内教坊へ来てから、一月が過ぎた。
日が昇る前から舞殿の床を拭き、ようやく最後の柱まで辿り着く。預は、欄干の隅の埃まで見逃さない。
「ふう……完璧」
雑巾を持ち替えて汗を拭うと、向こうから葵が走ってきた。
「さよ!」
毎晩、私の隣で身を寄せ合って寝ている子だ。
「こっちは終わったよ。そっちは?」
「全部拭いた」
「本当?」
目の前まで駆けてきた葵は、肩で息をしている。
「ごめんね、小夜。いつも私が遅いから、ほとんど小夜にやってもらってる気がする……」
「いいって。できるほうがやればいいんだし」
空を見上げる。日はまだ築地塀の向こうから顔を出していなかった。東の空だけが白み、建物の屋根には朝霧が薄くかかっている。
私たちは舞殿の端に並んで腰を下ろし、庭を眺める。
「葵はここに来て、もう半年以上になるんだよね。家に帰りたいと思ったこと、ない?」
葵がうつむいた。膝の上で、指が衣の裾を強くつかむ。
「うん……帰りたい。妹たちにも会いたいし……」
語尾が揺れ、鼻をすする音がする。
「毎日、つらくて」
私は慌てて手を上げたものの、どこに触れればいいか分からず、宙で止めてしまった。
「なんか……ごめん。聞かないほうがよかったね」
葵は手の甲で目元を押さえ、立ち上がって笑う。
「ううん、大丈夫。庶民がこんな所で働ける機会なんて、滅多にないもの。もっと頑張って、稼がなきゃ」
そう言って、舞殿の中央へ歩いていく。
葵は別の村から来た、十四の娘だ。飢饉で母親を亡くし、父親と幼い妹二人を養うため、内教坊に入った。私より半年先輩で、ここで出会ったただ一人の庶民の仲間でもある。
私たちはすぐに親しくなった。
「小夜、今日も舞うから見てて!」
「うん、見る!」
夜明けの淡い光の中で、葵が両袖を上げる。
爪先が床をかすめて進む。首を傾ける角度も、指先を止める位置も、ひとつも乱れない。衣の擦れる音さえほとんど聞こえず、見えない糸で動く人形を見ている気分になった。それでも袖を下ろすたび、葵の頬には笑みが浮かぶ。
舞が終わると、私は手を叩いた。
「わあ……葵の舞って、何度見ても見入っちゃう」
葵は赤くなった頬を両手で押さえながら戻ってくる。
「えへへ。稽古ではいつも叱られてるよ。まだまだ」
隣に座ると、じっと私を見る。
「今度は小夜が笛を吹いて。聴きたいな」
「……また大輔様に叱られても知らないよ」
回廊に人影がないのを確かめ、稽古用の笛を取り出した。
舞殿の中央へ立つ。
聴いているのは葵一人。足元の床がいつもより広く感じる。
息を整え、笛を吹く。
曲を終えると、葵の目に涙がたまっていた。
「あ……葵?」
「ごめん。なんだか、胸に来ちゃって……」
近づいた私に、葵が尋ねる。
「これも、春津って子のことを思って吹いたの?」
私は頭をかいた。
「う……うん。そう」
葵は目を細めて笑う。
「いいなあ。小夜は春津のことが、本当に好きなんだね」
頬が熱くなる。
「す、好きって、そういうんじゃないよ! ただの幼なじみ! そう、家族みたいなもの!」
葵はまだ笑っていたが、やがて声を落とす。
「ごめんね、小夜。春津のこと、何も分からなくて」
「いいって。こうして話を聞いてくれるだけで助かってる。それに、私たちも内教坊の人間だから、ひどく具合が悪くなれば典薬寮へ行けるんだよね?」
「うん。私も来たばかりの頃、熱を出して診てもらったよ」
私はそのまま床に仰向けになる。
「あーあ。こんなに小さな体なのに、妙に丈夫なんだよね。ちっとも病気にならない」
葵から典薬寮の話を聞いて以来、いろいろ試した。夜中に単一枚で井戸へ行き、冷たい水をかぶったこともある。掛けるものもなしに床で寝てみたこともあった。それでも翌朝には体が多少こわばるだけで、熱ひとつ出なかった。
横を向き、舞殿の柱の間から外を眺める。
築地塀の向こうを、弓を背負った衛士たちが歩いていた。毎晩こっそり抜け出して様子を見ているのに、あの者たちが持ち場を離れたことは一度もない。
「小夜? どうしたの、ぼんやりして」
「ごめんごめん」
起き上がり、尻についた埃を払う。
「そろそろ戻ろう。遅れちゃう」
「うん!」
私たちはまた、長い一日へ戻っていった。
***
午後の舞殿には、内教坊の女たちが集まっていた。私のように入って間もない生から、年を重ねた妓女の先輩たちまでいる。
正面には内教坊を取り仕切る預が座り、その隣には、あの忌々しい別当殿がいた。
預が口を開く。
「まもなく豊明節会です。本日は別当殿が、皆の稽古の成果を見にいらっしゃいました。力を尽くすように。今日の出来は、節会に出る者を選ぶ際にも考慮します」
豊明節会。帝が新穀を神に捧げたのち、臣下を招いて開く大きな宴。そこで舞や楽を披露する者は、帝の前に立つことになる。
預の話が終わると、妓女たちは声も立てずに動いた。たちまち舞殿の端に整った列ができる。
妓女たちの演奏と舞が始まる。
舞、箏、琵琶、笙。誰もが上手い。拍子は揃い、衣の裾まで狙ったところへ収まっている。
なのに別当殿は、髭を撫でながら座っているばかりだ。
「次」
預に呼ばれ、一人の女が前へ出る。周囲の話し声が消える。
背が高く、雪のように肌が白い。背中へ流した長い髪が、歩みに合わせて揺れている。
隣から囁き声が聞こえる。
「白妙様よ……」
次の御笛師になると言われている人だ。その白妙が、龍笛を唇に当てる。
最初の一音で分かった。息が揺れない。音と音の間に残るかすかな震えまで、自分の思うとおりに操っている。どこを聴いても、乱れがない。
……上手い。
認めるしかない。
吹き終えると、預は満足そうに笑った。だが別当殿は、まだ首をかしげている。
いつしか日が傾いていた。
「別当殿、本日の披露は、これで終わりかと存じます」
「ん? 生たちの笛や舞は、まだ見ておらぬぞ」
「生たちは稽古を始めたばかりです。豊明節会に出るには、まだ早うございます」
別当殿が片手を上げる。
「それでも見よう。いずれ内教坊を担う娘たちだ」
「……承知いたしました」
預に目を向けられた生たちは顔を見合わせ、先に入った者から一人ずつ進み出る。
拍子を外す子もいれば、舞の途中で足を滑らせる子もいた。預はそのたびに首を振る。葵が舞ったときだけ、口元に笑みが浮かんだ。
最後に、私の番が来た。
前へ進んで頭を下げ、笛を構える。別当殿をひと睨みしてから、胸にたまっていたものを息と一緒に吹き込む。
村娘、村娘って、うるさい爺さん。春津をあんな目に遭わせておいて、何が誉れだ。春津にもしものことがあったら、その目を抉って――
「もうよい!」
預の声に、笛を止める。顔を上げると、周囲がざわついている。
「一体、何の曲ですか。ずいぶん勢いがあること。市の見世物なら拍手ももらえたでしょうが、ここがどこか分かって――」
「怒りだ」
別当殿が預の言葉を遮る。指で膝をとん、とんと叩いている。
「それに、虚しさ。聴いているこちらまで腹が煮え、頭を抱えたくなる曲だ」
その目が私に向く。
「妙な娘だな。笛ひとつで、人の腹の内までかき乱しおる」
別当殿は髭を撫で、大きな声で笑う。
「ははは! 今日ここまで来た甲斐はあった。帰るぞ」
預が後を追う。二人が去ったあとに残ったのは、私へ向けられた冷たい視線ばかりだった。
***
ばしゃっ!
冷たい水を頭からかけられた。何人もの妓女が、私を取り囲んでいる。
「卑しい村娘が。あれがどんな場かも分からず、あんな奇妙な曲を吹くとは!」
「私は、ただ――」
ぱん、と音がした。頬が熱くなり、気づけば顔が横を向いていた。
「口答えするのか!」
背後から誰かが近づいてきた。白妙だ。
彼女は私の前に立ち、水に濡れて頬へ張りついた髪を払ってくれる。
「皆、もう戻りなさい。来てまだ一月の子を、寄ってたかって責めるのですか」
妓女たちは舌打ちをしたものの、それ以上は何も言わずに建物へ戻っていった。
白妙は私をしばらく見つめ、布を一枚差し出す。
「ありがとうございます……」
「私からも詫びましょう。あなたも分かったでしょうが、内教坊は楽な所ではありません。皆、稽古で気が立っているのです。許してやってください」
歩き出しかけた白妙が、足を止める。
「それから、あなたの笛はよかった。いつか一緒に吹けば、私にも学べることがありそうです。諦めずに……腕を上げてきなさい」
その背に向かって頭を下げる。
「わ、私も! 白妙様の演奏に感動しました! いつか同じ場所に立てるよう、頑張ります!」
頭を下げたまま目だけ上げ、白妙が角の向こうへ消えるのを確かめてから、ようやく腰を伸ばした。
「何だ……話の通じる人もいるじゃない」
笑いが漏れる。もらった布で髪を拭きながら、部屋へ戻る。
ところが、私の場所がなくなっていた。
部屋の隅で、葵が困った顔をしている。ほかの子たちは私を見ようともしない。間へ入ろうとすると、肩を寄せ合って、私を入口のほうへ押し戻す。
「ちょっと、どいてよ!」
声を上げると、いつも私と葵に嫌味を言う茶髪の撫子が、伸びをしながら言う。
「あら。どこかで犬が吠えているのかしら。変ね、ここは人が寝る部屋なのに」
私は歯を食いしばり、そのまま部屋を出た。庭の砂利の上に座り込む。
「子供っぽいんだから。見てなさいよ、あんたたち……腕は大したことないくせに、意地悪だけは一人前で。……って、くそ、さむっ!」
ぶるっと身を震わせる。目を閉じ、また開くと、夜空に月が見える。
背中に何かが掛けられる。振り返ると、葵が筵を広げていた。
「葵……! 何してるの。外、寒いよ」
「小夜が心配で来たの。もう夏じゃないんだから、こんなところにいたら本当に熱を出すよ」
隣に座り、私の髪に触れる。
「どうして髪が濡れてるの? 大丈夫? 何かされた?」
私は髪を両手で払う。
「ああ、これくらい平気。気にしないで」
葵が肩を寄せてくる。触れ合ったところから、少しずつ体が温まる。
月を見上げたまま、私は口を開いた。
「そういえば……あのときも、こうだったな」
「何が?」
「ん? 昔のこと」
「聞きたい」
「大した話じゃないよ」
「それでも」
私は笑って、話し始める。
「前にも言ったけど、父さんは私が小さい頃に役へ連れていかれて、それきり帰ってこなかったの。母さんは毎晩、声を上げて泣いてた」
足元へ目を落とし、小石を爪先で蹴る。
「それで村の子たちは、私を『物の怪に憑かれた家の子』って呼んだ。どこへ行っても石を投げられて、一緒に遊ぼうとすれば枝で追い払われた。……あの日も、こんな夜だった。月の下で一人で泣いてたら――」
目の奥が熱くなる。
「知らない男の子が来て、『ここで何してるんだ』って聞いたの。だから言った。『放っておいて。私は物の怪の子だから、近寄らないほうがいい』って。そしたら、何て返したと思う?」
「何て?」
「『へえ、そうなんだ! 僕は木の枝を持ったみんなの英雄、春津だ!』」
葵が吹き出す。
「何それ。急に英雄?」
「でしょ?」
私もつられて笑う。
そうして二人で外に座り、あれこれ話しているうちに、夜は更けていった。
***
「小夜! 小夜!」
誰かが私を呼び、肩を揺すっている。
目を開けると、目の前がぐるぐる回る。何人もの顔が、私を囲んでいる。
別の声が聞こえる。よく通る、年配の女の声だ。
大輔様……?
「誰か、担架を持っておいで! すぐ典薬寮へ運びます」
片手を砂利につき、顔を上げる。
「担架って……何の……」
言い終わらないうちに、腕から力が抜ける。後頭部が砂利に落ちる。
体が焼けるほど熱い。上からいくつも石を載せられたように重く、息も続かない。
目の前が、また暗くなった。
日が昇る前から舞殿の床を拭き、ようやく最後の柱まで辿り着く。預は、欄干の隅の埃まで見逃さない。
「ふう……完璧」
雑巾を持ち替えて汗を拭うと、向こうから葵が走ってきた。
「さよ!」
毎晩、私の隣で身を寄せ合って寝ている子だ。
「こっちは終わったよ。そっちは?」
「全部拭いた」
「本当?」
目の前まで駆けてきた葵は、肩で息をしている。
「ごめんね、小夜。いつも私が遅いから、ほとんど小夜にやってもらってる気がする……」
「いいって。できるほうがやればいいんだし」
空を見上げる。日はまだ築地塀の向こうから顔を出していなかった。東の空だけが白み、建物の屋根には朝霧が薄くかかっている。
私たちは舞殿の端に並んで腰を下ろし、庭を眺める。
「葵はここに来て、もう半年以上になるんだよね。家に帰りたいと思ったこと、ない?」
葵がうつむいた。膝の上で、指が衣の裾を強くつかむ。
「うん……帰りたい。妹たちにも会いたいし……」
語尾が揺れ、鼻をすする音がする。
「毎日、つらくて」
私は慌てて手を上げたものの、どこに触れればいいか分からず、宙で止めてしまった。
「なんか……ごめん。聞かないほうがよかったね」
葵は手の甲で目元を押さえ、立ち上がって笑う。
「ううん、大丈夫。庶民がこんな所で働ける機会なんて、滅多にないもの。もっと頑張って、稼がなきゃ」
そう言って、舞殿の中央へ歩いていく。
葵は別の村から来た、十四の娘だ。飢饉で母親を亡くし、父親と幼い妹二人を養うため、内教坊に入った。私より半年先輩で、ここで出会ったただ一人の庶民の仲間でもある。
私たちはすぐに親しくなった。
「小夜、今日も舞うから見てて!」
「うん、見る!」
夜明けの淡い光の中で、葵が両袖を上げる。
爪先が床をかすめて進む。首を傾ける角度も、指先を止める位置も、ひとつも乱れない。衣の擦れる音さえほとんど聞こえず、見えない糸で動く人形を見ている気分になった。それでも袖を下ろすたび、葵の頬には笑みが浮かぶ。
舞が終わると、私は手を叩いた。
「わあ……葵の舞って、何度見ても見入っちゃう」
葵は赤くなった頬を両手で押さえながら戻ってくる。
「えへへ。稽古ではいつも叱られてるよ。まだまだ」
隣に座ると、じっと私を見る。
「今度は小夜が笛を吹いて。聴きたいな」
「……また大輔様に叱られても知らないよ」
回廊に人影がないのを確かめ、稽古用の笛を取り出した。
舞殿の中央へ立つ。
聴いているのは葵一人。足元の床がいつもより広く感じる。
息を整え、笛を吹く。
曲を終えると、葵の目に涙がたまっていた。
「あ……葵?」
「ごめん。なんだか、胸に来ちゃって……」
近づいた私に、葵が尋ねる。
「これも、春津って子のことを思って吹いたの?」
私は頭をかいた。
「う……うん。そう」
葵は目を細めて笑う。
「いいなあ。小夜は春津のことが、本当に好きなんだね」
頬が熱くなる。
「す、好きって、そういうんじゃないよ! ただの幼なじみ! そう、家族みたいなもの!」
葵はまだ笑っていたが、やがて声を落とす。
「ごめんね、小夜。春津のこと、何も分からなくて」
「いいって。こうして話を聞いてくれるだけで助かってる。それに、私たちも内教坊の人間だから、ひどく具合が悪くなれば典薬寮へ行けるんだよね?」
「うん。私も来たばかりの頃、熱を出して診てもらったよ」
私はそのまま床に仰向けになる。
「あーあ。こんなに小さな体なのに、妙に丈夫なんだよね。ちっとも病気にならない」
葵から典薬寮の話を聞いて以来、いろいろ試した。夜中に単一枚で井戸へ行き、冷たい水をかぶったこともある。掛けるものもなしに床で寝てみたこともあった。それでも翌朝には体が多少こわばるだけで、熱ひとつ出なかった。
横を向き、舞殿の柱の間から外を眺める。
築地塀の向こうを、弓を背負った衛士たちが歩いていた。毎晩こっそり抜け出して様子を見ているのに、あの者たちが持ち場を離れたことは一度もない。
「小夜? どうしたの、ぼんやりして」
「ごめんごめん」
起き上がり、尻についた埃を払う。
「そろそろ戻ろう。遅れちゃう」
「うん!」
私たちはまた、長い一日へ戻っていった。
***
午後の舞殿には、内教坊の女たちが集まっていた。私のように入って間もない生から、年を重ねた妓女の先輩たちまでいる。
正面には内教坊を取り仕切る預が座り、その隣には、あの忌々しい別当殿がいた。
預が口を開く。
「まもなく豊明節会です。本日は別当殿が、皆の稽古の成果を見にいらっしゃいました。力を尽くすように。今日の出来は、節会に出る者を選ぶ際にも考慮します」
豊明節会。帝が新穀を神に捧げたのち、臣下を招いて開く大きな宴。そこで舞や楽を披露する者は、帝の前に立つことになる。
預の話が終わると、妓女たちは声も立てずに動いた。たちまち舞殿の端に整った列ができる。
妓女たちの演奏と舞が始まる。
舞、箏、琵琶、笙。誰もが上手い。拍子は揃い、衣の裾まで狙ったところへ収まっている。
なのに別当殿は、髭を撫でながら座っているばかりだ。
「次」
預に呼ばれ、一人の女が前へ出る。周囲の話し声が消える。
背が高く、雪のように肌が白い。背中へ流した長い髪が、歩みに合わせて揺れている。
隣から囁き声が聞こえる。
「白妙様よ……」
次の御笛師になると言われている人だ。その白妙が、龍笛を唇に当てる。
最初の一音で分かった。息が揺れない。音と音の間に残るかすかな震えまで、自分の思うとおりに操っている。どこを聴いても、乱れがない。
……上手い。
認めるしかない。
吹き終えると、預は満足そうに笑った。だが別当殿は、まだ首をかしげている。
いつしか日が傾いていた。
「別当殿、本日の披露は、これで終わりかと存じます」
「ん? 生たちの笛や舞は、まだ見ておらぬぞ」
「生たちは稽古を始めたばかりです。豊明節会に出るには、まだ早うございます」
別当殿が片手を上げる。
「それでも見よう。いずれ内教坊を担う娘たちだ」
「……承知いたしました」
預に目を向けられた生たちは顔を見合わせ、先に入った者から一人ずつ進み出る。
拍子を外す子もいれば、舞の途中で足を滑らせる子もいた。預はそのたびに首を振る。葵が舞ったときだけ、口元に笑みが浮かんだ。
最後に、私の番が来た。
前へ進んで頭を下げ、笛を構える。別当殿をひと睨みしてから、胸にたまっていたものを息と一緒に吹き込む。
村娘、村娘って、うるさい爺さん。春津をあんな目に遭わせておいて、何が誉れだ。春津にもしものことがあったら、その目を抉って――
「もうよい!」
預の声に、笛を止める。顔を上げると、周囲がざわついている。
「一体、何の曲ですか。ずいぶん勢いがあること。市の見世物なら拍手ももらえたでしょうが、ここがどこか分かって――」
「怒りだ」
別当殿が預の言葉を遮る。指で膝をとん、とんと叩いている。
「それに、虚しさ。聴いているこちらまで腹が煮え、頭を抱えたくなる曲だ」
その目が私に向く。
「妙な娘だな。笛ひとつで、人の腹の内までかき乱しおる」
別当殿は髭を撫で、大きな声で笑う。
「ははは! 今日ここまで来た甲斐はあった。帰るぞ」
預が後を追う。二人が去ったあとに残ったのは、私へ向けられた冷たい視線ばかりだった。
***
ばしゃっ!
冷たい水を頭からかけられた。何人もの妓女が、私を取り囲んでいる。
「卑しい村娘が。あれがどんな場かも分からず、あんな奇妙な曲を吹くとは!」
「私は、ただ――」
ぱん、と音がした。頬が熱くなり、気づけば顔が横を向いていた。
「口答えするのか!」
背後から誰かが近づいてきた。白妙だ。
彼女は私の前に立ち、水に濡れて頬へ張りついた髪を払ってくれる。
「皆、もう戻りなさい。来てまだ一月の子を、寄ってたかって責めるのですか」
妓女たちは舌打ちをしたものの、それ以上は何も言わずに建物へ戻っていった。
白妙は私をしばらく見つめ、布を一枚差し出す。
「ありがとうございます……」
「私からも詫びましょう。あなたも分かったでしょうが、内教坊は楽な所ではありません。皆、稽古で気が立っているのです。許してやってください」
歩き出しかけた白妙が、足を止める。
「それから、あなたの笛はよかった。いつか一緒に吹けば、私にも学べることがありそうです。諦めずに……腕を上げてきなさい」
その背に向かって頭を下げる。
「わ、私も! 白妙様の演奏に感動しました! いつか同じ場所に立てるよう、頑張ります!」
頭を下げたまま目だけ上げ、白妙が角の向こうへ消えるのを確かめてから、ようやく腰を伸ばした。
「何だ……話の通じる人もいるじゃない」
笑いが漏れる。もらった布で髪を拭きながら、部屋へ戻る。
ところが、私の場所がなくなっていた。
部屋の隅で、葵が困った顔をしている。ほかの子たちは私を見ようともしない。間へ入ろうとすると、肩を寄せ合って、私を入口のほうへ押し戻す。
「ちょっと、どいてよ!」
声を上げると、いつも私と葵に嫌味を言う茶髪の撫子が、伸びをしながら言う。
「あら。どこかで犬が吠えているのかしら。変ね、ここは人が寝る部屋なのに」
私は歯を食いしばり、そのまま部屋を出た。庭の砂利の上に座り込む。
「子供っぽいんだから。見てなさいよ、あんたたち……腕は大したことないくせに、意地悪だけは一人前で。……って、くそ、さむっ!」
ぶるっと身を震わせる。目を閉じ、また開くと、夜空に月が見える。
背中に何かが掛けられる。振り返ると、葵が筵を広げていた。
「葵……! 何してるの。外、寒いよ」
「小夜が心配で来たの。もう夏じゃないんだから、こんなところにいたら本当に熱を出すよ」
隣に座り、私の髪に触れる。
「どうして髪が濡れてるの? 大丈夫? 何かされた?」
私は髪を両手で払う。
「ああ、これくらい平気。気にしないで」
葵が肩を寄せてくる。触れ合ったところから、少しずつ体が温まる。
月を見上げたまま、私は口を開いた。
「そういえば……あのときも、こうだったな」
「何が?」
「ん? 昔のこと」
「聞きたい」
「大した話じゃないよ」
「それでも」
私は笑って、話し始める。
「前にも言ったけど、父さんは私が小さい頃に役へ連れていかれて、それきり帰ってこなかったの。母さんは毎晩、声を上げて泣いてた」
足元へ目を落とし、小石を爪先で蹴る。
「それで村の子たちは、私を『物の怪に憑かれた家の子』って呼んだ。どこへ行っても石を投げられて、一緒に遊ぼうとすれば枝で追い払われた。……あの日も、こんな夜だった。月の下で一人で泣いてたら――」
目の奥が熱くなる。
「知らない男の子が来て、『ここで何してるんだ』って聞いたの。だから言った。『放っておいて。私は物の怪の子だから、近寄らないほうがいい』って。そしたら、何て返したと思う?」
「何て?」
「『へえ、そうなんだ! 僕は木の枝を持ったみんなの英雄、春津だ!』」
葵が吹き出す。
「何それ。急に英雄?」
「でしょ?」
私もつられて笑う。
そうして二人で外に座り、あれこれ話しているうちに、夜は更けていった。
***
「小夜! 小夜!」
誰かが私を呼び、肩を揺すっている。
目を開けると、目の前がぐるぐる回る。何人もの顔が、私を囲んでいる。
別の声が聞こえる。よく通る、年配の女の声だ。
大輔様……?
「誰か、担架を持っておいで! すぐ典薬寮へ運びます」
片手を砂利につき、顔を上げる。
「担架って……何の……」
言い終わらないうちに、腕から力が抜ける。後頭部が砂利に落ちる。
体が焼けるほど熱い。上からいくつも石を載せられたように重く、息も続かない。
目の前が、また暗くなった。

