日が西の山の端にかかっていた。水を張った田には赤い空が映り、茅葺きの屋根からは夕餉の煙が細く立ちのぼっている。
家の前の溝に渡した板橋は、腰を下ろすたびにぎしりと鳴る。幼い頃から、そこが私たち二人の場所だった。
横笛を唇に当てる。使い込んだ竹は指に馴染んでいる。
目を閉じて息を吹き込むと、笛の音が田の上へ伸びていく。
吹き終えて目を開けると、いつものように春津が目の前にしゃがんでいた。
日に焼けて色の薄くなった茶色い髪に、丸く澄んだ目。頬には乾いた泥がつき、何度も繕った麻の衣の裾から、土まみれの裸足がのぞいている。村のおばさんたちは顔を見るたび、「洗ってやれば見栄えがするのに」と呆れた声を出した。
私の、たった一人の友達。
春津は口を半分開けたままこちらを見ていたが、やがて手のひらが赤くなるほど拍手する。
「やっぱりすごいな! 小夜の笛、何度聴いてもぞくっとする!」
「何それ……。そんなこと言うの、春津だけだよ」
照れくさくて顔を伏せ、笛を膝に置いた。
「次は? この前吹いてくれた『桜人』、あれも――」
「春津」
私が言葉を遮ると、春津はこちらを向いた。
「本当に行くの? どうしても、行かなきゃ駄目?」
彼は笑ってみせたが、すぐに目を伏せる。
「小夜、またそれか。もう決まったことだろ」
分かっている。それでも、顔を見ていると目の奥が熱くなる。
春津は慌てた様子で袖をまくり、細い腕に力こぶを作ってみせる。
「僕を誰だと思ってるんだよ。ほかの奴らにいじめられてた小夜を、いつも守ってたろ? 山へ行って薬草を見つけるだけだっていうし、心配するな。それに――」
春津が私の手を取る。小さくて、ところどころ硬くなった手が、指を包み込む。
「ええと、何だっけ。さいやく……どうじ?」
「採薬童子」
「そう、それ! 帝がおわす宮のために働くんだぞ。きっと僕の鼻が利くから選ばれたんだ。銭もたくさんもらえるらしいし」
そう言って私の笛を持ち上げ、にっと笑って目の前で振ってみせる。
「そしたら小夜に、リュウテキを買ってやる!」
「……龍笛ね」
手の甲で目元を拭ったら、春津につられて笑ってしまった。
懐から小さな袋を二つ取り出す。薄い藍に染めた麻布を半分に切って縫った、飾りもない袋だ。中には、自分で摘んで乾かした菖蒲の葉を一片ずつ入れてある。
一つを差し出すと、春津は首をかしげる。
「何、これ?」
「守り袋。私が作ったんだから、ちゃんと持ってて」
春津は袋を見つめ、握りしめたかと思うと、私を抱き寄せる。衣についた土の匂いが鼻先に届く。
「ちょ、ちょっと!」
肩を押した手の下で、春津の体が震えている。
「ありがとう、小夜。僕、必ず帰ってくる。帰ったら、うまいものをいっぱい買ってやるから」
押し返していた手から力が抜ける。そのまま、春津の背を撫でる。
「うん。怪我だけはしないで帰ってきて。絶対に」
春津と会ったのは、それが最後だった。
三年が過ぎ、十五になっても、一度もその姿を見ていない。
***
筵の上に座り、母の古い木箱を開けた。
手のひらほどの青銅の鏡を袖で磨くと、曇った面に自分の顔が揺れる。黙っているだけで誰かを睨んでいると思われる細い目。鼻から両頬にかけて、そばかすが散っている。
箱の隅に残っていた米の粉を指に取り、頬に塗ってみる。そばかすは隠れず、白い粉だけがまだらにつく。
次は髪だ。腰まで伸ばした黒髪をうなじで結び、残りを折り上げて、輪にしたところをもう一度紐で縛る。
村の女たちは何でもない顔で結んでいるのに、私がやると片方を押さえるたびに、もう片方がこぼれた。
背中をぱしんと叩かれた。
「痛っ!」
振り向くと、鎌を手にした母が立っていた。袖を紐でたくし上げ、ふくらはぎには田の泥が白く乾いている。
「もう、お母さん! 驚かさないでよ!」
「人の箱を勝手に開けるんじゃないよ。髪を伸ばす暇があるなら、さっさと結んで畑を手伝いな」
「言ったでしょ。今日は内教坊の人が、娘を選びに来るの。笛を聴いてもらってくるから、髪、結んでよ」
母は鎌を脇へ寄せ、大きく息を吐く。
「また内教坊かい。うちみたいな家の娘が、宮仕えなんてできるものか。それに、春津を捜しに都へ行くなんて話も、いい加減におし。父さんだって、役に出たきり十年も帰ってこない。あの子も、何度言えば分かるんだい。もうとっくに――」
母はそこで口をつぐんだ。
「その話はしないでって、何度も言ったのに」
筵から立ち上がる。結びかけの髪をほどき、うなじでひとまとめにして紐を締める。
「……お母さんなんか、大嫌い」
横笛だけをつかんで家を出た。背後から母の声が聞こえたが、振り返らずに村の社へ向かう。
都から来た人たちが、今日、あの境内で芸を見てくれる。
***
社の前庭には、もう大勢の娘が集まっていた。小鼓やびんざさらを抱え、順番が来るのを待っている。
庭の端に張られた幕の下には、二人の男が座っていた。
濃い緋色の袍に冠をつけた年配の男は、退屈そうにつま先を動かしている。
隣の若い男は淡い青の狩衣に烏帽子をかぶり、畳んだ扇で膝を叩きながら、前の娘たちの舞に目を向けていた。日に焼けたことなどなさそうな白い顔だ。
舞い終えた二人の娘が、揃って頭を下げる。
小萩と小藤。村一番の美人と呼ばれる双子で、幼い頃から私を見つけてはからかってきた二人でもある。
「見事であった。足運びがよく揃っていたぞ。ご苦労」
「ありがとうございます」
双子が列へ戻ると、年配の男が辺りを見渡した。
「ほかにおらぬなら、これで――」
「あ、あの!」
列の間を抜けて前へ出る。背後で笑い声が漏れる。
「本当に来たんだ」
「横笛なんて持って。田で吹いてるのを聴かせるつもり?」
「顔に粉まで塗ってる。あの子が内教坊だなんて」
若い男が、畳んだ扇を手のひらに打ちつける。
「静かに。……名は?」
「小夜と申します」
「小夜か。よい名だな。その横笛を吹くのか?」
「はい」
若い男が何か続けようとしたところで、年配の男が口を挟んだ。
「話はよい。早く吹いてみよ。日が暮れる」
頭を下げて笛を唇に当てる。けれど指先が震え、孔をきちんと塞げない。
一度笛を下ろし、首に掛けた守り袋を握る。何度も触れて、藍の色が褪せた袋。中で乾いた菖蒲の葉がかさりと鳴る。
笛を持ち直し、息を吸う。
春津の顔が浮かぶ。枝を刀に見立てて畦道を駆けた後ろ姿。溝に落ちても笑っていた声。板橋にしゃがみ、口を開けたまま私の笛を聴いていた顔。
指を動かすうち、さっきまで聞こえていた笑い声が遠のいた。春津とあの橋に座っていた頃の旋律を、息の続くままに吹く。
最後の音が消えてから笛を下ろし、そっと顔を上げる。
若い男は笑っていた。年配の男は目を見開いたまま私を見つめていたが、やがて腕を上げ、まっすぐ私を指さした。
「お前だ。お前を連れてゆく」
庭がざわつく。列を離れ、小萩が一歩前に出る。
「お待ちください。なぜ、その子が……もう一度、お考えいただけませんか」
「誰が口を開いてよいと言った」
年配の男の声が庭に響き、小萩は身をすくめる。
「こたびは帝の仰せにより、家柄を問わず、才のある娘を探しに来た。お前たちの舞は確かに揃っていた。だが、この娘の笛は、一度聴けば覚えておける」
男は私の手にある竹の笛を見る。
「飾りもない横笛で、あれだけ澄んだ音を出すとはな。息が乱れず、高い音にも無理がない。都で教えれば、龍笛も吹けよう」
立ち上がって袍の裾を払うと、隣の男に声をかける。
「清澄。あの子に支度をさせよ。親への挨拶を済ませたら発つ」
「承知しました」
清澄が頭を下げる。年配の男は幕の奥へ入り、供の者たちも慌てて座具を片づけ始める。
「さあ、皆も帰ってよいぞ」
人々が散っていく。小萩と小藤は私を睨んだまま、何も言わずに去った。
清澄がそばへ来て、穏やかに笑う。
「小夜、今日はこのまま都へ向かう。親御さんに別れを告げてこられるかい? 荷は多くなくていい。必要なものは向こうで用意できる。誰かを付き添わせようか」
「い、いえ、大丈夫です!」
声が裏返った。笛を胸に抱え、もう一度頭を下げる。
「すぐ戻ります!」
駆け出した途端、石につまずいて倒れかけた。それでも踏みとどまり、家へ続く道を走る。頬の粉が汗で落ちていくのも、今は気にならなかった。
口を結んでも、笑みがこぼれる。
待ってて、春津。
家の前の溝に渡した板橋は、腰を下ろすたびにぎしりと鳴る。幼い頃から、そこが私たち二人の場所だった。
横笛を唇に当てる。使い込んだ竹は指に馴染んでいる。
目を閉じて息を吹き込むと、笛の音が田の上へ伸びていく。
吹き終えて目を開けると、いつものように春津が目の前にしゃがんでいた。
日に焼けて色の薄くなった茶色い髪に、丸く澄んだ目。頬には乾いた泥がつき、何度も繕った麻の衣の裾から、土まみれの裸足がのぞいている。村のおばさんたちは顔を見るたび、「洗ってやれば見栄えがするのに」と呆れた声を出した。
私の、たった一人の友達。
春津は口を半分開けたままこちらを見ていたが、やがて手のひらが赤くなるほど拍手する。
「やっぱりすごいな! 小夜の笛、何度聴いてもぞくっとする!」
「何それ……。そんなこと言うの、春津だけだよ」
照れくさくて顔を伏せ、笛を膝に置いた。
「次は? この前吹いてくれた『桜人』、あれも――」
「春津」
私が言葉を遮ると、春津はこちらを向いた。
「本当に行くの? どうしても、行かなきゃ駄目?」
彼は笑ってみせたが、すぐに目を伏せる。
「小夜、またそれか。もう決まったことだろ」
分かっている。それでも、顔を見ていると目の奥が熱くなる。
春津は慌てた様子で袖をまくり、細い腕に力こぶを作ってみせる。
「僕を誰だと思ってるんだよ。ほかの奴らにいじめられてた小夜を、いつも守ってたろ? 山へ行って薬草を見つけるだけだっていうし、心配するな。それに――」
春津が私の手を取る。小さくて、ところどころ硬くなった手が、指を包み込む。
「ええと、何だっけ。さいやく……どうじ?」
「採薬童子」
「そう、それ! 帝がおわす宮のために働くんだぞ。きっと僕の鼻が利くから選ばれたんだ。銭もたくさんもらえるらしいし」
そう言って私の笛を持ち上げ、にっと笑って目の前で振ってみせる。
「そしたら小夜に、リュウテキを買ってやる!」
「……龍笛ね」
手の甲で目元を拭ったら、春津につられて笑ってしまった。
懐から小さな袋を二つ取り出す。薄い藍に染めた麻布を半分に切って縫った、飾りもない袋だ。中には、自分で摘んで乾かした菖蒲の葉を一片ずつ入れてある。
一つを差し出すと、春津は首をかしげる。
「何、これ?」
「守り袋。私が作ったんだから、ちゃんと持ってて」
春津は袋を見つめ、握りしめたかと思うと、私を抱き寄せる。衣についた土の匂いが鼻先に届く。
「ちょ、ちょっと!」
肩を押した手の下で、春津の体が震えている。
「ありがとう、小夜。僕、必ず帰ってくる。帰ったら、うまいものをいっぱい買ってやるから」
押し返していた手から力が抜ける。そのまま、春津の背を撫でる。
「うん。怪我だけはしないで帰ってきて。絶対に」
春津と会ったのは、それが最後だった。
三年が過ぎ、十五になっても、一度もその姿を見ていない。
***
筵の上に座り、母の古い木箱を開けた。
手のひらほどの青銅の鏡を袖で磨くと、曇った面に自分の顔が揺れる。黙っているだけで誰かを睨んでいると思われる細い目。鼻から両頬にかけて、そばかすが散っている。
箱の隅に残っていた米の粉を指に取り、頬に塗ってみる。そばかすは隠れず、白い粉だけがまだらにつく。
次は髪だ。腰まで伸ばした黒髪をうなじで結び、残りを折り上げて、輪にしたところをもう一度紐で縛る。
村の女たちは何でもない顔で結んでいるのに、私がやると片方を押さえるたびに、もう片方がこぼれた。
背中をぱしんと叩かれた。
「痛っ!」
振り向くと、鎌を手にした母が立っていた。袖を紐でたくし上げ、ふくらはぎには田の泥が白く乾いている。
「もう、お母さん! 驚かさないでよ!」
「人の箱を勝手に開けるんじゃないよ。髪を伸ばす暇があるなら、さっさと結んで畑を手伝いな」
「言ったでしょ。今日は内教坊の人が、娘を選びに来るの。笛を聴いてもらってくるから、髪、結んでよ」
母は鎌を脇へ寄せ、大きく息を吐く。
「また内教坊かい。うちみたいな家の娘が、宮仕えなんてできるものか。それに、春津を捜しに都へ行くなんて話も、いい加減におし。父さんだって、役に出たきり十年も帰ってこない。あの子も、何度言えば分かるんだい。もうとっくに――」
母はそこで口をつぐんだ。
「その話はしないでって、何度も言ったのに」
筵から立ち上がる。結びかけの髪をほどき、うなじでひとまとめにして紐を締める。
「……お母さんなんか、大嫌い」
横笛だけをつかんで家を出た。背後から母の声が聞こえたが、振り返らずに村の社へ向かう。
都から来た人たちが、今日、あの境内で芸を見てくれる。
***
社の前庭には、もう大勢の娘が集まっていた。小鼓やびんざさらを抱え、順番が来るのを待っている。
庭の端に張られた幕の下には、二人の男が座っていた。
濃い緋色の袍に冠をつけた年配の男は、退屈そうにつま先を動かしている。
隣の若い男は淡い青の狩衣に烏帽子をかぶり、畳んだ扇で膝を叩きながら、前の娘たちの舞に目を向けていた。日に焼けたことなどなさそうな白い顔だ。
舞い終えた二人の娘が、揃って頭を下げる。
小萩と小藤。村一番の美人と呼ばれる双子で、幼い頃から私を見つけてはからかってきた二人でもある。
「見事であった。足運びがよく揃っていたぞ。ご苦労」
「ありがとうございます」
双子が列へ戻ると、年配の男が辺りを見渡した。
「ほかにおらぬなら、これで――」
「あ、あの!」
列の間を抜けて前へ出る。背後で笑い声が漏れる。
「本当に来たんだ」
「横笛なんて持って。田で吹いてるのを聴かせるつもり?」
「顔に粉まで塗ってる。あの子が内教坊だなんて」
若い男が、畳んだ扇を手のひらに打ちつける。
「静かに。……名は?」
「小夜と申します」
「小夜か。よい名だな。その横笛を吹くのか?」
「はい」
若い男が何か続けようとしたところで、年配の男が口を挟んだ。
「話はよい。早く吹いてみよ。日が暮れる」
頭を下げて笛を唇に当てる。けれど指先が震え、孔をきちんと塞げない。
一度笛を下ろし、首に掛けた守り袋を握る。何度も触れて、藍の色が褪せた袋。中で乾いた菖蒲の葉がかさりと鳴る。
笛を持ち直し、息を吸う。
春津の顔が浮かぶ。枝を刀に見立てて畦道を駆けた後ろ姿。溝に落ちても笑っていた声。板橋にしゃがみ、口を開けたまま私の笛を聴いていた顔。
指を動かすうち、さっきまで聞こえていた笑い声が遠のいた。春津とあの橋に座っていた頃の旋律を、息の続くままに吹く。
最後の音が消えてから笛を下ろし、そっと顔を上げる。
若い男は笑っていた。年配の男は目を見開いたまま私を見つめていたが、やがて腕を上げ、まっすぐ私を指さした。
「お前だ。お前を連れてゆく」
庭がざわつく。列を離れ、小萩が一歩前に出る。
「お待ちください。なぜ、その子が……もう一度、お考えいただけませんか」
「誰が口を開いてよいと言った」
年配の男の声が庭に響き、小萩は身をすくめる。
「こたびは帝の仰せにより、家柄を問わず、才のある娘を探しに来た。お前たちの舞は確かに揃っていた。だが、この娘の笛は、一度聴けば覚えておける」
男は私の手にある竹の笛を見る。
「飾りもない横笛で、あれだけ澄んだ音を出すとはな。息が乱れず、高い音にも無理がない。都で教えれば、龍笛も吹けよう」
立ち上がって袍の裾を払うと、隣の男に声をかける。
「清澄。あの子に支度をさせよ。親への挨拶を済ませたら発つ」
「承知しました」
清澄が頭を下げる。年配の男は幕の奥へ入り、供の者たちも慌てて座具を片づけ始める。
「さあ、皆も帰ってよいぞ」
人々が散っていく。小萩と小藤は私を睨んだまま、何も言わずに去った。
清澄がそばへ来て、穏やかに笑う。
「小夜、今日はこのまま都へ向かう。親御さんに別れを告げてこられるかい? 荷は多くなくていい。必要なものは向こうで用意できる。誰かを付き添わせようか」
「い、いえ、大丈夫です!」
声が裏返った。笛を胸に抱え、もう一度頭を下げる。
「すぐ戻ります!」
駆け出した途端、石につまずいて倒れかけた。それでも踏みとどまり、家へ続く道を走る。頬の粉が汗で落ちていくのも、今は気にならなかった。
口を結んでも、笑みがこぼれる。
待ってて、春津。

