梨歩に贈る指輪を決めようと思った時、店だけは最初から決めていた。
梨歩が左手の薬指につけている、あの桜の指輪。
あの指輪と同じブランド。
それ以外は考えなかった。
別に、似たデザインのものが欲しいわけじゃない。
ましてや、あいつと張り合うつもりなど微塵もなかった。
ただ。
あの指輪の隣につけるのなら、できる限り違和感のないものにしたかった。
それだけだった。
*
「いらっしゃいませ」
店内に入ると、一人の女性スタッフが俺に歩み寄ってきた。
「本日は、どのようなものをお探しでしょうか」
「婚約指輪を」
「かしこまりました」
女性は柔らかく微笑む。
「ご希望のデザインなどはございますか?」
「ある程度は」
「でしたら、こちらで詳しくお伺いしてもよろしいでしょうか」
「はい」
案内された席に腰を下ろす。
女性は名刺を差し出した。
「担当させていただきます、花岡と申します」
「ガーディナー亞紗斗ステファンです」
「ガーディナー様ですね。本日はありがとうございます」
花岡。
その名前を記憶の片隅に留めながら、俺はスマートフォンを取り出した。
「この指輪なんですが」
画面に映っていたのは、梨歩の左手だった。
以前、偶然撮った写真だ。
薬指には、あの指輪がある。
満開の桜を思わせる繊細なモチーフ。
その中心には、小さなピンクダイヤ。
「この指輪と、一緒につけられるものにしたい」
「……」
花岡さんの表情が止まった。
ほんの一瞬だった。
「こちらの指輪……」
「ああ」
「実物を、お持ちでしょうか?」
「いや。本人が持っています」
「そう、ですか……」
明らかに様子がおかしい。
俺が眉を寄せると、花岡さんは写真をじっと見つめたまま、静かに尋ねた。
「差し支えなければ、この指輪をお持ちの方のお名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「桜ヶ丘梨歩――」
「……!」
息を呑む音が聞こえた。
そして。
「やっぱり……」
小さく呟いた花岡さんの目が、見る間に潤んでいく。
「ご存じなんですか?」
「はい」
花岡さんは、しばらく言葉を探すように黙っていた。
「その指輪は……私が担当させていただいたものです」
「……はい?」
思わず聞き返した。
「桜ヶ丘梨歩様へ贈る指輪として、一人の男性からご相談をいただきました」
その瞬間。
誰なのか理解した。
「柴田……涼平か」
「……はい」
花岡さんが頷いた。
*
彼は最初、Webから問い合わせをしてきたらしい。
店に行くことが難しい。
だが、どうしても恋人に贈りたい指輪がある。
そんな内容だったという。
「柴田様は、入院されていました」
「ええ」
「ですので、何度か私が病院まで伺って、お打ち合わせをさせていただいたんです」
何度も。
何度も。
打ち合わせを重ねた。
桜が一番、彼女を象徴する花であり、一番似合う花だということ。
そして何より、二人にとって大切な思い出が桜にあること。
「ピンクダイヤを入れたいとおっしゃったのも、柴田様でした」
花岡さんは、懐かしむように目を細めた。
「最後まで悩まれていたのが、内側の刻印でした」
「刻印?」
「はい」
花岡さんが紙にペンを走らせる。
Ryōhei。
Riho。
そして、その二つの名前を繋ぐように描かれた――∞。
「二人の名前を、インフィニティで繋いでほしい、と」
「……」
「ずっと続くように、と」
胸の奥が、静かに締めつけられた。
あの指輪に、そんな意味まで込められていたとは知らなかった。
「今、柴田様は……」
花岡さんが、一度言葉を止める。
「……」
俺は答えられなかった。
いや。
答えなくてはならない。
「亡くなりました」
「……」
「七年前に」
花岡さんの瞳が大きく揺れた。
「そう……だったんですね」
俯いた彼女の目から、一粒の涙が落ちた。
「申し訳ありません」
「あなたが謝る必要はないです」
「何となく……わかっていたんです」
花岡さんは、涙を拭った。
「お体の状態を考えれば。でも、完成した指輪をお渡しした時、本当に嬉しそうだったので……」
その光景が、なぜか目に浮かんだ。
病室で。
死がすぐそこまで迫っている中で。
梨歩のための指輪を見つめる涼平。
きっと。
あいつは、自分がつけさせてやれる未来などないことを知っていた。
それでも作った。
梨歩に遺すために。
「……彼女は、今でもその指輪を大切につけています」
「そうですか」
花岡さんが微笑んだ。
涙を浮かべながら。
「よかった……」
その言葉だけで。
涼平がどれほど梨歩を愛していたのか、この人も知っているのだとわかった。
*
「一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
「はい」
「ガーディナー様は……そのことをご存じの上で」
写真の中の指輪へ視線を向ける。
「この指輪と重ねてつけられる婚約指輪を、お探しなのですか?」
「はい」
迷う必要などなかった。
「俺が梨歩と出会ったのは、あいつが亡くなった二カ月後です」
「……」
あの時。
俺は何も知らなかった。
ただ、エディや若葉を通して、梨歩と顔を合わせるようになった。
最初は友人の友人。
それだけだった。
何度か会ううちに、少しずつ距離が縮まった。
それでも。
梨歩の左手にある指輪について、俺は何も訊かなかった。
ある日、キリトが梨歩の指輪について触れた。
『梨歩さん。その指輪、綺麗ですね』
悪意などなかった。
ただ気になっただけなのだろう。
けれど。
『ああ、これは昔、大切な人にもらったもので――』
その瞬間。
梨歩の目から涙が零れた。
俺は、その涙を見た。
事情を問いただすことも。
慰めの言葉をかけることもしなかった。
できなかった、と言った方が正しいのかもしれない。
周囲が慌てふためく中、俺は少し離れたところで、ヴァイオリンを弾いた。
パッヘルベルのカノン――
なぜ、あの曲を選んだのか。
今でも説明はできない。
ただ。
梨歩が泣き終わるまで。
一人で泣いていると感じないように。
言葉の代わりに音を置いておきたかった。
恐らく、あの頃からだ。
俺が、梨歩を意識するようになったのは。
そして、梨歩も。
けれど、何も起こらなかった。
俺も踏み込まなかった。
梨歩も踏み込んでこなかった。
そんな関係がしばらく続いた。
そして。
ある日。
俺は見てしまった。
梨歩が、あの指輪を捨てようとしているところを。
「彼女は一度、その指輪を手放そうとした」
「え……」
「でも、できないと言って泣いた。涼平以外の男を意識しながら、涼平にもらった指輪を持ち続けることに罪悪感すら抱いていた」
俺は続けた。
「だから俺は、『忘れなくていい』と伝えた。手放すのも苦しいほど大切なものなら、手放すべきじゃない。それなら、俺が全部受け入れる、と」
「……」
「何か?」
「あ、いえ。すごい、包容力だなと思いまして」
「そうですか」
「ええ。彼女の過去の恋人の存在ごと、受け入れられたってことですよね。なかなかできることではないです」
「もともと比べるものでもないからな。俺は俺で彼女に惹かれた。その彼女が大切にしている物を奪ってまで、張り合う気はなかった。ただそれだけだ」
花岡さんは、しばらく何も言わなかった。
そして。
「……素敵ですね」
「何が?」
「ガーディナー様が、です」
「俺?」
「はい」
花岡さんは、目元を拭いながら笑った。
「柴田様の指輪を外して、自分の指輪につけ替えてほしいとは思わなかったんですね」
「思わない」
即答した。
「あれは梨歩が愛された証だから」
「……」
「俺が消していいものじゃない」
それに。
「消す必要もない」
花岡さんの瞳が、再び潤んだ。
「でしたら」
彼女が姿勢を正した。
「ぜひ、私にお手伝いさせてください」
「……」
「柴田様が梨歩様へ託した指輪も」
桜の指輪を指す。
「そして、これからガーディナー様が梨歩様へ贈る指輪も」
その隣。
まだ何もない場所を指して。
「二つとも、美しく見えるものを作りましょう」
俺は小さく息を吐いた。
「はい」
「既製品では難しいと思います」
「構いません」
「ほぼ完全なフルオーダーになります」
「それで充分です」
「制作期間も通常より長くなります」
「問題ありません」
花岡さんが、少し笑った。
「一切迷われないんですね」
「梨歩に贈るものなので」
「なるほど」
そして。
長い指輪作りが始まった。
*
最初のデザインは、シンプルなストレートラインのソリティアタイプ。
ダメだ。桜と干渉し合う。
修正。
二度目。V字の中央に一粒ダイヤが入った、プラチナのリング。
これでは桜と張り合っているように見える。
また修正。
まず、デザイン以前にリングの幅。
曲線。
石の大きさ。
爪の高さ。
事細かに書き出していく。
桜の指輪と重ねた際、互いの装飾がぶつからないよう、ミリ単位で調整した。
「ここを、もう少し細くするのは?」
「可能ですが、強度との兼ね合いがあります」
「では、曲線を変える」
「この部分ですね」
「はい」
何度店へ通ったかわからない。
以前の俺がこんなことをする自分を見たら、鼻で笑っただろう。
結婚どころか。
誰か一人を生涯愛することさえ、以前の俺には想像できなかった。
だが。
梨歩の左手に。
あの桜と並んで自分の指輪がある未来を想像すると。
唯一無二のものを贈りたいと思うほかなかった。
きっと、あいつもそう思ってあの指輪を選んだのだろう。
*
そして。
数カ月後。
「ガーディナー様」
花岡さんが、白い手袋をつけた手でケースを差し出した。
「完成いたしました」
ゆっくりと蓋が開く。
「……」
言葉を失った。
細身のプラチナ。
柔らかな曲線を描くリング。
梨歩の桜の指輪に沿うことだけを考え、何度も修正を重ねた形。
一つだけでも美しい。
だが。
花岡さんが用意していた桜の指輪の模型と重ねると。
意味が変わった。
二本のリングが――まるで最初から一つになるために作られたように重なった。
花岡さんもしばらく見つめていた。
そして静かに言った。
「私も長くこの仕事をしていますが」
少しだけ声を震わせる。
「こんなにも美しく重なり合う二本のリングは、初めて見ました」
桜。
そして。
その桜を包み込むように寄り添う、プラチナの曲線。
どちらも消していない。
どちらも邪魔をしていない。
二つあるからこそ。
一つの形になる。
「柴田様の指輪が、過去から梨歩様へ贈られたものだとしたら」
花岡さんは、新しい指輪へ目を落とした。
「こちらは、未来へ続いていく指輪ですね」
「……ああ」
「きっと、喜ばれます」
ケースを閉じる。
そして俺へ差し出しながら。
花岡さんは微笑んだ。
「梨歩様は、本当に深く愛されていらっしゃいますね」
俺はケースを受け取った。
そして、迷うことなく答える。
「初めから、そのつもりだ」
過去を奪うつもりはない。
忘れさせるつもりもない。
あの指輪がこれからも梨歩の指にあるのなら。
俺の指輪は。
その隣にいればいい。
二つの愛が。
互いを否定することなく。
同じ指の上で、重なり合うように。
過去から託された愛と、これから始まる愛が。
同じ光を受けながら、梨歩の左手で永遠に寄り添うように。
それが。
俺が梨歩に贈る――
唯一無二の、誓いの指輪だ。
梨歩が左手の薬指につけている、あの桜の指輪。
あの指輪と同じブランド。
それ以外は考えなかった。
別に、似たデザインのものが欲しいわけじゃない。
ましてや、あいつと張り合うつもりなど微塵もなかった。
ただ。
あの指輪の隣につけるのなら、できる限り違和感のないものにしたかった。
それだけだった。
*
「いらっしゃいませ」
店内に入ると、一人の女性スタッフが俺に歩み寄ってきた。
「本日は、どのようなものをお探しでしょうか」
「婚約指輪を」
「かしこまりました」
女性は柔らかく微笑む。
「ご希望のデザインなどはございますか?」
「ある程度は」
「でしたら、こちらで詳しくお伺いしてもよろしいでしょうか」
「はい」
案内された席に腰を下ろす。
女性は名刺を差し出した。
「担当させていただきます、花岡と申します」
「ガーディナー亞紗斗ステファンです」
「ガーディナー様ですね。本日はありがとうございます」
花岡。
その名前を記憶の片隅に留めながら、俺はスマートフォンを取り出した。
「この指輪なんですが」
画面に映っていたのは、梨歩の左手だった。
以前、偶然撮った写真だ。
薬指には、あの指輪がある。
満開の桜を思わせる繊細なモチーフ。
その中心には、小さなピンクダイヤ。
「この指輪と、一緒につけられるものにしたい」
「……」
花岡さんの表情が止まった。
ほんの一瞬だった。
「こちらの指輪……」
「ああ」
「実物を、お持ちでしょうか?」
「いや。本人が持っています」
「そう、ですか……」
明らかに様子がおかしい。
俺が眉を寄せると、花岡さんは写真をじっと見つめたまま、静かに尋ねた。
「差し支えなければ、この指輪をお持ちの方のお名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「桜ヶ丘梨歩――」
「……!」
息を呑む音が聞こえた。
そして。
「やっぱり……」
小さく呟いた花岡さんの目が、見る間に潤んでいく。
「ご存じなんですか?」
「はい」
花岡さんは、しばらく言葉を探すように黙っていた。
「その指輪は……私が担当させていただいたものです」
「……はい?」
思わず聞き返した。
「桜ヶ丘梨歩様へ贈る指輪として、一人の男性からご相談をいただきました」
その瞬間。
誰なのか理解した。
「柴田……涼平か」
「……はい」
花岡さんが頷いた。
*
彼は最初、Webから問い合わせをしてきたらしい。
店に行くことが難しい。
だが、どうしても恋人に贈りたい指輪がある。
そんな内容だったという。
「柴田様は、入院されていました」
「ええ」
「ですので、何度か私が病院まで伺って、お打ち合わせをさせていただいたんです」
何度も。
何度も。
打ち合わせを重ねた。
桜が一番、彼女を象徴する花であり、一番似合う花だということ。
そして何より、二人にとって大切な思い出が桜にあること。
「ピンクダイヤを入れたいとおっしゃったのも、柴田様でした」
花岡さんは、懐かしむように目を細めた。
「最後まで悩まれていたのが、内側の刻印でした」
「刻印?」
「はい」
花岡さんが紙にペンを走らせる。
Ryōhei。
Riho。
そして、その二つの名前を繋ぐように描かれた――∞。
「二人の名前を、インフィニティで繋いでほしい、と」
「……」
「ずっと続くように、と」
胸の奥が、静かに締めつけられた。
あの指輪に、そんな意味まで込められていたとは知らなかった。
「今、柴田様は……」
花岡さんが、一度言葉を止める。
「……」
俺は答えられなかった。
いや。
答えなくてはならない。
「亡くなりました」
「……」
「七年前に」
花岡さんの瞳が大きく揺れた。
「そう……だったんですね」
俯いた彼女の目から、一粒の涙が落ちた。
「申し訳ありません」
「あなたが謝る必要はないです」
「何となく……わかっていたんです」
花岡さんは、涙を拭った。
「お体の状態を考えれば。でも、完成した指輪をお渡しした時、本当に嬉しそうだったので……」
その光景が、なぜか目に浮かんだ。
病室で。
死がすぐそこまで迫っている中で。
梨歩のための指輪を見つめる涼平。
きっと。
あいつは、自分がつけさせてやれる未来などないことを知っていた。
それでも作った。
梨歩に遺すために。
「……彼女は、今でもその指輪を大切につけています」
「そうですか」
花岡さんが微笑んだ。
涙を浮かべながら。
「よかった……」
その言葉だけで。
涼平がどれほど梨歩を愛していたのか、この人も知っているのだとわかった。
*
「一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
「はい」
「ガーディナー様は……そのことをご存じの上で」
写真の中の指輪へ視線を向ける。
「この指輪と重ねてつけられる婚約指輪を、お探しなのですか?」
「はい」
迷う必要などなかった。
「俺が梨歩と出会ったのは、あいつが亡くなった二カ月後です」
「……」
あの時。
俺は何も知らなかった。
ただ、エディや若葉を通して、梨歩と顔を合わせるようになった。
最初は友人の友人。
それだけだった。
何度か会ううちに、少しずつ距離が縮まった。
それでも。
梨歩の左手にある指輪について、俺は何も訊かなかった。
ある日、キリトが梨歩の指輪について触れた。
『梨歩さん。その指輪、綺麗ですね』
悪意などなかった。
ただ気になっただけなのだろう。
けれど。
『ああ、これは昔、大切な人にもらったもので――』
その瞬間。
梨歩の目から涙が零れた。
俺は、その涙を見た。
事情を問いただすことも。
慰めの言葉をかけることもしなかった。
できなかった、と言った方が正しいのかもしれない。
周囲が慌てふためく中、俺は少し離れたところで、ヴァイオリンを弾いた。
パッヘルベルのカノン――
なぜ、あの曲を選んだのか。
今でも説明はできない。
ただ。
梨歩が泣き終わるまで。
一人で泣いていると感じないように。
言葉の代わりに音を置いておきたかった。
恐らく、あの頃からだ。
俺が、梨歩を意識するようになったのは。
そして、梨歩も。
けれど、何も起こらなかった。
俺も踏み込まなかった。
梨歩も踏み込んでこなかった。
そんな関係がしばらく続いた。
そして。
ある日。
俺は見てしまった。
梨歩が、あの指輪を捨てようとしているところを。
「彼女は一度、その指輪を手放そうとした」
「え……」
「でも、できないと言って泣いた。涼平以外の男を意識しながら、涼平にもらった指輪を持ち続けることに罪悪感すら抱いていた」
俺は続けた。
「だから俺は、『忘れなくていい』と伝えた。手放すのも苦しいほど大切なものなら、手放すべきじゃない。それなら、俺が全部受け入れる、と」
「……」
「何か?」
「あ、いえ。すごい、包容力だなと思いまして」
「そうですか」
「ええ。彼女の過去の恋人の存在ごと、受け入れられたってことですよね。なかなかできることではないです」
「もともと比べるものでもないからな。俺は俺で彼女に惹かれた。その彼女が大切にしている物を奪ってまで、張り合う気はなかった。ただそれだけだ」
花岡さんは、しばらく何も言わなかった。
そして。
「……素敵ですね」
「何が?」
「ガーディナー様が、です」
「俺?」
「はい」
花岡さんは、目元を拭いながら笑った。
「柴田様の指輪を外して、自分の指輪につけ替えてほしいとは思わなかったんですね」
「思わない」
即答した。
「あれは梨歩が愛された証だから」
「……」
「俺が消していいものじゃない」
それに。
「消す必要もない」
花岡さんの瞳が、再び潤んだ。
「でしたら」
彼女が姿勢を正した。
「ぜひ、私にお手伝いさせてください」
「……」
「柴田様が梨歩様へ託した指輪も」
桜の指輪を指す。
「そして、これからガーディナー様が梨歩様へ贈る指輪も」
その隣。
まだ何もない場所を指して。
「二つとも、美しく見えるものを作りましょう」
俺は小さく息を吐いた。
「はい」
「既製品では難しいと思います」
「構いません」
「ほぼ完全なフルオーダーになります」
「それで充分です」
「制作期間も通常より長くなります」
「問題ありません」
花岡さんが、少し笑った。
「一切迷われないんですね」
「梨歩に贈るものなので」
「なるほど」
そして。
長い指輪作りが始まった。
*
最初のデザインは、シンプルなストレートラインのソリティアタイプ。
ダメだ。桜と干渉し合う。
修正。
二度目。V字の中央に一粒ダイヤが入った、プラチナのリング。
これでは桜と張り合っているように見える。
また修正。
まず、デザイン以前にリングの幅。
曲線。
石の大きさ。
爪の高さ。
事細かに書き出していく。
桜の指輪と重ねた際、互いの装飾がぶつからないよう、ミリ単位で調整した。
「ここを、もう少し細くするのは?」
「可能ですが、強度との兼ね合いがあります」
「では、曲線を変える」
「この部分ですね」
「はい」
何度店へ通ったかわからない。
以前の俺がこんなことをする自分を見たら、鼻で笑っただろう。
結婚どころか。
誰か一人を生涯愛することさえ、以前の俺には想像できなかった。
だが。
梨歩の左手に。
あの桜と並んで自分の指輪がある未来を想像すると。
唯一無二のものを贈りたいと思うほかなかった。
きっと、あいつもそう思ってあの指輪を選んだのだろう。
*
そして。
数カ月後。
「ガーディナー様」
花岡さんが、白い手袋をつけた手でケースを差し出した。
「完成いたしました」
ゆっくりと蓋が開く。
「……」
言葉を失った。
細身のプラチナ。
柔らかな曲線を描くリング。
梨歩の桜の指輪に沿うことだけを考え、何度も修正を重ねた形。
一つだけでも美しい。
だが。
花岡さんが用意していた桜の指輪の模型と重ねると。
意味が変わった。
二本のリングが――まるで最初から一つになるために作られたように重なった。
花岡さんもしばらく見つめていた。
そして静かに言った。
「私も長くこの仕事をしていますが」
少しだけ声を震わせる。
「こんなにも美しく重なり合う二本のリングは、初めて見ました」
桜。
そして。
その桜を包み込むように寄り添う、プラチナの曲線。
どちらも消していない。
どちらも邪魔をしていない。
二つあるからこそ。
一つの形になる。
「柴田様の指輪が、過去から梨歩様へ贈られたものだとしたら」
花岡さんは、新しい指輪へ目を落とした。
「こちらは、未来へ続いていく指輪ですね」
「……ああ」
「きっと、喜ばれます」
ケースを閉じる。
そして俺へ差し出しながら。
花岡さんは微笑んだ。
「梨歩様は、本当に深く愛されていらっしゃいますね」
俺はケースを受け取った。
そして、迷うことなく答える。
「初めから、そのつもりだ」
過去を奪うつもりはない。
忘れさせるつもりもない。
あの指輪がこれからも梨歩の指にあるのなら。
俺の指輪は。
その隣にいればいい。
二つの愛が。
互いを否定することなく。
同じ指の上で、重なり合うように。
過去から託された愛と、これから始まる愛が。
同じ光を受けながら、梨歩の左手で永遠に寄り添うように。
それが。
俺が梨歩に贈る――
唯一無二の、誓いの指輪だ。



