────なんて考えていた、つい数時間前の自分に言いたい。
どんなに優しい人にでもちゃんと感情はあるんだよ。だって人間だもの、と。
「……やっぱ、嫌だった? いや、普通嫌だよね! 赤の他人に服貸すなんて……ごめん! 汗はかいてないと思うけど、えっと、どうしよう。洗濯してから返すじゃ午後の授業で困るもんね。えっと、最悪律のを引っぺがしてもらって────」
「……嫌じゃ、ない」
「え?」
「それは別に嫌じゃない。むしろ……いや、何でもない」
「……千歳くん?」
「…………」
うーーん、これは黙りんぼだ。珍しいな、千歳くんのこんな姿を見るのは。なんなら初めてかもしれない。
抱きしめられている腕にはぎゅっと力が籠められ、いつも以上に身動きは取れない。
顔が俺の肩にぐりぐりと埋められているせいで表情も読めない。
どうしたもんか、と、とりあえず自由な左手で頭を撫でてみるも反応は見せない。
昼休み。いつも通り弁当を食べてから、借りた体操着一式を持ってここへやって来るとなんだかいつもと千歳くんの様子が違った。
いつもなら隣に座ってたわいもない話をしながら、優しい瞳を俺に向けながら甘い声で褒めてくれるのに、今日はすぐにハグを求められいつものように抱っこされる形でお応じると、それからずっとこの調子だ。
甘い声とは程遠い、少し怒ったような声。
体操着のことがやっぱり嫌で、貸したことを後悔してるのかと思えばそうではないらしい。
怒ってるのかな? とも思ったが、どちらかというと一番下の弟妹の双子が拗ねているときに近い気もする。
……4歳児と一緒にするのは失礼だとも思うけど。
「俺、なんかしちゃった? 千歳くんが嫌がること」
そう尋ねれば、顔を上げずに俺の肩に埋めた顔をぐりぐりと横に振る。
「それとも俺には言いたくない?」
次にそう尋ねれば、再び俺の肩に埋めた顔をさっきよりも控えめにぐりぐりと横に振る。
「ゆっくりでいいから教えてくれると嬉しいな」
ポンポンと子供をあやすように優しく背中に回した手で背中を叩く。
すると、抱きしめられていた手に、さっきよりも力が入るのが分かった。
それから、千歳くんはゆっくりと口を開く。
「…………るの?」
「ん?」
「朔センパイは、誰にでも簡単に抱き着かせたりするの?」
ゆっくりと吐き出された言葉は少しだけ拗ねが多雨な不機嫌さが込められているようだった。
「えっと、どういう意味?」
「さっきの授業、教室からセンパイのこと見えてた。……そんで、抱き着かれてた。ねぇ、センパイを抱きしめられるのは俺だけじゃないの? 甘やかすのも、俺だけじゃないの? それともセンパイは誰でもいいの?」
「ちょ、ちょっと落ち着こう? ね? 抱きしめられてたって……」
と、そこまで考えて、あれかぁぁぁ……と思い浮かぶのはぶかぶかな体操着のことで揶揄われてた時のことだろう。
その光景を見て、見て……怒って拗ねた、って事?? なんで??
男同士距離が近いのはよくあることだし、今日みたいな絡まれ方は仲間内ではよくあること。でも、それが千歳くんには嫌な事だった? ……どうして??
「あー、えっと、あれはただ揶揄われて絡まれてただけで、甘やかされてたとかそう言うのは一切ないよ?」
「……それでも嫌だった。俺の、俺だけのセンパイなのにって」
えっと、これはあれだ。子供が自分の物を取られて拗ねているときのアレ。まさに、それ。
こういう時は変に反発せずに受け止めてあげるのが一番だとこれまでの子育てで履修済みである。
「そっか、嫌だったのか。ごめんね。でもね、俺がこうやって甘えられるのも甘やかしてほしいと思ってるのも全部千歳くんだけだよ。……俺は今までもこれからもきっと、千歳くん以外の誰にも……友人にも家族にも。甘えたいなんて言えないと思うんだ」
「……俺だけ?」
「うん、千歳くんだけ。千歳くんがあの日、弱り切っていた俺を見つけて甘やかしてくれて、俺すっごい救われたんだよ。だからあとにも先にも、こんな姿見せるのは千歳くんだけだよ」
「……そっか。俺だけ、か」
あ、少し声が柔らかくなった。
「機嫌直った?」
「……もうちょっと」
「そっか、もうちょっとか。いいよ、まだ時間はあるしゆっくりで」
「……ん」
いつもは甘やかされてる側の俺だけど、たまには千歳くんのこんな姿を見るのも悪くないと思う。
きっと彼のこんな姿を知るのも俺だけで。そう思うと千歳くんが自分だけがいいと言った理由が少しだけわかる気がする。
誰かの特別な姿を知るのは優越感があるから。
それにしても……
「かわい────」
瞬間。唇に感じる温かな違和感。
目の前にゼロ距離である千歳くんの顔。
これって、今……
「キス……? え、え??」
顔が赤くなるのが分かる。触れた唇は火傷しそうなほど熱く感じ、全身は沸騰するように熱を帯びる。
「どう、して……?」
期待するなと言い聞かせていたのに、期待せずにはいられなくなる。もしかして、千歳くんは俺のことを、って。
「もしかして、おれ────」
「あー……ごめん、間違えた」
「え?」
まちが、えた……? 何を? キスしたこと? 誰と……?
「あ……そ、そっか。間違い……間違い……そんなときもある、よね……?」
……いや。あってたまるか、そんな事。
心臓が痛い。今にも張り裂けてしまいそうなほど、胸が苦しい。
今になって分かった。俺たちの関係が何だろうって考えた時に、弟の友人だけではどうして物足りないと思ったのか。
どうして期待してしまったのか、そうして勘違いするなって案にに自分に言い聞かせてたのか。
……好き、だからだ。
今になってはっきりとわかる。なんでこんなに苦しいのか。なんでこんなにショックを受けているのか。
気づいた瞬間失恋なんて、笑えねぇよ……
苦しくて、このままここに居たら涙を見せてしまいそうで。でもそれだけはしたくなくて。
「あ、いや、今のは違くて。えっと、つまり……」
「あー……えっと、移動教室! そう、次移動教室だったの忘れてたや。ごめんね、先に行くね」
「センパイ、ちょっと待────」
動揺を必死に隠しながら俺は千歳くんの上からおりて立ち上がり、引き留める声に気づかないふりをして振り向くことのないまま階段を駆け下りて、俺はその場を後にした。
涙は流さなかった。
でも、胸の痛みと苦しみはそう簡単には消えてくれなかった。
