唄うことでしか、ボクはボクになれない

 いきなりマイクの前に連れられ、伊知川くんは動揺している。
「チヒロ、やりすぎだって」
 梨香が制止しようとしても、「いいんだよ。身体で覚えてもらう」とチヒロは譲らない。
「伊知川は、楽譜は読めるのか?」
 チヒロの問いに「読めないです。すいません」と伊知川くんは答えた。
「謝らなくていいんだよ。読めなくても問題ないからよ」
「はい」
「今から、私たちの『サクら』って曲を演奏する。とりあえずボーカルの部分は、ベースのアヤノが何回か唄うから、そこに立って、聴いて覚えるんだ」
「ちょっと、チヒロ。『サクら』っていきなりはキツイんじゃない? アップテンポで、ロック色が強いから……」
 心配した私は口を挟んでしまう。知的障がい者の伊知川くんにとって、歌詞だけを覚えるだけでも大変かもしれないのに。メロディとリズム、歌詞とマルチタスクを処理するなんてきっと無理だ。
「やってみたいです」
 伊知川くんは、そう答えたものの、本当に大丈夫だろうか? 最初は収録したものをデータで渡して、聴いてもらった方がいいように思うのだが。
 不思議と、伊知川くんは顔が生き生きしていた。
「よし、いい目になったな。思ってるよりも、難しいぞ。カラオケとはまるで違う。バックの演奏にはメロディラインがまったくないから、覚えようにも最初は誰もがメロディの迷子になる」
「……本当にやってみたいことを、自分から『やってみたい』と口に出したのは、実は、これが生まれて初めてです」
 きっと、この後、伊知川くんは打ちのめされると思うからつらい。
「やらせてください」
 そう言った後、伊知川くんは私を見た。
「誘ってくれた、アヤノさんの、……その、……その、……役に立ちたいんです。こんなボクを必要としてくれる健常者の人は初めてだったから。ほんの少しでもいいから、ボクがいることで役に立つのなら、何でもします!」
 なんてピュアな男子なんだろう。そもそも少年ではあるけれど、少年よりも少年らしい。
「お前、イカしてんな。決まりだ。じゃあ、やるぞ。準備はいいな?」
 私は慌ててストラップにつないだベースを肩からさげた。伊知川くんがそう言うなら、やってみよう。チューニングは済んでいる。
 アイコンタクトを取ってくるチヒロに、私と梨香は頷いた。
「演奏は、最後までやらずに、一番だけで一旦止めるぞ」
 そういうと、最初にチヒロがギターで、コードDを弾いた。『サクら』はイントロなしでボーカルと演奏が同時に始まるから、最初にこうやって音程を確認する。唄い出しで音程を外すとカッコ悪いからだ。
 そして、梨香がドラムスティックでリズムを刻み出した。
 始まる!
 チヒロが作詞・作曲した私たちのバンドの定番曲を、いつもように私はベースを弾きながら唄い出した。

 ──風を伝って ボクに響く
 ──彼方のキミの 悲しみの調べ
 ──祈るしかない ボクらの唄も
 ──風になって キミに届くだろう

 ──共鳴してる 音叉のように
 ──離れていても シンクロできる

 ──散っているのに “さく”らという
 ──こぼれる涙も いつかさくだろう
 ──流星のように 舞う薄紅と重ね
 ──散った願いも またさくんだよ

 私たちが演奏をしている途中、伊知川くんはマイクに左腕をのせて、ずっと俯いて頭でリズムを刻んでいた。
 曲が終わると、伊知川くんが顔を上げて私を向いて、笑顔になる。
 え? 何で笑顔? しかも、かわいい。
「どうだ?」
 チヒロが伊知川くんに確認する。
「はい」
「『はい』って何だよ? 覚えるためにもう一回演奏しようか?」
「あの、……多分、大丈夫です」
「は?」
 チヒロが、笑う?
「大丈夫ってのは、まさか、もうメロディを覚えたって訳じゃないだろ?」
「……すいません。でも、多分、大丈夫です」
「覚えたっていうのか?」
「はい」
「いくら何でも、歌詞まで一回で覚えるのはさすがに無理だろうから、歌詞を書いた紙を打ち出してやる」
「……それも多分、大丈夫です」
 そんなバカな。
 きっと伊知川くんは、根拠がないのにできるとカン違いをしている。初めて出会った時、私の名前すら、すぐに覚えられなかったのだ。無理に決まってる。
 チヒロは無言で、伊知川くんの目を見た。
「よし、じゃあやってみるか」
「無理だって!」
 つい、私は横やりを入れる。
「かわいそうだよ。伊知川くんは障がい者だから、もっと優しくしようよ」
「アヤノ。本人がやるって言うんだから、やらせてやれよ。ダメだったら、何回でもやり直しゃいいんだから」
 その時、伊知川くんが私の前に立って、ピックを持つ私の左手を唐突(とうとつ)に握りしめた。
 え?
「キャア! 大胆!」と梨香は変なテンションで叫ぶ。
 男子にこんなことされたの、初めてなんですけど。
 伊知川くんは確かに、すごく大胆。
 そうか、人との距離感が分からないからだ。それに、知的に幼いから女子と手をつなぐことに抵抗がないのだろう。
「ボクは、かわいそうじゃありません!」
 伊知川くんは強く言う。
「そうなの?」
「これは、自分のイシです。アヤノさんが教えてくれました。自分のイシでやります」
 いつものオドオドした伊知川くんとは、別人のようだ。手を握られてドキドキが止まらない私は、無言で頷いた。
「伊知川。さっき聴いてもらったとおり、この曲はイントロなしでいきなり演奏とボーカルが同時に始まる。だから、唄い出しで音程を外さないように、キーとなるコードを弾くから聴いてくれ」
「それも、なしで大丈夫です」
 伊知川くん、本気? そんなの、チヒロみたいに絶対音感がないと無理だよ。でも、失敗しても、いいか。
「分かった。じゃあ、始めるぞ」とチヒロが言うと、梨香は返事する代わりに、ハイハット(シンバル)をドラムスティックで叩いた。そして、リズムを刻み出す。
 また、始まる!

 ──風を伝って ボクに響く

 ウソ!
 唄い出しの音程を、外してない! 伊知川くんって絶対音感があるの? 
 驚いた私は伊知川くんの左側でベースを弾きながら、反対側にいるチヒロと目を合わせる。すると、チヒロはニヤッと笑った。
 しかも、この声、今まで聴いたものとは違う。
 タバコの煙に巻かれるようにスモーキーで、暴力性と繊細さが混在している。ロックだと、こんな声質になるのか。
 伊知川くんは、両腕を背中で組み、目を細め、首を少し斜めにして唄った。
 まるで、別人。そう、今日の伊知川くんは、オアシスのリアム・ギャラガーみたいに、ロッカーになっていた。
 伊知川くんの声に合わせて、私のベースを弾く指も熱を帯びていく。
 このシンクロ感とグルーブ感、たまらない!
 伊知川くんはたった1回演奏を聴いただけの、ほぼぶっつけ本番なのに、メロディラインが完璧だ。しかも、歌詞まで覚えている!
 何で? あんなへなちょこで、障がい者で、私の名前を覚えるのも苦労した伊知川くんが、どうして、唄い出すとこんな変わるの? ロックの神様が憑依しているのだろうか?
 梨香は、ノリまくっているせいか、サビの前で挑発的なアドリブを入れてきた。そのアドリブのリズムに私とチヒロが合わせて、マウントを取り返そうとする。そのアドリブに、伊知川くんは一瞬だけ動揺して真顔になったが、すぐに軌道に戻した。

 ──散った願いも またさくんだよ

 伊知川くんが一番のサビをシャウトで唄い終え、最後にチヒロがギターをピックで大きくストロークして、演奏は終わった。
 皆、心臓の高鳴りが収まらなくて、順番に目を見合わせながら無言になってしまう。
 こんな楽しい演奏は、初めてだ。
「ありがとう、ございました」
 伊知川くんは、いつもの弱々しい表情になって、なぜかお礼を言う。
「お前、サイコーだよ! お前は、存在がロックだ。」
 チヒロが伊知川くんにグータッチをした。
「何で? 何でたった1回だけ聴いて覚えられるの? しかも、その聴いた歌をそのまま再現できるのも、謎!」
 梨香は、私と同じことが気になっていたようで、興奮気味に伊知川くんを問い詰める。
「何でかと言うと、……うーん、耳コピだけは昔から得意なんです」
「その耳コピ、異常なレベルだよ。羨ましい」
「そうですか? でも、それ以外、ボクは何をやってもフツーの人に負けます。ものを覚えるのはすべて苦手ですけど、メロディーに乗ると、耳コピができると言いますか……」
 きっと、伊知川くんは、生まれつきロックの神様に愛されている。
「明日から、部員としてここに来てくれ。4カ月後の1月には高校生バンドコンテストの『YOKOHAMA WAVE』予選大会がある。時間がないから、ビシビシいくぞ」
「はい!」
 バンドリーダーのチヒロが、正式に認めた。
 この時、伊知川くんは私たちのバンド、水都(すいと)ラベラーのボーカリストになった。