唄うことでしか、ボクはボクになれない

「伊知川は、唄うのが好きなのか?」
 チヒロは、ギターをケースに片付けながら、話しかける。しかし、伊知川くんはピンク髪でピアスをしているチヒロにビビって、目が合わせられない。
「好きっていうか、自分を慰めるためというか……」
「慰める?」
「はい。ボクは頭がよくないから、いつもお母さんに怒られてばっかりで、泣きながらここでよく唄っています」
「おい、待て待て。突っ込みどころが多すぎる。伊知川は頭が悪くなんかないんだよ」
「でも、ボクはフツウのことが分からないし、できません。それって、頭が悪いからですよね?」
「違う!」
 チヒロが大声で言うから、伊知川くんはビクッと体を震わせた。
「すいません」
「何でも簡単に(あやま)るな! 別に悪いことしてないだろ?」
「はい、すいません」
「それに、母親が何だよ! うるさいって言ってやればいい」
「はい、すいません。でも、それは怖くて言えないです」
「何だ、そりゃ」
 伊知川くんは謝るのがクセになっている。これまで、こんな風に謝らなければならない環境にずっといたのだろうか?
「それよりさ、伊知川くん、いい声してるね」
 今度は梨香が、開いた胸元を伊知川くんの腕にすり寄せて話しかける。伊知川くんの顔は真っ赤になっていた。
「ありがとうございます」
「一度さ、私たちの高校のバンド練習場に来て、唄ってみる?」
「でも、ボクはバンドなんかやったことがないですし、自信がないです……」
「だったら、なおさら、来てみろよ!」
 チヒロがまた大声で言った。伊知川くんは、初めて顔を上げてチヒロを見る。
「いいんですか? ボクみたいなのが大垣高校に行っても?」
「『ボクみたいな』って言うな! お前は、負け犬じゃないんだよ」
 チヒロはすぐに伊知川くんを怒鳴ってしまう。
「私たちの顧問の島田先生に言って、伊知川くんが大垣高校に来られるようにしてあげるよ」
 私が言うと、伊知川くんは子どものように笑顔になった。
「大垣高校って、憧れなんです。そこに行けるなんて! 大垣高校生はみんな、頭がいいんですよね?」
「そうかな?」
 私は首をかしげる。確かに進学校ではあるが、全員が全員、頭がいいわけじゃない。
 少なくとも、私はチヒロや梨香のように頭はよくない。
「だって、お母さんが言っていました。あの高校はエリートだって。ボクも健常者だったら、もっと勉強して入りたかった」
 伊知川くんからすれば、私たちは(うらや)ましい存在ということか。それにしても、ことあるごとに「お母さん」と言うのが気になる。伊知川くんにとって、絶対的な存在なのだろうか。
「ごめん。私は特支のこととか、伊知川くんのことがよく分かってないから聞くけど、伊知川くんは何の障がいがあるの?」
「ボクは、自閉スペクトラム症で、軽度の知的障がいがあります。お母さんによると、ボクは人の気持ちが分からなくて、一人よがりなんだそうです」
「障がい者に見えないぞ」とチヒロは言う。
「だから、つらいんです。ほら、これ」と伊知川くんは手帳を見せてくれた。
療育(りょういく)手帳?」
「これを持っているから、ボクはどこまでいってもフツーにはなれません」
「フツーじゃないって、私からすれば、かっこいいもんだぞ」
 アウトローが好きなチヒロがそう言うと、伊知川くんは笑う。
「ホントですか?」
「ああ」
「じゃあ、連絡先、教えてよ」と私がお願いすると、伊知川くんがカバンから携帯を取り出す。それを見て、私たちはまた、驚愕した。
「これ、……ひょっとしてキッズ携帯じゃない?」
 私が伊知川くんに確認すると「そうです」と答えた。
「アダルトのサイトや変な勧誘(かんゆう)(だま)されないように、お母さんがこれを使えって……」
 伊知川くんのお母さんの気持ちは分かるけれど、私には、心苦しい。
 私たちみたいにフツーの携帯を持たせてもらえないなんて、悲しすぎる。伊知川くんはいつもこうやって母親に何もかもを制限されて生きているのだろうか?
「じゃあ、また、連絡するね」
 そう言ってこの日、私たちは伊知川くんと別れた。

 数日後、軽音部の練習場に顧問の島田先生がやってきた。
 軽音部の練習場は、練習場と言うだけあって、スタジオのようなシャレたものではない。音楽室の隣に、以前は準備室として使っていた空部屋を、私たちが1年の時に無理矢理占拠して使い出しただけなのだ。後追いで高校が軽音部の練習場所として認めてくれて今にいたる。
「手続きが済んで、特別支援学校の伊知川くんが我が校の軽音部で活動できるようになったぞ。よかったな」
 嬉しい報告なのに、島田先生の顔は曇っていた。
「ありがとうございます! 許可を取るのにずいぶん時間がかかりましたね?」
 私の質問に、島田先生はさらに顔を曇らせる。
「特別支援学校の生徒と放課後一緒に行動するのは、特にハードルが高いからな。幸い、伊知川くんは特別支援学校の中でも、自力で登下校が許されていて、知的障がいの程度が軽いから何とかなった。でも、苦労したよ」
「ついに、ここに伊知川くんを呼べるね」と梨香は声を弾ませる。
「先生は、どうしてそんな困った顔をしてんだよ?」とチヒロがいつものタメ口で島田先生に話しかける。
「うーん。伊知川くんは障がい者だからくれぐれも扱いに注意してくれ」
「注意する? 何を?」
「刺激を与えるような服装はダメだ。分かるな、森川さん」
「私?」と梨香は自分を指差す。
「そうだ。胸元は閉めなさい。口紅とか、そういう女性っぽい色気はよくない」
「それ、セクハラじゃん!」
「セクハラじゃない。伊知川くんは知的障がい者だから、やっていいことと悪いことがしっかりと判別できない可能性がある。性的なもので暴走したら、困るだろ?」
「何だよ、その言い方は?」とチヒロが食ってかかる。
「キミたちのためを思って言っているんだ。障がい者と一緒に何かをするというのは簡単なことじゃない」
「そういう偏見があるから、大人が障がい者を排除するんだろ?」
「キミたちを思って言っているんだよ。それと、伊知川くんは、ストレスがたまったら視点が定まらず目がキョロキョロする。これをチックというんだけど、覚えておいてほしい」
「チック?」
 聞き慣れない言葉に、チヒロが反応する。
「そうだ。もし、チックが出たら、すぐに私に連絡してくれ」
「伊知川くんはいつから来るんですか?」
 私は携帯のスケジュールアプリを開きながら確認する。
「今日だ」
「今日? いきなりですか?」
「そうだ。もうすぐやってくる。今日だけは特別支援学校の先生が同伴して、この練習場所やキミたちを見ておきたいらしい」
 伊知川くん1人を連れてくるだけで、大げさな話になってしまっていた。
「アヤノさんは校門で待って、伊知川くんをここへ案内してやってくれ」
「はい」と私が返事すると「アヤノだけなのか? 何で私と梨香は、一緒に出迎えちゃいけないんだ?」とチヒロがいつものように食ってかかる。
「キミたちはやることがある。まずチヒロさんは帽子をかぶってピンクに染まった髪を隠すんだ」
「は?」
「梨香さんはそのはだけた胸元を閉めて、口紅を落とせ」
「えー! 私も!?」
「特別支援学校の先生がキミたちを見て、一緒に活動するのを取り消されたら困るだろ?」
 チヒロは「チッ! 今日だけだからな!」と舌打ちして、カバンからキャップを取り出す。
「分かりました」と梨香も渋々、了承した。

 私と島田先生が校門の前で待っていると、歩いて向かってくる伊知川くんが見えた。伊知川くんの隣には年配の男の先生がいる。
「教頭の山下です。よろしくお願いします」と同伴の先生は丁寧に頭を下げた。この人、教頭だったんだ。伊知川くんは緊張して、まったく何も喋らない。
 そのまま島田先生と私が先導し、校舎に入った。
「伊知川さんは、特支の中では優秀な生徒です。こういった通常の高校との交流した実績は貴重で、就職の際に有利になると思っていますので、ありがたいです」
 階段を上っている途中で、同伴の教頭先生が島田先生に話しかける。
「伊知川くんは、卒業したら就職する予定なの?」
 私は思い切って、伊知川くんに聞いてみた。
「はい。ボクらは卒業したら、A型とかB型の作業所に行くか、障がい者採用で企業に勤めるか、本当に運がよかったら市役所に採用してもらえます」
 伊知川くんの選択肢に、大学はない。障がい者採用って何だ? どうして、障がい者は健常者と別々にさせられてしまうのだろう? 高校だって、特支じゃなくて私たちと同じ、一般的な高校に入れればいいのに。
 伊知川くんと知り合ってから、障がい者の置かれている状況を少しずつ知るようになって、疑問に思うことが山ほどある。
「軽音部の練習場はここです」
 島田先生がドアを開けて、山下教頭と伊知川くんを招き入れる。
「すごい! ギターだ! ドラムだ!」
 伊知川くんは、楽器を見て声を上げる。
「こんなスタジオみたいな場所が高校にあるんですね」と山下教頭も練習場所に見入っている。
「ホームセンターで防音シートを買って、手作業で貼り付けて無理矢理スタジオのようにしたんです」
「私も昔、ギターをやっていたもので、これは部員が羨ましいです」と山下教頭は笑って、練習場にいる伊知川くんの写真を何枚か撮った。
 ようやく、キャップをかぶってピンク髪を隠したチヒロが入ってくる。
「もう、準備をしていいだろ?」
 その後ろには、胸元のボタンをしっかりと留めた梨香もいた。
 二人は山下教頭に挨拶をすると、さっそく演奏の準備を始める。チヒロのチューニングする音が響き渡った。
「じゃあ、伊知川さん、しっかりな。終わったらお母さんに電話をして、真っすぐに帰るんだぞ」
 そう言い残して、山下教頭は島田先生に連れられ、去っていった。
「さあ、やるぞ! こい!」
「え? ええ?」
 チヒロはいきなり、伊知川くんをボーカルマイクの前に立たせた。
 大丈夫だろうか?