贋作ワルツ

 翌日のランチタイムは、スミレ不在だったこともあり、ミキが隣に座って来た。

「モカ、最近、スミレみたいに笑うよね」
「そうかな……?」

 ミキには、しょっちゅう「スミレに似て来た」って言われ過ぎてて何も思わなくなってきている。でも、笑い方まで気づかれるとは、よく見ている子だなと思った。

「でもぉ……前のモカの笑い方が好きだったんだよね。へへって、力の抜けてるやつ」

 褒められているのかな? よく分からないけれど、前の私の方が好きだと伝えてくれているようだ。だけど、頭が砂嵐みたいにザーザーと煩い。聞いてないふりをして、ヨーグルトにグラノラを一粒もこぼさずに投入する。

 *

 六月の三週目に入り、梅雨真っただ中を迎えると、スコールのような大雨が降ったり止んだりして、前髪も湿気で思うように決まらないし、気分も落ちてしまう。ミキはバイトがあるからと先に帰ったから、久しぶりにスミレと二人っきりで下校することになった。

 雨に降られないか心配だったけど、奇跡的に止んで、二人で帰り道を急ぎ足で進む。灰色の大きな雲の隙間からは、茜色の夕陽が少しだけ顔を覗かせる。綺麗だなあ、とぼんやりそれに気を取られていると、斜め前を歩いていたスミレが、急に立ち止まった。

「モカ……」
「なに? どうかした?」

 振り返った彼女は、私の髪や唇を見つめて、何かを噛みしめるように確かめている。そして、哀しそうに眉を下げて、ゆっくりと口を開いた。

「なんで真似するの……?」

 世界の音が消えて、スミレの声だけがリフレインして、指先が氷のように冷えていく。唇にのせたティントのラズベリーピンクが突然異物のように感じて、今すぐ拭いたい衝動に掻き立てられた。

 答えは一つしかない――あなたになりたいから。
 でも、そんなこと、口が裂けても言えない。スミレに嫌われると分かっているから……。

「へへへ」

 自分でも驚くほど力の抜けた間抜けな声が出た。毎晩練習したスミレの笑い方は一瞬で忘れて、出てきたのは昔からの自分の笑い方だ。

「なんとなくだよ? 似合うかなって思って……」

 スミレはもっと言いたいことがありそうだったけれど、口を閉ざして、スカートを指先でぎゅっと握った。それが困っているのか、怯えているのかは分からない。

「……そっか」

 軽く微笑んでから、前を向いて再び歩き出す。半歩後ろから見る横顔は、相変わらず哀しくて綺麗だった。いつもと同じ位置なのに、背中が遠く感じてしまう。触れられる位置にあるのに、遠すぎて届かない。

 でも今は、こっちを振り向かないで欲しい。
 私があなたになりたいなんて知らなくていい。こんな醜い感情に気づかないで……と心の中で懇願していた。
 駅に着くと、例の彼氏が迎えに来ていたから、そこでスミレとは別れる。


 帰宅すると、お母さんが夕食の準備をしながら、私の顔をまじまじと眺めて、口を開く。

「最近のモカって、すごく綺麗になったよね。髪型も似合ってるし」

「うっ、うん……ありがと」とだけ返して、逃げるように自室に向かった。昨日までなら、もっと素直に喜んで、嬉しさを隠さずに返せていたのに、もう無理になったみたい。薄々バレてるとは思っていたけど、スミレになにも言われないからといって、調子に乗りすぎていたのかもしれない。罪悪感で死にそう……。

 洗面所の鏡の前に立ち、スミレそっくりの暗めの茶色の髪型とラズベリーピンクの唇をじっくりと見つめた。
 レプリカなら、まだよかったのかもしれない。レプリカは本物を忠実に再現したものだから。

 でも、私は……あなたの鏡にはなれなかった。

 鏡に映っているのは私とは似ても似つかない、美しくて哀しいスミレで、私ではない。ペンも落とさないし玉結びも得意で、前髪が割れることもないし編み込みも崩れない完璧な人で、私が勝手に創造した理想のスミレなのだ。

 最初は彼女が遠くへ行ってしまうなら、私が彼女になればいいと思っていた。そうすれば、彼女はいなくならないから。おかしいし、そんな理屈が通るはずもないのに、本気だった。歪んだ崇拝心は、彼女の顔だけを借りて、もはや彼女ですらない怪物を生み出したのだ。よく見れば、鏡の中にいたのは、スミレでもモカでもない。

 ――私は彼女の出来の悪い贋作だ。

 恥ずかしくて、消えてしまいたい。この愚かな生き物を抹消したい。


 翌日から、スミレの真似はやめた。前髪は分け目を変えて額を見せ、色は戻らないけれど後ろにまとめて、元の雰囲気に近い髪型にした。引き出しをごそごそと探し、ピーチピンクのティントを取り出して久しぶりに付けてみると、やっぱりこっちの方が似合うし落ち着く。

「モカは絶対これ」というスミレの声が脳裏に浮かび、あの時は楽しかったな……と思い出に浸る。その代わりに、ラズベリーピンクの方は引き出しの奥に仕舞い込んだ。

 猫のペンは使わないと決めたのに捨てることもできず、これもサブの筆箱に入れておく。お弁当はまた持っていくことにして、お母さんに作ってもらえるようにお願いした。

「もう、ダイエットはいいの? でも、お弁当のほうが栄養のバランスいいし、お母さんは嬉しいけどね。モカは今のままでも十分可愛いんだから」

 親バカ全開だなと、いつもなら笑って返すところなのに、浮かない表情で、「ハハハ」とだけ言ってやり過ごす。

 そこに兄が通りかかって、珍しく声をかけてきた。

「あっ、そうそう。餌、人工のに変えたから。今夜から静かになるから」
「……ありがとう」
「別にモカのためじゃないし。ダーウィンが、生きた餌より人工餌のほうが好きなだけだし」

 すっとぼけた言い方だったけれど、ほっとしていた。

「やっと変える気になったのね、お母さんも寝不足よ」

 下の階で寝ているお母さんからも苦情が来ていたみたいだ。コオロギは外で鳴いているのを聴くのは好きだけど、家の中では本当に我慢できなかったから。
 その夜からぴたりと壁の向こうが静かになり、夜中に起こされることもなくなった。


 学校での私は、スミレを避けるようになっていた。スミレのことは大好きなのに、近づくことへの罪悪感で、目を合わせられなくなってしまったのだ。朝は一本早い電車に乗り、彼女がいる昼休みはクラスを抜け出し、適当な場所で食事をする。廊下で姿を見つければ、気づかれる前に別の階へ移動する。同じクラスだから授業中は一緒だけど。

 これ以上そばにいたら、本物の自分が何なのか分からなくなるし、自分の存在が消える気がして急に怖くなった。スミレを見なければ彼女になりたいと思わずに済む……そう思っていたのに……。

 離れてみて初めて分かったことがある。それは、スミレのいない場所でも、頭の中がスミレでいっぱいだったことだ。今までの思い出がふと蘇り、彼氏に手を振る姿や誰かに褒められてはにかむ顔……忘れたいのにどんどん溢れてきて、頭から消えない。

 放課後、帰る時間をずらすために、ミキに「用事あるから先帰って」と言って、図書室へ向かう。その途中で音楽室から、またあの曲が聴こえてきた。『別れのワルツ』。四月には、ちょっと哀しくて美しいだけの曲だったのに、今は題名通りの別れの曲にしか聞こえない。

 後ろからバタバタと足音がして、「モカ」と呼ばれて振り返ると、息を切らしたスミレが立っていた。彼女のシャツのボタンが取れそうになっていて、手が勝手に鞄の缶へ伸びかけて、慌てて止める。――もう、私の仕事ではない。

「ごめん、急ぐから」

 それだけ言ってダッシュで逃げた。背中にスミレの視線が刺さっているのを感じながらも、振り切ることだけを考えて進んだ。

 スミレになりたかったのは事実だ。でも、私より幸せな彼女を見たくなくて、彼女になることで現実逃避しただけなのかもしれない。勝てるわけがない相手なのに、なれると思う自分が一番醜くて、大嫌いだ。

 大好きで憧れているのに、嫉妬で狂う。最大の憎悪と劣等感が、泥のように私の中へ流れ込んでくる。その中で、生き埋めになりかけて、もがき苦しみ、そして耐えられず溺れていく。

 帰り道、校庭の脇の花壇を見ると、青い花は一輪だけになっていた。二輪並んでいたのに、大雨のせいで一輪は倒れて泥の中に沈んでいる。私みたいだ、と思った。