唄うことでしか、ボクはボクになれない

 何が起こっているのか、私は状況をすぐに理解できない。
 これって、本気の告白? 私、こういう体験、初めてなんですけど。
「バンドをやっているのも、アヤノさんがいるからです。アヤノさんが喜んでくれるなら、やってみたいな、って思ってこのバンドに入ったんですよ。だから、誘ってくれた時、ボクは人生で一番ハッピーでした」
「そうなんだ」
「こんなこと、特別支援学校生のボクが言うべきじゃないのは分かっています」
「何で? そんなの関係ないじゃん」
「関係あります。音楽をやっている時だけ、ボクはアヤノさんと一緒にいられるけど、この先、別々の人生を歩まなければいけないのは分かっています」
「そんな悲しいこと、言わないで」
「だから、少しでも一緒にいられるように、バンドを頑張ります」
 弱々しく話す伊知川くんを見ると胸が締め付けられる。
「すいません。本当ならこの気持ちは隠しておくべきなんだろうけど、それでもやっぱり好きで、どうにもできなくて、すいません」
「謝らないでよ、バカ。私も、伊知川くんのこと、最近ずっと気になってるんだから」
「え?」
 ゆっくりと、私は両手で伊知川くんの顔をつつみ込んだ。何でこんな大胆なことをするのか、自分でも分からない。でも、伊知川くんに触れたくて仕方がない。
 私の手が震えている。
 ゆっくりと、私は親指で伊知川くんの目の下をなでた。
「アヤノさんの手、冷たい」
「あ、ごめん」と咄嗟(とっさ)に手を離そうとすると、その手を伊知川くんが握りしめた。
 伊知川くんの手、温かい……。
「あ、いや、すいません。その手を離してほしくなくて、つい……」
 お互いの顔が近付いてくる。
 私が近付けているような気もするし、伊知川くんが近付けているようにも思えた。もう、無意識で勝手に体が動いていく。
 同じバンドのメンバーで、こんなことしてもいいのだろうか? でも、止められない。
 すぐそこに唇があった。
 今、気付いた。
 私、伊知川くんのこと、好きなんだ。
 前はあんなへなちょこの甘えん坊だったのに、日に日に大人っぽく成長し、音楽の才能を魅せつけられてしまった。
 守りたいっていうお姉さんのような気持ちから、尊敬に変わって、恋へと進んだ。
 伊知川くんの顔が近付きすぎて、焦点が合わない。でも、分かる。伊知川くんの唇はすぐそこにある。
 お互いの鼓動がシンクロしていった。
 私は、静かに目をつむる。

 ガチャ!
 その時、練習場のドアが開き、硬直して立ち尽くすチヒロが目に入った。
 え? 見られた!?
 慌てて、私は伊知川くんから離れる。
「あ、いや、忘れ物があって取りに来たんだけど……」
 チヒロは困惑しながら、練習場の中に入ってくる。そして、机の上にあったUSBを手に取った。
「ごめんな」と、チヒロは言う。
「あ、その、ちょうど今、私たちも帰ろうとしたところだよ。そろそろ私の親も迎えに来てる頃だしね」
「そうです。ボクも帰ります。お疲れ様でした」と言って、先に伊知川くんが足早に去っていった。
 今度は、チヒロと私が二人きりになる。あのキスしそうな場面を見られた後だから、すごく気まずい。
「アヤノは、伊知川と付き合っているのか?」
 チヒロは単刀直入に聞いてくる。
「違うよ。ただ、今日、気が付いたら、ああなっていて……」
「でも、伊知川はアヤノのことをほれ込んでいるぞ」
 実は、私も伊知川くんが好きだ、とは言えない。
「そうかな」
「あいつは、才能があるのは認める。人間も優しい。でも、悲しいが特別支援学校生だ。付き合っても、その先は厳しいぞ。やめた方がいい」
「何で、そんなこと言うの!」
 自分でも驚くほど、怒りの声を上げた。
「チヒロは伊知川くんのこと、見下げてるんでしょ? 大切なメンバーなのに、(ひど)い」
「違う。私は伊知川を見下げていない。むしろリスペクトしている。アヤノが不幸になるから言ってるんだ」
「大きなお世話だよ!」
「そうか。もう分かった。恋愛は勝手にやってくれりゃいいが、バンド活動は続けたいから、梨香にはこのことは内緒にしてくれ」
 そう言って、チヒロは帰っていく。
 窓の外を見ると、雪が舞っていた。

 あの日以来、チヒロは私と伊知川くんのことについて、一切触れなくなった。
 ただ、練習前後の時間は、チヒロと関係がギクシャクしている。以前のように冗談を言い合うこともない。
 冬休みに入り、コンテストを目前に控えて私たちは練習にのめり込んでいるから、いい意味でチヒロも私も、そして伊知川くんも雑念が消えていた。
 私も伊知川くんとは、あの日以来、二人きりになっていない。むしろ、二人きりにならないようにしている。
 あの日の夜、私はこっそりとSNSで伊知川くんに「コンテストが終わるまでは、何もなかったようにしよう」とメッセージを送った。伊知川くんも「はい。そうします」と納得してくれている。
 そして、練習にのめり込んでいたら、あっという間に年が明けた。

 新年早々、私たちは大垣駅南口の真ん前にある「出会いの泉」前で待ち合わせる。コンテストの東海予選に向けて、必勝祈願のために、一緒に初詣をすることになったからだ。
 ただ、今日は伊知川くんが来ない。毎年、伊知川家では元日に親戚の家に行くのが決まりらしい。
 元々のバンドメンバーの女子3人で出かけるのは、久しぶりだ。
 伊知川くんがいないから、ホッとする半面、悲しくもある。せっかくの正月だから同じ時間を過ごしたいし、顔も見たい。あの日以来、会えないと淋しくてたまらなくなった。恋をするというのは、こういうことだろうか。
 大垣駅は元日から、それなりに人が行き交っていた。
 改札を抜け、待ち合わせ場所の「出会いの泉」に着いたものの、まだ誰も来ていない。空は晴れているが、冷え込んでいて吐く息は白くなる。
「出会いの泉」は井戸舟と呼ばれる水槽のような箱があり、その下から地下水がこんこんと湧き上がっていた。大垣市はおいしい水が有名で、市内のいたるところにこのような自噴水がある。澄んでキレイな水だが、今日ばかりはその光景が寒々しい。
「よっ」と背後から声をかけられ、「ひゃっ!」と変な声を出してしまった。振り向くとチヒロがいる。
「何だよ、化け物を扱うみたいにさ」
「いや、ごめん」
 音楽をしていない状態でチヒロと二人きりになると、やっぱり気まずい。私は何を喋ればいいのか分からず無言になった。
 チヒロはまだ梨香が来ていないことを確認してから「今日はアイツいないけど、いいのか?」と聞いてくる。
「うん。それに、そもそも付き合っていないし」
 チヒロが伊知川くんのことを「アイツ」と呼ぶと、何だか腹が立つ。そもそも、伊知川くんのことで勘ぐられたくもない。
「あのさ」
「何?」
 私は刺々しく言った。
「本当は、年が明ける前に言いたかったけど、そんなタイミングがなくて、こんな正月に言って申し訳ないけどさ」
「何よ。回りくどいよ」
 また、伊知川くんと付き合うな、とか言いたいんでしょ?
「悪かった。伊知川と付き合わない方がいい、みたいなことを言ってしまって、ごめん」
 意外だった。チヒロは一度決めたら、なかなか考えを曲げない、頑固な性分なのに、どうしたんだろう。
「チヒロ……」
「もう余計なことは言わないからさ」
「いいの? バンド活動に影響するかもしれないから、困らない?」
「バンド活動とプライベートの恋愛はまったく別だ。私はプライベートなところまで口出すつもりはまったくない。それに、チヒロと伊知川の相性の良さが、いいパフォーマンスにつながっていることだって否定できない」
「私も、意固地になってごめん」
 思いがけないことを言われて、新年早々泣いてしまった。そういえば、伊知川くんと親しくなるにつれて、私は涙もろくなったように思う。
「お正月だってのに、何でアヤノが泣いてるの?」と梨香が遅れて待ち合わせ場所にやってきた。
「何でもないよ」と私が答える。
「どうせ、伊知川くんのことでしょ?」と梨香は笑う。
 え? 梨香は、チヒロから聞いているの? チヒロを見ると、必死に手を振って否定する。
「図星か」と梨香は勝ち誇った顔をした。
「『伊知川くんと付き合うけど、いい?』『いいよ』『嬉しい』みたいなやり取りでもしたんでしょ?」
 梨香の洞察力はすごすぎる。
 私とチヒロが無言でいると「これも大当たりか。新年から縁起がいいね」と梨香は言う。
「どうして、分かったの?」とチヒロが聞く。
「どうしても何も、アヤノと伊知川くんの関係なんて、観察していたらすぐ分かるじゃん。だから去年、わざわざ早く帰って二人きりにしてあげたでしょ?」
 そういえばあの日、チヒロが帰った後、梨香も急いで帰っていったのを思い出した。
 そういうことだったのか。