると、夜番の丹波が薬を煎じる火の前で、こっくりと舟をこぎ始める。
 今が、その時刻だ。
 私は掛け布をよけ、体を起こした。両手と両膝を床につき、背を低くして進む。
 敷居を越えたところで、どこかから「ううん……」と寝返りを打つ声がした。その場で息を止める。再び静かになってから、廊へ出た。
 目指すのは、典薬寮の一番奥にある部屋。ときおり壁を叩く音や、男の子たちの叫び声が聞こえていた場所。
 戸の前で立ち止まり、胸元を握る。唾を飲み込み、ゆっくりと戸を滑らせる。
 思わず両手で口を覆う。
 敷居を越えると、足の裏に触れたのは板ではなく、冷たい土だった。灯を消す時刻はとっくに過ぎているのに、部屋には数十もの灯台がともっている。その一つ一つの足元に、水を張った盥(たらい)が置かれている。
 白い単を着た少年たちが、その光の下に散らばっていた。十人ほどで、皆、私と同じくらいの年に見える。
 一人は天井を見上げて横たわり、「あ、あ……」と口を動かしている。別の子はうつ伏せになって、額を床へ、どん、どんと打ちつけている。
 目を閉じ、首に掛けた守り袋(まもりぶくろ)を握る。息を吸ってから、少年たちの間を歩く。
 一人ずつ顔を確かめる。皆、黒い髪。こちらを見る子は、誰もいない。
 部屋の一番奥で、壁に向かって座る少年が目に入った。
 伸び放題の、濃い茶色の髪。
 心臓が大きく鳴る。
 背後に回ってしゃがみ、震える手をその肩に置く。

「春……津……? 私だよ。小夜……」

 少年は時間をかけて顔を向ける。
 振り向くにつれて、私の口元から笑みが消えていく。
 顔には、自分で掻きむしったらしい傷がいくつもあった。皮膚の剥けたところは赤くただれ、片目には布が巻かれている。残った目も、春津の丸い目とは違い、細く切れ上がっている。
 少年は私の顔を見て、繰り返す。

「はる……つ……? 隊長……?」
「ご、ごめんなさ――きゃっ!」

 言い終える前に、両手首をつかまれる。骨ばった腕なのに、いくら引いてもびくともしない。
 少年の口元から涎が垂れる。

「隊長……隊長! 隊長! どうして……どうして! あ、あああ!」
「ひっ!」

 身をよじり、足で少年を蹴る。後ろの灯台が倒れ、火が土の床であっけなく消える。
 途端に少年が叫ぶ。

「うわあああ! 暗い! 駄目だ、あいつらが来る!」

 少年は手足を振り回して部屋を駆ける。灯台が一つ、また一つと蹴り倒され、光が減っていく。
 暗くなるたび、あちこちから悲鳴が上がる。

「うわああああ!」
「いやあああっ!」

 手が震え、うまく息を吸えない。
 私は床を這った。膝が擦り剥けるのにも構わず、残った力を使って自分の寝床へ戻る。
 後ろから大勢の足音が近づく。丹波の声がする。

「何だこれは! なぜ急に灯が消えた! 誰か、早くあの子らを押さえろ!」
「はい!」

 私は騒ぎに背を向け、掛け布を頭までかぶった。
 守り袋を握りしめたまま、震えが止まるのを待った。