唄うことでしか、ボクはボクになれない

 夕日に染まる美登鯉(みどりばし)の上で、誰かが聞き取れないようなかすかな声で唄っている。
 橋の下にある水門川(すいもんがわ)沿い遊歩道のベンチで座っていたら、その高音の声が聞こえてきた。しかも、唄っている曲はかなり通なヤツだ。
 この曲は、ビートルズの「In My Life」。私のお父さんが家で時々聞いている。哀愁漂(あいしゅうただよ)うメロディは、この夕日にぴったりだ。
 どんな人が、唄っているのだろう?
 目を()らすと、揺れる川の水面に唄っている人の顔がおぼろげに映し出されていた。
 ひょっとして、あの男子? あんな高音の声なのに?
 私は遊歩道に設置された階段を走って上り、橋の上にいる人へと駆け寄る。私に歌声を聴かれたのを気まずく感じたのか、その男子は背を向けて立ち去ろうとしていた。
「待ってよ!」
 すると、男子は怯えた様子で立ち止まる。私と年齢は近いのかな? それにしても見慣れない制服だ。高校生だろうか?
「何ですか?」
 振り向くと、その男子は泣いていた。私は途端(とたん)動揺(どうよう)する。涙を流す男子にどう対処していいものか。
「あ、いや、いい歌声だなって思ってさ」
 謎がいっぱいだ。何で泣いているのか? そして、泣いた状態で何で唄っていたのか?
「ごめんなさい。悲しいことがあると、つい唄っちゃうんです……。お母さんからは人前で唄うなって厳しく言われてるけど……」
「お母さん?」
 この男子は、幼い子どものような言い方をする。
「ごめんなさい。もうここで唄わないから、怒らないで」
「怒る? 私が?」
「うん」
「あと、お母さんにも言わないでほしいです。お願いします」
 この男子と会話をしていて、違和感があった。私と同じ高校生くらいの年齢だろうと思うが、言っている内容が、あまりにも幼い。
「怒ってないから、こっちにおいでよ。キミさ、いい声してるね?」
「え? ボクの声?」
 男子は恐る恐る、私に近付いてくる。どれだけビビりなんだろう? そして、私とは少し距離をあけて、橋の欄干(らんかん)にもたれた。
「私は、大垣高校2年の井野亜弥乃。キミは?」
「ボク? 伊知川紘弥。……高等特別支援学校1年」
 違和感の正体がやっと分かった。特別支援学校ということは、この男の子は知的障がいかもしれない。
 紘弥くんはポケットからタオルハンカチを取り出すと、涙を拭く。
「伊知川くんは、何で泣きながら唄っていたの?」
「また今日も、家に帰ったらお母さんに怒られたんだ。それで悲しいことがあると、唄って元気になるというか……」
 泣いた理由を聞いて、思わず笑ってしまった。見た目は私と同じ高校生だけど、話している内容は小学生みたいだ。
「やっぱり、ボク、変ですよね? いつも家族や弟からバカにして笑われるんです」
「ごめんごめん。伊知川くんが面白いことを言うから笑っただけで、バカになんかしてないよ」
「ホント?」
「それよりさ、歌は悲しいから唄うもんじゃないよ。自分を認めさせたい、っていう心の叫びだよ」
「心の叫びですか?」
「そう。私、バンドマンなんだ」
「すごい! かっこいい」
「伊知川くんもボーカルなら、『オレの声を聞け!』みたいな気持ちで唄えばいい」
「ボクはボーカルではありません」
「でも、いい声してんじゃん。さっき唄ってたの、ビートルズの『In My Life』でしょ?」
「そうです。お父さんが好きな曲」
「もう一回、唄ってよ。今度は小声じゃなくてさ」
「ここで?」
「うん」
「恥ずかしいし、唄うとお母さんに怒られるし……」
「怒られればいいじゃん。それがロックだよ」
「怖いです」
「高校生なんだから、お母さんをビビらなくていいよ。私も、いっつも親に怒られてる。『髪を染めるな』だとか『ピアスなんてするな』だとか、うるさい。そんなの勝手に怒らせときゃいい。ほら、唄ってよ。いい声してんだから」
「はい」
 伊知川くんは心が幼いからか、とても素直だ。
 咳ばらいをしてから、西の空に向かって唄い出す。やっぱりキレイな声だが、遠慮して、まだ声は小さい。
「声が小さい。もっと大きな声で!」
 すると、伊知川くんの声量が上がった。
「もっと、声出るだろ! もっともっと、腹の底から伊知川くんの声を聞かせてよ!」
 すると、本当に大声で唄った。
 そして、その時、時間が止まった。
 まさか、……。マジで……? こんなの聞いたことがない。
 ……すごすぎる。
 声量が上がると、軽くハスキーなヴォイスになってセクシーさが出る。まるで、原曲を唄っているポール・マッカートニーが目の前にいるような気持ちになった。
 こんな幼い心の持ち主なのに、唄っていると成熟した大人にしか見えない。
 そもそもが短いこの曲を唄い終わると、私は立ち尽くしていた。そして、だいぶん遅れて拍手をする。
「伊知川くん、サイコーだよ」
「ありがとうございます」
 伊知川くんは顔を真っ赤にして、照れている。
「英語も流暢(りゅうちょう)だね?」
「リューチョー? どういう意味です?」
「ああ、英語が、きっと得意なんだね?」
「違います。ボクは英語はさっぱり分かりません。もちろん音符も読めないですし……」
「え? でも英語の歌詞を唄ってたじゃん」
「耳コピしているだけです。」
「耳コピだけで、あのレベルなの?」
「むしろ耳コピしかできません」
 伊知川くんは、天才なのかもしれない。
「これからも、伊知川くんは放課後にこの美登鯉橋に来る?」
「また、お母さんに怒られたらここに来ます……」
「お母さんがどうのこうのじゃなくってさ、自分の意思でここに来なよ」
「イシ?」
「そうだよ。お母さんじゃなくて、伊知川くんの人生だよ。私も来るからさ。また、会おう」
「自分のイシで?」
「そうだよ」
「分かりました。あの、……」
「何?」
「井口さんでしたっけ?」
「井野だよ」
「あ、ごめんなさい! ボク、名前覚えるのが苦手で……」
 それを聞いて、私はまた笑った。伊知川くんといると心が癒される。
「亜弥乃でいいよ。亜弥乃って呼んで。あいうえお、の『あ』から始まるから分かりやすいでしょ?」
「……アヤノさん、……アヤノさん。はい。覚えました」
「じゃあ、伊知川くん、またね」
 手を振ると、真っ赤な顔をした伊知川くんが手を振り返す。そして、私は家に帰った。
 あの声、いいな。すごくいい。
 伊知川くんは素直そうで、言うことを聞いてくれそうだ。
 明日、チヒロに言ってみよう。