桜の花びらが舞い散る中に、スミレは立っていた。私の世界に初めて現れたミューズで女神で、そして主人公だ。美しくて綺麗で、可愛くて可憐で、私の憧れそのもの。
水野すみれ、十七歳。親友なのかな、たぶん。
その頭に花びらが一枚ふわりと舞い降りると、迷わずに手を伸ばして指先でつまみ取る。それが私の仕事だ。誰に任命されたわけでも、頼まれたわけでもなく、自主的にやっている。
「ありがと。モカって、ほんと世話焼きだよね」
「そうかな」
世話焼きという便利な言葉で片づけてもらえるのはありがたいけれど、実際は専属のメイドに近い。
モカと呼ばれる私は、小森桃華。ももかが縮んで、こうなった。おっとりしていると、よく言われる平凡な十七歳だ。ゆっくり喋って、ゆっくり歩き、怒ったところを見たことがないと学校では思われている。半分は当たっていて、本当の自分を出すのは家だけと決めている。
スミレは不器用だ。前髪は風にあおられるとすぐに割れるし、ペンは授業中によく落とすし、玉結びは何度やってもほどけてしまう。だから私の鞄には、自分の物よりスミレの持ち物のほうが多く入っている。桃の木のコームと予備のヘアゴム、絆創膏に目薬。おしぼりにティッシュ、ソーイングセットと二枚のハンカチ。そのうち一枚は、スミレ専用だ。
ホームで電車が到着する際の突風で乱れた彼女の前髪を、乗り込んだ車内でコームで整えるのも私の仕事で、「動かないで」と言うとスミレは目を閉じて私に顔を預けてくれる。長い睫毛が頬に淡い影を落とし、暗めの茶色の髪は光に透けるとココア色に変わる。生まれ持った地毛でこの透明感を持つ彼女は、特別だと思う。シースルーの前髪を斜めに流してあげるとき、額の温度がほんの少しだけ指先に感じられ、祈るような気持ちになる。この一秒のために毎朝一緒に電車に乗っていると言っても過言ではない。
ランチタイムでは、ヨーグルトにグラノラをかけるスミレの手元から、毎回、小さな粒がぱらぱらと机にこぼれてしまう。あらかじめ用意しておいた個包装のおしぼりを取り出し、それをさっと拭き取るのも私の仕事だ。スミレの昼食は、サラダとこのヨーグルトと決まっている。毎日同じコンビニのものだ。
推し、とは言わない。推しは遠くにいる人のことだから。
スミレを好きな人は、学校中にいて、彼女が廊下を歩くと空気が一変する。爽やかな風が吹くみたいに清らかな空気が充満していき、周りの子たちは話し声のトーンを落とし、視線が一斉に彼女の輪郭をなぞっていく。女子高なのにもかかわらず、靴箱にときどき手紙が入っていることがあって、スミレはそれを鞄の底にそっとしまう。少しの困惑が混じる表情は、気のせいだろうか。
みんなの中で、私が誰よりも近くにいると思う。人一倍世話を焼くし、スミレも私が傍にいることが心地よいのかもしれない。
実は、スマートフォンのメモアプリに、「スミレノート」というページがある。現在、二百十七個の「好きなところ」が並んでいる。睫毛の長さから咳払いの小ささまで、授業中にも増えていくから、番号を振らないと追えなくなってしまう。
スミレが世界で一番綺麗であることの管理責任は、たぶん私にある。これも、誰にも任命されていないけれど。
通学路では、いつも半歩だけスミレの後ろを歩く。横に並んでしまうと、彼女の美しい顔が見えなくなるからだ。
校門で、スミレが用務員のおじさんに「おはようございます!」と声をかけると、おじさんは箒の手を止めて目尻をクシャッと下げる。彼女に挨拶をされると、たいていの人がこの顔である。誰に対しても感じがよくて、意識しなくても、いつもこうだから深い意味は無いのだと思う。
人当たりの良いスミレのことが、私は本当に好きだ。最初の気持ちはもっと単純で、「私もあんなふうになれたらいいのに」というただの憧れだったのに、もはや崇拝に近い。
校舎に向かう途中、校庭の脇の花壇で赤や桃色、黄色や白のチューリップが行儀よく並んでいるのが目に入った。手入れの行き届いた名前のある花たちの片隅に、誰が植えたわけでもなさそうな花がひっそりと咲いている。薬指の爪ほどの青い花が二輪、細い茎を寄り添わせて、風が吹くたびに同じ向きに揺れていた。
しゃがみこんだ私の後ろから、スミレが覗き込む。
「かわいい。これ、なんて花?」
「わかんない。多分、名無しの自然に生えてきた花っぽい」
「ふーん。名前ないのに、こんなに可愛いんだ」
彼女はそれだけ言うと、体を起こして校舎の方へ歩きだしたけれど、私は立ち上がってからも、二輪の青からしばらく目を離せずにいた。偶然見つけた名もない花。スミレにとってはきっとそれだけのことなのに、私たちみたいだ、と勝手に思った。
水野すみれ、十七歳。親友なのかな、たぶん。
その頭に花びらが一枚ふわりと舞い降りると、迷わずに手を伸ばして指先でつまみ取る。それが私の仕事だ。誰に任命されたわけでも、頼まれたわけでもなく、自主的にやっている。
「ありがと。モカって、ほんと世話焼きだよね」
「そうかな」
世話焼きという便利な言葉で片づけてもらえるのはありがたいけれど、実際は専属のメイドに近い。
モカと呼ばれる私は、小森桃華。ももかが縮んで、こうなった。おっとりしていると、よく言われる平凡な十七歳だ。ゆっくり喋って、ゆっくり歩き、怒ったところを見たことがないと学校では思われている。半分は当たっていて、本当の自分を出すのは家だけと決めている。
スミレは不器用だ。前髪は風にあおられるとすぐに割れるし、ペンは授業中によく落とすし、玉結びは何度やってもほどけてしまう。だから私の鞄には、自分の物よりスミレの持ち物のほうが多く入っている。桃の木のコームと予備のヘアゴム、絆創膏に目薬。おしぼりにティッシュ、ソーイングセットと二枚のハンカチ。そのうち一枚は、スミレ専用だ。
ホームで電車が到着する際の突風で乱れた彼女の前髪を、乗り込んだ車内でコームで整えるのも私の仕事で、「動かないで」と言うとスミレは目を閉じて私に顔を預けてくれる。長い睫毛が頬に淡い影を落とし、暗めの茶色の髪は光に透けるとココア色に変わる。生まれ持った地毛でこの透明感を持つ彼女は、特別だと思う。シースルーの前髪を斜めに流してあげるとき、額の温度がほんの少しだけ指先に感じられ、祈るような気持ちになる。この一秒のために毎朝一緒に電車に乗っていると言っても過言ではない。
ランチタイムでは、ヨーグルトにグラノラをかけるスミレの手元から、毎回、小さな粒がぱらぱらと机にこぼれてしまう。あらかじめ用意しておいた個包装のおしぼりを取り出し、それをさっと拭き取るのも私の仕事だ。スミレの昼食は、サラダとこのヨーグルトと決まっている。毎日同じコンビニのものだ。
推し、とは言わない。推しは遠くにいる人のことだから。
スミレを好きな人は、学校中にいて、彼女が廊下を歩くと空気が一変する。爽やかな風が吹くみたいに清らかな空気が充満していき、周りの子たちは話し声のトーンを落とし、視線が一斉に彼女の輪郭をなぞっていく。女子高なのにもかかわらず、靴箱にときどき手紙が入っていることがあって、スミレはそれを鞄の底にそっとしまう。少しの困惑が混じる表情は、気のせいだろうか。
みんなの中で、私が誰よりも近くにいると思う。人一倍世話を焼くし、スミレも私が傍にいることが心地よいのかもしれない。
実は、スマートフォンのメモアプリに、「スミレノート」というページがある。現在、二百十七個の「好きなところ」が並んでいる。睫毛の長さから咳払いの小ささまで、授業中にも増えていくから、番号を振らないと追えなくなってしまう。
スミレが世界で一番綺麗であることの管理責任は、たぶん私にある。これも、誰にも任命されていないけれど。
通学路では、いつも半歩だけスミレの後ろを歩く。横に並んでしまうと、彼女の美しい顔が見えなくなるからだ。
校門で、スミレが用務員のおじさんに「おはようございます!」と声をかけると、おじさんは箒の手を止めて目尻をクシャッと下げる。彼女に挨拶をされると、たいていの人がこの顔である。誰に対しても感じがよくて、意識しなくても、いつもこうだから深い意味は無いのだと思う。
人当たりの良いスミレのことが、私は本当に好きだ。最初の気持ちはもっと単純で、「私もあんなふうになれたらいいのに」というただの憧れだったのに、もはや崇拝に近い。
校舎に向かう途中、校庭の脇の花壇で赤や桃色、黄色や白のチューリップが行儀よく並んでいるのが目に入った。手入れの行き届いた名前のある花たちの片隅に、誰が植えたわけでもなさそうな花がひっそりと咲いている。薬指の爪ほどの青い花が二輪、細い茎を寄り添わせて、風が吹くたびに同じ向きに揺れていた。
しゃがみこんだ私の後ろから、スミレが覗き込む。
「かわいい。これ、なんて花?」
「わかんない。多分、名無しの自然に生えてきた花っぽい」
「ふーん。名前ないのに、こんなに可愛いんだ」
彼女はそれだけ言うと、体を起こして校舎の方へ歩きだしたけれど、私は立ち上がってからも、二輪の青からしばらく目を離せずにいた。偶然見つけた名もない花。スミレにとってはきっとそれだけのことなのに、私たちみたいだ、と勝手に思った。



