牛車に揺られるうちに、簾の隙間から見える景色は、田畑から家並みへと変わっていった。
やがて車が止まり、私は包みを抱えて降りた。女の後について門をくぐり、長い回廊を歩いた。
案内されたのは、内教坊の建物の端にある小さな部屋だった。使い古した筵が敷かれ、壁際には唐櫃が並んでいる。
「ここで待っていなさい。女嬬に衣と唐櫃を持ってこさせます」
大輔という年配の女が言った。内教坊で舞を教えている人だという。
「ありがとうございます」
包みを抱えたまま頭を下げる。中では、母が詰めてくれた干飯がかさりと鳴った。
都へ行くと告げたとき、母はしばらく何も言わなかった。それから赤くなった目を伏せ、櫃の底から新しい麻の衣を出して、黙って着せてくれたのだ。
「いつまで頭を下げているのです。あなたも今日から内教坊の一人ですよ」
顔を上げると、大輔はもう部屋を出ていくところだった。
足音が遠ざかる。
入口の壁代に手を当て、目を閉じる。
春津……。
この宮の、どこかにいるのだろうか。
女嬬が来るまで、私は壁代に手を当てたまま立っていた。
***
私よりも背の低い女嬬が衣を運んできた。母が着せてくれた麻の衣を脱いで着替え、わずかな荷を唐櫃にしまう。
それからは、息をつく間もなかった。
大輔に連れられて舞殿へ行き、預と呼ばれる若い女に挨拶をした。
部屋へ戻る頃には、もう日が暮れていた。
支給された単を着て、自分の場所に薄い筵を敷く。部屋には二十人近い娘がいて、私と同じ年頃の子も、それより幼い子もいた。
帰るなり横になって眠っている子がいる一方、何人かずつ集まって話す声や笑い声も聞こえる。
庶民の出だと告げてから、誰もこちらを見ようとしなくなった。話しかけても返事はなく、目が合えばすぐに顔をそむけられる。
……別に、仲良くしてほしいわけじゃないし。
胸の中で言い返し、筵に座る。
隣では、一人の娘が膝を揃えて座っていた。背に流した髪が灯火を受けて艶めき、伏せた睫毛は長い。白い襟から、細い首筋がのぞいている。
その子の前に、丸い目をした娘がしゃがみ込んだ。茶色い髪をきれいに結い上げている。
「ねえ、葵。ただでさえ狭いのに、新しい子が来て、もっと狭くなっちゃった。私、どこで寝ようかしら」
葵は顔を伏せる。
「……ごめんなさい」
自分の筵を持ち上げ、私のほうへ寄せる。もともと横になるのがやっとだった隙間がなくなり、二枚の筵がぴったりとくっついた。
「ちょっと、これは――」
立ち上がりかけると、葵が私の袖を引いた。見下ろした私に、黙って首を振る。
場所を譲らせた娘は、こちらを見て手を振る。
「あら、新入り。どうしたの? 何か困ったことでも?」
拳を握る。もう一度葵の顔を見てから、私は何も言わずに座り直す。
「……嫌な奴」
聞こえないように呟き、筵の上で足の指を動かしていると、女嬬が入ってきた。
「灯を消します。唐櫃を片づけて、お休みなさい」
女嬬たちが灯台の火を一つずつ消していく。部屋はたちまち暗くなり、私のすぐ脇にある灯台だけが残った。台の脚が床を取っているせいで、寝られる幅はさらに狭い。
腹の上で手を組み、体をまっすぐにして横になった。壁の隙間から晩夏の夜風が入り、足先が冷える。
それでも、いつの間にか瞼が重くなっていた。
***
脚に何かが触れた。
「ん……」
寝返りを打とうにも、身じろぎする余地がない。目を閉じ直すと、また脚をとん、とんと叩かれる。
上体を起こす。足元で女嬬が身をかがめ、私の脚に手を伸ばしていた。
「……え?」
「小夜様。お起きください。別当殿がお呼びです」
「別当殿が……?」
村で私を選んだ老人の顔が浮かぶ。眠っている娘たちを起こさないよう立ち上がり、単の上に衣を羽織って、女嬬のあとを追う。
連れていかれたのは、内教坊の前庭。
白い砂利が月明かりを受け、淡く浮かんで見える。遣水の流れる音に、草むらから聞こえる虫の声が重なっている。
女嬬は私を残し、暗がりへ下がっていった。
庭の端に、木々の切れ間から月の光が落ちる場所がある。その下の大きな石の前に、別当殿が立っていた。唇には龍笛を当てている。
低い音が庭を渡る。高く伸びたかと思うと細く揺れ、また遣水の音の中へ沈んでいく。
私は頭を下げて近づき、演奏が終わるまで待った。
最後の音が消える。
「来たか。眠っていたところを起こしたかな」
「いいえ、別当殿。初めての夜ですので、まだ眠れずにおりました」
「はは、そうだろうな。お前のような村娘には、夢にも思わなかった場所だ。落ち着かぬのも無理はない。さあ、顔を上げなさい」
口が尖りかけたのをこらえて、顔を上げる。
別当殿は、今吹いていた龍笛とは別の笛を差し出した。両手で受け取る。
「これは……?」
「吹いてみなさい」
古い笛だ。年月を重ねて黒ずんだ竹に、目立つ飾りはない。けれど指でなぞると、どこにも引っかかるところがなく、握れば自然と手の中に収まる。
唇に当て、目を閉じる。
宮のどこかで、十五になった春津と会える。会えなかった三年の話を聞いて、私の話もして、月の下でまた手をつなぐ。
そんなことを考えながら、笛に息を吹き込む。
吹き終えて目を開けると、別当殿が私を見つめていた。顎の髭を撫でかけた手も止まっている。
差し出された手に、笛を返す。
「どうだ。この笛は」
「とてもいい笛です。古いのに、内側まで滑らかで……長い間、大切に使われてきたんですね。それに、息を入れると、すぐ音になりました。笛が私の息についてきてくれる感じがします」
別当殿は声を上げて笑う。
「ははは! 面白いことを言うな、お前は。この笛は、宮で最も優れた笛吹き――御笛師が代々受け継いできたものだ。だが、ここ数十年、満足に鳴らせる者がいなかった」
彼は笛を持ち上げ、月にかざす。
「昔、神域の竹を伐って作ったという。吹く者の心が、そのまま音に出る笛だ。今の者は余計なことばかり考えておるから、うまく鳴らせぬ。私もそうだった」
こちらへ目を向ける。
「お前なら、この笛を帝の御前で吹けるかもしれぬ。御笛師となって帝に聴いていただければ、またお元気になられるやもしれん」
私は彼の顔色をうかがいながら口を開く。
「あの……一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「申してみよ」
「帝は……お体が悪いのですか?」
返事がない。顔を上げると、別当殿はじっと私を見下ろしていた。
「も、申し訳ございません。余計なことを……」
「いや。お前も宮に入ったのだ。知っておいてよかろう」
別当殿はひと呼吸置く。
「採薬童子というものを、聞いたことはあるか?」
顔が上がる。声まで大きくなった。
「はい! 私の幼なじみが、採薬童子として宮へ連れてこられたんです!」
「……そうか」
別当殿は私を見たまま尋ねる。
「では、童子たちが何をしたかは知っているか?」
「薬草を探す仕事だと聞いています」
「半分は当たりだ」
彼が顔を北へ向ける。宮の向こうには、夜空よりも黒い山並みが横たわっている。
「帝は重い病に伏せられた。陰陽師も高僧の加持祈祷も、憑いた物の怪を退けられなかったのだ」
「それで、薬草を……?」
「そうだ」
別当殿は山を指す。
「黒峰。古い妖どもが棲む、あの山の奥に常世草が生えるという。採りに行かせるため、各地から十五に満たぬ男児を集めた」
「どうして、子供だけなんですか」
「黒峰の奥は神の領域だ。大人は入ることさえできぬ。どれほど歩いても、元の場所へ戻される」
背に冷たい汗が滲む。
「でも、帝はもうお治りになったんですよね? 誰かが薬草を見つけたんでしょう? それなら、どうして童子たちは帰ってこないんですか。それに、帝がお元気にならないのは――」
別当殿の目が細くなる。喉まで上がった言葉を飲み込む。
「その幼なじみが気にかかるか。……お前の言うとおり、常世草を持ち帰った童子が一人いた。だが」
手にした笛が下がる。遣水の音だけが、しばらく続く。
「その代わり、採薬童子は皆、命を落とした」
「え……?」
衣の裾を握りしめる。
皆。春津も、その中に入るのだろうか。問い返したいのに、喉から声が出ない。
「正しくは、死んだか、心を損なったかだ。神の地から草を持ち出した代償だろう。生きて戻った子らも、闇を怖がり、虫一匹に声を上げる。言葉を失った者もおれば、己の頭を地に打ちつけて死んだ者もいた」
別当殿が舌を鳴らす。
「帝が沈んでおられるのは、そのためだ。病は癒えたが、ご自分のために大勢の子を死なせたと悔いておいででな。帝のお役に立てたのだから、村の子らには誉れであろうに。お優しい方だ」
顎を伝った汗が、地面に落ちる。
「あの……もし春―― 」
言い終える前に、別当殿は私を見もせず、話を続けた。
「草を持ち帰った子は、何という名だったか。春……春津。そう、春津だ。帝が直々に従五位下を授け、典薬寮の医師たちに治療を命じられた。村の子には破格の計らいだ」
私は別当殿へ駆け寄り、その袖をつかんだ。
「春津はどこにいるんですか! 典薬寮へ行けば会えますか? 春津は――きゃっ!」
腕を払われ、砂利の上に尻もちをつく。痛む腰を押さえて見上げると、別当殿は眉を寄せ、私が触れた袖を払っていた。
「身の程を知れ。才を見込んで宮へ連れてきてやったからといって、無礼が許されると思うな」
別当殿は背を向け、来た道を歩き出す。
「その春津がお前の幼なじみであろうと、今のお前は内教坊の女だ。帝に仕える身なのだぞ。用もなく内教坊の外へ出ることは許されぬ」
肩越しに振り返る。後ろ手に持った笛を、指先で揺らした。
「せいぜい腕を磨け。御笛師となり、帝に笑っていただけたなら、その子に会うことも叶うかもしれん。ちっ、年を取ると話が長くなる」
別当殿はそのまま行ってしまった。
遠ざかる背中に手を伸ばす。呼び止めようとして、口を閉じる。行き場を失った手を引き戻し、拳を握る。爪が手のひらに食い込む。
「春津のこと、あんなふうに……」
声が震える。
「なってやるよ。御笛師でも何でも。……この、くそじじい」
やがて車が止まり、私は包みを抱えて降りた。女の後について門をくぐり、長い回廊を歩いた。
案内されたのは、内教坊の建物の端にある小さな部屋だった。使い古した筵が敷かれ、壁際には唐櫃が並んでいる。
「ここで待っていなさい。女嬬に衣と唐櫃を持ってこさせます」
大輔という年配の女が言った。内教坊で舞を教えている人だという。
「ありがとうございます」
包みを抱えたまま頭を下げる。中では、母が詰めてくれた干飯がかさりと鳴った。
都へ行くと告げたとき、母はしばらく何も言わなかった。それから赤くなった目を伏せ、櫃の底から新しい麻の衣を出して、黙って着せてくれたのだ。
「いつまで頭を下げているのです。あなたも今日から内教坊の一人ですよ」
顔を上げると、大輔はもう部屋を出ていくところだった。
足音が遠ざかる。
入口の壁代に手を当て、目を閉じる。
春津……。
この宮の、どこかにいるのだろうか。
女嬬が来るまで、私は壁代に手を当てたまま立っていた。
***
私よりも背の低い女嬬が衣を運んできた。母が着せてくれた麻の衣を脱いで着替え、わずかな荷を唐櫃にしまう。
それからは、息をつく間もなかった。
大輔に連れられて舞殿へ行き、預と呼ばれる若い女に挨拶をした。
部屋へ戻る頃には、もう日が暮れていた。
支給された単を着て、自分の場所に薄い筵を敷く。部屋には二十人近い娘がいて、私と同じ年頃の子も、それより幼い子もいた。
帰るなり横になって眠っている子がいる一方、何人かずつ集まって話す声や笑い声も聞こえる。
庶民の出だと告げてから、誰もこちらを見ようとしなくなった。話しかけても返事はなく、目が合えばすぐに顔をそむけられる。
……別に、仲良くしてほしいわけじゃないし。
胸の中で言い返し、筵に座る。
隣では、一人の娘が膝を揃えて座っていた。背に流した髪が灯火を受けて艶めき、伏せた睫毛は長い。白い襟から、細い首筋がのぞいている。
その子の前に、丸い目をした娘がしゃがみ込んだ。茶色い髪をきれいに結い上げている。
「ねえ、葵。ただでさえ狭いのに、新しい子が来て、もっと狭くなっちゃった。私、どこで寝ようかしら」
葵は顔を伏せる。
「……ごめんなさい」
自分の筵を持ち上げ、私のほうへ寄せる。もともと横になるのがやっとだった隙間がなくなり、二枚の筵がぴったりとくっついた。
「ちょっと、これは――」
立ち上がりかけると、葵が私の袖を引いた。見下ろした私に、黙って首を振る。
場所を譲らせた娘は、こちらを見て手を振る。
「あら、新入り。どうしたの? 何か困ったことでも?」
拳を握る。もう一度葵の顔を見てから、私は何も言わずに座り直す。
「……嫌な奴」
聞こえないように呟き、筵の上で足の指を動かしていると、女嬬が入ってきた。
「灯を消します。唐櫃を片づけて、お休みなさい」
女嬬たちが灯台の火を一つずつ消していく。部屋はたちまち暗くなり、私のすぐ脇にある灯台だけが残った。台の脚が床を取っているせいで、寝られる幅はさらに狭い。
腹の上で手を組み、体をまっすぐにして横になった。壁の隙間から晩夏の夜風が入り、足先が冷える。
それでも、いつの間にか瞼が重くなっていた。
***
脚に何かが触れた。
「ん……」
寝返りを打とうにも、身じろぎする余地がない。目を閉じ直すと、また脚をとん、とんと叩かれる。
上体を起こす。足元で女嬬が身をかがめ、私の脚に手を伸ばしていた。
「……え?」
「小夜様。お起きください。別当殿がお呼びです」
「別当殿が……?」
村で私を選んだ老人の顔が浮かぶ。眠っている娘たちを起こさないよう立ち上がり、単の上に衣を羽織って、女嬬のあとを追う。
連れていかれたのは、内教坊の前庭。
白い砂利が月明かりを受け、淡く浮かんで見える。遣水の流れる音に、草むらから聞こえる虫の声が重なっている。
女嬬は私を残し、暗がりへ下がっていった。
庭の端に、木々の切れ間から月の光が落ちる場所がある。その下の大きな石の前に、別当殿が立っていた。唇には龍笛を当てている。
低い音が庭を渡る。高く伸びたかと思うと細く揺れ、また遣水の音の中へ沈んでいく。
私は頭を下げて近づき、演奏が終わるまで待った。
最後の音が消える。
「来たか。眠っていたところを起こしたかな」
「いいえ、別当殿。初めての夜ですので、まだ眠れずにおりました」
「はは、そうだろうな。お前のような村娘には、夢にも思わなかった場所だ。落ち着かぬのも無理はない。さあ、顔を上げなさい」
口が尖りかけたのをこらえて、顔を上げる。
別当殿は、今吹いていた龍笛とは別の笛を差し出した。両手で受け取る。
「これは……?」
「吹いてみなさい」
古い笛だ。年月を重ねて黒ずんだ竹に、目立つ飾りはない。けれど指でなぞると、どこにも引っかかるところがなく、握れば自然と手の中に収まる。
唇に当て、目を閉じる。
宮のどこかで、十五になった春津と会える。会えなかった三年の話を聞いて、私の話もして、月の下でまた手をつなぐ。
そんなことを考えながら、笛に息を吹き込む。
吹き終えて目を開けると、別当殿が私を見つめていた。顎の髭を撫でかけた手も止まっている。
差し出された手に、笛を返す。
「どうだ。この笛は」
「とてもいい笛です。古いのに、内側まで滑らかで……長い間、大切に使われてきたんですね。それに、息を入れると、すぐ音になりました。笛が私の息についてきてくれる感じがします」
別当殿は声を上げて笑う。
「ははは! 面白いことを言うな、お前は。この笛は、宮で最も優れた笛吹き――御笛師が代々受け継いできたものだ。だが、ここ数十年、満足に鳴らせる者がいなかった」
彼は笛を持ち上げ、月にかざす。
「昔、神域の竹を伐って作ったという。吹く者の心が、そのまま音に出る笛だ。今の者は余計なことばかり考えておるから、うまく鳴らせぬ。私もそうだった」
こちらへ目を向ける。
「お前なら、この笛を帝の御前で吹けるかもしれぬ。御笛師となって帝に聴いていただければ、またお元気になられるやもしれん」
私は彼の顔色をうかがいながら口を開く。
「あの……一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「申してみよ」
「帝は……お体が悪いのですか?」
返事がない。顔を上げると、別当殿はじっと私を見下ろしていた。
「も、申し訳ございません。余計なことを……」
「いや。お前も宮に入ったのだ。知っておいてよかろう」
別当殿はひと呼吸置く。
「採薬童子というものを、聞いたことはあるか?」
顔が上がる。声まで大きくなった。
「はい! 私の幼なじみが、採薬童子として宮へ連れてこられたんです!」
「……そうか」
別当殿は私を見たまま尋ねる。
「では、童子たちが何をしたかは知っているか?」
「薬草を探す仕事だと聞いています」
「半分は当たりだ」
彼が顔を北へ向ける。宮の向こうには、夜空よりも黒い山並みが横たわっている。
「帝は重い病に伏せられた。陰陽師も高僧の加持祈祷も、憑いた物の怪を退けられなかったのだ」
「それで、薬草を……?」
「そうだ」
別当殿は山を指す。
「黒峰。古い妖どもが棲む、あの山の奥に常世草が生えるという。採りに行かせるため、各地から十五に満たぬ男児を集めた」
「どうして、子供だけなんですか」
「黒峰の奥は神の領域だ。大人は入ることさえできぬ。どれほど歩いても、元の場所へ戻される」
背に冷たい汗が滲む。
「でも、帝はもうお治りになったんですよね? 誰かが薬草を見つけたんでしょう? それなら、どうして童子たちは帰ってこないんですか。それに、帝がお元気にならないのは――」
別当殿の目が細くなる。喉まで上がった言葉を飲み込む。
「その幼なじみが気にかかるか。……お前の言うとおり、常世草を持ち帰った童子が一人いた。だが」
手にした笛が下がる。遣水の音だけが、しばらく続く。
「その代わり、採薬童子は皆、命を落とした」
「え……?」
衣の裾を握りしめる。
皆。春津も、その中に入るのだろうか。問い返したいのに、喉から声が出ない。
「正しくは、死んだか、心を損なったかだ。神の地から草を持ち出した代償だろう。生きて戻った子らも、闇を怖がり、虫一匹に声を上げる。言葉を失った者もおれば、己の頭を地に打ちつけて死んだ者もいた」
別当殿が舌を鳴らす。
「帝が沈んでおられるのは、そのためだ。病は癒えたが、ご自分のために大勢の子を死なせたと悔いておいででな。帝のお役に立てたのだから、村の子らには誉れであろうに。お優しい方だ」
顎を伝った汗が、地面に落ちる。
「あの……もし春―― 」
言い終える前に、別当殿は私を見もせず、話を続けた。
「草を持ち帰った子は、何という名だったか。春……春津。そう、春津だ。帝が直々に従五位下を授け、典薬寮の医師たちに治療を命じられた。村の子には破格の計らいだ」
私は別当殿へ駆け寄り、その袖をつかんだ。
「春津はどこにいるんですか! 典薬寮へ行けば会えますか? 春津は――きゃっ!」
腕を払われ、砂利の上に尻もちをつく。痛む腰を押さえて見上げると、別当殿は眉を寄せ、私が触れた袖を払っていた。
「身の程を知れ。才を見込んで宮へ連れてきてやったからといって、無礼が許されると思うな」
別当殿は背を向け、来た道を歩き出す。
「その春津がお前の幼なじみであろうと、今のお前は内教坊の女だ。帝に仕える身なのだぞ。用もなく内教坊の外へ出ることは許されぬ」
肩越しに振り返る。後ろ手に持った笛を、指先で揺らした。
「せいぜい腕を磨け。御笛師となり、帝に笑っていただけたなら、その子に会うことも叶うかもしれん。ちっ、年を取ると話が長くなる」
別当殿はそのまま行ってしまった。
遠ざかる背中に手を伸ばす。呼び止めようとして、口を閉じる。行き場を失った手を引き戻し、拳を握る。爪が手のひらに食い込む。
「春津のこと、あんなふうに……」
声が震える。
「なってやるよ。御笛師でも何でも。……この、くそじじい」

