唄うことでしか、ボクはボクになれない

 十万石(じゅうまんごく)まつりの次の日、伊知川くんは部活の練習場に来なかった。SNSで連絡を入れても返事がない。
 自閉スペクトラム症の伊知川くんにとって、慣れないステージでの失敗は、きっと大きな心の傷となったのだろう。あのミズキさんがステージ前にやって来た時、私が先に引き離しておけばよかった。
「伊知川がいないが、練習はするぞ」とチヒロはギターを持ってスタンバイする。
「……大丈夫かな、伊知川くん」
 梨香は心配そうだ。
「仕方がないだろ」
「そうだけど……」
「待つしかない」
 伊知川くんのいない練習は、魂が抜けたようだった。
 その次の日、その伊知川くんがやっと練習場にやってきたが、島田先生と伊知川くんのお母さんも一緒にいた。
 嫌な予感しかしない。
「よお」とチヒロが声をかけるが、伊知川くんは俯いて返事をしない。
 私たちは楽器を置いて、伊知川くんを出迎えようとするが、島田先生と伊知川くんのお母さんが前に立ちはだかった。
 そのお母さんが険しい顔をしていて、梨香と私は立ったまま声もかけられない。
「今日は、伊知川くんのお母さんからキミたちに話があるそうだ」と島田先生が切り出した。
 伊知川くんのお母さんは、細くて若く見える。
 ニットにテーパードパンツの清楚なファッションで、眉はきっちり整えられ、眉間(みけん)の線がうっすら刻まれていた。気が強そうだ。
「この前の十万石(じゅうまんごく)まつりも見させてもらったわ。うちの紘弥を誘ってくれたことは、本当に感謝しています。でもね、もう、辞めさせてほしいのよ」
「辞めるって、どういうことだよ?」
 チヒロは、お母さんではなく伊知川くんを見て言う。
「多分、紘弥はここにいると楽しいと思う。でも、この前のステージ、見たでしょ? 紘弥は自閉スペクトラム症で軽度の知的障がいがあるから、普通の子のようにはいかない。想定外のことが起こると、頭がシャットアウトしてしまうのよ」
「この前のステージは、確かに気の毒だったと思います。でも、たった1回の失敗で辞めさせるなんて、かわいそうです」
 私が言っても、お母さんは首を振る。
「紘弥には、何度も確認しました。辞めるのよね?」とお母さんが後ろの伊知川くんに確認する。
 すると、伊知川くんはゆっくり頷いた。
「そんな! 何でですか?」
 梨香は感情的になっている。
「あなたたちは、大きな勘違いをしています。うちの紘弥は、特別支援学校生なのよ」
「だから何だよ?」とチヒロはお母さんを睨んだ。
「あなたたちとは違うって言いたいの。あなたたちは悪ぶったカッコをして頭が良くなさそうに見せかけているけど、実際は市内屈指の進学校に通うエリートじゃない。輝く未来があるし、希望もある。でも、紘弥は障がい者だから、これからの生きる道には制約や制限がいっぱいあるの」
「どこの学校に通っていようと、音楽をするのに関係ないと思います」
「あなたが、紘弥を誘ってくれたアヤノさんね。紘弥から聞きました。デビューを目指してるんだって?」
「はい」
「あなたたちは例え音楽で失敗しても、この先、いい大学に入って、いい会社に勤めるんでしょう? でもね、紘弥は失敗したら、もう立ち上がれないの。現にこの前のステージの失敗で、ふさぎ込んでしまっているわ」
「この前のステージは、私も落ち込みました。でも、誰でもそうやって試練を乗り越えて人は成長するんじゃないんですか? 障がい者も健常者も関係ないです」
「それは、健常者だけに通用する言い分よ」
「じゃあ、伊知川くんは一生チャレンジをせずに、安全なところだけで生きていくんですか?」
「障がい者は、その障がいの程度に合わせて、そのチャレンジが乗り越えられるかどうか、見守る人が判断するの。あなたたちの活動はあまりにもイレギュラーの連続で、刺激が強すぎるから、乗り越えられないと私が判断しました」
「じゃあ、伊知川の唄う才能は、どうなるんだよ? 聴いたんだろ、ステージで唄う伊知川のあの声を。ロックの神様に愛された声だよ。それを親なのにつぶすのかよ?」
 チヒロは、声を荒げる。
「……確かに、私も驚いたわ。でも、歌が上手い人なんて、星の数ほどいるのよ。歌では食べていけないじゃない。親が死んだ後も障がい者が生きていくためには、高校卒業後のちゃんとした障がい者採用の仕事を見つけなきゃいけないの。音楽にのめり込んでいる場合じゃない」
「じゃあ、音楽をしながら就職活動すりゃいいじゃねえか」
「それも健常者の言い分ね。自閉スペクトラム症の紘弥は、一度に何もかもできないの。この部活に入ってから紘弥は、このバンドのことだけにのめり込んでしまって何も見えなくなっていたのよ」
「本当に、これで終わりなのか? なあ、伊知川!」
 チヒロの問いかけに、伊知川くんは俯いたまま反応しない。
「紘弥を誘ってくれたことは、感謝してる。ただ、紘弥の未来のために、ここで区切りをつけた方がいい」
「おい! 伊知川! お前はそれでいいのかよ? 本気で辞めたいのか? あれだけ唄うのが好きだったろ?」
 伊知川くんは耳を塞いだ。
「何度も言うけど、紘弥は障がい者なの。だから、母親である私が紘弥の最終判断をくだします」
「お前が辞めたいっていうんなら、それでいいんだよ。私は伊知川の意思が知りたいんだよ!」
「イシ?」
 今日初めて、伊知川くんが喋った。
「何で障がい者だからって、選択の自由がないんだよ。そんなのおかしい」
「おかしくありません。これは紘弥を守るためです」
「イシ? イシ? アヤノさんが言っていたイシ」
 伊知川くんは(うつむ)いたままつぶやく。
「じゃあ、行くよ」と言い残して、お母さんは伊知川くんを連れて帰った。
 島田先生は「まあ、そういうことだから、納得してくれ」と私たちに言う。
 障がい者と健常者の線は、実際は線ではなく壁だということを知った。
 大きな壁。それは私たちに立ちはだかっていて、越えられない。
「あの声。あの才能。つぶすなんておかしい」とチヒロはつぶやき続けた。

 伊知川くんが抜けて1週間が経った。
 ボーカルは一旦、私に戻ったが、伊知川の抜けた穴は大きすぎる。練習をしても、私たちはどうもしっくりこないまま時間が過ぎた。
「ねえ、伊知川くんにもう一度、お願いしてみる?」
 部活からの帰り、メンバーで駅前のショッピングセンターに立ち寄っていた際に、私が提案してみた。
「それは、ダメだ。拒否したのは向こうだ。こっちからわざわざお願いする必要はない」
 チヒロは拒絶する。
「でも、本当はやりたいかもしれないよ」と梨香。
「例えそうでも、やりたいなら自分から母親を説得してこないかぎり、復帰は認めない」
「あのお母さん、怖そうだったもんねえ」と梨香は唇をとがらせた。
「それに、伊知川は障がい者だ。あの母親を無視してこっちから働きかけたら、障がい者への虐待だって言われるかもしれない」
 チヒロにそう言われると、何も返せない。
 私たちは、ショッピングセンターにある楽器屋へ行き、壁にびっしりとかけられたギターやベースを眺めていた。
 憧れのベーシスト、ハマ・オカモトが使っているフェンダー社のベースが目に入る。いつか、あれを手に入れてハマ・オカモトのようなプレイをステージでやってみたい。
 チヒロは、ギブソンというメーカーのレスポールというエレキギターを見ていた。世界中のギタリストが使う有名なギターで、チヒロが神と崇めるスーパービーバーのギタリスト、柳沢も使っている。
 どっちも、高校生の私たちには到底買えない。
 ため息をつきながら、私とチヒロは弦を、梨香はドラマー用の耳栓を買った。
 ふと、レジの近くにディスプレイしてあるブルースハープが目に入る。チヒロと梨香も同じものを見ていた。
「この楽器だったら、吹けるかもね」と私が言うと「誰のことだ?」とチヒロは返す。
「分かってるくせに」と梨香は笑った。
「確かに、耳コピが得意だから、できるかもしれないな。でも、今度のコンテストは私たちだけでいくしかないだろ?」
 私は「分かってるよ」とチヒロの肩に手を置いた。
 その時、楽器屋店内で「高校生・大学生バンド募集」と書かれた大きなチラシが目に入る。
「チヒロ、梨香。あれ!」と、私はチラシを指差した。
 今度の土曜日、このショッピングセンターのオープンスペースで高校生と大学生を対象にしたバンドライブをやるらしい。持ち時間は、この前の十万石(じゅうまんごく)まつりとほぼ同じ、1組10分。楽器屋の店員に確認したら、まだ、応募は可能だそうだ。
「やっちゃう?」と梨香は軽いノリで言う。
十万石(じゅうまんごく)まつりの時は、最後まで演奏できなかったから、いいかも」と私は答えた。
 チヒロは、答えずに微笑んだ。