贋作ワルツ

 五月の連休にスミレと出かける約束をしていた。以前から計画していたのもあって、普通に遊ぶ。
 でも、いつもと違うことが起きた。

 新しく駅前に出来た、人気のフルーツ飴店の前で、二人でいちご飴を買って食べていたとき、スーツ姿の女の人が「あの、突然すみません」と声をかけてきた。怪しい人かもしれないと思い、スミレの一歩前へ出ようとすると、すかさずその人は名刺を差し出してきて、その指先はわずかに緊張が滲んでいる。

 スミレはモデルにスカウトされたのだ。スミレが「どうする?」とうかがうように首を傾げるけど、嫌がっていないことを察して、努めて明るく振る舞う。
「いいじゃん。やってみたら?」と、テンション高めの声で言えたから、安心する。スミレもほっとしたように息をついた。

 *

 それから二週間ほど経った頃、人気のティーン雑誌の読者モデルの紹介ページにスミレの写真が載った。撮影風景もSNSに投稿されていて、それを見つけたクラスメイトが「これ、スミレじゃない?」と騒ぎ始めて、あっという間に学校中がその話で持ち切りになる。

「読者モデルっていうか、たまに撮影に呼ばれるだけだよ」

 スミレは困った顔で言うけれど、周りに人だかりができてしまう。

「すごいじゃん、スミレ!」
「やっぱり美人だもんね」

 みんなの声は全部本心で、どれも正しくて、だからどこにも逃げ道がない。スミレは「やめてよー」と笑いながら髪を耳にかけて、その仕草までもが絵になってしまう。

 平日に撮影で遅刻や早退をする日が増えたけど、登校中の乗り換え時に、隣の列に並んでいる彼氏と会話するのも恒例になっている。付き合いは順調らしく、案外うまくいっているみたいだ。彼は見た目に反して控え目な性格なのかもしれない。スミレに嫌われないように努力しているのが伝わってくる。それが――私のようだ、と思った。

 昨日まで隣にいた女の子が、少しずつ、私の知らない人になっていく。交わるはずのない世界の中で、神々しい光を放ち、接点のなかった人たちに綺麗だと言われている。

 全校生徒がスミレを崇めても、私はなんとも思わなかった。それは、スミレには誰も勝てないことは周知の事実だからだ。だけど、今回は少し変で、息苦しくて、泥の池に浸かっているみたいに身動きが取れない。

 けれど、これは嫉妬とは微妙に違う気がした。スミレが褒められることも、選ばれることも、当然だと思うし、それに対して何かを思うことはない。あんなに綺麗で、性格も良くて大きな欠点は見当たらないし、遠くへ羽ばたいていくのは自然なことだ。

 分かっているのに、頭の中がモヤモヤしていて永遠に晴れない。当然だと思う気持ちと、置いていかれるという恐怖に、同時に襲われる。距離の近さだけが、私のたった一つの特権だったのに。

 ――どうして、離れていくの? と、今まで出したことがない位大きな声で、心の中で叫んでいた。私が一番、スミレをずっと近くで見てきたのに――。


 その夜は、全然眠れなかったから、スミレノートを開いて『別れのワルツ』を流してみる。スミレの好きなところを読んで、心を落ち着かせようとしたが、イヤホンの向こうから、リンリンリーンという鳴き声が割り込んでくる。

 信じられないくらい煩い。静まり返った暗闇に、その鳴き声だけが響き渡っている。この出どころは、隣の兄の部屋だ。動物好きで大学の生物学科に通う兄は、フトアゴヒゲトカゲの「ダーウィン」を飼っている。

 生き餌のコオロギをケージに放すのだけど、この子は気まぐれみたいで、すぐに食べなかったりする。そのコオロギがケージ内に残ってしまえば、夜中にいっせいに羽をこすり合わせるのだ。

 イヤホンをすれば、気にならない音量のはずなのに、今夜はやけに耳につく。不安なときほど、些細な音まで大きく聞こえるというが、もう限界を超えそうだ。頭が割れるように痛い。哀しい旋律の裏側に虫の音が混ざり合い、私のスミレが少しずつ食べられていくようで、無性に腹が立ち、枕を壁に投げて足で蹴りつける。

「お兄ちゃん! うるさい! 寝れない!」

 壁の向こうから、のんびりした声が返ってくる。

「ごめんな~、でも、まだ生きてるんだよ~」
「知らない!」
「モカ、家だとよく怒るよなあ~ みんなびっくりするぞ」
「お兄ちゃんのせいでしょ!」

 学校や友人の前では怒れないことを兄は知っているから、たまに心理を突いてきて、本当にイライラする。心の中では、怒りも嫉妬も溶岩みたいにぐつぐつ煮えているのに、声に出せるのは、コオロギの鳴き声がうるさいと、兄の部屋の壁を蹴るときだけだった。虫のせいにしておけば、誰も傷つけないから。