五月の後半になると、世話をする相手がいなくなり、私の手は行き場をなくした。スミレは撮影で早退したり、遅刻してきたりという日々が続き、欠席する日も増えて、一緒に過ごす時間が減っていく。鞄の中には、桃の木のコームも予備のヘアゴムもおしぼりも準備しているけれど、今日も出番が無かった。
その夜、スミレノートを開いて『別れのワルツ』を流し、スミレの好きなところをざっと眺めてみる。項目は二百十七個で止まったままだ。あの日以来、スランプみたいに指が動かない。なんとか絞り出そうといちばん下までスクロールし、空行を数個入れて、そして、心のままに打ち込んでみた。
『あなたの鏡になりたい。
その美しい顔が羨ましい。
見ているだけで幸せになる。
でも私は、あなたの鏡にはなれない。
私は――。』
手が急に震えだして、続きが打てない。見ているのが辛くなって、画面を閉じて、他のアプリのウィンドウを順に眺めてみる。
そして、いつの間にか美容室の予約ページを開いていた。
五月の最後の土曜日は学校が休みだったから、生まれて初めて、近所の行きつけではない、都会のおしゃれな美容室に行くことにした。
「これと同じ感じでお願いします」
スマートフォンに保存してある、スミレの写真を三枚見せてみる。
美容師さんは写真と私を見比べて、「お友達? モデルさんかな? 綺麗な子ですね。似合うと思いますよ」と微笑んでくれた。
鏡の中では、胸下まで伸ばしていた染めたことのない黒髪が、肩の下のあたりでカットされていく。床に散らばる髪を見ていると、古い自分から生まれ変われる気がした。
色はスミレの自毛のようなピンクがかった暗めの茶色にして、初めて前髪を薄く作り、スミレみたいに透ける感じに仕上げてもらう。出来上がった時、美容師さんが満足げに鏡でいろんな方向を見せてくれて、そこには知らない自分がいた。
月曜日、登校するとクラスメイト達が、「イメチェン? かわいいよ」と言ってくれて、ほっとする。
昼休みが終わる頃、遅刻してきたスミレが教室に入るなり、こちらを見て一瞬固まった。
「え、髪切った? 色もいい感じだし……似合ってる」
似合ってる、という言葉が、授業中もずっと頭の中で鳴りやまない。嬉しすぎて、先生の言葉は何一つ入ってこなかった。
次はメイクを変えることにした。私はほとんど化粧をしたことがない。スミレの素顔っぽいナチュラルなメイクには憧れていたけど、軽く色が付くリップを塗るくらいしかしてこなかった。
ドラッグストアへ向かうと、ふと、連休に二人でここへ寄ったとき、お互いに似合うリップティントを選び合ったことを思い出す。スミレにはラズベリーピンク、私にはピーチピンクだ。「モカは絶対これ」と彼女が手のひらにのせてくれた小さなボトルは、それからずっと私の唇のレギュラーになっていた。
それなのに、同じ売り場の棚からスミレのラズベリーピンクを見つけ出し、迷わずカゴに入れる。イエベの私には、青みの強いその色は似合わないと、ちゃんとわかっている。
自宅に戻り、鏡の前でそれを唇にのせてみると、そこだけ顔から浮いているように見えた。だけど、目を細めれば、ほんの少しだけ彼女に似ている気がして頬が緩んでしまう。ピーチピンクのボトルはその日のうちに引き出しの奥へしまった。
ペンも新調した。ラグドールが先端に付いた水色のジェルペンで、スミレが授業中によくぶらぶらさせているやつ。猫の重みでポロっと落とすのはお決まりだ。私にはこのような可愛いペンは似合わないし、使えるものが十本以上すでに筆箱に入っているから必要ないのに、「同じものを持っている」ことが重要なのだ。
お昼も真似をした。スミレと同じヨーグルトにグラノラをかけ、同じサラダをコンビニで購入する。毎日お弁当を作ってくれていたお母さんには「最近ダイエット?」と聞かれ、「うん」とだけ答えておく。
*
六月の第二金曜日、昼休みに机を寄せてランチをしている時のことだ。この日は珍しくスミレもいて、仲良しグループ全員が揃っていた。
「最近、二人、似てない?」
ミキの声に、スミレは「え、そうかな?」と微笑むが、私の鼓動は爆音を立てていた。
「そうそう、似てる」
他の子たちも続けて「似てる」と声を揃える。
「髪型とか、雰囲気とか。姉妹みたい」
「後ろ姿だと、ほんと間違えるよ」
似てる、という三文字は、これまで聞いたどんな言葉よりも深く胸に沈んで、温かい湧き水のごとく広がっていく。それは、私にとって最高の賛辞だから。
その夜、バスタブに浸かりながら、あの気持ちいい言葉を何度もリピートする。ミキの「似てる」の語尾の上がり方と、間違えるよ、と言った別の子の明るい声。脳内で反芻し、のぼせてもやめられなかった。
翌日の放課後、廊下で、一年生の女の子が二人、私たちの前で足を止めた。
「あの、スミレ先輩と、お友達の先輩ですよね。お二人、お揃いみたいで、素敵です」
背中がじわっと熱くなってくる。これまでの私は、いつもスミレの半歩後ろにいて、見られるのはスミレだけで、私はその影でしかなかったからだ。それが今、集まる注目が二人分あって、スミレの側にほんの一瞬だけ立てた気になってしまう。スミレは少し困ったように笑って、何も言わなかった。
梅雨の最中の校外学習の日。小雨が降る中での集合写真は、ミキが撮ってくれた。
「スミレとモカ、並んで! 双子みたい!」
スミレと同じラベンダー色の傘を事前に用意していたし、何もかもがお揃いの私たちは確かにそっくりだった。あとで送られてきた写真は、もちろん何度も拡大して眺めている。寄り添うように立つ二人は髪の揺れ方まで同じで、画面の中の自分はスミレの「おまけ」ではなく、「二人組」の片方に見えてニヤニヤがとまらない。
その夜、しばらく更新出来ていなかったスミレノートに、二百十八個目を書き足した。
『no. 218. 私と似ているところ。』
ライトアップされた卓上鏡の前で、暗めの茶色の髪をブラシで梳かしながら、シースルーの前髪と、ラズベリーピンクの唇を、じっと見つめてみる。
やっぱり……似てる、とぼそっと呟く。
――気づけば、私は彼女のレプリカになっていた。
これが自分が望んだことだから、嫌だとかは思わない。むしろ、彼女になれた気がして、嬉しいし、凄く気分がいい。
その夜、スミレノートを開いて『別れのワルツ』を流し、スミレの好きなところをざっと眺めてみる。項目は二百十七個で止まったままだ。あの日以来、スランプみたいに指が動かない。なんとか絞り出そうといちばん下までスクロールし、空行を数個入れて、そして、心のままに打ち込んでみた。
『あなたの鏡になりたい。
その美しい顔が羨ましい。
見ているだけで幸せになる。
でも私は、あなたの鏡にはなれない。
私は――。』
手が急に震えだして、続きが打てない。見ているのが辛くなって、画面を閉じて、他のアプリのウィンドウを順に眺めてみる。
そして、いつの間にか美容室の予約ページを開いていた。
五月の最後の土曜日は学校が休みだったから、生まれて初めて、近所の行きつけではない、都会のおしゃれな美容室に行くことにした。
「これと同じ感じでお願いします」
スマートフォンに保存してある、スミレの写真を三枚見せてみる。
美容師さんは写真と私を見比べて、「お友達? モデルさんかな? 綺麗な子ですね。似合うと思いますよ」と微笑んでくれた。
鏡の中では、胸下まで伸ばしていた染めたことのない黒髪が、肩の下のあたりでカットされていく。床に散らばる髪を見ていると、古い自分から生まれ変われる気がした。
色はスミレの自毛のようなピンクがかった暗めの茶色にして、初めて前髪を薄く作り、スミレみたいに透ける感じに仕上げてもらう。出来上がった時、美容師さんが満足げに鏡でいろんな方向を見せてくれて、そこには知らない自分がいた。
月曜日、登校するとクラスメイト達が、「イメチェン? かわいいよ」と言ってくれて、ほっとする。
昼休みが終わる頃、遅刻してきたスミレが教室に入るなり、こちらを見て一瞬固まった。
「え、髪切った? 色もいい感じだし……似合ってる」
似合ってる、という言葉が、授業中もずっと頭の中で鳴りやまない。嬉しすぎて、先生の言葉は何一つ入ってこなかった。
次はメイクを変えることにした。私はほとんど化粧をしたことがない。スミレの素顔っぽいナチュラルなメイクには憧れていたけど、軽く色が付くリップを塗るくらいしかしてこなかった。
ドラッグストアへ向かうと、ふと、連休に二人でここへ寄ったとき、お互いに似合うリップティントを選び合ったことを思い出す。スミレにはラズベリーピンク、私にはピーチピンクだ。「モカは絶対これ」と彼女が手のひらにのせてくれた小さなボトルは、それからずっと私の唇のレギュラーになっていた。
それなのに、同じ売り場の棚からスミレのラズベリーピンクを見つけ出し、迷わずカゴに入れる。イエベの私には、青みの強いその色は似合わないと、ちゃんとわかっている。
自宅に戻り、鏡の前でそれを唇にのせてみると、そこだけ顔から浮いているように見えた。だけど、目を細めれば、ほんの少しだけ彼女に似ている気がして頬が緩んでしまう。ピーチピンクのボトルはその日のうちに引き出しの奥へしまった。
ペンも新調した。ラグドールが先端に付いた水色のジェルペンで、スミレが授業中によくぶらぶらさせているやつ。猫の重みでポロっと落とすのはお決まりだ。私にはこのような可愛いペンは似合わないし、使えるものが十本以上すでに筆箱に入っているから必要ないのに、「同じものを持っている」ことが重要なのだ。
お昼も真似をした。スミレと同じヨーグルトにグラノラをかけ、同じサラダをコンビニで購入する。毎日お弁当を作ってくれていたお母さんには「最近ダイエット?」と聞かれ、「うん」とだけ答えておく。
*
六月の第二金曜日、昼休みに机を寄せてランチをしている時のことだ。この日は珍しくスミレもいて、仲良しグループ全員が揃っていた。
「最近、二人、似てない?」
ミキの声に、スミレは「え、そうかな?」と微笑むが、私の鼓動は爆音を立てていた。
「そうそう、似てる」
他の子たちも続けて「似てる」と声を揃える。
「髪型とか、雰囲気とか。姉妹みたい」
「後ろ姿だと、ほんと間違えるよ」
似てる、という三文字は、これまで聞いたどんな言葉よりも深く胸に沈んで、温かい湧き水のごとく広がっていく。それは、私にとって最高の賛辞だから。
その夜、バスタブに浸かりながら、あの気持ちいい言葉を何度もリピートする。ミキの「似てる」の語尾の上がり方と、間違えるよ、と言った別の子の明るい声。脳内で反芻し、のぼせてもやめられなかった。
翌日の放課後、廊下で、一年生の女の子が二人、私たちの前で足を止めた。
「あの、スミレ先輩と、お友達の先輩ですよね。お二人、お揃いみたいで、素敵です」
背中がじわっと熱くなってくる。これまでの私は、いつもスミレの半歩後ろにいて、見られるのはスミレだけで、私はその影でしかなかったからだ。それが今、集まる注目が二人分あって、スミレの側にほんの一瞬だけ立てた気になってしまう。スミレは少し困ったように笑って、何も言わなかった。
梅雨の最中の校外学習の日。小雨が降る中での集合写真は、ミキが撮ってくれた。
「スミレとモカ、並んで! 双子みたい!」
スミレと同じラベンダー色の傘を事前に用意していたし、何もかもがお揃いの私たちは確かにそっくりだった。あとで送られてきた写真は、もちろん何度も拡大して眺めている。寄り添うように立つ二人は髪の揺れ方まで同じで、画面の中の自分はスミレの「おまけ」ではなく、「二人組」の片方に見えてニヤニヤがとまらない。
その夜、しばらく更新出来ていなかったスミレノートに、二百十八個目を書き足した。
『no. 218. 私と似ているところ。』
ライトアップされた卓上鏡の前で、暗めの茶色の髪をブラシで梳かしながら、シースルーの前髪と、ラズベリーピンクの唇を、じっと見つめてみる。
やっぱり……似てる、とぼそっと呟く。
――気づけば、私は彼女のレプリカになっていた。
これが自分が望んだことだから、嫌だとかは思わない。むしろ、彼女になれた気がして、嬉しいし、凄く気分がいい。



