帰宅後に、なんとなく兄の部屋のダーウィンの様子を見に行く。餌は本当に、スプラウトや野菜と人工飼料に変わっていて、餌のトレーにたっぷり入ってはいるけれど、相変わらずあまり食べずにシェルターで眠っている。コオロギがいないだけで、こんなに静かなのか、と改めて思った。
その静寂の中、宿題もあっという間に終える。時間が余ったから、スミレノートを開いて『別れのワルツ』を流しながら、本題に入ろうとしていた。
それは、スミレノートの「好きなところ」という見出しを「嫌いなところ」に書き換えることだ。嫌いになれば、今後も真似しようとは思わないはずだ。
二百十八個の項目を、上から順に嫌いなところだと、念じながら目で追っていく。
睫毛が長いところ、綺麗なところ、みんなに好かれるところ……。一つ一つを嫌いに変換させて、脳に思い込ませようとするが、なかなか上手くいかない。
すると、もういないはずなのに、またコオロギが頭の中で鳴きだした。『別れのワルツ』と勝手に競演するから、イヤホンを外し耳を塞ぐ。身体がスミレを嫌いになることを拒絶している。いたたまれなくなって、ベッドに潜り込んだ。涙が止まらなくて、頬を濡らした。
*
六月の最終金曜の朝、靴箱を開けると、水色の封筒が入っていて、表には「モカへ」と書かれていた。丸くて右上がりで、少し不器用なこの文字は、スミレのもので間違いない。大きく息を吐きながら、中の手紙を取り出す。
『放課後、音楽室の隣の空き教室で待ってる。 スミレ』
文面はこの一行だけだった。もう逃げられない――。
呼び出されたのは、きっと嫌われてるから。怒られるはずだし、友達を辞めたいとか言われるのかも……。話すのもこれが最後になるのかな、と思うと心臓をぎゅっと掴まれたみたいに苦しくなった。
真似ばかりしてきた私に、スミレが愛想を尽かさないはずがない。そう思うと指がブルブル震えてきて、手紙を落としそうになる。でも、行かないという選択肢はなかった。スミレを失う覚悟なら、毎日少しずつシミュレーションしてあるし、嫌いになる練習もしてきたから、きっと大丈夫なはずだ。
この日のスミレはかなり遅刻してきたから、顔を合わせることなく放課後になった。
スミレは先生と話していたから、先に廊下に出て、真っ直ぐ音楽室の方向へ歩いていく。余裕をもって向かい、気持ちを整えようとしていたのに、途中でまた、誰かが弾く『別れのワルツ』が聴こえてきて足を止める。今日も不安定に音符を奏でていて、可笑しくなって吹き出してしまう。
だって、私とスミレの決別を象徴するように、タイミングよく弾き始めたから。皮肉だと思った。もう、私たちの終わりなのに、スミレの曲が流れてくるなんて……。毎晩イヤホンで聴いていた完璧なリズムではないけれど、これはスミレが一番似合う美しい曲だ。
空き教室のドアを開けると、使われない机と椅子が積まれた奥で、西日を浴びた埃がゆっくり舞っていて、窓辺にスミレが立っていた。いつの間にか追い越されていたらしい。逆光に縁取られた輪郭が淡く発光しているように見える。本当にヴィーナスみたいだ。
走って来たらしく、前髪がパックリ割れてしまっていて、直したい衝動に駆られる……。でも、もうその仕事から降りたのだ。触れる権利はないだろう。
上から二番目のシャツのボタンも気になる。ぼこぼこと不格好に縫いつけられていて、今にも取れてしまいそうで、自分で付けたのだとすぐに分かった。私なら綺麗に仕上げられるのに。
「来てくれたんだね」
「……うん」
沈黙の間にも、隣の音楽室では、ピアノがつっかえては弾き直すのを繰り返している。
「あのさ、なんで避けるの?」
もう、観念するしかない。退路はこの一言で塞がれてしまった。もともと逃げるつもりはないけれど、スミレが哀しそうにこちらを見ているから、ピーチピンクのティントを乗せた唇をきつく結んで気合を入れる。スミレの方は私の色に気づいたみたいで、ふっと強張った表情をゆるませる。自分が選んだ色を私が付けていることに安心したのかも。
でも、これを告げれば、スミレの美しい顔を歪ませるはずだ。きっと辛い気持ちにさせてしまうだろう……。それだけはしたくなかったのに。だけど、もう制御できない――。
「あなたが嫌いだから」
スミレは、予想通り傷ついたような顔をするが、怒らずに、真っ直ぐこちらに向き合っている。これで終わりなんだと思い、本心をぶち撒けることにした。
「だって、綺麗だから、みんなに好かれるから」と言う途中で詰まってしまう。でも、気づけば続けていた。彼氏ができてモデルにスカウトされたこと、私より何もかも持っているのが羨ましかったことも、吐き出してしまった。嫉妬なんてしてないと思っていたけれど、勝手に言葉が溢れてしまう。
四月からずっと溜めてきたものが、ダムが壊れたみたいに、汚い泥水となって一気に流れ出す。全部本当のことだから、みっともなくて、惨めだ。喉が焼けるように痛くて、辛い。そして最後に一番言いたくなかった言葉が、こぼれ落ちた。
「あなたになりたかった」
声が割れてしまい、「だから嫌いだった」という言葉は、ほとんど吐息混じりで、伝わったかどうかも分からない。
『別れのワルツ』はまだ続いているけれど、この穏やかな曲は今のこの状況にはミスマッチだ。呼吸が速まって、胸の鼓動も早鐘を打っている。
しかし、スミレの顔は崩れていなくて、こんな時でも美しい。しっかりと、私の目を見つめている。その姿は凛としていて、流石だった。
きっと、彼女は清々しているに違いない。真似ばかりする私のことが、気持ち悪かったはずだから。嫌いだろうし、先にこちらから言ったから、拒絶されても耐えられるだろう。
「そうだよね……」
スミレの声は、思っていたよりずっと普通だった。やっぱり、怒りの感情はゼロだ。
「嫌いなのは、知ってる」
その続きを聞くのが怖くて私は俯いてしまう。往生際が悪いけれど、顔を上げることが出来ない。震える手を抑えるため、拳を固く握った。
「でも、私は……」
言いかけた言葉のところで、隣の音楽室のピアノがふっと途切れて、校舎中が静寂に包まれた。音のない世界は、恐怖を倍増させる。
「大好きだよ」
驚きすぎて、顔を上げると、スミレは笑っていた。この世界の主役はやはり、スミレなのだ。
怒られたり嫌われたりする覚悟も、スミレを失う覚悟もしてきたのに、そんな言葉をもらえると思わなかった。
私の中の哀しくて美しいスミレは、影も形もなくて、目の前で微笑んでいるのは、私の知らない、本物のスミレなのだろう。なぜ、どうして、と思考を巡らせる。
「なんて綺麗な笑顔なの」
あれほど憎んだ彼女が、こんなにも優しくて柔らかく笑っている。
音楽室のピアノがまた最初から始まった。今回は今までで一番上手に弾けていて、スミレに似合いすぎている。知らぬ間に、頬を涙が伝っていた。嬉しいのか悔しいのか、悲しいのか救われたのか――。結論は出ないまま、視界がゆっくりとぼやけていく。
初めて正面から向き合えたにもかかわらず、白く滲んだ世界の中では、彼女の綺麗な顔が見えない。
翌朝、校庭の脇の花壇では、名前のない青い花が二輪揺れていた。前と同じ花かどうかは分からない。
了
その静寂の中、宿題もあっという間に終える。時間が余ったから、スミレノートを開いて『別れのワルツ』を流しながら、本題に入ろうとしていた。
それは、スミレノートの「好きなところ」という見出しを「嫌いなところ」に書き換えることだ。嫌いになれば、今後も真似しようとは思わないはずだ。
二百十八個の項目を、上から順に嫌いなところだと、念じながら目で追っていく。
睫毛が長いところ、綺麗なところ、みんなに好かれるところ……。一つ一つを嫌いに変換させて、脳に思い込ませようとするが、なかなか上手くいかない。
すると、もういないはずなのに、またコオロギが頭の中で鳴きだした。『別れのワルツ』と勝手に競演するから、イヤホンを外し耳を塞ぐ。身体がスミレを嫌いになることを拒絶している。いたたまれなくなって、ベッドに潜り込んだ。涙が止まらなくて、頬を濡らした。
*
六月の最終金曜の朝、靴箱を開けると、水色の封筒が入っていて、表には「モカへ」と書かれていた。丸くて右上がりで、少し不器用なこの文字は、スミレのもので間違いない。大きく息を吐きながら、中の手紙を取り出す。
『放課後、音楽室の隣の空き教室で待ってる。 スミレ』
文面はこの一行だけだった。もう逃げられない――。
呼び出されたのは、きっと嫌われてるから。怒られるはずだし、友達を辞めたいとか言われるのかも……。話すのもこれが最後になるのかな、と思うと心臓をぎゅっと掴まれたみたいに苦しくなった。
真似ばかりしてきた私に、スミレが愛想を尽かさないはずがない。そう思うと指がブルブル震えてきて、手紙を落としそうになる。でも、行かないという選択肢はなかった。スミレを失う覚悟なら、毎日少しずつシミュレーションしてあるし、嫌いになる練習もしてきたから、きっと大丈夫なはずだ。
この日のスミレはかなり遅刻してきたから、顔を合わせることなく放課後になった。
スミレは先生と話していたから、先に廊下に出て、真っ直ぐ音楽室の方向へ歩いていく。余裕をもって向かい、気持ちを整えようとしていたのに、途中でまた、誰かが弾く『別れのワルツ』が聴こえてきて足を止める。今日も不安定に音符を奏でていて、可笑しくなって吹き出してしまう。
だって、私とスミレの決別を象徴するように、タイミングよく弾き始めたから。皮肉だと思った。もう、私たちの終わりなのに、スミレの曲が流れてくるなんて……。毎晩イヤホンで聴いていた完璧なリズムではないけれど、これはスミレが一番似合う美しい曲だ。
空き教室のドアを開けると、使われない机と椅子が積まれた奥で、西日を浴びた埃がゆっくり舞っていて、窓辺にスミレが立っていた。いつの間にか追い越されていたらしい。逆光に縁取られた輪郭が淡く発光しているように見える。本当にヴィーナスみたいだ。
走って来たらしく、前髪がパックリ割れてしまっていて、直したい衝動に駆られる……。でも、もうその仕事から降りたのだ。触れる権利はないだろう。
上から二番目のシャツのボタンも気になる。ぼこぼこと不格好に縫いつけられていて、今にも取れてしまいそうで、自分で付けたのだとすぐに分かった。私なら綺麗に仕上げられるのに。
「来てくれたんだね」
「……うん」
沈黙の間にも、隣の音楽室では、ピアノがつっかえては弾き直すのを繰り返している。
「あのさ、なんで避けるの?」
もう、観念するしかない。退路はこの一言で塞がれてしまった。もともと逃げるつもりはないけれど、スミレが哀しそうにこちらを見ているから、ピーチピンクのティントを乗せた唇をきつく結んで気合を入れる。スミレの方は私の色に気づいたみたいで、ふっと強張った表情をゆるませる。自分が選んだ色を私が付けていることに安心したのかも。
でも、これを告げれば、スミレの美しい顔を歪ませるはずだ。きっと辛い気持ちにさせてしまうだろう……。それだけはしたくなかったのに。だけど、もう制御できない――。
「あなたが嫌いだから」
スミレは、予想通り傷ついたような顔をするが、怒らずに、真っ直ぐこちらに向き合っている。これで終わりなんだと思い、本心をぶち撒けることにした。
「だって、綺麗だから、みんなに好かれるから」と言う途中で詰まってしまう。でも、気づけば続けていた。彼氏ができてモデルにスカウトされたこと、私より何もかも持っているのが羨ましかったことも、吐き出してしまった。嫉妬なんてしてないと思っていたけれど、勝手に言葉が溢れてしまう。
四月からずっと溜めてきたものが、ダムが壊れたみたいに、汚い泥水となって一気に流れ出す。全部本当のことだから、みっともなくて、惨めだ。喉が焼けるように痛くて、辛い。そして最後に一番言いたくなかった言葉が、こぼれ落ちた。
「あなたになりたかった」
声が割れてしまい、「だから嫌いだった」という言葉は、ほとんど吐息混じりで、伝わったかどうかも分からない。
『別れのワルツ』はまだ続いているけれど、この穏やかな曲は今のこの状況にはミスマッチだ。呼吸が速まって、胸の鼓動も早鐘を打っている。
しかし、スミレの顔は崩れていなくて、こんな時でも美しい。しっかりと、私の目を見つめている。その姿は凛としていて、流石だった。
きっと、彼女は清々しているに違いない。真似ばかりする私のことが、気持ち悪かったはずだから。嫌いだろうし、先にこちらから言ったから、拒絶されても耐えられるだろう。
「そうだよね……」
スミレの声は、思っていたよりずっと普通だった。やっぱり、怒りの感情はゼロだ。
「嫌いなのは、知ってる」
その続きを聞くのが怖くて私は俯いてしまう。往生際が悪いけれど、顔を上げることが出来ない。震える手を抑えるため、拳を固く握った。
「でも、私は……」
言いかけた言葉のところで、隣の音楽室のピアノがふっと途切れて、校舎中が静寂に包まれた。音のない世界は、恐怖を倍増させる。
「大好きだよ」
驚きすぎて、顔を上げると、スミレは笑っていた。この世界の主役はやはり、スミレなのだ。
怒られたり嫌われたりする覚悟も、スミレを失う覚悟もしてきたのに、そんな言葉をもらえると思わなかった。
私の中の哀しくて美しいスミレは、影も形もなくて、目の前で微笑んでいるのは、私の知らない、本物のスミレなのだろう。なぜ、どうして、と思考を巡らせる。
「なんて綺麗な笑顔なの」
あれほど憎んだ彼女が、こんなにも優しくて柔らかく笑っている。
音楽室のピアノがまた最初から始まった。今回は今までで一番上手に弾けていて、スミレに似合いすぎている。知らぬ間に、頬を涙が伝っていた。嬉しいのか悔しいのか、悲しいのか救われたのか――。結論は出ないまま、視界がゆっくりとぼやけていく。
初めて正面から向き合えたにもかかわらず、白く滲んだ世界の中では、彼女の綺麗な顔が見えない。
翌朝、校庭の脇の花壇では、名前のない青い花が二輪揺れていた。前と同じ花かどうかは分からない。
了



