その日の放課後、日直のスミレを待つため、空き教室にいると、隣の音楽室から不安定なリズムのピアノが聴こえて来た。誰かが練習しているらしく、同じところで少しつっかえては、また最初から弾き直している。ゆっくりとした三拍子の曲だ。
気づけば、この耳に残るメロディが気になり、スマートフォンを音楽室の方に向け、曲名検索アプリで調べていた。結果、ショパンの『別れのワルツ』だと判明する。別れ、という題名が意外だ。こんな美しい曲なのに、哀しいタイトルだなんて……。
でも、この曲はスミレみたいに綺麗だ。とても似合うし……。なんとなくそう思った。
戻ってきたスミレには、この話は出来ない。言葉にしてしまったら、曲中にいる私だけのスミレが減ってしまいそうだったから。
それからも放課後に、誰かが練習しているこの曲を聴くたびに、ちょっと哀しくて美しいスミレを思い浮かべてしまう。本当に、スミレの曲みたいだ。
曲を知った夜から、スミレノートを開くときは必ず、『別れのワルツ』を流すようになった。サブスクで見つけた有名なピアニストの演奏をリスト化し、リピート再生する。イヤホンから響くつっかえない完璧な三拍子に包まれながら、スミレの好きなところを足していくのが、毎晩の日課になっていく。
翌朝、昇降口で靴を履き替えていると、スミレのブレザーの前ボタンが、糸一本でぶら下がっているのに気づいた。
「スミレ、ボタン取れそうだよ」
「うそ……またぁ?」
「こっち来て」とボタンが落ちないように壁際までスミレを誘導し、鞄から小さな缶のソーイングセットを取り出す。子供のころからなんとなく持ち歩いていて、役に立つ場面は多くないけれど、今日みたいな日のために準備しているのかもしれない。
針に糸を通して玉結びを作るまで、十秒もかからなかった。
スミレは、私の手元を感心したように見つめている。
「モカの玉結びって、魔法みたい。私のは、何回やってもほどけちゃうんだよね」
「コツがあるの」
「教えて」
「やだ」
「なんで?」
「スミレが出来るようになったら、私、いらなくなっちゃう」
ふざけた感じで言ってみると、スミレは目を細めて微笑み、「そんなわけないじゃん」と返してくれたから安心する。
ボタンを縫いつけているあいだは、私の顔はスミレの胸元近くにあって、甘い果実のような匂いがして、息を吸うことへの罪悪感で心がざわざわした。糸を引くたびに息遣いを感じて、髪が僅かに揺れる瞬間には、緊張で手が震えそうになる。
この距離にいられるなら、スミレのボタンを一生でも縫い付けていたい、と本気で思った。
ボタンがしっかり付くと、糸切りハサミで後始末をして、私はスミレから離れる。
「はい、出来た。これで完璧」
「ありがと、モカ」
「今日もすっごく、かわいいよ」
口からこぼれてしまった言葉に、スミレの笑顔が一瞬だけ曇った気がした。
「……ありがと」
返ってきた声は、ほんの一拍遅くて、さっきまでの元気は消えていた。制服の裾を、指先でぎゅっと握ったのが引っかかったけれど、すぐにいつもの顔に戻ったから、気のせいだと思うことにしておく。
気づけば、この耳に残るメロディが気になり、スマートフォンを音楽室の方に向け、曲名検索アプリで調べていた。結果、ショパンの『別れのワルツ』だと判明する。別れ、という題名が意外だ。こんな美しい曲なのに、哀しいタイトルだなんて……。
でも、この曲はスミレみたいに綺麗だ。とても似合うし……。なんとなくそう思った。
戻ってきたスミレには、この話は出来ない。言葉にしてしまったら、曲中にいる私だけのスミレが減ってしまいそうだったから。
それからも放課後に、誰かが練習しているこの曲を聴くたびに、ちょっと哀しくて美しいスミレを思い浮かべてしまう。本当に、スミレの曲みたいだ。
曲を知った夜から、スミレノートを開くときは必ず、『別れのワルツ』を流すようになった。サブスクで見つけた有名なピアニストの演奏をリスト化し、リピート再生する。イヤホンから響くつっかえない完璧な三拍子に包まれながら、スミレの好きなところを足していくのが、毎晩の日課になっていく。
翌朝、昇降口で靴を履き替えていると、スミレのブレザーの前ボタンが、糸一本でぶら下がっているのに気づいた。
「スミレ、ボタン取れそうだよ」
「うそ……またぁ?」
「こっち来て」とボタンが落ちないように壁際までスミレを誘導し、鞄から小さな缶のソーイングセットを取り出す。子供のころからなんとなく持ち歩いていて、役に立つ場面は多くないけれど、今日みたいな日のために準備しているのかもしれない。
針に糸を通して玉結びを作るまで、十秒もかからなかった。
スミレは、私の手元を感心したように見つめている。
「モカの玉結びって、魔法みたい。私のは、何回やってもほどけちゃうんだよね」
「コツがあるの」
「教えて」
「やだ」
「なんで?」
「スミレが出来るようになったら、私、いらなくなっちゃう」
ふざけた感じで言ってみると、スミレは目を細めて微笑み、「そんなわけないじゃん」と返してくれたから安心する。
ボタンを縫いつけているあいだは、私の顔はスミレの胸元近くにあって、甘い果実のような匂いがして、息を吸うことへの罪悪感で心がざわざわした。糸を引くたびに息遣いを感じて、髪が僅かに揺れる瞬間には、緊張で手が震えそうになる。
この距離にいられるなら、スミレのボタンを一生でも縫い付けていたい、と本気で思った。
ボタンがしっかり付くと、糸切りハサミで後始末をして、私はスミレから離れる。
「はい、出来た。これで完璧」
「ありがと、モカ」
「今日もすっごく、かわいいよ」
口からこぼれてしまった言葉に、スミレの笑顔が一瞬だけ曇った気がした。
「……ありがと」
返ってきた声は、ほんの一拍遅くて、さっきまでの元気は消えていた。制服の裾を、指先でぎゅっと握ったのが引っかかったけれど、すぐにいつもの顔に戻ったから、気のせいだと思うことにしておく。



